黄ばんだ手紙
カガリは、夢の家から去ろうとした。
しかし、そのとき……カガリはレナンに「黄ばんだ手紙」を手渡した。
レナンはそこで、ルシエルの魔力を感じ取り……?
「今日のところは、引き返すことにする。レナン……すまなかった」
「……二度と、来ないでくれ」
腕の中で、兄はようやく落ち着いた呼吸音を取り戻していた。このままでは、先は永くないのではないかと、不安が襲う。不安だと思えば思うほど、兄の肌の色は青白くなっていくように見える。嫌なフィルターでもかかっているようだ。
言霊というものがある。口にしては、それがホンモノになってしまうという言い伝えだ。良いことならばいい。でも、悪いことを言葉にするのはやめようと、俺は思考回路を断ち切った。
「レナン……」
「アンタに非はない」
「……もうひとつだけ、伝えたいことがある」
「?」
それは、想定外の言葉だった。カガリは、ポケットから何やら黄ばんだ紙を取り出した。丁寧に折りたたんである。
「これを、見つけた」
「なんだよ、それ……」
カガリは、折りたたんだままの状態のそれを、そっと俺に渡してきた。俺は怪しげにそれを見つめながら、受け取る。手に取った瞬間、バチッ……と静電気が走るような感覚が襲った。そのとき、ほんの一瞬だったが緑の光が散った。
「私には、わからなかった」
「…………鍵がかかっている」
「魔術による鍵だと思う」
「そうらしいな」
嫌な感覚はなかった。どこか、懐かしい……そんな思いを彷彿とさせるものだ。そして、この紙がどこで見つけられたのかを、俺は察することができた。
「ルシエルの部屋にあったのか?」
「片付けをしていたときに、見つけた」
「片付け?」
「……いつまでも、縋っていてはいけないと思ったんだ」
「…………珍しいな」
「珍しい?」
「失礼な話かもしれないけど……アンタは、どこか前向きにはなれない性分だと思っていたから」
「…………それは、そうだと思う」
カガリは俯き、しばらく顔を上げなかった。頭の中には、誰のことを思い浮かべているのだろうか。死んでしまったルシエルか。生きてはいるものの、変わり果てた姿となったラナンのことか。或いはその、両方……か。俺には、推し量れないものがそこにはあった。
カガリが「風の民」という魔族と人間との混血児であることは、知っている。そして、その一族がカガリの為に絶滅したということも、俺は聞いていた。カガリがレイアスや、ザレス国王から「疫病神」と呼ばれている所以が、そこにある。でも、俺はそうだと結びつける考えはしたくなかった。今、こうしてラナンが壊れてしまったことも、ルシエルが死に絶えたことも、カガリのせいではない。ただし、カガリ自身がどう考えているのかまでは、俺には責任が持てなかった。
おそらく、国王やレイアス陣営からは、カガリはまた「疫病神」だと罵られていることだろう。その疲れが、時折見える。それでも、カガリはルシエルの部屋を片付け、未来を見ようと努めているんだ。カガリは、確実に強くなった。それを実感する。
もっとも、年下であり、世界のことなんてまだまだ分かっていない俺がそんな上から目線な考えをしていいとも思っていない。カガリには魔術は扱えないが、俺にはない知識や、武芸がある。きっと、俺はカガリから学ぶべきことが多々あると思えていた。
ラナンが、師としていた男だ。
カガリという人間は……。
「ん…………待て」
「?」
俺はふと、手に取った紙から感じとれる魔力に、ある「真理」をすっかり忘れていたことに気づくことが出来た。どうして直ぐに、気づかなかったのか。俺は、心の底から沸き起こる「可能性」に、この二ヶ月で久しぶりに喜びを覚えた。
「これは、間違いなくアイツの……ルシエルの魔力であり、魔術だ」
「私もそうだと思う……でも、それがどうしたんだ?」
「魔術士が発動させた魔術は、術者が死に絶えれば効果は消える……完全に!」
「……それって、まさか」
「生きてる」
「……」
「アイツは、どこかで生きている!」
「本当、か? 本当に、ルシエル様が生きて…………」
カガリの瞳から、喪失感が消えていた。陰り切った瞳に、再び光が取り戻される。
俺にとっても、ルシエルが生きているという事実は希望だった。
「でも、生きているとしたならば……どこに?」
「さぁ、な。今は、表舞台には出てこられない理由があるんだと思う」
「それなら、こんな会話をするべきではないのでは?」
「精霊界の干渉をこの地も受けているというのであれば、会話をしようがしまいが、結果は変わらない」
「……知られている、ということか」
「そういうこと」
俺は紙を、もう一度カガリに渡そうと手を伸ばした。しかし、カガリはそれを受け取りはしなかった。首を横に振って、拒む。俺は何故だろうかと、言葉を紡いだ。
「これは、アンタが持っているべきじゃないのか?」
「私が持っていても、仕方がない」
「ルシエルは、アンタが部屋でこれを見つけてくれるだろうことを、察していたんだと思う」
「それだけじゃない」
「?」
「ルシエル様は、その後に……私がこれをレナンへ渡すことまでを、読まれていたはず」
「……たしかに」
「ルシエル様は、そういうお方だ」
カガリは、嬉しそうに口元に笑みを浮かべた。心底ほっとしたというようにも見える。本当にルシエルのことを慕っているんだということが、見て取れた。信頼関係が築けている師弟の様子は、微笑ましいものだ。でも、俺はそこに若干の嫉妬心を抱いたことの方が、驚きだったかもしれない。カガリにはばれないように、それはそっと心の中にしまっておく。
「……それなら、これは俺が預かっておく」
「あぁ」
「でも……」
「なんだ?」
「これ、なんで開かないんだろう?」
折りたたまれていた紙を、開こうとしてもバチバチと魔力がぶつかり合って、それを阻まれる。開けて欲しいのであれば、こんな魔術の反発は起きないはずだ。それなのに、どうしてこれは開かないんだろう。要するに、開けて欲しくないということに結論付けられてしまう。
今はまだ、生きている……という情報までで、とどめておきたいのだろうか。
「時が来れば開ける……と、いうのか?」
「私にはなんとも……ただ、生きている。その事実が分かっただけでも、此処へ来た甲斐があった」
「あとは、ラナンが立ち直ることが出来ればそれでいい」
「ラナンは……」
浅い呼吸音。熟睡は出来ていない様子の兄。それでも、眠っている。生きている。俺は、ラナンを起こさないようにゆっくりと寝かせ、布団をかけた。
「ラナンを戦線に戻すつもりはない」
「意志は固いんだな」
「当然だ」
「……レジスタンスの動きを、知りたいとは思わないのか?」
「……まったく、気にならないといえば嘘になる。でも、俺はレジスタンスにそこまで肩入れしていた訳じゃないから」
その返答に、何故かカガリは満足していた。
俺はその答えを、少しだけ欲しいと思った。
客観的に見て、俺はどう映っているのだろう。
どこまで変わったと言えるのだろう。
「また、来たい。そう言ったら……やはりレナンは、拒むか?」
「…………」
俺は少しだけ間を取った。即答は出来なかったからだ。俺は思考し、ラナンの姿を視界に入れながら答えた。
「前言撤回する。来てもいい」
「ありが……」
「ただし!」
カガリが礼を告げようとした瞬間、それを遮るようにして、俺は言葉を発した。
「ラナンを勧誘することだけは、許さない」
「分かった」
「それなら、許す」
「……レナンは」
「?」
カガリはとても、優しい顔をした。目を細め、静かな物言いで言葉を続ける。
「優しくなった」
「……ほっといてくれ」
照れくさくなり、俺はかぶりを振った。顔が若干赤くなっているかもしれない。火照っているのを、触らなくとも感じとれる。誤魔化すようにふーっと息を吐いた。その様子を、カガリはただ黙って見守っていた。
「それじゃあ、また。時が来たら此処へ足を運ぶ」
「あぁ」
カガリは、もう一度ラナンを見ておきたかったんだと思う。視線を落とした。静かに眠るラナンを空色の目に映すと、瞬きもせずにしばらくそのままの姿勢で止まっていた。その時間を邪魔してはダメだと思い、俺は口を閉じた。そのまま、動くこともせずに見守る。
ほんの数秒のことだったかもしれない。けれども、なんだか長い時間に思えた。カガリは、しばらくして満足したのだろう。目を閉じ頷くと、俺に視線を移して会釈した。
そのまま、カガリは扉へ向かった。そして、フロート城に向かって背中を遠ざけていった。
「ルシエル……」
手の中に残った、ルシエルが生きているという証。
俺は静かに、その感触に浸り笑っていた。




