第十六章 娼妓オリヴィア
フィーネ皇女誘拐事件の翌日のソリスト皇太子の命令により、ヴァンス家の一族全員に皇宮、ヴェン・フェルージュ宮殿への呼び出しがかかった。
遠方のヴァンス家の面々は、半月ほどかけて次々に入都し、ソリスト皇太子からじきじきに聴取を受けた。
だが、フィーネの行方に関する手がかりどころか、男爵の長男のアデルの消息も、ソリストはつかめなかった。
アデルは数年前から家を出ており、ヴァンス男爵家の屋敷には住んでいないという。
どこに住んでいるのかと問いただしても、父親であるヴァンス男爵も、その夫人も、見当がつかないと言い張った。
実際、ヴァンス男爵家の両親とアデルが接触した記録は2,3年前までのものしか確認できなかった。
ヴァンス男爵は、最近の皇族の宴に息子が出席していたことも知らなかったという。
皇族が主催する晩餐会や舞踏会には、主催する家の主が出す招待状が必要となる。
ヴァンス男爵家は位こそ低いが歴史が長く、皇族は確かにヴァンス男爵とその家族に招待状を出していた。
だが男爵によると、ここ最近は体調がすぐれず、また、下級貴族の見苦しい姿を人目に晒したくないという気持ちもあって、丁重に出席を辞退する旨の手紙をしたためていたという。
皇族側にはその手紙が一通も届いていなかった。
(ヴァンス男爵の手紙を途中で握りつぶし、招待状を偽造した人間が居る)
ソリストにはおおよその見当はついていた。
―――「息子は家を出るとき、『心配しなくていい』と繰り返していました。『友人の家に居候することになった』と言って……」
今にも倒れそうな顔色で、男爵はソリストの前で必死に言葉を繋いでいた。
フィーネのことを思えば、アデルの消息に関わらずヴァンス男爵家には厳罰を下したかった。
だが招待状が偽造されたとなると、そもそも『彼は本当にヴァンス家のアデルなのか』ということが怪しくなってくる。
ソリストが知る『アデル』の面差しは、男爵にも、男爵夫人にも似ていないように思われた。
フィーネがアデルにさらわれたというのも、ソリストが『フィーネとアデルが同時に消えた』という状況証拠から推測したに過ぎない。
フィーネを警護していた騎士達を襲ったのは黒い服を着た男達で、どこかの貴族の私兵のようだったという証言もある。
使用人も満足に雇うことのできないヴァンス家に、私兵など居る訳もない。
ここでヴァンス家を取り潰すのは簡単だが、敵は恐らくヴァンス家ではない。
ソリストはヴァンス家の者達を10日ほど皇都に留めたが、処分は保留にして領地の屋敷へ帰した。
フィーネが消えてから既にひと月が経つ。
優美な雰囲気の青年は、机の上に広がる書類を難しい顔で眺めた。
側近達の報告を待つしかないこの状況が、もどかしい。
「……ぇ。……兄上」
近くで発された声に、ソリストはやや遅れて反応する。
バイエルが書斎に入ってきたことに気付かなかったようだ。
「バイエル。何か分かったことは?」
「兄上。もう何日寝ていないんですか。カトレア様が心配しています」
ソリストは淡く笑うと、「眠れないだけだよ」と答えた。
「じゃあ酒でも薬でも飲んで、とにかく寝てください。何なら付き合います」
「バイエル。最近性格が大雑把になってきたね。シルキーの影響かな? 良いことだ」
ソリストが浮かべた小さな微笑には、疲れが見えるものの華やかさは消えていない。
「全く良いことに聞こえないんですが」
「神経質で臆病で、小さなことにも傷ついてしまうよりは、少しくらい色々適当な方が周りも本人も幸せなことには違いないよ」
バイエルが言葉を返す前にソリストは椅子から立ち上がった。
「二人して飲んだくれてる場合じゃないね。今日はカトレアの所に帰ろう」
「カトレア様は……大丈夫ですか」
ソリストはバイエルの言葉の意味を察して、「あぁ、心配要らない」と返した。
「バイエルも、シルキーについていておやり」
ソリストは思い出したように、白い封筒をバイエルに渡した。
「これは?」
「今朝、ヴァンス家の男爵夫人から頂いたお手紙だ。屋敷へ帰る道の途上で書いたらしい。目を通しておくといい」
「兄上」
二人で書斎から出る直前、バイエルは声をひそめて言った。
「南部の貴族達に動きありと報告を受けています。今夜は皇宮の警護をできるだけ固めておいてください。明日にも全軍の指揮を執っていただくことになるかもしれません」
ソリストは弟の静かな瞳を見返して、「分かった」と短く答えた。
☆☆☆
バイエルはシルキーの待つ屋敷には向かわず、単身、馬車で市街に向かった。
兄には妻の元へ帰るように言ったが、バイエルはバイエルで、ここ数日のあいだ自分の屋敷に帰れておらず、出先で休息を取る日々だ。
全軍の指揮を、と兄に伝えたのは、不測の事態が起きた時、オルヴェルの皇族が比較的気軽に動かせる近衛部隊の戦力では足りない恐れがあったからだ。
今回の貴族達の動きを見ると、それだけ大きな戦いが起きる可能性がある。
フィーネ誘拐事件の解決を、父である皇帝は兄のソリスト一人に一任した。
だがバイエルは、既に事は兄一人の手に余る所まで進んでしまっていることに気付いていた。
どんなに兄が有能でも、身体は一つしかない。
確かに何をやるにしても、一人でまとめたほうが効率が良い。
だが父帝は、兄の限界をまるで考えていない。
通常の公務に加え、元老院の定例議会も近くに迫るこのタイミングでは、兄の負担は相当なもののはずだ。
バイエルは、個人的に調べたことを思い出していた。
シルキーに薬を盛ったと思われるメイドを取り逃がしたのは失態だったが、確信が持てた。
『彼ら』が何かを隠しているという事だ。
(『彼女』が何か知っていればいいが……)
前々回は、思いもかけぬ邪魔が入って探りを入れられないまま終わった。
そして前回は、運悪く彼女が店に居ない日だった。
女主人が言うには、今夜であれば彼女に会えるという。
御者はバイエルの指示通り、皇都の裏通りにある宿の前で馬車を止めた。
帽子を目深に被ったバイエルを、女主人は何もかも分かったような顔で店の中に通す。
「一番上のお部屋でございます」と店主は告げた。
きしむ階段を登り、あちこちから聞こえてくる嬌声を聞き流し、一つしかない四階の部屋の前で彼は立ち止まった。
「失礼する」
扉を開けると、奥のベッドに座っていた女性がゆっくり立ち上がって笑みをこぼした。
「あら……お久しぶりですわ、殿下。ひょっとして、奥様から屋敷を追い出されました?」
バイエルはそれには答えずに女に近づく。
「恐いお顔。先日はあんなに優しくしてくださったのに」
深酒をした夜、バイエルはこの女を呼び出した。
注意して動向を探っているある貴族と縁深いと思われる、彼女の正体を探る必要があった。
うさ晴らしをしたい気分だったのも確かだが、酔った振りをすれば相手の油断を誘えるとも踏んでいた。
好機だと思ったのだ。
シルキーが乱入してくるまでは、バイエルの理性はギリギリの線で保たれていて、計算の上で酔った演技ができていた。
それが『憂さ』を作ってくれた張本人のシルキーが現れたことで、理性のたがが弾けとんだのだ。
目の前の女を見ていると、あの夜に戻ったような不思議な感覚がする。
「ずぶ濡れの貴方の髪に触ったら、その私の手を握って、熱っぽい瞳で見つめてくれたわ」
頬にバイエルの手を引き寄せて言うと、女は艶やかな笑みを浮かべた。
片手をバイエルの首の後ろに手を回すようにして、美しい肢体をぴたりと密着させて甘い声で囁く。
「あの宵の続きをご所望という訳ではないご様子……そう、殿下は私を殺しにいらっしゃったのね」
「場合によってはそうする」
バイエルがすばやく自分の首に回されてるほうの女の手首を掴んでひねると、カシャン、と硬質な音が部屋に響いた。
明らかに護身用とは思えない、刀身が三つくっついた奇妙な形のナイフが転がっている。
視線を床に落とした瞬間、視界の端で何かが光るのに気付いたバイエルはさっと体勢を低くした。
女の腕がさっきまでバイエルの頭があったあたりを乱暴に薙ぐ。
「お放し!」
手首を掴んだままのバイエルの手を狙って、ナイフが再度振り下ろされた。
懐から出した小振りの剣でこれを弾き落とすと、バイエルは相手の手首を引いて手近な壁に追い詰め、女の首に剣の刃を突き付けた。
「それ以上抵抗しないほうがいい」
オーバードレスの下に差し入れられた女の手をちらりと見て、バイエルは言った。
感情にも呼吸にも一切の乱れがない第二皇子に、女は内心焦りを感じていた。
才能面では、兄皇子と違って凡人の域を出ない、取るに足らない弟皇子。
そう聞いていた。
だが凡人にしては、剣筋や身のこなしがそこらの訓練された暗殺者並みに優れている。
「誰の命令で皇都へ来た?」
バイエルが低く尋ねる。
「答えると思っておいでかい?」
心の内の動揺を隠し、あざけるように笑んで女は言った。
「では質問を変えよう。21年前、お前はロンド家に居たな?」
女の笑みが凍りつき、息がわずかに乱れた。
―――得たり。
蝶を針で縫いとめるように、バイエルの眼差しが冷たさを極めて女を貫いた。




