会ってほしい人 Ⅳ
真琴のこの言葉に、静香は息を呑んで唇を噛んだ。
古庄の結婚という衝撃の事実を知っても、冷静で余裕さえあった静香の表情が歪んだ。
「…バカね!待つことなんか、なかったのに!」
何かを堪えるように目を伏せると、涙が零れでる。
「確かにその時はショックだったけど、1年間も引きずるほど傷ついてなかったわ…」
自分たちが早く幸せになるよりも、自分の心の傷を思いやってくれた真琴と古庄の気持ちに、静香の心が揺さぶられた。
泣き顔を見られまいと、静香はテラス席のちょうど目線の先に広がる爽やかな木々の梢を眺めるふりをする。
古庄が婚約の破棄を告げた時には一滴も流れ出なかった静香の涙が、今はとめどもなく溢れ出ている。その静香の涙を見て、古庄は真琴と静香の絆の深さを思い知った。
1年間はとてつもなく長い時間に感じられたけれども、真琴の誠意を尊重して待っていてよかったと、改めて思った。
涙をハンカチで押さえ、気を取り直した静香が真琴と古庄に向き直る。
「…わざわざ報告してくれて、ありがとう」
それを聞いて、真琴は再び首を横に振る。
「ううん、これは私たちがきちんと生活を始めるための、ケジメだから」
静香は鼻から息を抜いて、笑った。
「真琴ちゃんは、相変わらず律儀で真面目ね。…でも、そんなところにも古庄さんは惹かれたのね」
「その通りだ」
曲りなりにも元婚約者の前で、古庄は臆面もなく即座に同意した。
その素直な想いと率直な表現に、静香は思わず絶句する。真琴と古庄を見ていると、まるで想いが通じ合ったばかりの中学生のカップルのような気がして、静香にもっと笑いが湧きだしてくる。
その笑いの意味が分からず、古庄と真琴は顔を見合わせた。
けれども、静香は笑ってくれた。
そのことに少し安心して、二人は安堵の視線を交わした。
カフェを出てから、静香と二言三言言葉を交わし、手を振ってそれぞれの車へと向かう。
真琴が古庄の車の助手席に乗り込もうという時、思い立ったように静香の車の方へと駆けていった。
突然の真琴の行動に、古庄も目を見張る。
「静香さん!」
今まさに車のドアを開けようとしていた静香に、真琴が声をかける。
静香は驚いたような表情を見せて、振り返った。無言だが、真琴の目を捉えて、応えてくれている。
真琴は躊躇するように一旦唇を噛んで、口を開く。
「これからも友達でいてくれる?」
この一言を聞いて、弾かれたように静香は笑顔になった。
「バカね!当たり前じゃないの!」
静香は、今にも泣き出しそうな真琴の顔を見つめながら、まるで妹を慰めるみたいに真琴の髪を撫でた。
「古庄さんはモテるから気苦労も多いかもしれないけれど、幸せになってね。その幸せを私に見守らせてね」
その胸には複雑な感情が渦巻いているに違いないのに、真琴の心配を払しょくし、祝福する言葉をかけてあげられる……。静香はしっかりとした大人の女性だった。
静香の車が走り去った後も、その場で佇む真琴を、しばらく古庄は見守っていた。
おもむろに背後から歩み寄り、真琴の顔を覗き込む。
「真琴……」
真琴の頬には幾筋もの涙が伝っていた。その涙顔のまま、真琴は古庄を見上げる。
「静香さんの前では、泣いちゃダメだって思ってたの」
「うん……」
「静香さんの方が辛い思いしているのに、私が泣くなんておかしいでしょう?」
その問いに相づちも打たず、答えの代わりに古庄は真琴を抱きしめた。
真琴の顔を自分の胸に押し付けて、その涙をシャツで拭う。
「だったら、俺といる時に泣けばいい…」
こうやって抱きしめて、すべてを受け止めるつもりで、古庄は真琴を抱く腕に力を込めた。
静香の辛さを思いやって、その辛さ以上に心を痛める真琴が、愛しくてたまらなかった。真琴の心の在り様を思うと、古庄の胸まで切なく痛んでくる。
「君が好きだ…」
何とかして真琴の心の痛みを癒したいと、自分の真琴への深い想いを惜しみなく注ぎ込むように、古庄は囁いた。
その古庄の想いが体中に沁みわたり、心が震えて、真琴の涙はもっと溢れてくる。
木々に囲まれたカフェの駐車場には誰もいなかったが、白昼ということも忘れて、古庄はただ真琴をきつく抱きしめ続けた。