過去の経験
抱擁の途中で、古庄は真琴にキスがしたくなったが、思い止まった。
焦らなくても、今日はこれからずっと一緒にいられる。
誰にも邪魔されることもなく、一晩中ずっと。
その甘いひと時を思っただけで、古庄は居ても立ってもいられなくなった。こんな所でぐずぐずしてなんて、いられない。
真琴の涙がひと段落しているのを見て取って、早速行動に移す。
「さあ、俺たちは俺たちの道を行こう」
そう促すと、助手席のドアを開けて、真琴を車に乗せた。真琴も気を取り直して、涙の残る瞳で、古庄に微笑みかける。
成すべきことを成し遂げて、心配事のなくなった真琴の澄んだ笑顔に、古庄の胸がキューンと絞られる。思わずこの場で押し倒したくなるが、その情動を必死で抑え込んだ。
きちんと同意を得てからでないとダメだ。
真琴には、〝それ〟しか考えていない男だとは思われたくない。
それに……、もし真琴が初めて…ということになれば、それなりの配慮も必要になってくる……。
ドライブすること数十分の後、それを確かめるべく、古庄は口を開いた。
「真琴は…、俺と出逢う前に、付き合った男とかいた?」
いきなりの質問に、真琴が目を丸くして古庄を見つめた。
「どうして、そんなこと訊くんですか?」
「自分の奥さんの男性遍歴くらい知っておきたいじゃないか」
「男性遍歴…って、そんな風に言うほど付き合った人はいません」
真琴はほのかに顔を赤くして、焦ったように答える。
その反応に、古庄の心がざわめいた。
知り合ってからこれまでの真琴の日常を見る限り、まるで男っ気など感じられなかったから、古庄は全く安心しきっていた。
けれども、そうではなかったようだ。
「……ということは、少しはいたんだな…」
「少しは…というより、一人だけです。大学の時に、付き合っている人がいました」
「大学の時か…、じゃあ、もう大人だな…」
含みを持たせている古庄の受け答えが、真琴も気になったらしく、その意味を探るような目線を向けた。
内容が内容だけに、古庄はそれを尋ねるべきか迷ったが、思い切って切り出す。
「真琴は、…その彼氏と、やってたのか?」
真琴の表情の上の疑問の色が、もっと濃くなる。
「やってたって、何をですか?」
いつもは打てば響くように古庄の意図を汲んでくれる真琴だが、そういうことにはやはり疎いらしい。
事実を聞き出したかったら、古庄ははっきりと問う必要があった。
「……だから、その、キスをしたり、それ以上のことだ…」
「……は!?」
ためらいがちに古庄が尋ねた途端、真琴は顔を真っ赤にして口を手で覆った。
そんな真琴の反応を、とても可愛らしく感じて、古庄の胸がキュンと鳴く。しどろもどろになって、言葉を探して焦っている感じなのが、また可愛い。
「…それは…、付き合ってたんだから、そういうことだってしてました……」
伏し目がちにそう言った真琴の言葉を聞いて、今度は古庄が絶句する番だった。
古庄の知る真琴は、抱きしめるだけで身体を硬くして、抱きしめ返してくれるのだってぎこちない。過去に男とそういう経験をしていることなんて、片鱗さえも感じられなかった。
戸惑いの中に、モヤモヤと言いようのない感情が立ち込めてくる。
古庄が表情を曇らせて黙ってしまったので、真琴は決まり悪くなって心配そうに様子を窺った。
「……そいつ、いつか会ったら、殺してやる…!」
沈黙を破って、憮然とした様子で古庄が言い放つ。
真琴は驚いたように古庄を凝視した。そして、プッと吹き出すと面白そうに笑い始める。
「そんな、ずいぶん前のことなんですよ?会うこともありません。今は遠い所にいるはずですから」
真琴の言うように、こだわることではないのかもしれないが、たとえ過去のことだろうと、他の男が真琴に触れたと思うだけで、古庄は自分の方が死んでしまいそうな気分になった。
「それに、私は何人殺さなくちゃいけなくなるんでしょうね」
真琴の言ったとは思えない激しい言葉に、古庄は眉根を寄せて真琴に視線をよこした。
真琴はしたり顔で、微笑み返す。
「古庄先生が過去に付き合って、そういうことした女性って、一人じゃないと思うんですけど」
この指摘に、古庄はグッと言葉を詰まらせた。
確かに一人ではない。というより、何人と付き合ったかなんて、自分でも覚えていない。
今よりもモテていた20代の頃、その前半くらいまでは、若さにまかせ欲求の赴くままに、誘われれば応じていたような時もあった。
女性の方から想いを寄せられても、自分は女性を心から好きになれず…。
そんな気持ちで体を重ねても虚しいことに気付いたのは、いつの頃だっただろう。
「…まあ、君がじかに手を下さなくとも、俺の記憶の中では、すでに生きていない」
真琴はそれを聞いて、また面白そうに笑った。古庄も息を抜いて、笑顔になる。
こんな真琴の幸せそうな顔を見られるだけで、古庄の心は満たされていく。満ちて溢れた想いは行き場を求めて、古庄は運転をしながら、空いている左手で真琴の右手を取った。
真琴は、自分の右手に視線を落としてから古庄を見つめて、笑顔をいっそう輝かせる。
この笑顔を見ると、過去のことなんてどうでもよくなってくる。
これから残りの人生、こうやってずっと手を携えて一緒に生きていける……。
そう思っただけで、古庄の心が震えた。
そして、この真琴の笑顔のために全てを捧げたいと、心の底から思った。