Bloody Dawn/Maddy Down 1
スラムの屋台街をフードを目深に被った2人が、人ごみに紛れるように進んでいく。
男の180cm以上はあるだろう痩身の長躯には黒いシャツとデニム、その黒達と白髪を覆い隠すように更に黒いモッズコートを。
少女の小さく華奢な体には赤いインナーと黒いモトデニム、その上から長い丈のパーカーとトラッカージャケットを。
決して上品な格好とは言えないが、それらを纏い、パーカーを目深に被る男女は人目を引いていた。
パーカーから覗く顔は美しく、男の腰には太刀が下げられているのだから無理もないだろう。
「変装は思った以上の効果を得られず、といったところでしょうか」
任務の過程で自分の美しさを理解し、アンジェリカの美しさを目の当たりにしたエイブラハムは苦笑を浮かべる。
節くれ立った細い左手を握るアンジェリカは戸惑うように首を傾げ、やがて小さな左手に持っていたワッフルをエイブラハムへと差し出す。
その優しさが嬉しかったエイブラハムは、首を横に振って少女の小さな頭をフード越しに撫でる。
コロニーGlaswegianから逃げ出したエイブラハムは、アンジェリカとナイトメアズ・シャドウと共に少し離れた位置に存在するスラムへと身を隠した。
ナイトメアズ・シャドウは誰も行かないであろう荒野の峡谷の影に、特異な色を持つ2人はコロニーになりそこなった人々の坩堝に。
スラムに辿り着いたエイブラハムは手早く2人分の衣服を購入し、店主の女を篭絡する事で口封じをした。出来る限り人目を避けはしたが、店主の女にだけは企業に支給された服を見られてしまったのだから。
企業に敵対する人々と有色の人種を狙う人買いが跋扈するスラム。
そんな決してスラムが安全という訳はないが、企業の影響力から逃れるには他の方法はなかったのだ。
しかしそんなエイブラハムの考えとは裏腹に状況は予想し得ない急展開を迎える。
企業が復讐者とレジスタンスの連合軍によって壊滅させられたのだ。
エイブラハムによって戦力を削られていたとはいえ、烏合の衆の手に落ちた企業。もはや焼け落ちているだろう古巣に何を想うでもなく嘆息する。
企業が作り出した最新にして最強の兵器である機動兵器。その暴力を殺すには同規模の機動兵器や戦闘車両、あるいは大規模な地雷原などのトラップが必要。もしも生身の人間が機動兵器と相対するのであれば迫撃砲などの兵装、もしくは復讐者や壊殺者のような特殊な兵装が必要となる。
つまりアンジェリカの奪還のために機動兵器を差し向けてくる勢力は消え、ナイトメアズ・シャドウは目立つだけの足枷と成り下がってしまったのだ。
ではここで捨てて行くか、となるかといえばそうはいかない。アンジェリカの脳に直接アクセスした機動兵器が、失ってしまった少女の声と無関係とは言い切れないのだから。
出来る事なら全てを取り戻してやりたい。
出来る事なら暗闇に怯えていた少女を守り続けてやりたい。
出来る事なら彼女に牙を剥く敵を全て焼き尽くしてやりたい。
もしもそれが叶わないのであれば、その空白を少しでも埋めてやりたい。
エイブラハムにとって願うべきはただ1つ、アンジェリカの幸福だけなのだから。
どうしたものか、とエイブラハムは右手に持つ企業支給の服が入った袋を握りなおす。
金なら文字通り腐るほどある。それこそ2人分の服を購入し、服屋の1件で妙に機嫌の悪くなったアンジェリカを、宥めるように買い与えたワッフルなど出資にもならないほどに。
それでもナイトメアズ・シャドウという最新にして最強の機動兵器を隠し通し、その存在の意味を理解するまで整備し続けるのは難しいだろう。
そもそもナイトメアズ・シャドウには謎が多すぎた。
AI搭載型でありながら、代行者という言う名の操縦者を必要としている。
企業社屋のような強力なジャミングが利いた環境なく、簡単な動きであれば、アンジェリカは触れずともナイトメアズ・シャドウを操る事が出来る。
ナイトメアズ・シャドウはアンジェリカが接続されていなければ武器の使用は出来ないが、巡航モードでの走行が可能である。
脳裏で並べたその事実達はナイトメアズ・シャドウがアンジェリカを不要としているように見えるが、その存在の意味をより不可解な物にしていた。
何よりエイブラハムは認めたくなかったのだ。
まるで帰巣本能のようにナイトメアズ・シャドウに辿り着き、それが当然であるかのように金属製の耳にケーブルを接続してインストールを開始したアンジェリカ。
名前も何もかもを失った少女が、ナイトメアズ・シャドウを動かすために存在しているのではないかという仮定を。
どうしてこんなにもか弱い少女が機動兵器を補完されてているハンガーに寄越されたのか。その疑問に対する答え出たとしても認めてやるわけにはいかないのだ。
「……荷物を置いて来たら水と食糧を買いに行きましょうね」
いくらあらゆる人種が入り乱れるスラムと言えど、オルタナティヴ処置をされた美しい少女は目立ってしょうがない。
今日明日の内にスラムを出るべきだろうと考えたエイブラハムは、ワッフルにかじりつくアンジェリカに微笑みかける。
誰も寄り付かないであろう峡谷に隠してきたとはいえ、ナイトメアズ・シャドウの巨躯をいつまでも隠し通せるはずがないのだ。
瞬間、アンジェリカは何かを思いついたように、何かを請うように両腕を広げた。
まずい、とエイブラハムは慌てて止めようとするが、止めるには遅すぎた。
スラムの屋台外の遥か彼方にある峡谷からは轟音が響き渡り、砂煙が舞い上がっているのだ。
アンジェリカがハンガーの奥まで進まなければならなかったのは、企業社屋の持つジャミング装置のせいでナイトメアズ・シャドウと交信が出来なかったから。
新たな事実に頭を抱えたくなる衝動を堪えながら、エイブラハムはアンジェリカを抱き上げて騒然をする人々から逃れるように路地裏に入る。
抱き上げられた事が原因か、それとも距離のせいで不安定だったのか。交信が途絶したように轟音は鳴り止み、スラムは一気に混乱の最中に叩き落される。
高速で路地裏を駆け抜けながら、エイブラハムは焦燥する胸中でいくつもの考えを走らせる。
このまま状況を静観していれば、原因究明に動き出した民間軍事企業に、ナイトメアズ・シャドウに辿り着いてしまうだろう。
まだ漆黒の巨体を失うわけにはいかないエイブラハムは考えなければならない。
ナイトメアズ・シャドウを失わず、アンジェリカと共に遠くまで逃げる算段を。
1つの狂いも許されない数式のように、それでいて答えに辿り着くのが必然であるように。
ふとモッズコートの胸元を引かれる感覚にエイブラハムが視線を降ろすと、アンジェリカはどこか申し訳なさそうに眉尻を下げていた。
「アンジェ、あなたは何も悪くありません。気を遣ってくれただけなんですよね?」
アンジェリカは荷物を置きに行く手間を失くすために、ナイトメアズ・シャドウを呼びつけようとしてくれただけ。
記憶や名前を失いながらも優しくあれる少女を、エイブラハムが責められるはずもなかった。
「だからそんな顔しないで下さい。あなたは私が守りますから」
エイブラハムはアンジェリカの子供らしいふっくらとした頬を胸元に当てながら囁きかける。
それがどれだけ利己的なものであったとしても、エイブラハムはアンジェリカを手放す気など毛頭ない。
ようやく見つけられた自分の命の使い道を、易々と手放せるはずがないのだから。