第二話 希望は何処に
―アダマス帝国 西部方面:フェレシオン家領―
あれから体力の続く限り泣きじゃくったアキラは、そのまま屋敷で療養する形でフェレシオン家に引き取られることになった。
身体に目立った外傷こそなかったものの、親が亡くしたことへのショックは大きく、泣き止んだ後の彼女の瞳はまるで人形のように虚ろになり、何日も寝込んで食事もろくに摂らない日々が続いた。
こうした精神的な病の場合、魔法による精神治療やカウンセリングを行うのが一般的だが、教会の神官にしろ冒険者にしろ、こんな辺境の地まで呼びつけるにも色々と手間が掛かる。逆に連れて行くのも同じだ。残念なことに、今すぐの治療は難しい。
そんな中、アキラの看病を自ら申し出たのがミオだった。
はっきり言えば、まだ三つの娘に人の看病をさせるには些か荷が重い役ではある。しかし、彼女以上にアキラと親しい人物も居ないと考えたボブは、それを娘の我儘として了承した。
首を縦に振ってもらえたミオは、時々様子を見に来るカイトも交え、その日から毎日必死でアキラの看病に励んだ。
その甲斐あってか、彼女の瞳は段々と光を取り戻していき、食事や会話も交わすように。
療養生活は期間にして約一ヶ月程続いたが、物心がついたばかりというのも幸いしたのだろう。記憶は徐々に風化していき、次第に過去よりも今の生活に馴染む選択を、少女は取ることができたのである。
そして、もうすっかり以前の調子を取り戻し、完全復活を果たしたその日。今までミオとカイト以外が開けなかった扉を、ある男が約一ヶ月ぶりに手を掛けた。
「どうだミオ、アキラの様子は。もう元気にはなったのか?」
「―――! お父さま……!?」
突然投げかけられた言葉にミオがビクリと体を震わせたことで会話が中断される。
二人はいつもの通り、他愛のない会話で盛り上がっている最中だった。にもかかわらず、ボブはノックもせずにガチャリと扉を抉じ開けては、ずけずけと部屋に上がり込んだのだ。
如何に父親とて、如何に家主といえども、女の子の部屋に勝手に踏み荒らすのは、流石に横暴ではないだろうか。
「あっ、叔父さま! おはようございます」
「ほう……? 随分と元気そうではないか」
「………」
そんな小さな違和感に気づくこともなく、アキラは叔父の顔を見るなり、慌てて一礼する。ベッドの上ではなく、床に立って、である。
対して、ミオは俯くように視線をずらし、顔で父と目を合わせないようにしていた。心なしか、何か怖いものを見て身体が小刻みに震えているようにも見える。
「ふむ。ではアキラ。ルーシア―――叔母さんの所にでも行ってきなさい。そろそろ一月経つが、まだ挨拶を済ませていないだろう? その間にお前の新しい部屋を用意しよう」
「まあ! それは楽しみにしていますわ! ですが叔父さま。叔母さまはどこにいらっしゃるのですか?」
「一階の部屋に居るはずだ。少し待っていなさい、今使用人を呼ぼう」
ボブは一旦部屋から出ていくと、直ぐに女の使用人を連れて戻って来た。
使用人は主であるボブからの指示を受けると、「こちらへ」と言ってをアキラを叔母が居る部屋へと連れ出して行く。
そして背後に漂う不穏な空気に気づかないふりをして扉をそっと、何かに蓋をするように閉めた。
「―――ミオ、後で話がある。呼んだら私の下に来なさい」
「わかり、ました。お父さま……」
当然、何も知らないアキラがそんな空気に気付くはずも無く、軽い足取りで使用人の後に付いていった。
廊下に出てみると、ボブの趣味なのか、所々に花瓶や壺が飾られていた。どれもこれもやたら高級品っぽさを漂わせているものの、幼いアキラにはその価値が分からない。
そんなものをずらりと並べられるだけに屋敷自体は広く、扉も複数ある。親同士の交流からアキラも幾度か遊びに来たことはあったが、それでも一人でうろついていたならば、直ぐに迷子になってしまっていたかもしれない。まるで迷路だ。
尤も、この家に住まわせてもらうのならば、この複雑怪奇な迷路の答えを覚えなければならないのだろうが。
「………」
「……?」
不意に、アキラと道案内をしてくれている使用人の目が合った。
アキラが無垢な表情で首を傾けてみると、使用人はニコッと笑顔を浮かべ、その返しとしてアキラも無邪気で屈託のない笑顔を見せてやった。
偶々偶然目が合っただけのようにも見えるが、どうもそうではないらしい。
使用人は先程からチラリチラリとアキラを見やっており、目が合う度に今の行動を繰り返していた。
アキラ本人としては何かの遊びのつもりなのだろうが、そう考えると笑顔も何かを誤魔化した苦笑にも見える。あまりにも不審だが、それでも少女はその違和感に気づかないでいた。
そうしてしばらく廊下を歩いていると、使用人の足がぴたりまった。扉をノックし、一言挨拶して返事を待つと取っ手を回して扉を開ける。
使用人は自分よりアキラを先に部屋に入れ、自分はそっと扉を閉めると入室することなく退室していった。
アキラが部屋に入ると、そこには金色の装飾の付いた椅子に腰かけ、優雅に紅茶を飲む女性の姿があった。
ミオの母親、ルーシア・フェレシオンである。アキラにとっては母型の叔母に当たる人物でもある。
髪を後ろで程良く纏め、赤いドレスに身を包み、常に濃い化粧がトレードマークのようなものになっているが、あれはあれで素は美人らしい。元々アキラの母親も麗人と称される程容姿が整っており、その妹に当たる彼女も相応の麗人であることは間違いない。だが、姉にコンプレックスを抱えていたルーシアは、いつしか厚化粧で無駄に着飾るようになってしまったのである。
しかし、その微笑みはアキラの母によく似ていた。そのため、彼女にとっては第二の母として申し分ない存在なのである。
「ごきげんよう! 叔母さま」
ぴくり、と紅茶を啜る手が止まる。
少女は飽くまで貴族の令嬢として、しかし少しだけ懐かしさを感じながら礼儀正しくドレスの裾を持ち上げた。
「あら、アキラじゃない。もう身体の具合は良いの?」
「はい!アキラはすっかり元気になりましたわ。叔母さま」
「そう、良かったわね。ごめんなさいね。私も色々と忙しくて、貴女の前に顔を出せなかったの」
ず、と一泊置いてルペシアは紅茶を口に運ぶ。
「いいえ、ミオやカイトさまが毎日看病してくださったので、私はちっとも寂しくありませんでしたわ」
「そう、そうなの。あの子達も頑張ったのね」
ニタァ、とルペシアは引き攣った笑みを浮かべた。それはあまりにも気色悪く、とても母親の面影など感じられない気味の悪い笑顔。少女にはまるで何かに取り憑かれたかのような豹変ぶりに思え、恐怖のあまり一歩たじろいだ。
「あ、あの……叔母さま……?」
「何? どうかしたの?それとも私の顔に何かついているのかしら」
「い、いえっ。そういうわけでは……」
それまで軽快だったた空気が途端に重たくなり、緊迫感に押し付けられそうになる。
アキラは本能的な恐怖を感じ、体が小刻みに震え始めていた。
「どうしたアキラ。体が震えているぞ。寒いのかな?」
ポン、と少女の肩に大きな手が乗っかかり、ビクリと大きく身を震わせた。恐る恐る背後に振り向くと、そこにはにっこりと笑うボブの姿があった。
「お、叔父さま……!? もう、驚かさないでくださいっ」
「おっと、すまない。そんなつもりはなかったのだがね。まあ、この部屋は少し日当たりが悪い。肌寒いのも仕方がないだろう」
はっはっはっ、とボブは笑う。
そんな叔父の陽気な様を目にして少女は少しだけ安堵するが、そこに手をパン、と叩いたルーシアがこんなことを言った。
「さて、それではアキラ。早速ですがお掃除を頼めるかしら?」
「ふぇ? おそうじ、ですか……?」
思わずアキラの口から素っ頓狂な声が出る。いきなり掃除をしろ、などと言われれば戸惑うのも当然だろう。そもそも、屋敷の掃除など使用人に頼めば良いものを態々彼女に頼む必要があるのだろうか。
叔母の意図を汲み取れずに少女が首を傾げると、ルーシアの表情がまた一変。バシンッ!といきなり机を叩き、引き攣った笑顔が怒りに満ち満ちた面に変貌したのである。
「いいから、さっさと働け‼ この屑姪がッ‼」
ルーシアは何の脈絡もなくアキラを怒鳴り散らし、怯んだ彼女の胸倉に手を伸ばした。
当然、アキラに何がどういうことなのか理解できるはずもなかったが、兎も角恐怖と自己防衛から叫ぼうと口を大きく開けた。
しかし、彼女が藻掻いたり声をあげようとすると、ルーシアが直様頬に平手打ちを入れる。何度も何度も執拗に引っ叩くため、少女の頬は真っ赤に腫れていった。
「そのくらいにしたらどうだ。一応、まだ病み上がりなんだぞ?」
「ふん、こんな残り滓に掛ける情けなんてないわ。むしろ、一ヶ月も養わせておいて働かないなんて、図々しいにもほどがあるでしょ? けど、確かに使う前に使い物にならなくなるのは損ね」
そう言って、ルーシアは少女をまるでゴミを捨てるかのように手放した。
少女の臀部にどすん、という衝撃が襲う。
「叔父さま、助けてください!叔母さまが、何か、とても恐ろしくて……!」
少女は自分を庇ってくれたものだと信じ、涙ぐみながら必死に叔父に縋りついた。
しかし、少女が少し視線を横にずらすと、叔父の手には使い古され薄汚れたバケツと雑巾が。
「ふむ。それだけ元気があるのなら、病み上がりは理由にできそうもないな」
叔母と同じように、叔父までもがニタリと気味の悪い笑みを浮かべる。そして有無も言わせず道具を少女に押し付け、雑に首後ろの襟を掴んで持ち上げた。
「叔父さま……!? な、何をなさるのですかっ。やめてください! やめてください!」
「……ええい、おとなしくしろ!」
少女はジタバタと暴れてその腕から逃れようとするが、それを戒告するかのように叔父もまた少女の頬を叩いた。
ボブは少女を抱えたまま二階に上がると、埃だらけで壁も窓も白く濁った物置のような部屋へと放り込んだ。
「きゃあっ!?」
雑に投げられた拍子に少女は床に頭をぶつけ、脳が揺さぶられるような衝撃に見舞われる。
「ここがお前の新しい部屋だ。これからは私が呼んだら直ぐに来るように」
それだけ言い残して、勢いよく扉を閉めてボブは部屋を後にした。
―――しばしの静寂。
少女は自分が今置かれている状況を理解できず、ぺたりと足を付いてただ呆然と埃を被って白くなった扉を見つめていた。すると、その扉がギィ、と不気味な音を立てて開く。
「アキラ……大丈夫……?」
現れたのは扉の色とは対極を成す黒髪の少女―――ミオだった。
「ミ、オ……?」
その名を呼ばれると、少女はゆっくりと扉を閉め、錆びついたドアノブから手を離す。靴底に埃を付けながら、古びた床をゆっくりと踏みしめた。
「私、何か悪いことしちゃったのかな。叔父さまもおばさまも、本当はとっても優しいお方なのに」
「ううん。違うよアキラ。昔からああいう風なんだ。二人とも」
「え……?」
いつも明るく陽気なはずのミオが、顔を暗くしてぺたりと同じように膝をつく。そして細く華奢な腕と身体が、アキラの身体を優しく包み込んだ。
「わっ……えっ……ミオ……?」
「アキラ……ごめん、ごめんね……ごめんね……」
愛らしい黒色の瞳に、大粒の涙が浮かび上がる。
その涙が少女の肌に滴り落ちる。冷たくしかしほんのりと暖かい雫が彼女の思考を安定させ、今自分が置かれている状況をようやく理解した。いや、理解させてしまった。
頬の近くでべそをかく彼女と同じように、アキラもまた同じように大粒の雫をその頬に垂らしたのであった。
それからというものの、彼女にとって苦しい日々の連続だった。否、苦しいで済ませられるほど、その感情は単純なものではないだろう。
扱いは一貴族の令嬢ではなく使用人――或いはそれよりも立場が下――といっても良い。
ドレスは没収され、それ以降の衣服はボロボロのまるで貧民が身に着けるようなみすぼらしいものが与えられた。
初めの内は掃除だけを命じられていたが、次第に炊事や洗濯といった使用人の仕事がほぼ全て少女に押し付けられるようになっていった。
床や服に汚れが残っている。料理が不味い。呼ばれて直ぐに来ないなど、叔父と叔母が少しでも気に食わないと思えば、何かと理由をつけて虐待される毎日だ。
特にルーシアの起こす癇癪は酷い。
一度機嫌を悪くすれば、眉に皺を寄せ、目を見開き、獣のように歯を剝き出しにしては、吠えるように彼女を怒鳴る。意味の無い罵倒を言い放つその顔は正に鬼の形相そのものだった。
髪を掴む、頬を叩く、頭を殴る、腹を蹴る、アキラはそうした理不尽な暴力を執拗に受け、彼女の中で次第に何かがひび割れるような音がした。骨が折れる音ではない。投げつけられて何か物が壊れた音ではない。親が死んだことで既に軋んでいた彼女の中の歯車がさらに悲鳴を上げている音である。
眠る時間も身体を洗う時間もほとんど与えられず、朝から晩までその幼い身体を酷使され続けた。休める時といえば度重なる疲労で寝込んでしまう時だけだ。
屋敷の使用人達も、主に虐げられている少女を憐れに感じてはいたが、ただの一度も助けようとしなかった。というのも、主であるボブから彼女への一切の関与を禁じられていたためである。
もし命令に逆らうようなことがあれば、帝国でも辺境にあるこの領地で働く彼ら彼女らの身が危うくなるのは想像に難くない。
そもそも、既に働き手が居るのにもかかわらず、その仕事を年若い少女に押し付けているのだから、これを嫌がらせと言わず何と言うのだろうか。
ボブは言いつけとして子供達にもこれを命じ、更には虐げて良しとした。
言いつけに対してカイトは両親の恐ろしさを知っていたが故に逆らうことはなかったが、流石に虐げるまでのことはせず、ただ傍観するのみ。それ以上は関わろうとはしなかった。
一方、ミオは表面上では了解の意を示していたものの、裏ではこっそりアキラの仕事を手伝っていたのである。
度重なる疲労と怪我によって壊れかけようとしているアキラをミオは必至で繋ぎとめようと全力でサポートしていたが、ある日、運の悪いことにその一部始終が使用人の一人に目撃されてしまったことがきっかけで、いつしかその話が使用人達の間で噂として広まってしまう。
当然、噂がボブとルーシアの下に届くまで時間が掛かるはずもなく、あっけなく秘密は発覚。両親は娘の行動に激怒した。
―――いいだろう。お前がそこまで望むのなら、遠慮はいらん。貴様もあの娘と同じく惨めな人生を送るといい。
そうしてミオまでもが使用人以下の扱いへと落とされてしまい、彼女もまた理不尽な暴力の餌食になってしまうのであった。
初めこそ笑顔を絶やさず強がっていたが、それすら気に入らない彼女の両親は実の娘でさえも平気で痛めつけた。
次第に彼らに失望したミオは少しずつ口数を減らしていき、やがて感情をほとんど表に出さなくなっていった。最早以前の活発さ、ドジをしても無邪気に笑う少女ではなくなってしまったのである。
そんな生活が気が付けば三年もの年月が過ぎたある日のこと。
アキラははいつものように屋敷の廊下の掃除をしていた。ミオは、此処とはまた別の場所を掃除していることだろう。
三年も雑用をこなせば腕もそれなりに上達するもので、隅から隅まで念入りに綺麗に磨いていた。そうでもしなければ、また暴力を振られてしまうからだ。
尤も、使っている雑巾は使い古された粗雑なものしか与えられず、例え文句のつけようがない程に綺麗にしたとしても、褒められる様なことも無ければ彼らの機嫌がよくなるわけでもないが。
また、この日も彼女たちは一日中身体を酷使しており、時刻はは深夜を過ぎている。既に日付が変わっているのにもかかわらず、それでも淡々と作業を進めていた。
やがて、一日分の仕事が終わったことに安堵し、アキラは息を吐きながらゆっくりと立ち上がる。すると、溜まりに溜まった疲労の影響か、急な立ち眩みに襲われてしまった。
よろよろと後退し、はっきりしない視界で近場何かもたれる場所は無いかと探っていると、何かが肩にぶつかった。瞬間、ガッシャーン! という大きな音が廊下に鳴り響いた。
その音に反応して立ち眩みが治り、ぼやけていた視界が明瞭になる。明るくなった視界の先の光景を目にすると、アキラの顔がみるみるうちに青ざめていった。
「ああ……ああああ………!」
先程拭いたばかりだというのに濡れた床。散乱した陶器の破片。その中心に一輪の大きな花が転がっていた。
アキラは恐怖と罪悪感でパニックになる寸前で踏みとどまり、なんとか残った理性で破片を回収しようと試みる。
しかし、花瓶が割れた音を聞きつけたのであろう。使用人の一人がその様子を目撃してしまったのである。
その使用人も同じく顔を青ざめると、逃げるように何処かへ去っていった。
それからまもなくして、ボブが駆けつけてきた。深夜ということもあり眠っていたのだろう。暖かそうな毛皮で仕立てられた寝衣に包んでのご到着だった。
「……とうとうやってくれたようだな。貴様」
ボブは花瓶が飾ってあった小机に目をやると、すぐに視線をアキラに戻す。
「あのっ、これは……その……」
「ほう? なんだ、言い訳する気か?」
「いえ……そうじゃなくて………」
「じゃあ、なんだというのだ!」
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
「ええい! 暴れるでないわ!」
ボブの太い腕が、まともに手入れの出来ていないアキラの髪に掴みかかる。
頭皮が悲鳴を上げると共に、長年働き詰めで痩せ細っていた彼女の身体が軽々と持ち上げられた。
「アキラよ。お前が壊したこの花瓶、幾らしたと思っている?」
「……え?」
突然そんな質問を投げかけられ、彼女の思考が一瞬止まる。
そして、痛みを我慢して首を横にゆっくりと振った。
三年間も労働を強要され、まともな算術も知らない少女に、物の価値など答えられるはずもなかったのである。
「一千万だ。一千万した花瓶だったんだぞ!? お前、自分が弁償出来ると思っているのか?」
ボブはニタニタと薄気味悪く笑いながら、宙ぶらりんになる少女をグラグラと振り回した。痛みに悶るアキラを見るその顔は何処か楽しそうであり、愉悦に浸っているのが見て取れる。
そこに、別の場所で掃除をしてたはずのミオが飛び込んできた。
「もう、止めて、下さい、お父様……!アキラもわざとではないはず。だから、もう、止めてあげて……」
ミオはボブの足元にしがみつき、必死で暴力を止めるよう哀願する。
すると、意外なことにボブはアキラをその場ですんなりと手放した。そして、ミオに対しにっこりと笑顔を浮かべると―――
「がっ!?」
ミオの腹部に蹴りが炸裂し、鈍痛に小さく悲鳴が上がった。ボブは今度はミオの胸ぐらを掴んで怒鳴り散らした。
「私に口答えするなあッ!! 貴様、今まで誰に育てられたと思っている? 言ってみろ!」
「そ、それは……お、おとう―――」
「ならば何故口答えをする? お前は育てられた恩も忘れたのか!!」
ボブはミオの胸ぐらを掴んだまま、アキラの時よりも荒く乱暴に振り回した。そして、そのまま勢い良く彼女壁に投げつけた。
アキラは慌ててミオの元に駆け寄った。声を掛けるが、咳き込むばかりで返事はない。恐らく壁に背中を打ち付けた所為だろう。
怯えるアキラと苦しさに悶るミオを見て、ボブはため息を吐いた。
「はあ、全く。あやつの娘はともかく、ミオよ。私はお前をそんな娘に育てた覚えは無いぞ」
「ケホッ……そん、な……」
ホブは少女二人をゴミを見るような目で見つめた。そして、何が楽しいのか、ニタニタと気持ちの悪い笑みを絶えず浮かべ続け、次にこんなことを言い出した。
「そうだ、お前達。今の私は気分が良い。だから、いい事を教えてやろう」
さて、この男は何が言いたいのか。いや、何がしたいのか。
あまりの突拍子のない言動に、二人は理解が追い付いてない。疲労や暴力による痛みで思考が低下しているのかもしれないが、それ以前の問題だ。しかし、そんなのは関係ないと言い張る様に、ボブは上機嫌に話を続けた。
「いいか? お前たち。この世界ではな、全てにおいて力が物を言う。暴力なぞ日常茶飯事だ。肉体的であろうと、精神的であろうとな。特に我が国は常に弱者を踏みにじり、強者として君臨している。勝った者が正義となり、負けた者が悪となる。ああ、そうとも。私もその一人だ。勝者の一人だ。私こそ、評価されるべき存在なのだ!」
やはり、何が言いたいの解らない。つまり、どういうことなのか。
しかし、少女達がどれだけ疑問を並べようとも、演説を続けるボブの笑顔は、最早狂気のそれに近いものを感じさせた。
「だが、帝国はそんな私をこんな辺境の地まで追いやった。剰え、あの臆病者の側に近づけたのだ!」
一通りしゃべり終わったのか、ボブは満足そうに少女達に向き直る。恐れおののく彼女達――特にアキラを見て――を見て、またも笑みを浮かべた。
「そう、その顔だ。お前のその顔が、私は一番好きだったよ。きっと、あの世であいつも同じ顔をしているだろうさ」
高らかに。楽しげに。揚々と。おぞましく、また醜い声を上げてボブは嗤う。そして、いきなりすうっと平常に戻り、冷徹なまでの眼差しを己が娘に向けた。
「それからミオ、お前にも失望したぞ。今までは娘だからと大目に見てやっていたが、もう知らん。これからは勝手に生きていくが良い」
「え……それは……どういう……?」
「言葉のままさ。おい、そこのお前」
「は、はいっ!」
ボブは近場にいた男性使用人に命令し、アキラとミオを屋敷の外に連れ出した。フェレシオン家の屋敷は人気のない丘の上にぽつんと建てられており、深夜故か領地内の村から見える明かりはほとんどなく、星と月だけが彼女達を照らしていた。
そして、屋敷のすぐ隣――丘を少し下った先――には馬車や領地の兵士達が使う馬の厩舎があった。
ボブと二人を連れた使用人が向かったのはその厩舎である。
屋敷に負けず劣らずの大きな建物であり、入り口には交代で見張りの番をする兵士が数名待機していた。
「あ、あの……旦那様。私はどうすればよろしいのでしょうか……?」
使用人は、震えた声でボブに尋ねる。同じように、アキラとミオもすぐ横で身体を震わせていた。
これから自分達はどうなるのだろうか。今度は厩舎の掃除でもさせられるのだろうか。それとも、ここで好き勝手に痛めつけられるのだろうか。
これまでの仕打ちから用意にできる想像が頭を飛び交う中、ボブの口から信じられない言葉が飛び出した。
「貴様、馬車の運転はできるな?」
「え……あ、はい。それはもちろんですが」
「であれば、この娘達を森に捨ててこい」
「「……!?」」
何を、言って、いるのだろう。
捨てる……? 何を……? 何処に……?
少女達の顔から血の気が引いて行く。今の自分達がどういう状況にあるのか、少なくとも先の想像の通りにならない事を直感したことだろう。
「な……何をおっしゃっているのですか!? も、森には魔物が出るのですよ!?」
これには、流石に使用人の彼も動揺を隠せなかった。しかしそれは、二人の身よりも己が身の安全を懸念しているようにも見える。
『森』というのは、領地の直ぐ側にある《ボダ森林》の事で間違いない。この近くで森というとそこしかないからだ。
森は獣や薬草などの生息地あると同時、魔物の住処の一つでもある。ただ、ボダ森林に住まう魔物は特別強いというわけではないため、領地の兵士を護衛にでもつければ問題はないだろう。
しかし人間、怖いものは怖いというもの。特に夜は魔物の動きが活発になり、悪戯に足を踏み入れれば、あっと言う間に囲まれてしまうだろう。
そんな場所に今すぐ行ってこいと言うのだから、人間の生存本能として拒絶するのは当然と言える。
「この私が行けと言っているのだ!それとも逆らうというのなら、貴様もこの娘達と同じ屈辱を味わってみるか?」
「で、ですがっ! も、もし襲われでもしたら………」
「そんなもの、襲われる前に戻ってくれば良いではないか。ああ、たが、森の浅い処では駄目だ。きっちりと深い処に捨てるのだ」
「そんな、無茶苦茶な! それでしたら、兵をせめて一人だけでも付けさせてください!」
「貴様一人に兵を割けられるものか! それ以上口応えするなら―――」
「ひ、ひぃぃっ!?」
入り口からついてきたのだろうか。使用人は背後から兵士に槍を突きつけられていた。
「わかりました! 行きます! 行きますからぁっ! どうか、命だけはぁ………!」
使用人は無様にも命を乞い、錯乱した状態のまま少女たちを乱暴に持ち上げて馬車の元に向かうと、二人を荷物の様に放り込んだ。乗用ではなく、空っぽになっていた荷馬車の荷台に、である。
大急ぎで馬を用意し御者席に飛び乗ると、深夜の空に馬を走らせて厩舎を後にした。
屋敷から森まではそれ程遠い距離ではなく、丘を下り、領地の村を通り過ぎれば、あっという間に森の中に到着した。
荷台には屋根も窓もなく、彼女達が途中で飛び降りて逃げることは容易ではあっただろう。だが、猛スピードで走る馬車から飛び降りることが果たして六歳の少女達にできたであろうか。
繰り手の腕が良かったのか、或いは極限状態であるからか、二人を載せた馬車は木々を上手いことすり抜けてはずんずんと奥に進んでいく。
ある程度深くまで行くと、使用人は馬車を急停止させた。手綱を引っ張られ、馬が深夜の森にいななきを轟かせる。
御者席から降りた使用人は普通ではない形相で彼女達に睨みを効かせ、荷台の上から放り投げた。
「きゃあっ!」
「うっ!」
それはまるで、ゴミを捨てるかの如く。勢いよく投げつけられた所為か、土が皮膚を掠め取っていった。
「待って! 捨てないで! 待って! ねえ、待ってよぉ!」
アキラの叫びも虚しく、再び御者席に戻った使用人は、何も言わずにそそくさと馬車と共に去って行く。
追いかけようと試みるも、その小さな足で追いつける筈もなく、やがて使用人と馬車の姿は森の外へ向けて消えてしまうのであった。
「あ……ああ――そん、な――」
「………」
馬車が見えなくなり、馬の足音も車輪の音も聴こえなくなると、アキラはぺたりと膝をついてしまった。
最早全てを失った彼女達には、生きる希望も、明日を謳歌する余裕も残されていなかった。
いや、そんなものは初めからなかったのだろう。
あるのは、これから捨てられるという不安。魔物に襲われるだろうという恐怖。そして、何処にも居場所がないという絶望。
毒親の下で過ごしていた彼女達にとって、これは運命だったのかもしれない。
あの家にいるものには必ず不幸が訪れるのだ。
事実、使用人の彼は特別何か悪行を晒したわけでもない。善人でも悪人というわけでもないだろう。
偶々そこに居合わせていただけで、理不尽な要求を飲まされ、最後は己が悪意に飲み込まれたのである。
「……アキラ、行こう」
突然、ミオが口を開いた。悲しさか悔しさか、その眼に涙を浮かべ、地に付すアキラに手を差し伸ばした。
「行くって、どこに?」
「わからない。でも、ここでじっとしているのはいけない」
それまで静寂に包まれていた筈の森の中から、不気味な声が聞こえてきた。夜行性の獣か、或いは魔物か。
何れにせよ『ここに居てはいけない』。そう、ミオの中の何かが叫んでいた。
例え幼い身であれど、生物としての生存本能はしっかりと機能していたのである。
「どこかに行こう。きっと、まだ希望はある」
『希望』など、今のアキラには信じられなかった。こんな絶望の淵で、何処に希望があるというのだろうか。だが、他に信じるものも無い以上、それに縋るしかないのだろう。
彼女は静かにはミオの手を取った。そして、不気味なさえずりが響く森の中を一歩、また一歩と歩みを進めるのであった。