第七章 惑わしの香
シルキーが温室でソリストと別れた後、ヴェン・フェルージュ宮殿の広間に戻ると、バイエルは先に第二皇子の屋敷に帰ったと召使いに告げられた。
それからどうやって一人で帰ったのかをシルキーは覚えていない。
覚えているのは、ふらふらとした足取りで馬車を降りた辺りからだ。
屋敷で一番長く働いているという老執事が、いつにない渋い顔で出迎えてくれた。
「どうしたの?」
シルキーのコートを脱がせながら、執事は答えた。
「恐れ入ります奥様。今夜はいつもの寝室には向かわれないほうが。別の部屋をご用意しておりますので」
素晴らしい夢の余韻の中にいるような心地だったシルキーは、この言葉に嫌な予感を感じ、ゆっくり瞬きをした。
(女の勘は、私にもあったのかも)
「何かあった?」
「何かあったと言えばあったのですが、何もないと言えば何もありません」
(どっち)
はっきりしない返事に、シルキーは「そう」とだけ言い残し、執事の止める声も聞かずにいつもの寝室……バイエルと自分の二人で使っている寝室に向かった。
扉の前にいる使用人からもなぜか強く止められたが、シルキーは隠されると猛烈に知りたくなる性分だったので、その衝動のまま扉を開いた。
☆☆☆
部屋は暗く、むせるような甘い香りがした。
その香りに眉をひそめて口元を袖で覆いながら、暗闇にほんのわずかな光を与えている蝋燭に近づく。
寝台の横に置かれたテーブル。その上で揺れる蝋燭の炎。
外の雨の音は、更に大きくなる。
蝋燭の炎がゆらりと揺れた。
人が居る。一人。
いや、二人。
そう認めたとき、シルキーの顔の横を何かが飛んでいった。
直後、ガラスが割れるような音。
シルキーのぼんやりしていた頭が一気に冴える。
振り返ると、ワイングラスらしき物がシルキーの背後の扉に当たり粉々になっていた。
「……来るな」
聞いたこともないような夫の低い声が耳に届いた。
ようやく夜目に慣れたとき、椅子に座る彼と、彼の隣にいる女性に気がつく。
胸元が大きくはだけたドレスを着た、口元にほくろのある豊満な美女だった。
蝋燭に照らされた口紅がなまめかしく光っている。
どういうことなのか理解するのに時間はかからなかった。
シルキーだって馬鹿ではない。
白銀の瞳が、はっきりした怒りの感情を宿して鋭くなった。
しかし美女のほうは挑戦的な眼差しでシルキーを見返すと、隣のバイエルにしなだれかかった。
「殿下は来るな、と仰ってますわ。奥様、“妻のお仕事”は私に任せて、ゆっくりおやすみください」
扇情的な声で、だが敵意を隠そうともせずに彼女は言った。
シルキーは勇気を振り絞って、はっきり言った。
「出ていくのは貴女よ」
「奥様……殿下は毎日、奥様の子守りで疲れてらっしゃるの。大人の癒しを必要とされてるんですのよ? 奥様では……ねえ?」
聞き分けのない子供に言い聞かせるように、微笑みながらゆっくりと彼女は言う。
暗に、自分の見た目の子供っぽさをあげつらわれているようでシルキーは唇を噛んだ。
「愛人は許すんじゃなかったのか」
バイエルが低い声で問う。
「……………たった今」
シルキーも低い声で答えた。
「気が変わったの」
豊満な美女は傍らのバイエルの頬から首、そして胸に手を滑らせた。夫の肌をなぞる他人の指の官能的な動きに、シルキーの肌は総毛立つ。
(気持ち悪い)
「お子様に何ができると言うの? お寂しい殿下を放って、奥様は一体何をなさっていたのかしら?」
美女はシルキーの目の前で、見せつけるようにバイエルに唇を近づけた。バイエルは全く抵抗しない。
二人の唇が触れ合おうとしたその時。
シルキーの頬が屈辱と怒りでカッと赤く染まった。
「出ていって」
思いがけず、シルキーの声は絞り出すような弱弱しい声になってしまった。
美女は鬱陶しそうにため息をつく。
「まだお分かりになりませんか? 殿下は奥様ではなく私を今夜の相手にお選びに……」
バイエルに寄り添う美女の言葉はそこで止まった。
シルキーが跳ぶように二人の座るテーブルに近づき、燭台を片手に、もう片方の手で美女の髪を掴んでいた。
「今すぐ出ていって。じゃないと、この髪も下品なドレスも燃やすわよ」
狂気をはらんだシルキーの瞳に美女は凍りついたようだった。
震えるように椅子から立ち上がると、鼻息を荒くして走り出ていった。
乱暴に扉の閉まる音がする。
「貴方は」
シルキーが燭台の蝋燭でバイエルの姿を照らす。
椅子に座り足を組んだ姿勢の彼は、悠然とした様子でシルキーを見上げていた。
「何をしてるの?」
息を呑む。
シルキーには今度こそ、訳が分からなかった。
彼の金色の髪から、ポタリと雫が落ちる。
部屋が薄暗いせいで、近付かないと分からなかった。
この寒い夜に暖炉に火もくべずに、バイエルは全身濡れた状態で部屋の中に居たのだ。
☆☆☆
シルキーは、バイエルの姿に言葉をなくしていた。
濡れたシャツが何とも寒そうだ。
バイエルはグラスにワインを注ぐと一気に飲み干した。
そしてまたグラスに注ごうとするので、さすがにシルキーは燭台を置いて止めに入った。
床に転がるワインの瓶の数からして、既にかなり飲んでいるはずだ。
「飲んでいないと寒いんだ。邪魔をするな」
バイエルの手がシルキーの手を払う。
反射的に、シルキーは自分の手を払ったバイエルの手をそのまま抱え込むと、その腕に噛み付いた。
「つっ……! ……この……獣が……っ」
バイエルが驚いてグラスを放したので、シルキーはその隙にグラスを掴んで中のものを飲み干した。
普段好んで飲まないアルコールの味は、やはり全く美味しくない。
でも、それどころじゃない。
テーブルにグラスを叩きつけるように置いて、シルキーは言い放つ。
「何度でも注げばいい。何度でも飲み干してあげる」
バイエルの瞳に、剣呑な光が宿る。
「……お前が、あの女の代わりに俺の相手をすると?」
バイエルは椅子から立ち上がると、シルキーの肩を強く掴んだ。
たたらを踏むようにシルキーがよろめく。
そのまま、バイエルは寝台にシルキーを突き飛ばした。
すぐさま起き上がろうとしたシルキーに覆いかぶさるように、バイエルは寝台に足をかけ、首に巻いたクラバットを緩めた。
暴れようとしたシルキーの腕が即座に押さえつけられる。
混乱する頭の中で、どこか冷静に、彼のどこにこんな力があったのかとシルキーは考えていた。
貧弱で物静かな第二皇子。
先日、バイエルに腕をつかまれた時だって、難なく扇で打ち落とせた。
しかし今は扇を出そうにも、バイエルの手がそれを許さない。
隙がない。
少なくとも自分は、彼より運動神経が優れている自信があったし、力は無くとも素早さで自分に勝てる者は居なかった。
いや、腕力にも実はちょっとだけ自信があった。
腐っても夫は男性ということか、それとも……?
「どうすることもできる」
その呟きが落ちてきた時、シルキーは弾かれたようにバイエルと視線を合わせた。
———『お互いにせいぜい、夫婦のフリを頑張りましょう? 貴方ごときに、私をどうこうできる訳ないのですから!』
それは、シルキーが前にバイエルにぶつけた言葉だ。
見開かれたシルキーの白銀の瞳が燃えるような怒りをたたえていた。
その怒りのままに腕や足に渾身の力を込めるが、おかしいほど動かない。
シルキーはどんどん混乱し始めた。
(頭が回らない)
周囲に満ちた酒と甘ったるい香りも、正常な思考の邪魔をしてくる。
(嫌だ)
嫌だ、いやだ!
自分の意思を無視されるのも、誰かから自分の身体を物のように扱われるのも、許しがたい屈辱だ。
だが暴れようとしても自分を押さえつけている相手の腕の力が弱まることはない。
バイエルは体温を感じさせない瞳で、もがき続けるシルキーを見下ろしていた。
その内にシルキーはだんだん息があがってきて、乱れた呼吸のせいで視界がかすんでくる。
思い切り息を吸い込むと、甘い香りが頭の奥まで浸透してしまった感覚がした。
気分がふわふわしてきて、全てがどうでもよくなってしまう。
酔いが回ってきたのか、こわばらせていた身体から力が抜けていく。
理性は抵抗を続けよと叫んでいたが、その声も遠く、おぼろげになっていく。
シルキーはどうして自分が暴れていたのか、やがて分からなくなった。
(ここは……)
そういえば、この人は誰だろう。
金色の髪と藍色の瞳。甘く整った顔立ち。
薔薇の香りがする。
そう、自分は薔薇の温室に向かったのだ。
それで。
『誰が否定をしても、君だけは……―――』
ああ、そうか。『彼』だ。
頭の横に肘をつかれ、冷たい唇が自分の額や頬をかすめるようにしてたどる。
くすぐったい。
「シルキー」
耳元で囁かれたその声は、もうバイエルの声には聞こえなかった。
シルキーは相手を見上げて、ほのかに微笑んだ。
「はい……ソリスト様……」
桃色の小さな唇に触れかけた彼の唇が止まり、少し離れる。
シルキーは、相手が苦しそうな顔をしたのが不思議に思えた。
だがそれも束の間、夢心地の暖かさの中、くらくらと視界が揺れてくる。
引きずり込まれるように、意識がはるか深淵へと沈んでいく。
『彼』は、シルキーの髪を撫でるように一度だけ梳くと、音も無く寝台から降り、部屋から出て行った。