紫色のシーソーゲーム
全くの無音は徐々に打ち破られ、代わって煩わしい音が聴覚を支配する。朝から半日、かなりの時間でも衰えることなく降り続く雨の音だった。
先ほどまで鮮明だった、胎の中であるかのような暗闇は既に失せている。無機質な蛍光灯の眩しさに顔をしかめながら、透は重い体を起こした。
肩や足首を回してみても、体中にまとわりつくような疲れは取れそうになかった。
「この倦怠感さえなければなあ」
「ん……、起きたんだね」
痺れたらしい足を伸ばしつつ、座っていた女が眠そうに眼をこする。痺れの原因はどうやら、先ほどまで膝枕をしていたことにあるらしいが、そのことに思い至った瞬間に透の表情に苦いものが走る。
理由は単純である。それは彼女、田波香苗は彼の不倶戴天の敵であるといっても過言ではないためだ。出来ることならば隙を見せたくもないし、不用意に接触もしたくない。二重の意味でうかつだった。
彼にとって最も不愉快なことが、彼女は最も大切な人物でもあるということである。おそらく彼が香苗を失えば、少し間を空けて彼女の後を追うことだろう。
「透、腹は空いていないかな? 君さえよければ、料理を振る舞おうと思っているんだが」
「やめとく。一刻も早くここから離れたいからな」
「冷たいねえ、相変わらず。二カ月ぶりじゃないか、旧交を温めようと思わないのか?」
香苗がおどけるように言った。本当にそう思っているのか、あるいはからかっているだけなのか、判断に困る口調だった。その態度が透を余計にいらだたせる。
「本当ならば、お前みたいな性悪には二度と会いたくない」
「うん、それは知ってる。……でも来てしまう、そうでしょう?」
「……」
「前に来た時は半年空けてたね。でも今回は二カ月、短くなってる」
眉間のしわが深くなりつつある透の表情を見て、香苗が笑った。皮肉と、少しの嘲笑の入り混じった嗜虐の笑みだった。
「この様子だったら、私とまた明日も顔を合わせるかもね?」
「やめてくれ、ぞっとする」
話は打ち切り、と彼は強引に立ち上がろうとして少しふらついた。体だけでなく、頭の芯まで重かった。とっさの判断で冷蔵庫に寄りかからなければ、間違いなく倒れていただろう。
「無理に立つのは止した方が良い。君が思っている以上に、臨死体験っていうのは体力を使うんだ」
そう言って、近くにあったビニール袋を手繰り寄せる。中には淡い紫色が大量に詰まっていた。そのうちの一つを香苗が手のひらに載せ、透につきだす。
「ほら、私の自家製金平糖でも食べて。甘いから元気が出るよ」
「そんな毒々しい奇妙奇怪な食べ物はいらない」
「普通のお菓子なんだけどね」
断られることを予期していたのか、残念そうなそぶりも見せずに彼女は金平糖を口に放り込んだ。雨音にまぎれるようにして、ぽりぽり、という音がかすかに聞こえる。
再びビニール袋に入った手が、陶器のような艶の球体を取り出した。少し赤みがかった紫が透の目を引く。
「……なんだよ、それ」
「紫陽花マーブル。……ただこれはあまり良くない。食べる量によっては死んでしまう、本物の紫陽花と同様ね」
「本気で言っているのか……?」
唖然とする透に香苗はにこりと笑い、彼の口に投げ入れた。
「もちろんウソだよ。紫陽花によく似たシソの葉味、というウィットに富んだジョークさ」
「お前の冗談はとんちが利いているとか以前に常識を疑うよ」
「それでも吐き出さないのは、やっぱり仮死を期待してるから?」
図星だった。
黙り込む彼の反応を、肯定と受け取った香苗が腕を広げる。
指先ひとつひとつでさえも蠱惑的な動作は、甘い香りで獲物を呼ぶ食虫植物さながらであった。
「ほら、来て」
「う、う……」
憎いはずの彼女が何にも勝るほどの美しさを放つ。とっさに、彼は逡巡する。果たして……このまま誘いに乗ってよいのだろうか。
拒絶の先に待つのは虚脱感と、あの快楽は数十年の後にたった一度、という焦燥だけだろう。しかし、流されたらきっと、彼女から離れられなくなる。
迷いの末に口を開く。
「た、田波……!」
気がつけば、体ごとすがりついていた。
「香苗って呼んで、お願い」
「か、香苗……。頼むからもう一度……」
決壊したからにはもう止めることはできない。至上の、臨死の快楽が透を突き動かしていた。
冷たく、白い指が彼の首に掛った。絶妙な力加減のもとに、少しずつ酸素が遮断されていく。後頭部から舌にかけての微細な痺れと、遠くなっていく雨音が心地よかった。次第に視覚も暗くなっていく。
「透、透……!」
意識を失う寸前の彼にもはや聴覚はほぼ働いてはいない。だからこそ、香苗は全てを吐露するのだ。
「透を引き留めるためなら……、どんな手でも使うよ。だから――」
不意に雨脚が強くなる。一切の音が、雨音の下に埋没する。
彼女の告白は誰にも、自身の耳にすらも、聞き入れられることなく雨粒に吸われ、やがて紫陽花の上に落ちた。