古庄の計画
終礼を終えて生徒たちを帰した職員室は、和やかな雰囲気が漂っていた。
この週は、火曜・水曜に文化祭が行われ、古庄が面目躍如とばかりにホッと一息ついたのも束の間、金曜日には体育大会が行われる行事ウィークなのだ。
体育大会が無事に終わると、後は週末を待つばかり。
折しも、桜野丘高校の近くの神社で放生会が行われるとのことで、参道には露店が立ち並び、学校を取り巻く空気さえも解放感に満ち溢れていた。
「…賀川先生。これ見て」
いつもは舐めるように新聞を読んでいる古庄が、珍しくパソコンを開いて見ている。
真琴がぎこちなく、古庄の背後からパソコンを覗き込んでみると、画面には日本庭園に囲まれた趣のある日本家屋が映し出されていた。
「ここ、キャンセル待ちしてたんだけど、明日の予約が取れたんだ」
意味が分からず、真琴がしげしげと画面を確かめる。
「……!」
画面にある文字には、「藍沢温泉 山荘 多無良」とある。
要するに旅館の予約が取れたという話らしく、それをわざわざ真琴に告げるということは…。
思わず真琴は古庄の背後から手を伸ばし、パソコンをパチンと閉めてしまった。
驚いた古庄が、振り返って真琴を見上げる。
「……そんな話、職員室でしないでくださいっ」
焦った真琴は、他の職員に聞きとられないように、ヒソヒソと古庄に囁いた。
真琴に忠告されて、状況を把握した古庄は、何も言わずに首の後ろを掻いている。
「じゃあ、分かった…。こうしよう」
しばらくの沈黙の後、そう言って古庄は席を立ち、そのまま職員室を出て行ってしまった。
その行動を見守って、真琴は胸に小さな痛みを感じ始める。
――…まさか、古庄先生…。お、怒っちゃったの…?!
どんどん不安が大きくなっていき、真琴は古庄を追いかけようとした。
すると、真琴のバッグから音が鳴りだし、足止めされる。急いでスマホを取り出して見ると、古庄からの着信だ。真琴はひとまずホッと、胸を落ち着けた。
「……はい」
と、真琴は電話に出ながら、古庄が出ていった方とは反対方向の出入口へと向かう。
メモ用紙でのやり取りでは、まどろっこしいと思ったのだろう。古庄にしてはまたまた珍しく、携帯電話を活用している。
「今度の週末、何か用事がある?」
「…いいえ、特にはありません」
「それじゃ、君を連れてさっきの旅館に行きたいと思ってるんだけど。一緒に行ってくれる?」
古庄に想像通りのことを提案されて、真琴の胸は急にドキドキし始めた。そして、動転するあまり、
「…でも…」
と、逆説的なことをつい口走ってしまった。
「…でも?何か都合悪い?」
「いや、私じゃなくて、古庄先生が…。部活があるんじゃないですか?」
「……う…」
現実を突きつけられて、古庄は言葉に詰まる。
顧問をするラグビー部は、花園予選が間近に迫り、練習にも一段と熱が入っていた。
ラグビー部にはもう一人、塩尻というラグビー専門の体育教師が顧問としているが、大事な大会を目前にして、練習には一人でも多くの指導者がいるに越したことはなかった。
「……いや!それは、塩尻先生に頼んで、何とか部活は休ませてもらう」
しかし、古庄はもう必死だった。
婚姻届を出したのは、もうずいぶん前のことのように感じられるが、真琴を抱きしめてキスできたのは、文化祭の初日の早朝の一度きりだ。
誰に気兼ねすることなく、思いっきり真琴を抱きしめたい……!
真琴と想いが通じ合っていることが判ってから、我慢に我慢を強いられてきた古庄の、今の願いはこれだけだった。そして、そのためにはどんな努力も、どんな犠牲だって厭わなかった。
本音を言えば、今日これからだって一緒に過ごしたいくらいだ。
しかし、人のいい古庄は、放生会で賑わう夜の街の見回りのため、生活指導部に加勢することになっていた。
普段は仕事で忙殺されているからこそ、明日は何としても、かねてより練っていた自分の計画を実現したかった。
「今の俺にとって何よりも大事なのは、君と一緒にいられる時間だ。いつか、そのうち…なんて待ってられない。こうでもしないと、君を煩わせるものから君を切り離して、俺が独り占めできないだろう?」
断固とした口調で言われた古庄の言葉に、真琴の息が止まる。
二人っきりの部屋で過ごす夜を想像しただけで、体中を緊張が駆け抜けていく。何気ない言葉の中に潜む、古庄の深くて激しい想いに、真琴の心は甘く侵された。
「…分かりました…」
提案された瞬間から真琴の心は決まっていたが、やっとのことで真琴はそう答えることが出来た。