In To The Deep Unknown/Brew The Cheep A Known 9
「E3の区画の居住区に居るよ――にしても兄ちゃん随分若いな、親戚かなんかか?」
「まあ、ちょっとな。わざわざありがとう」
婚約者が居るという事が気恥ずかしいのか、アドルフはそう言って灰髪の男を置いて歩み始める。
E6、E5、E4。
いくつかの区画入り口を越えて、やがて2人は目的であるE3区画へと辿り着いた。
扉もなければ、申し訳程度の安っぽい照明しかない明り。
しかしそこに広がる景色は瓦礫が多少散らかっている物の、そこまで荒廃しているような印象はなかった。
その光景にローレライは意外だと感じる。
拠点がスラムであるという事と家族が居ない事から、ローレライはアドルフの出身はスラムだと勝手に決め付けていたのだ。
しかし、とローレライは新たな疑問に眉根を顰める。
なぜコロニーに住める立場にありながら、"お兄さん"は忘れてしまうほど昔から戦場に立たされてしまったのか。
コロニーの有力者達の子供が統率者となるために、傭兵としての戦歴を欲しがるのは知っている。
だが"お兄さん"は傭兵家業を始めた理由を"将来を約束した女と暮らすため"と言っていた。
そこからローレライは"お兄さんは傭兵になる事を強要されたのではないか"と仮定する。
伴侶となる女を人質に取られたのか、それとも伴侶となる女自身に強要されたのか。
理解が追いつかない事態に、ローレライは色素の薄い唇に立てた人差し指を当てて考え出す。
コロニーCrossingは居住区を多く持つ大型コロニーだが、設備の悪さから裕福とは言いがたい状況にある。
そのコロニーCrossingは裕福ではないとはいえ大型コロニーである。だからこそ防衛部隊を持っているはずで、わざわざ傭兵として出稼ぎをするメリットはない。
そしてローレライは1つの答えに辿り着く。
貧乏なコロニーの防衛部隊では手に入れる事は出来ず、傭兵はそれを手にするチャンスを得られるかもしれない物。
それはただ1つ。命を捨てる事によって得られる、決して少なくはない報酬だ。
辿り着いてしまった答えにローレライは、名前しか知らないトレーシー・ベルナップを警戒対象にする。
もし伴侶だというのなら、トレーシーはなぜ"お兄さん"を助けなかったのだろうか。
怒りと困惑から生まれた疑問に、ローレライは無責任すぎると憤慨する。
ローレライが脳内で"お兄さん"拉致作戦の草案を練り始めた頃、2人は1軒の家に辿り着いた。
だがその家が掲げるファミリーネームはベルナップではなく、クレネルとなっていた。
それを理解した瞬間、ローレライは辺りを一気に見渡す。
バイクという高級品、同じく高級品である有色の人種である2人。
それらを奪うためにこの閉鎖空間へ誘われたのではないかと、ローレライは考えたのだ。
しかし辺りに人影がないどころか、遠くから生活音が聞こえる程度にそこは平和だった。
騙された訳ではないが、現れたのは目的とは違う名前。
ローレライが新たに生まれた疑問に悩んでいると、アドルフはコンバットブーツを履く足でスタンドを立たせてバイクを停める。
「あー……ローラ嬢ちゃん、変なところないかな?」
「今のお兄さんは随分と変な印象を受けますわ」
答えの出ない疑問達と、"お兄さん"が去ってしまう寂寥感から、ローレライは心にもない答えを返してしまう。
失敗したと即座に理解したローレライは恐る恐るアドルフの様子を窺うも、アドルフは苦笑しながらライダースジャケットの襟を正していた。
「辛辣な評価ありがとう――うっしゃ!」
やがてアドルフは覚悟を決めたように、薄汚れた合金製の扉をノックする。
この扉が開いたその瞬間、2人の旅が終わる
恐かった事もあった。
悲しい事もあった。
それでも、その温もりに再開できた事をローレライは確かに喜んでいた。
時間にして数秒。
アドルフにとっては永遠のような数秒。
ローレライにとっては刹那のような数秒。
それを終わらせるように、その扉が開かれた。
「えっと……どなたですか……?」
そう言って扉から現れたのは、灰髪の妙齢の女性だった。
年齢にして30過ぎと見える、"お兄さん"とは遠く歳の離れた存在。
"お兄さん"は年下よりも年上のほうが好きなのだろうか。
そんな益体もない事を考える傍らで、ローレライの脳裏は怒りが再燃していた。
「おいおい、忘れちまったのかトレーシー? というか、随分老けたなお前」
何かを誤魔化すように軽口を叩くアドルフ。
しかしトレーシーは困ったように眉をひそめていた。
「いえ……本当にどなたですか……?」
「いや……マジ、で……?」
飄々としたものが消え始めるアドルフの言葉。
空元気すら保てなかったアドルフの肩は下がり、その悲しみを露わにする。
やはりそうだったのか、とローレライはアンチマテリアルライフルに伸ばそうとした手を押さえる。
"お兄さん"を傷付けた事は許せないが、それでもその女は"お兄さん"が求めたただ1人の女なのだから。
「……俺だよ、アドルフ・レッドフィールドだよ」
当然のように紡がれた"アドルフ"の名前。
しかしその名前にローレライとトレーシーの顔色が一気に変わる。
その名前にローラと女の顔色が変わる。
「あなた、自分が何を言ってるか分かってるの!?」
そう怒鳴りながらトレーシーはアドルフの胸倉を掴む。
突然豹変した女の様子にアドルフは戸惑いながら、そして若干苛立ちから深いため息をつく。
「いや、だから――」
「……思い出したわ、あなたあの時の子でしょ!? よくもそんながおふざけができるわね!」
トレーシーはアドルフの言葉を遮りながら、ヒステリックな怒声をアドルフへと浴びせる。
それでもアドルフはただ戸惑うだけで、トレーシーに一言も返す事が出来ない。
「早くどこかへ消えて! 二度と顔を見せないで頂戴! アドルフは……もう死んだのよ!」
アドルフの態度に痺れを切らしたように、トレーシーはアドルフを突き飛ばして乱暴に扉を閉める。
その強い拒絶に呆然と立ち尽くすアドルフの後ろ姿を眺めながら、ローレライの脳は思考に没していく。
なぜ"お兄さん"はわざわざコロニーを出て傭兵となったのか。
なぜ"お兄さん"が婚約者だと思っていた女は、"お兄さん"とこんなにも歳が離れているのか。
なぜ"お兄さん"は過去に苦手としていた青の固形食物を食べれたのか。
なぜ"お兄さん"はCrossingの道を知らなかったのか。
なぜ"お兄さん"はローレライの事をローラ嬢ちゃんと呼ぶようになったのか。
なぜ"お兄さん"は過去を曖昧に感じているのか。
なぜ"お兄さん"は左目を失ったのか。
だというのになぜ、自分は"お兄さん"が嘘をついているように思えないのか。
何もかもがおかしいのだ。
何者かが"お兄さん"に成り代わっていたのだとしても、単独戦闘を好み、敵の多い"お兄さん"に成り代わるメリットはない。
何よりローズマリー・アロースミスを騙し遂せる人間など、ローレライは知らないのだから。
ありえない事ばかりがそこで起こり、全てを否定していくような虚脱感。
その不快感にローレライが頭を抱えそうになっていると、アドルフは肩を竦めてローレライへと振り向いた。
「……参ったな。なんかよく分からないけどあいつもう結婚してるみたいだし、そりゃ昔の男が来たら邪魔だよな」
無理矢理な空元気で盛り固めた、あまりにも歪で脆い鎧。
ローレライはそんな"お兄さん"を哀れに思うも、確かめなければならない事を問い掛ける事にした。
「1つだけ聞かせていただいてもよろしくて――お兄さんの名前はアドルフ・レッドフィールドと仰りますの?」
「おいおい、ローラ嬢ちゃんも忘れちまったのか? 俺は生まれてからずっと、アドルフ・レッドフィールドだよ」
悲しそうに微笑む"お兄さん"に、ローレライの胸が僅かに痛む。
しかし、それでもローレライは停まる訳にはいかなかった。
「……お兄さん、よく聞いてくださいまし。わたくしは――”アドルフ・レッドフィールド”という方を存じませんの」
その言葉にアドルフの顔から一切の笑みが消え、その顔には戸惑いが浮かんでいた。
悲哀、怯懦、鬱屈、それらを1つに内包する戸惑い。
しかしアドルフは眉間を指先で揉み解しながら、ローレライへと問い掛ける。
「……お互いに人違いしてる可能性は?」
「ありませんわ。お父様もお母様もBIG-Cの人々も、"お兄さん"を"お兄さん"だと認識していましたわ」
投げやりなアドルフの言葉を、ローレライは首を横に振りながら否定する
コロニーの英雄にして、唾棄すべき暴力の執行者。
そんな"お兄さん"に子供達は羨望の目を向け、大人達は軽蔑の視線を送っていたのだから。
そしてローレライは自分が知っている、"お兄さん"の名前を告げる。
「ウィリアム・ロスチャイルド――この名前に聞き覚えはなくて?」
鈴の音のような軽やかで耳障りの良い声で紡がれた、汚泥に塗れたようにただただ不愉快な名前。
その名前を聞かされたアドルフは目を見開いたかと思った次の瞬間、眼帯に覆われた左目を抑えて倒れこんでしまう。
脳裏に眩光を伴う情報がが撒き散らされ、眼帯に覆われている左目は熱い痛みを訴えている。
知らないはずだった"名前"と自分の物だったはずの"名前"。
置換されていくその2つを手放すまいと、アドルフの左手はただ左目を強く抑える。
「お兄さん!?」
倒れこんでしまった"お兄さん"へと、ローレライは駆け寄って顔を覗き込む。
その顔は青褪めており、口からは荒い息が漏れ出している。
尋常ではないその様子にローレライは憔悴する。
その様子はかつての戦いで銃弾を喰らい、昏睡していたあの時よりも苦しそうに見えたのだ。
そしてローレライが荷物の中に入れてある医療用ナノマシンを取り出すために立ち上がったその瞬間、爆音がコロニーCrossingを包み込むように轟いた。
ハンドキャノンの銃声とは比べ物にならないそれに、倒れそうになるローレライを暖かな何かが受け止めた。
それは苦痛に震える体に鞭を打つアドルフだった。
「……考えるのは後だ、後続部隊を急いで探さないとまずそうだ」
ローレライをゆっくりと立たせながら、アドルフは急変した状況に思わず舌打ちをしてしまう。
戦争とはこれでおさらばのはずだった。
しかし戦争は男を手放さないどころか、少女すら巻き込んでしまった。
「そんな、そのお体で任務なんて――」
「ローズさんと約束したんだ、必ず君を守ると。だから君には彼らと合流してもらわなきゃならない。いいね?」
自身の言葉を遮った"お兄さん"に、ローレライは思わず黙り込んでしまう。
脂汗が浮かぶ顔に浮かんでいるどこか困ったようなその微笑みは、確かに"お兄さん"だったのだから。




