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少年‐初夏の日差しに惑う‐

作者: 新月

高い嵌め殺しの窓にかけられた、カーテンの隙間から覗くのは新緑。

時期は五月。時折真夏と見まごう程の日差しもさしてくる。

しかし室内は空調で計算された、快適な温度を保っている。

この病棟の窓は全て開かない。

必然人工的に調節するよりほかないのだ。

「――ねぇ悦、長野に、今度はいつ帰れるかしら」

長い黒髪をその細い肩におろす一人の女が、病室のベットに半身を起し悦にねだるように言った。

薄紫色の花が描かれた綿のパジャマ姿で、その奥二重の目と難のない鼻筋、白い肌が日本人形を思わせる。

対する悦は面会者用のパイプ椅子に腰かけて、陰のある表情のまま笑って見せた。

「まだ、もう少しここでゆっくりした方がいいよ。これから梅雨になって、また具合が悪くなるといけないから」

――ね、母さん。

最後のその言葉は音をなくしたように消えていった。

「私はもう大丈夫よ。体はどこも悪いことないって、佐々木先生もおっしゃったでしょう」

その言葉に悦の表情に浮かぶ陰は、一層濃くなったように見えた。

知っている、体はどこも悪くないことは。

悦は内心思った。

「ここは嫌よ、夜も昼も突然妙な声をあげる人が一人ではないのよ」

言うそばから扉の向こう、廊下から女の怒鳴る声が聞こえてきた。

そして何かを床に投げつける音が続く。

看護師たちが駆けつけるのだろう。複数の足音が集まる気配があった。

悦はその物音に、ここが何処か嫌でも思い知らされるのだった。

「ここは個室だから、誰も入ってこないし安心して。――この傷が治るまで、もう少しね」

言って母の左手を取る。

寝巻の袖の下になって見えないが、そこには真っ白い包帯が巻かれている。

それは母が自分を含めた全てのものを置いて行ってしまおうとした、証だった。

これが初めてではない。

悦が幼いころから、母はこんなことを繰り返していた。

――ねぇ、どうして?

それを聞けないでいる自分は、臆病なのだろうか。

しかし聞いたとして、まともな答えが返ってくるとも思えなかった。

自宅のマンションの浴室で果物ナイフを片手に気を失っている母が、家政婦が呼んだ救急車で運ばれてきたのは二日ほど前のことだ。

意識を回復した後に見せた錯乱状態から、そのままこの閉鎖病棟へ医療保護入院となった。

この病棟は刃物類などの自傷行為に用いられる道具の持ち込みが禁止、あるいは預かりになるため、母の生命にとっては安全な場所だった。

ここにいれば、母が自分を置いてけぼりにこの世からいなくなってしまうことはない。

そんな悲しい安心を、悦は覚えていた。

「このお花、綺麗でしょう」

ふと母が、棚の上に飾られた蘭の鉢を指していった。

「お父さんが持ってきてくれたのよ」

悦はその花の存在には気づいていたし、誰が持ってきたのかも推量がついていたがあえて、意図的に触れなかった。

それは父親に対する彼の複雑な感情がさせたことだったが、母が触れた以上無視するわけにもいかず、あたりさわりなく応じた。

「父さん、来たんだね」

「そう、悦より早かったわね」

言って、母は鈴を転がすように笑って見せた。

その微笑みに、自殺を図る人間が持つような暗さも葛藤も見られなかった。

いつもそうなのだ、母は。

そうやって笑って、無邪気に生きているように見せて、突然死んでしまおうとする。

自分や周りを、裏切って。

それなのに事が過ぎてしまえば、また可愛らしい人形のように、自分がしたことの重大さなど少しもわかっていないように生きてゆく。

まるで何も覚えていないかのように。

そしてその度に、悦は自分の幼い部分、大人になりきれず母親の愛情にすがらずにはいられない部分が、深く傷つくのを感じていた。

母にとって、自分とは何なのか。

自分の存在は、母を引き留めるほどの力を持たないのか。

そんな空しい問いかけが、ぐるぐると出口を求めて渦巻くのだった。

「退院したら、長野に行こう。きっとアジサイがいい季節だから」

振り払うように悦は笑って見せて、母に言った。

せめて楽しい予定を作って、母を生きるという事に留めておかなくてはと思ったのだった。

「その頃にはきっと梅雨だから、傘を忘れずにね」

「梅雨、そう梅雨になっているのね、その頃は。――私は雨が好きだわ」

「どうして?」

「だって皆同じような傘をさすでしょう。高いところから見ると誰が誰だかなんて区別がつかないじゃない」

「そうだけど」

「そうしたらきっと、一人くらいいなくなったって誰も気づきはしないわ。……私がふといなくなったって、きっと誰も気づかない。そっとしておいてくれるでしょう」

悦はその言葉に、また胸がうずくのを感じた。

「俺は、母さんがいなくなったらすぐに気付くよ」

「そう?そうかしら……」

「そう、きっと気づくから。だからいなくなったりしないで」

悦は言いながらそれが希望というよりは、祈りに似ていると感じた。

――どうか母が自分の知らぬところで、手の届かないところへ行ったりしませんように。

それは切実な、そして子供じみた祈りだ。

神様は、そんな願いを聞き届けてくれるだろうか。

母はわずかに開いたカーテンから、外を見ている。

その無垢な表情の下で、一体何を思っているのだろうかと悦は思った。

またこの世から逃げそびれた事を、悔やんでいるのか。

そんな悲しい想像をして、悦もまた窓外に目をやる。

折しも若々しい葉は生命力に溢れ、生きることにまっすぐだった。

どうして母はそうあってくれないのか、詮無い思いを胸に悦は黙したまま母の左手を握るのだった。






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