Last Reason/Rust Treason 5
その時、眼下の光景にエイブラハムは眉をひそめる。
湯気が立つ紅茶を前にしたアンジェリカが怪訝そうに指先でカップをつついていたのだ。
その様子に嫌な想像をしてしまったエイブラハムは、近くに置かれた贈り物の福袋の中からとある瓶を取り出す。
黒いペーストが収められたその瓶詰めに、メリッサは今まで以上に顔を引きつらせてしまう。
瓶詰めの正体はマーマイト、匂いも味も苦手なメリッサの天敵だったのだ。
まるで人ではなく化け物を見るような目で見詰めてくるメリッサの視線を無視して、カップをテーブルに置いたエイブラハムはマーマイトの蓋を開けてアンジェリカの鼻に寄せる。
しかし匂いの強いマーマイトにさえ、アンジェリカは瓶を指先でつつくばかりで大きな反応すら見せなかった。
「嗅覚、でしたか」
「ちょっと待って、なに言ってるわけ?」
悲痛そうに顔を歪ませるエイブラハムに、漂ってくる匂いから逃れるように鼻を押さえながらメリッサは問い掛ける。
マーマイトを持っている姿すら絵になっているとはいえ、その匂いに耐えられるほどメリッサは辛抱強くなかった。
「復讐者、ウィリアム・ロスチャイルドの左目に眼帯が着けられているのを知っていますか?」
「ええ、話には聞いてるけど……」
ようやくマーマイトの蓋を閉めたエイブラハムの切り出した言葉に、メリッサは匂いを飛ばすように手を振りながら応える。
黒髪、黒目、眼帯に冗談のようなリボルバー。
それがメリッサの知るウィリアム・ロスチャイルドであり、BIG-Cの使者が見せてきた中継に映っていた彼らの切り札だった。
「眼帯に隠されたあの左目は視界に入った機械の解析、不特定多数のロックオン、弾道計算などを可能にした時計仕掛けの復讐者というオルタナティヴ兵装なんですよ」
「ゴメン、意味分かんない。左目を移植したって、それってどういうこと?」
「メモリーサッカーで記憶を引き抜かれても死ななかった彼に企業はあらゆる処置を施しました。まず彼の唯一の家族であるアドルフ・レッドフィールドの記憶を混入し、その左目を埋め込み、可能な限りの治療を施したんです。その経過観察で分かったのですが、脳に直接左目を接続された影響からか彼は味覚を失っていました」
「神経をムチャクチャにされた上で生きてたって事?」
「そうです。Strangerが参戦した先の襲撃が成功したのも、シモン・リュミエールが常軌を逸した生命力を持っていた彼との決着を望んだ事が大きいでしょう」
驚愕から目を見開くメリッサに呻くように嘆いたエイブラハムは、のけぞるようにして自分の顔に触れてくるアンジェリカに微笑みかける事で事実の1部を粉飾する。
エイブラハムはアンジェリカを解放するために、仲間と言えないこともない人々を虐殺した。
その事を後悔した事もする事もない。メリッサももう気付いているかもしれない。
それでもエイブラハムはその事を口に出す事は出来ない。
アンジェリカの華奢な体躯をあらゆる暴力から守ってやれるのが自分しか居ないように、アンジェリカの心を守ってやれるのはメリッサしか居ないとエイブラハムには思えたのだ。
「五感に影響が出るという確証はなかったので期待していましたが」
「……風邪引いた時とか、鼻が利かなくなったりするけど」
「私もそう信じたいですけど、確定でしょう」
紅茶とマーマイト、極端であるとはいえ特徴的な匂いを嗅がせたというのに嫌がるでもなく無反応だった事。
屋台で買ってやったワッフルを初めとした甘い物を好む嗜好。
しっかりと見詰め合う事が出来たアイスブルーの双眸。
なんらかの形で返される返事。
温もりをむさぼるようにベッドに潜り込んでくる小さな体躯。
考えてしまえば、エイブラハムは認めざるを得なかったのだ。
「この子にはこの子を受け入れてくれる環境が、取り戻せるものを取り戻す長い時を過ごせる安寧が必要です。その為であれば私は誰とでも戦いましょう」
「……やっぱりアンタ、立派なお父さ――」
どこかおかしそうに微笑んだメリッサの言葉を遮るように、尋常ではない爆音が家屋を揺らす。
エイブラハムはアンジェリカを小脇に抱えるながら飛び出し、メリッサを抱き寄せて辺りに注意を払う。
家屋の倒壊は幸いにも起きそうにない。
爆音だけで家屋が揺れるほどの兵器を所有しながらも家屋ごと吹き飛ばさなかった事から、敵対者の目的は自分とアンジェリカの殺害ではない。
あるいはこの場所への襲撃がない事から、少なくとも敵対者はアンジェリカの位置を知らない。
エイブラハムはアンジェリカを床に降ろし、困惑するばかりで状況についていけていないメリッサを置き去りに、壁に立てかけていた白銀の太刀を取ってベルトにつけて家屋から飛び出した。
敵対者は少なくとも戦闘車両、それも高威力の火器を搭載したものを所有している。
それをStrangerの戦力では対処できるとは思えないのであれば、エイブラハムは自分が矢面に立つしかない。
アンジェリカを暴力から守るには、他に方法はないのだから。
人々が逃げ惑うスラムの街道を駆け抜けていたエイブラハムは、やがて捉えたその存在に思わず舌打ちをしてしまう。
6脚の機動兵器、黄色い装甲、雄牛のエンブレム。
脚部を装甲で盛り固めたその機動兵器は、曲がりなりにもワンオフの面倒ごとだったのだ。
「厄介ですね……」
電磁刃で装甲を切り裂く事は出来るだろうが、1回しか使えない切り札だけをアテにする事はエイブラハムには出来なかった。
しかし白銀の太刀を除いたエイブラハムの装備は対人用のスローイングナイフのみ。機動兵器を相手にするには心許ない。
相手を利用して荒野まで誘い出すか、もしくは一撃必殺の光の刃を叩き込むか。
どちらにしろ自滅覚悟だ、とエイブラハムがスローイングナイフに手を伸ばしたその瞬間、背後から女の悲鳴が響き渡った。
捕捉仕切れなかった敵の登場か。次から次へと変わる状況に頭を抱えたくなる衝動を堪えながらエイブラハムは振り向く。
そこに広がって居たのは、エイブラハムにとって最悪の状況だった。
自分に向かって疾走する漆黒の影、赤い光が灯されたレアメタル製の暴力。
それはアンジェリカが状況を理解させ、戦う覚悟を決めさせてしまったという事なのだから。
ナイトメアズ・シャドウはエイブラハムを避けるように止まり、エイブラハムは降ろされたワイヤーに捕まり、せり出された背部のコックピットへと飛び込む。
光を失った前部のシート、後部のシートではアンジェリカが既に接続されている。
どうやってメリッサの元から逃げてきたのかは知らないが、予想通りの光景にエイブラハムは悲痛そうに顔を歪めた。
戦わなければ生き残れない、アンジェリカ1人も守れない。
ナイトメアズ・シャドウの操り手、そして少女の守護者でしかない自分。
庇護者であり、ナイトメアズ・シャドウでもある少女が判断したのであればエイブラハムは従うしかない。
それが自分の無力さを痛感させるものであっても。
「力を貸してくれませんか。あなたを守るために戦うというのに、変な話ですが」
懇願するようなエイブラハムの言葉にアンジェリカが頷くと共に、前部のシートに赤のラインが代行者を迎え入れるように光る。
アンジェリカに死なれては困る。
エイブラハムにとってそうであるように、"誰か"にとってもまるでそうあるように。




