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思いやりと決心 Ⅱ


 離れに戻って来れたのは、もう薄暗くなった頃。落ち着く暇もなく仲居が夕食の準備に訪れた。


 立派な宿にふさわしい、予想を裏切らない美味しい料理に舌鼓する。

 料理を運んでくれる仲居に、真琴が材料や調理法についていろいろと質問をすると、気を良くした仲居はいろいろと教えてくれた。


 といっても、話は真琴としながら、仲居の視線のほとんどは古庄に向いている。それほど、食べている様の古庄も完璧だった。古庄よりもかなり年配なのにもかかわらず、憚りなく古庄に見入る仲居のそんな様子に、真琴はやきもちよりも面白さを感じてしまう。



 食事が終わり、片づけをしている途中で古庄が用を足しに席を立つ。すかさず、仲居はそっと真琴に耳打ちした。



「旦那様、ものすごいイケメンですね…。」



 その言葉に、真琴が目を丸くしていると、



「……旦那様、ですよね?」



 と、訊きなおされる。



「…はい」



 真琴は小さく頷いた。『旦那様』という響きが、少しくすぐったい。



「あんな方に想われて、お幸せですね」



 更にかけられた言葉に、真琴は同意することなく、もう一度仲居を見つめ返す。



「奥様への眼差しを見れば、旦那様が深く愛していらっしゃることは判ります」



 仲居の言葉が真琴の中に沁みわたって、返す言葉が見つけられない。

 古庄と一緒にいて見劣りする自分を、こんな風に見てくれている他人がいることにも心が震えた。


 その時、古庄が戻ってきて、とっさにそちらを見た真琴の顔が一気に紅潮した。

 そんな反応をされた古庄は、訳が分からず真琴と仲居を代わる代わる見遣る。



「…申し訳ございません。出すぎたことを申し上げました」



 仲居がそう言って頭を下げ、離れの部屋を出ていくと、



「…何だったの?」



 と、様子を訝しんだ古庄から尋ねられた。

 真琴は赤い顔のまま首を横に振って何も答えず、キャリーケースを開いて荷物の整理をし始める。


 真琴のぎこちない態度は、仲居との会話のせいか自分と二人きりになったからか判然としなかったが、古庄は気を取り直すことにした。



「それじゃ、そろそろ風呂に入るかな」



 けれども、古庄の提案に真琴はギクリと肩をこわばらせた。それに気づいた古庄は、真琴の懸念を即座に否定する。



「もちろん、男女別の大浴場に行くんだよ。そっちの露天風呂は川の横にあるらしいし」



 真琴は少し安心した面持ちで一つ頷いたが、古庄と目を合わせようとはしなかった。

 落ち着かなげに立ち上がり、押し入れから二人分のタオルや浴衣を出して、温泉に行く準備を始めた。


 そんな真琴の様子を、しばらく黙って見守っていた古庄が、思い切って口を開く。



「……真琴。俺はいつだって、君の望んでいないことはしないよ」



 真剣な口調で語りかけられたのを聞いて、真琴は逸らしていた目を古庄に合せた。


 何のことを言っているかは、すぐに察しがついた。

 何と答えていいのか判らず、ただ黙って古庄を見つめ返すことしかできない。



「君は俺の命よりも大切な人だ。俺の願望を優先させて、君を傷つけたくない」



 古庄は優しく深い眼差しを注ぎながら、静かな声でそう言った。

 穏やかに発せられた古庄の言葉は、その響きとは対照的に熱い矢となって真琴の胸を貫いた。



 ――…あなたに愛されて、傷つくはずなんてない…!!



 心の中ではそう叫んでいたが、突然大きくなった胸の鼓動に阻まれて、そんな真琴の思いは何も声にはならなかった。


 傷つきはしないけれども、そんなにまで深い想いとともに見つめられると、呼吸さえもままならず苦しくなってくる。


 その感覚に耐えるように、真琴は抱えたタオルと浴衣に顔をうずめた。



「さあ、露天風呂に行っておいで、俺は後から鍵をかけて出るから」



 古庄から優しく促されて、真琴は離れを出た。

 甘い呪縛から解放されて、やっと大きく一息つくと、下駄を鳴らしながら露天風呂へと向かった。


 木々の間を縫って続く、川沿いの露天風呂への小路には、数メートルおきに小さな明かりが置かれていた。

 その灯りを辿って、川のせせらぎが聞こえてくると、小さな建物に到着した。


 脱衣所で服を脱いで、露天風呂の方へと出てみる。

 すると、今昇ってきたばかりの満月が、川とそのすぐ横の湯船の水面を照らし、キラキラと光ってまばゆいほどだった。


 柔らかいお湯に体を浸し、夜の風を顔に感じる。

 夜でも景色が楽しめるように、露天風呂の周りはライトアップされていて、周りの木々も鮮やかに照らし出されていた。


 けれども、その綺麗な景色も、真琴の目には映っても心にまでは届いてこない。

 それほど、真琴の胸は切なく疼き、その中に混とんとするものは深かった。



 古庄がとても深く想ってくれているのは、身に沁みて解っている。


 折々に言葉にしてくれる、真琴の体を貫くような古庄の想い。その表現の通りに、古庄は抱きしめてキスをして……深い想いを行為として示したいと思っているはずだ。


 それが恋人同士なら当然のことだ。

 ましてや、夫婦なら。


 古庄の想いに応える勇気がなく、もじもじとして態度をはっきりさせない自分が、真琴は嫌でたまらなかった。


 だからこそ、あんな風に古庄に気を遣わせてしまう……。

 古庄にあんなことまで言わせてしまう……。


 (いた)わってくれているのだとは思うが、古庄の態度は宝物を大事にするというより、腫れ物に触るようだ。


 そうさせているのは、誰でもない自分。真琴はそれが、とても情けなかった。


 せっかくの露天風呂だというのに、真琴は湯船の中でうつむいて、ただ自分の膝頭ばかりを見つめていた。



「こんばんは…」



 その時、ずいぶん年配の女性が湯船へと入ってきた。

 真琴も頭をもたげて、会釈をする。



「まぁ、綺麗だこと。もうここは、少しずつ紅葉が始まってますね」



 そう話しかけられて、真琴もライトアップされた木々を改めて眺めた。



「山深いから、朝晩は冷えるんでしょうね」



 すでに黄色や赤に色づきつつある葉っぱを見遣りながら、相づちを打つ。



「あれは、何の木かしら?ずいぶん色が変わってるけど…」


「…多分、桜だと思います」


「まあ、桜?お花だけじゃなく、紅葉も楽しめるのねぇ」



 その女性の言葉を聞きながら、真琴は桜野丘高校のしだれ桜を思い出す。あの桜も、淡く黄色に葉の色を変え始めていた。



 絢爛に咲き誇る桜の下に佇む古庄の姿が目に浮かぶ――。

 そして、生涯忘れないと心に刻んだモザイク画の前の古庄の姿も――。



 その像を確かめるように、真琴は目を閉じた。

 あのプロポーズをしてくれた時、真琴は古庄に宣言したはずだ。


 古庄のためだったら、どんなことだってすると――。


 あの時の決意を思い出すと、真琴の中に勇気が生まれ、力が湧いてくる。

 真琴は覚悟を決めた。その覚悟表すように湯船から立ち上がると、体を洗い始めた。





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