第十八章 花に寄せて
目覚めると、枕元に瑞々しい赤い薔薇が一輪置かれていた。
蠱惑的な香りを放つ見事な薔薇にしばらく魅入られていたが、見慣れない風景のここはどこなのかと考え、がばっとフィーネは飛び起きた。
天蓋付きの大きなベッド。
皇宮のヴェン・フェルージュ宮殿にある自室より広い部屋だ。
注意深く辺りを見回しながらベッドを降り、髪を手早く整えると、そろりと足音を忍ばせて窓に近づく。
カーテンの隙間から窓の外を覗くと、きちんと手入れをされている美しい緑の庭があった。
視線を少しあげると、頑丈そうな黒い鉄の塀が見える。
その塀のせいで、屋敷の周りの地形や風景が全く見えない。
足をすべらせるように歩いて今度は扉に近づき、取っ手に触れた。
「フィーネ様? 起きてますか? 入りますよー」
唐突に扉の向こうから聞こえた男の声に、フィーネはぎくりとして取っ手から手を離し、慌てふためいてベッドに飛び込んだ。
眠っている振りをして、相手の出方を探る。
ふっ、と苦笑するような音が聞こえ、ついで、コト、と何かがテーブルの上に置かれる音がした。
「朝食です。後で一緒に散歩に行きませんか? 良い天気ですよ」
のんびりした声を聞いていると、今がどんな状況なのか忘れそうになる。
自分は昨晩、ここに連れてこられた。この男に。
目隠しをされて馬車に乗せられ、連れてこられたのがこの屋敷だった。
ここがどこなのか、フィーネにはよく分からない。
けれど、かなり長い時間を馬車の中で過ごした気はする。
途中で何度も宿に泊まり、窓を閉め切った部屋の中でだけ目隠しを外された。
馬車の中では、目隠しで何も見えないフィーネの震える手を、アデルはずっと何も言わず握っていた。
ふりほどこうとすれば、できた。
おびえてることなど知られたくなかったのに、何故だかアデルの手のぬくもりが離れるのも心細くて。
(不覚だったわ)
昨日までの自分は、つくづくどこかおかしかったのだ。
(もうこれ以上、あの男に気は許さない。いいえ、決して許しちゃいけない)
ちらりと目をやると、枕元の薔薇が目に入った。
アデルはちょうど、窓のカーテンを開けて部屋から出て行こうとしていた。
フィーネはむしゃくしゃする気持ちのままに、薔薇を床に投げ捨てた。
物音に気付いたのか足音が止まり、再び近づいてくる。
毛布の中で丸まっていたフィーネは、しばらくしてアデルが部屋から出て行った後、そろそろと毛布から頭を出した。
赤い薔薇は、窓辺の質素な花瓶に挿されていた。
☆☆☆
見知らぬ屋敷で迎えた二日目の朝にも、枕元に摘まれたばかりの赤い薔薇が置いてあった。
翌日も、その翌々日も、毎日、欠かさず摘みたての薔薇の献上は続いた。
「フィーネ様」
この男の訪問も続いている。
朝、昼、夜の食事を持ってきては、何度もめげることなくフィーネに話しかける。
フィーネはと言えば、アデルが居る間はベッドで狸寝入りをし、居なくなってからこっそり食事を頂いている。
『今寝てますんでほっといてください』という態度を貫き通そうとするフィーネに、アデルはある日、少し近づいてみた。
フィーネの耳がありそうな辺り(毛布に丸まっているので、正確にはわからない)に口を近づけ、囁いてみる。
「最近、ぽっちゃりしてきたんじゃないですか?」
「なぁんですってぇぇぇ!?」
毛布を投げ捨てるようにして勢いよく身を起こしたフィーネに、アデルは灰色の瞳を細めてにっこりと笑った。
「冗談ですよ。そうならないように、散歩に行きましょうってば」
はっ、しまった。
乙女として聞き捨てならない単語に反応してしまった。
「あ……貴方! 今どんな状況か分かっていて!? のん気に散歩なんかしてる場合じゃ」
「のん気に寝てる場合でもないと思いますけど」
フィーネは言葉に詰まる。
この灰色の髪の青年は、たまに鋭いことを言う。
「よーく考えてください。フィーネ様の情報源は、ここでは僕くらいなんです。最大限、僕を利用するほうが賢いって思いません?」
子犬のように人畜無害そうな笑顔で、『利用』などと言ってみせる。
(この腹黒男)
フィーネは心の中で毒づいた。
人相の悪くなったフィーネを気にすることなく、アデルは部屋を出ると扉の隙間から顔を出してひらひらと手を振った。
「また後でお迎えにあがりますから。メイドさんに声をかけておきます。外に出る用意をして待っていてくださいね」
扉が閉められる音を聞きながら、フィーネはため息をついた。
気になっていることならある。
言いたい文句だって山ほどある。
枕元の薔薇が目に入り、乱暴に掴んでまた床に叩きつけようとし……フィーネはその手を止めて、ゆっくり下ろした。
薔薇に視線を落とし、思いに沈む。
(お父様、お母様……ソリスト兄様、バイエル兄様)
心配をかけてしまっているであろう家族に、自分は無事だと伝えたい。
(弱気になったら思う壺だわ)
フィーネは残された気力で唇を引き結び、顔をあげた。




