第十五章 差し障ることはない
ソリストがバイエルとの話も短く皇宮に帰り、夫婦の部屋に第二皇子夫妻が二人で取り残された頃。
シルキーは、こういう状態を、どんな状態と呼ぶのかやっと思い出した。
「頭が、真っ白だわ……」
ソファーの隣に座っていたバイエルが首を傾げた。
「前から白いが」
「髪の話じゃないの! 頭の中の話!」
シルキーは憤然としてソファーから立ち上がった。
「いいえそんなことはどうでもいいのよ! 今はフィーネ様だわ! そうよ、フィーネ様を連れ戻さないと!」
拳を勇ましく振り上げる。
「どうやって?」
夫の冷静すぎる一言に言葉が出なくなり、振り上げた拳もなさけなく緩むシルキー。
そのままうなだれ、小さくなってしょんぼり落ち込む。
その姿に垂れた耳と尻尾を書き足したくなる衝動を感じながら、バイエルはシルキーに薄い毛布をかけた。
「今夜はもう、寝たほうがいい」
「フィーネ様を見捨てるの?」
キッと睨んできたシルキーを見つめ返し、バイエルは言い聞かせるようにゆっくり言った。
「機を見ろと言っているだけだ。敵の狙いを考えれば、フィーネの身の安全は保証されている。それに、今がむしゃらに動き回っても体力の無駄だ。分かるだろう?」
妻の腕を支えるようにして立たせると、そのまま背中に手を添えてベッドに連れていく。
シルキーは、何となくバイエルが深酒をした夜のことを思い出した。
あの時はベッドに突き飛ばされたのに、今日は大違いだ。
ベッドに入りながら、シルキーはバイエルと自然な感じに目を合わせた。
「ねぇ、まだ私が何の薬を飲んだのか教えてもらってない」
バイエルの瞳にわずかな間浮かんだ焦りの色を、シルキーは見逃さなかった。
「どうして教えてくれないの?」
バイエルはシルキーの乱れた髪を整えてやると、涼しげな目元をぎこちなく緩ませる。
これは、彼のどんな感情を反映した顔なのだろう。
悲しげで寂しげで、そして少し困ったような、あやすような優しさが彼の眼差しに滲んでいる。
「……俺たちに差し障ることはない」
嘘だ。
(私が水を飲んだと知って、あんなに驚いてたのに?)
あの時、夫は動揺した。
(それに、『俺たちに』ってことは……)
そこが引っかかるのは、勘ぐりすぎなのか。
すっ、とバイエルがベッドの傍から離れる気配がした。
「少し調べたいことがある。部屋の外に衛兵を待機させておくから、何か用がある時は声をかけろ」
言いながら、バイエルは外套を羽織る。
「待って。一緒に寝ないの?」
シルキーはこの部屋に一人残されるのかと思うと、急に不安になった。
バイエルは身支度の手を止め、やや驚いた様子でシルキーに目をやる。
「一緒に寝てほしいのか?」
「……どちらかと言えば」
子供が親にねだるような声で言われ、バイエルは小さく吹き出した。
「もう少し上手く誘えるようになったらな」
彼にしては珍しく冗談めいた口調である。
「上手く?」
怪訝な顔をしたシルキーに、バイエルは最後にいじわるそうに笑んだ。
「いや、やっぱりいい。どうせお前には無理だし、期待もしない。おやすみ」
言うが早いか、バイエルは颯爽と部屋から出て行った。
あまりの言われように、シルキーは母親から送られてきた甘ったるい恋愛小説達を読まずに小部屋に封印したことを後悔した。
『暇だったので伯爵様を落としてみました』『子供扱いするあの人の攻略法』などのタイトルもあったし、あれでも読まないよりはマシだったかもしれない。
シルキーはしばらくの間、はけ口をなくした鬱憤をベッドのクッションをボスボスと殴ることで晴らしていたが、その内疲れと眠気が大きくなり、やがて深い深い眠りに落ちていった。




