絶望
地下室にて、獣化したラナンと対峙していたルシエル。
魔法を使って、ラナンから自由を奪うことに成功。
その力で、もとのラナンへ戻そうとするが、そこに現れたのはザイールだった。
明日を照らす太陽は、此処にある。
こんな暗闇ですら、照らすのだから。
彼こそが、光。
「ラナン!」
「!」
右肩から突然変異で現れた灰色の翼から、無数の刃が飛び出し私を襲う。咄嗟に私は左へ飛びのきかわすと、ずしゃりと濡れた地面へと着地した。踏ん張りの効かない地面を蹴ると、その勢いのまま私はラナンとの距離を詰めた。今のラナンは、理性もなければ「神」の意もまた関係のないところで動いている。それならば、力でねじ伏せるしか方法はないと私は考えた。
私が今、彼を助けようとしているのは、神からの挑戦状を受けたからではない。純粋に、彼を助けたいという願いのもとに、一歩を踏み出す。
「……(この空気を、浄化しないと!)」
私はラナンの周りに渦巻くよう風の流れを作り出した。赤く細かい粒子が風と共に織り交ぜた水分子と化合し、結びついているのを感じた。このまま浄化していけば、名もなき草をいったんは退けられるかもしれない。だが、問題はこの魔術がそこまでの長い時間、持続しないというところにある。
「くっ…………(ダメだ、崩れる)」
突然、貧血が襲って来たかのような感覚が押し寄せた。目の前が暗くなったと思えば、もとよりしっかりと身体を支えられていなかった足元まで、力が抜けてしまう。そのまま前のめりに倒れ込んでしまいそうになったのを、私は必死に堪えて、右足を半歩踏み出すことで、なんとか自立状態を保った。
この地下室は、変わらずに暗闇。しかし、適応能力が高い私の目には、ラナンの様子がしっかりと映っていた。此処までハッキリと見えるのは、単に視力の問題ではないかもしれない。裏切った精霊界からの援助はなくとも、私に力を貸してくれる要素によって、必要なときだけ、人間離れした視界を手に入れているのかもしれない。それはそれで、アスグレイの力の濫用と言われてしまっては、否定もできない。
「ぐぅあぁぁぁぁ!」
「颯の力にて、この時、この場所を制圧する!」
「がっ……!」
「沈黙の風!」
このまま、名もなき草の力を拭いされれば、地下と地上とを繋いでいる扉を、もう一度開錠してもよい。このまま、原子レベルにまで細かく砕き、その力を粉砕してしまうことが出来たならば……。
ただし、私がこれまで毒薬を自らに投与して、解毒剤をつくることを試みてきたというのに、一度たりとも成功していないのだ。こんな簡単に、付け焼き刃で生み出せるような解決方法があるのだとしたら、私も苦労などしてはいない。
「ルシエル様!」
それは、突如としてこの地下室に響いた声だった。くぐもっている。この空間を直接振動させているものではない。封鎖した地上とこの地下を繋ぐ空間に声の主は居るのだろう。
凛とした青年の声。それは、まぎれもなく私の愛弟子。カガリのものだった。
「カガリ……そこで、待機していてほしい」
「何故ですか! この扉のせいで、閉じ込められているのでしょう!?」
「違うよ。私が自ら、封鎖したんだ」
「え……どうして!」
「今はまだ、言えない」
カガリには、風の力が宿っている。その力によって、この扉を突破することは、簡単なことだろう。しかし、今突破されてしまっては、名もなき草の気体が地上へと飛び交う要因にもなる。そして、今。変異してしまっているラナンの姿を、カガリに露呈させることになってしまうのだ。そのことを、カガリもラナンも望まないと私は考えた。それは、避けなければならない。今後、このディヴァインという世界を担う若い子たちに、敢えて絶望を与える必要は全くもって無い。
「私を信じて、待っていてほしい」
「……ルシエル様」
「必ず、戻るから」
「…………分かりました」
カガリは、私を裏切ることをしないだろう。カガリがこの壁を打ち壊すことはない。安心して、私は今、目の前にいる獣化したラナンと向き合うことだけに集中できる。
「大丈夫だよ、キミを元の姿に戻してみせる」
私は右腕を空に向けて突き上げた。そして、術式を書きはじめる。ぬかるんでいる地面に、魔法陣を描くことはできない。それに、この暗闇では正しく書けるかもわからない。それならば、乾いた空気中に描く方が確実だった。
描いていく魔法陣は、青の光を帯びている。神子魔術士が宿す力の色は、本来は「緑」であるが、私が今対峙しているのは、神の器であるラナン。彼にはきっと、緑の輝きでは対応できないと判断したのだ。魔術が通じないのであれば、それとはまた異なる力で対応すればいい。
「キミは、獣化した私を元の姿に戻してくれた。今度は、私がキミを守る番だ」
「ぐぁぁ!」
「発動!」
術式が完成すると、私はそこへ魔力を注ぎ込んだ。一般的な魔術でもなく、私が編み出した魔術でもなく。これは、「魔法」だ。魔法と魔術の違いは、世界によって異なるかもしれない。私の中では、魔法は「平等」ではないというところにあると認識している。術を発動させるために必要な要素の量などを、術の難易度によって変える必要性がない。少量の力であっても、大きな結果を結ぶことが出来る。ただし、必ず成功するとはいかないのが魔法の難点であった。また、魔法陣を必要とするところが、魔術とは全く異なる点だろう。
「キミの自由を、奪わせてくれ」
青く光る鋼鉄の鎖が現れると、それはラナンの姿をぐるぐる巻きに捕らえた。ラナンの右肩から生えているグレーの翼も折れ曲がる。鋼鉄の鎖は、徐々に面積を小さくしていく。ギシギシと翼がむしられていくと、そこに痛覚があるのだろう。痛みでラナンの顔は歪んでいた。
「すまない。変異部分を除去しなければならないんだ」
「ぐるぅぅぅ!」
「グレイスでキミは、私の変異を食い止めてくれたね。しかし、アレがその力を成せたのはきっと、キミが神の器だったからなのだろう。私では、それを再現することはできない」
私はラナンと視線の高さを合わせるために、その場にしゃがんだ。暴れるたびに、ラナンの皮膚は裂け、血が滴れる。痛々しいそれを、穏やかな心境では見ることはできなかった。
「グレイスか……」
「!?」
すぐ、後方から声がした。
私は身体をびくっと震わせれば、内心で舌打ちした。
男は、この時を狙っていたのだ。
「ザイール!」
「その銃で、吹き飛ばせば…………もう変異も起きない。それさえなければ、名もなき草は無敵となる」
「グレイスは……」
「此処にある」
「!」
絶望とは、こういう時に使うべき言葉だろう。
何故、兄上の手にそれがあるのか、分からない。
「試してやろう」
銃口は、私に向けられているのではない。
ラナンに向けられていた。
兄上が、先ほどのライエスとのやり取りを見ていたとしたら、ライエスに対して……ラナンに対して、脅威を覚えたに違いない。あれは、生身の魔術士が敵うものではない。自由を奪われている今、とどめを刺せば……ザイールたち、精霊界はより優位に立てるというものだ。このときを逃す手はない。
「消えろ」
「…………させない」
私はラナンの姿を抱きしめた。兄上には、背を向けた状態だ。そのまま、言葉を紡いでいく。グレイスが放たれるその瞬間まで、それほどの時間はない。私は事を急いだ。
「キミの痛みは、これ以上続かない。キミはもう、解放されるべきなんだ。世界史も、神も、精霊も、毒草も、レジスタンスも……もう、関係ない。キミは、キミの人生を生きて欲しい」
「念仏か?」
「どうか、キミに…………」
カチャ。
リボルバーが回る音がした。
「至福のときを」
ぱぁぁぁぁぁん!
「…………」
「消えてなくなったか」
※
「銃声!?」
ルシエル様は、待てと言った。
それでも、こんな銃声が鳴り響いて、放ってはおけない。私はすぐに風の力を借りて、目の前にある大きな壁を砕き飛ばした。
「ルシエル様!」
「遅かったな? 裏切りもの」
「軍師……ルシエル様は!?」
ザイールの前には、座り込んだ少年の姿があった。何やら、赤いものを被っているようにも見える。ただ、光を捉えることなく、呆然としている。
それを、ラナンだと認識するまでに、私は時間がかかった。
この場に、絶望が訪れた。
世界の終わりが、やって来たかのような嫌な臭いが漂っていた。




