思いやりと決心 Ⅰ
古庄が見つけてきた旅館は、山あいにある藍沢温泉の街からも少し離れたところにあった。
「こんな山の中に、旅館があるんですか?」
運転をする古庄に、真琴が声をかける。
「うん…。ナビじゃ、そうなってるな。広大な敷地に離れが点在しているっていうところだから、人里離れてるんじゃないかな」
「えっ?!離れなんですか?すごい!そんなところに泊まるの初めてです」
真琴が嬉しそうな顔をして感激するものだから、古庄はすっかり気を良くして鼻息を荒くする。
「離れで食事も出来るらしいし、露天風呂も付いてるから、一緒に風呂にも入れるよ」
「………えっ!?一緒に…?!」
真琴が拳を口に押し当て真っ赤になると、古庄もその反応の意味を気取って同じように真っ赤になった。
「…いや、別に一緒じゃなくてもいいし、他に大きな露天風呂もあるらしいから」
そう言って、古庄が刺激的な事実を多少はなだめてくれたが、一旦激しくなってしまった真琴の動悸は収まるどころではなかった。
先ほどの話題といい、今のことといい、「そのこと」が真琴に重くのしかかってくる。
もちろん、真琴だって「そのこと」が嫌なわけではなく、何も飾ることのないありのままの自分を投げ出して、古庄に包み込んでもらいたいという願望もある。
けれども、こうやって車という密室で二人きりでいるだけで、こんなにも息苦しいのに、古庄に見つめられ「そのこと」をしようものなら、自分はどうなってしまうのだろう…。
それほど、真琴にとって古庄は、圧倒的で完璧な存在だった。
旅館に到着し、「山荘 多無良」と掲げられた茅葺の門をくぐり、ロビーになっている母屋へと向かう。
一歩母屋に踏み込んだ途端、他の宿泊客や旅館の従業員たちが一斉に色めき立つのを感じた。
真琴は皆の視線を一身に受けているように感じたが、皆が見ているのは、真琴の隣にいる古庄だ。
しかし、古庄はそれに頓着することなく、淡々と手続きをしている。
皆はひとしきり、この世のものとは思えないほどの古庄に見とれた後には、一緒にいる普通すぎる真琴の存在を確認する。そして、醸し出される微妙に訝しそうな気配を読んで、真琴は身が縮まる思いだった。
真琴自身、自分が古庄に求められて結婚したことが現実なのかどうか、未だに信じられない感覚もあるくらいだから、皆の疑問は当然だと思う。
「…真琴!」
古庄から声をかけられて、我に返る。旅館の仲居が、離れへと案内してくれるらしい。
皆の注目を浴びる中、真琴は古庄の優しい視線に迎えられ、背中を押されながら母屋を出た。
山深いここは、標高もかなり高いのだろうか、敷地内の広葉樹の木立は淡く紅葉を始めていて、その柔らかな色合いに、目を奪われながら離れへと向かう。
部屋に通されて、一通りの説明をした仲居がいなくなり、他人の目がなくなった後、真琴はホッと息を抜いた。
庭を見渡せる窓を開けて、古庄が縁側へと出てみる。
真琴は、木立が作る淡い色彩の中で、一際浮き立つ存在の古庄に魅了されて、また胸がキュゥンと締め付けられるのが分かった。
息苦しさをなだめるように、真琴は備え付けられている急須に手を伸ばす。
お茶を淹れ終え、急須を置こうとした時、ふわりとした感覚に包まれて、古庄に肩を抱かれていることに気が付いた。
それに気づいた時には、覗き込んできた古庄の顔が間近にあり、今にも唇が触れ合いそうになっていた。
心の準備もなく突然のことに、真琴の心臓が跳び上がり、
ガチャン!!
思わず急須を湯呑にぶつけて、お茶をこぼしてしてしまった。
「ああっ!!」
勢いよく流れ出たお茶は、座卓の上だけに止まらず、畳の上までも濡らす。
真琴は古庄の腕の中からすり抜けて立ち上がり、押し入れの中から入浴用のタオルを探してきた。
「……すまない」
古庄が申し訳なさそうに肩をすくめる。
「私こそ、驚きすぎました」
真琴はお茶をふき取りながら、古庄を見遣ってほのかに笑いかけた。
と言ったものの、いきなりあんなに古庄の顔が近くにあるなんて、衝撃以外何ものでもない。
……この動揺はいつまでも真琴の胸を苛んだ。真琴の中に、古庄に出逢ったばかりの頃の感覚が甦ってくる。
圧倒されて緊張して、身動きが取れなくなってしまう。感情が制御できずに、表情さえもうまく作ることができない。
固くなった真琴の表情を察して、古庄は淹れ直されたお茶を飲みながら提案する。
「少し散歩でもしてみようか。近くに滝があるらしいよ」
心待ちにしていた場所に来て、ようやく二人きりになれたことで、抑えが利かなくなってしまっていた古庄だったが、ここは少し、気まずくなった状況を仕切り直すために、気分を変えることにした。
「近くにある」と聞いていた目的の滝だったが、思ったよりも遠く、山の中の遊歩道を片道1時間ほどかけて歩いた。
滝は、人気のない奥深い所に突然現れた。落差80mほどあるというこの滝は、水量も多く、轟音を伴いながら圧倒的な存在感を示している。
古庄は真琴の手を引きながら岩場を伝い、滝壺の近くまで行くと、細かいしぶきが降り注いだ。ひんやりとした空気の中、傾いた日に照らされて輝く滝を、手を繋いだまま二人で見上げる。
滝は孤高として気高く、とても美しかった。
でも、一人で見ても、これほど美しいとは感じなかっただろう。
見返りなく人を愛せる心を通せば、目に映るどんなことも優しく素直な眼差しで見ることができた。
滝を見つめる真琴の、この滝と同じように清廉で澄んだ美しさが、古庄の心に沁みていく。
滝と同化していなくなってしまいそうなほどの透明感は、愛しさを通り過ぎて、却って古庄を不安にさせた。
思わず、真琴の手をギュッときつく握ってしまう。
それに気づいた真琴が、同じように握り返してくれた。
そして、滝から古庄へと視線を移して、水滴が宿る顔で静かに微笑んだ。
ただそれだけのことで、古庄の胸は甘く痺れていく。
自分の中にこんな感情が存在している…そんな自分が、古庄は信じられなかった。
30歳を過ぎて、こんな風に人を好きになるなんて。
古庄の心は、初めて恋をする少年と、まるで同じだった。
それから帰りの山道、二人は言葉少なに、ただ手を繋いで歩いた。
普段、部活で体を動かしている古庄には何のことはない道のりだったが、真琴には少々堪えたみたいだ。
「滝がもう少し近いと思ってたんだけど、疲れさせたね」
そう言って古庄が心配すると、真琴は少し息を上げながら首を横に振る。
「あの滝を見るためだったら、これくらい。それに、この後美味しいご飯を食べて、温泉に入れるんですから、このくらい疲れててちょうどいいんです」
そんな風に気さくな受け答えをし、何気なく笑う仕草の一つ一つがとても愛しく感じられる。
人気のない山道。今この場で抱きしめてキスしたくなる衝動を、古庄はグッと抑え込んだ。