第二十七章 不機嫌な白猫
バイエルはソリストへの手紙に、フィーネの騎士達をフローレに寄越すように頼んでいた。
ソリストの対応が迅速だったのだろう。騎士達の到着は早く、バイエルが到着した日の昼には、フィーネを乗せた馬車が騎士達に囲まれて町を出て行った。
モロウの屋敷の後処理をしたバイエルが、ようやく皇都に戻ったのは、元老院の定例議会からひと月以上経った後のことだった。
屋敷に帰ると、シルキーが物凄く怒っていた。
出迎えてくれたかと思ったら、発した第一声は。
「私、がっかりしました。何にがっかりしたかって、分かる?」
目が据わっている妻に、バイエルは少し後ずさった。
何故だろう。浮気がバレた夫の気分だ。やましいところなど無いのに。
シルキーには、フローレから事情を伝える手紙を書いたはずだった。
「……いや」
困った顔で答えると、シルキーはふんっと鼻息も荒く腕を組んだ。
「鈍感! こんこんちき!」
しばらく会わないうちに、口が悪くなっている。
いや、態度が輪をかけてでかくなっている。
「私、壁を登ろうと思います!」
「あえて宣言するのは、何か意味があるのか?」
するとシルキーは、キッ、と鬼をも殺すような鋭い目力でバイエルを睨んでくる。
「壁を、登ろうと思いますの!」
「………………………何が不満なんだ」
「不満。そう、そこですわ」
どこだ。
「私の不満が何なのか、考えたことは?」
「考えても分からなかった」
シルキーは、ぶーたれた顔をした後、仕方なく、という感じに言葉を繋いだ。
「私ね。体裁は気にしないの。誰が何と言おうが、私は私、他人は他人だもの。政略結婚と言われようが、仮面夫婦と罵られようが、勝手に言ってればいいと思う」
バイエルはシルキーの言葉の裏に何が隠されているのか、分かりかねてじっと続きを聞いていた。
「でもね、お母様だけは……どうしてだか無視できなかった」
アルザス公爵家の奥方は、結婚したシルキーを何度となくせっついた。
「子供子供、と言われるたび、世界には自分一人だけしかいないような気分になった。そういう時は壁に登るとすっきりするの。空しか見なくていいから。……甘えてたんだわ、お母様に」
いつもと違うシルキーの様子に、バイエルは戸惑う。
シルキーは視線を落とし、少しだけ大人びた表情をした。
「心のどこかで、まだ……お母様は自分の一部だと思ってて。自分の一部が自分を責めているみたいで、その状況が理解できなかったし、耐えられなかったのね」
シルキーはバイエルに視線を戻し、かすかに笑った。
「仕方ないの。お母様はお母様で私じゃないんだから。でも、やっと決心できた」
「シルキー?」
「私、子供は要らない。お母様は怒るかもしれないけど、私達には居なくていいと思うわ。ちゃんとそう伝える」
胸の辺りが沁みるように痛んで、バイエルは上手く頷けなかった。
「……と言われたら、傷つかない?」
(……は?)
シルキーは『これでも分からないのか』というように更に不機嫌そうな顔をする。
「今すぐ子供がほしいと思ってないのは事実よ。でも『差し障りは無い』という貴方の言葉を思い出したら傷ついた。私の飲んだ薬は、子どもができなくなる薬ですってね!」
バイエルは息を飲んだ。
誰がばらしたのか。
「それならそうと言ってほしかった。ショックを受けると思ったの?」
それとは逆で、シルキーが話を聞いてショックを全く受けなかった場合、自分が落ち込みそうで伝えられなかった、とはバイエルは言えなかった。
彼女なら『なんだ、そうなの』で済ましかねない。
そう言われてしまったらまるで、夫である自分の存在もどうでもいいと思われてるようで。
「ショックよ」
視線を逸らしたバイエルの心を見透かすように、シルキーは言い切った。
「あんなに子どもを期待してるお母様や、帝国民達や、皇帝陛下や皇妃殿下に悪いという意味でも……この先、貴方の子どもを産めないという意味でも」
空耳かとシルキーの方を見ると、彼女は相変わらず唇をとがらせて、耳まで真っ赤にしていた。
「で、でも仕方ないわ。飲んじゃったものは戻せないし。受け入れる。あ、でもちょっとくらい、侍医に何とかならないか相談してもいいかも」
ぶっ、とバイエルは吹き出して笑った。
「シルキー」
呼んだ声は、思いがけなく柔らかい声音になった。
「可愛いよ」
薬は確かに混入したと、シルキーの部屋に水を運んだメイドが捕まえられた時に白状した。
だがその薬の概要を兄から伝えられ、バイエルは思わず安堵の息を吐いた。
同じ薬を混入されたと思われるロンド家の奥方の傍に、どうして長年、モロウの息のかかったメイドが居たのか。
それは定期的に服薬しなければ、薬の効果がどんどん薄れてしまうから。
強い薬ではあるが、5~6年もすれば完全に薬は抜けると医者が言っていた。
だがそれを妻に伝えるのはしばらく経ってからにしようと思った。
☆☆☆
バイエルは公務の合間を縫い、皇都の隅にひっそりとある無縁墓地に立ち寄った。
小さな家ほどの大きさもある石碑の下には、縁者が居ないまま亡くなった沢山の人間達が眠っている。
その石碑の前に花束を置くと、彼はしばらく瞳を閉じた。
『クロエ』と書かれた白いカードが、鮮やかな花々に抱かれている。
「おや珍しい。お知り合いがいらっしゃるので?」
年老いた墓守が近くを通り、声をかけてきた。
「ああ」
「はー、もしや、あれかね。あんたの知り合いも『オリヴィア』ですかな。彼女がここに葬られたと知って、こっそり祈りに来る男達が居るんじゃよ」
墓守はニヤリと笑む。
「……いや。そんな名前じゃない」
墓石の方に視線を戻すと、バイエルは、悪かった、と誰にも聞こえない囁きを漏らした。
フィーネ救出のためにクロエを脅す必要があったと繰り返し思うほど、言い訳がましくてやるせなくなった。
理由は分かっている。
完璧な刺客になりきれなかった彼女の優しさが、バイエルの心に影を投げかけていた。
シルキーに乱暴に当たってしまった事も、クロエに剣を向けた事も、後味の悪さが消えない。
きっと男は損な性分に生まれついている。
女性が相手だと、勝ったら勝ったで良心が痛み、負けるとこれ以上ないほど情けない。
この先、女性に剣を向けるのはできるだけ避けて生きていこう。
男は女性との衝突自体、避けるのが賢明なのかもしれない。
ーーー今更気付いたの?
……そんな声が聞こえた気がした。
(そうだな、今更だ)
バイエルは風に金色の髪をなびかせて、その場を立ち去った。




