65話 ランドル兄妹(フェーナ視点)
薄暗闇の中、夕食を終えた私は広場のベンチに腰を掛けていた。
広場からは、遠く離れた家々の窓にぼんやりと淡い光が灯っているのが見える。その光の一つ一つでは、家族たちが同じ時を過ごしているんだろう。
お父さんはパイプを口にくわえて本を読み、お母さんは編み物をして、子供たちは今日あった楽しい出来事を一生懸命に話しているんだ…。
うん。きっとそうに違いない。少なくとも、十年前の私はそうしていたのだから…。
でも、もう二度と…私はそれを経験することはできないのだろう。そう考えると、ぽっかりと胸に穴があいたような気持ちになる。
温かい家族の笑顔、それは今でも細かいところまで思い出せる。
お兄ちゃんは釣りやコマ回しをしたことを話をして、私は新しく見つけた花畑のことや教会で神父様に聞いた話をする。優しいお母さんはそれにいちいち返事を返してくれて、お父さんはそれを剣の手入れをしながら微笑んで見ていたものだ。
夏は窓を開けて星空を見て、冬は暖炉をみんなで囲んで家族だけの合唱会。
それを終えてベッドで眠るときには、お父さんはお兄ちゃんに老剣豪物語を、お母さんは私に聖イバンのお話を聞かせてくれる。
あの頃は、こういうキラキラした毎日が永遠に続くんだろう……そう無邪気に信じていたんだ。
でも、そうじゃなかった…
それは唐突に終わりを告げることとなる。
幸せな光景に、黒い風が吹き荒れる…。
首が反対になって、泡を吹いたお父さん…。
眼を見開いて、仰向けに倒れたお母さん…。
ああ、楽しい思い出の後に、必ず出てくる見たくもない光景だ。
二人に重なるのは、紅い血の色。目の前すべてに、ただひたすら紅だけが霧のようになって覆っていた。
今でも笑っていた二人はどこかで生きていて、この死んだ二人は偽物なんじゃなかったのか…もしくは、人形か何かと見間違えたのではないかと。そんなことがあり得るわけないのに、どこかで納得できないでいる自分がいた。
二人の“死”を眼にしたとき、幼かった私の心は、ここではないどこか遠くに離れて行ってしまった様な気がする…。
そんな“理不尽な死”。血の紅と共に連想するのが、“死の化身”とも呼べる龍王アーダンのことだった。
教会の天井画に描かれた、人々の頭を噛み砕いて、ニタニタと笑みを浮かべる黒い龍。両親の死のイメージが、これとピッタリと重なったの。
神々への反抗者、呪われた愚王、人類の敵……教会は様々な呼び名で、その“死”に形を与えてくれた。
だからだろうか、セリクが龍王と戦うと聞いたときも、それほど違和感なく受け入れられたのは……。
そして、もう一枚。恐ろしげな龍王アーダンの反対側に描かれたものがあった。
光の中で、人差し指を立てた聖イバン様と、その後ろで神界セインラナスから正義を伴って現れ来る十神。
イバン様は世を憂い、悲しみに頬を濡らし、慈悲と寛容を人々に向けている。
神父様は、口も利けなくなった私の手を握り、その天井画を見せて、イバン様を信じること、お父さんもお母さんもイバン様の導きで今は『天空神』の元にいるのだということを一生懸命に語ってくれた……
私はそれを信じたのかな?
ううん。それを、信じるしかなかったのかしら?
きっかけは忘れてしまった。でも、ある時を境にして、遠くに行っていた私の心が帰ってきた。
それからは、思い出すと気分は悪かったけれど、両親の“死”を冷静に考えることができた。
つまり、たぶん…私は受け容れることができたの。
イバン様に救われたの?
それともただ悲しみを忘れてしまったの?
月日を経ることで慣れてしまったの?
忘れてしまった、慣れてしまったとしたら…私はとても“冷たい女”なのかも知れない。
あんな大事なお父さんやお母さんを失ったことに慣れてしまう私。
あれだけ愛を注いでくれたのに、それを平気で忘れる私。
そう考えるとゾッとする。私もあの黒い龍の口の中で噛まれてしまいたい気分になるから……。
ああ。そう。だから、私はイバン様を信じたのよ。
私自身の中にいる“冷たい私”を認めないため。
それよりも、いつもの“笑顔が素敵で、元気よく、誰にでも優しいレノバ村のフェーナ・ランドル”でいることを選んだ……。
まるでそうしていれば、いつもの私でいれば……両親がいつか帰ってくるんじゃないか…なんて、そんな風に思える方がまだ良かったから。
セリク・ジュランド。村人から疎まれ嫌われる紅い眼をした幼なじみ。彼に惹かれたのは……そんな、“冷たい私”を覆い隠してくれるからかも知れない。
彼は可哀想な子、彼は私と同じく両親がいない……だから、私は彼を理解できる。私は彼のどうしようもない孤独を理解できる。
理解できるならば、側にいて助けてあげなければならない。
“お節介なフェーナ・ランドル”は、そうして、彼を追って……村を出た。
そして、いま、ここにいる……
「オイ。フェーナ」
背中に声がかけられる。
振り返ると…お兄ちゃんがそこにいた。
両親を失った後、お兄ちゃんは誰にも何も告げずに村を出た。
後から聞いた話では、村長様や神父様に「フェーナのことは頼む」とだけ言っていたらしい…。
でも、小さかった私には、何のためにお兄ちゃんがいなくなったのか解らなかった。
ただ、お父さんとお母さんと同じように消えちゃったんだ……そうとしか思えなかった。そう考えると、悲しいのと同じぐらい腹がたったのだけは覚えている。
「まだ夜だと外は冷えるからな。ほらよ」
そう言って、お兄ちゃんはブランケットを私の背中にかけてくれる…。
今になって優しくされても…そんな反発をしたい気持ちにもなるけれど、もう小さいとは言えない私には、当時のお兄ちゃんの気持ちが痛いほどよく解る。
「……あの時、お兄ちゃんは自分にできることをしようとしたんだよね」
私がポツリと言うと、お兄ちゃんの指先がビクッと震えたのに気づいた。
お兄ちゃんは何も答えない。いいえ、答えられないんだわ……。
「お父さんとお母さんは……何に殺されたのかな?」
そう口にすると、両親の死の鮮明なイメージと、龍王アーダンの天井画が重なって思い浮かぶ。いつものことだけど、慣れないし目眩を覚える。
けれど、だいじょうぶ。昔みたいに倒れたりとかはしない。
「魔物…だろうな。あんな殺し方は…よ」
いつもバカみたいなことを言う口調じゃなかった…。
それは、お兄ちゃんが本当に怒ったときの声だ。静かで、喉の奥底から嗚咽のように低く絞り出す声。よくお父さんから「動物みたいな声をだすな」と怒られてたっけ。
お兄ちゃんは、お父さんとお母さんの仇討ちに出た…それは本当なんだと思い知らされる。
私もお兄ちゃんもしばらく黙る。
やさしい風に吹かれて、似た色の髪が同じ方向に揺れた。
この他人じゃない感じは不思議だ。側にいるだけで、何だか考えていることが伝わるような気がする。
久しぶりに会ったはずなのに、もう何年も一緒にいたような気がしていた。
それは血の繋がりが、年月の溝を上手く埋めてくれているからかも知れない。
「……ねえ」
「オウ?」
「なんで私に黙って出たの?」
ずっと投げかけたかった質問をする。
それは昼間に会ったときみたいな軽いつもりじゃない。本心からの、本気の問いかけだ。
「ああ、そりゃ、オメェを危険な眼に合わせたくなかった…からだぜ」
驚くほど早い答えだった。前もって答えようと準備していたかのようだ。でも、不器用なお兄ちゃんがそんなことできないのは私が一番よく知っている。
お兄ちゃんの言葉を聞いて、私は後悔した。
そうだ。そんなこと……解りきってたはずだ。そんなの、ずっと昔に知っていたんだ。だって、それしかないんだもん。
なんて私はイジワルなことを聞いちゃったんだろ。
目頭が熱くなるのを、さも眼にゴミが入ったかのように擦ってごまかす。
「…あ、ゴメン。座る?」
「オウ」
私が横にずれると、お兄ちゃんは私の隣に座る。そして、遠慮無しに大きく股を開いて幅をとった。押し出されて、私のお尻はあやうくベンチから落ちそうになる。
そんなのも昔のまんまだ。妹思いなのにもかかわらず、そんなところはガサツで無神経で……。
一緒にいた月日は他の家族よりは短いかも知れないけれど、私とお兄ちゃんは間違いなく兄妹なんだと思う。側にいなくたって、どうしようもなく血を分けた兄妹なんだ。
「ねえ」「オイ」
私とお兄ちゃんの声が重なった。
二人でちょっと驚いた顔をした後、どちらからともなく笑い出す。
「いいよ。お兄ちゃんから言って」
「オ、オウ」
お兄ちゃんったら…珍しく緊張していたんだ。久し振りに会う妹だもんね。どんな顔していいのか解らないって顔している。
「…あの時、ガキの俺様は…どうしていいか、解んなかった」
お兄ちゃんは鼻の下を擦りながら言う。
「俺様は、本当はな、苦しんでいるフェーナを見てらんなかったんだ…」
私はコクリと頷く。そうだ。ショックを受けたのは私だけじゃない。お兄ちゃんだってそうだったんだ。
でも、物言わなくなった私を、そんな状況でも励まそうとして声をかけてくれたのは覚えている。自分だって辛いはずなのに……。
神父様のところにおんぶして連れてって行ってくれて、「何とかしてくれよ! 妹を助けてくれよ!」って泣きながらお兄ちゃん言ってくれてたよね……。
「んでよ、親父とお袋の仇討ちにかこつけて……村の連中にオメェを任せるなんて格好いいことほざいてよ…」
お兄ちゃんが言葉に詰まる。
「……俺様は逃げだしたんだ」
苦しそうにお兄ちゃんはそう言う。
お兄ちゃんが隊長になっても村に帰ってこなかった理由はこれだったんだ。私がどうなっているか、解らなかったから怖かったんだね…。
でも、安心して。お兄ちゃん。私、“いつものフェーナ”なんだから。
「だけどよ、俺様は強くなった! 仇を討てるぐらいに! そして、オメェを守ってやれるぐらいに!」
拳を打ち合わせてお兄ちゃんは言う。
もしかしたら、仇さえ討てればお父さんとお母さんが帰ってくるんじゃないかとか、そんな風に考えていたんじゃないだろうか。
私がイバン様を信じたように、お兄ちゃんも仇を討てる強さにそれを見出そうとしていたのかも知れない。
そう考えると、お兄ちゃんに腹を立てていた私は、やっぱり何も知らなかったんだなと思う。私もぜんぜん解ってあげられていなかったのかも知れない。
「……私もごめんね。本当にごめん。お兄ちゃん」
あ、ダメだ。やっぱ涙出ちゃうよ。
「オウ。謝んな。フェーナが謝ることじゃねえ。大事な妹ほったらかしてた俺様がワリィんだかんよ…」
お兄ちゃんは、ブランケットに顔を付けた私の頭を優しく撫でてくれる。
大きなゴツゴツの手…でも優しい手。ああ、何かに似てると思ったら、お父さんそっくりなんだ。
「…私だって、お兄ちゃんのこと忘れてたんだから。おあいこだよ」
「へへッ! そうか…。そうだな」
あの頃よりも太く逞しくなった腕に抱きついて、私は静かに眼を閉じる。
あ、懐かしいお兄ちゃんの匂いだ…。太陽や土を混ぜたような、明るくて優しい匂い。
お兄ちゃんの肩に入っていた力がスッとなくなったのが解る。
お兄ちゃん、ありがとう。大好きだよ。本当にごめんね。
「…オウ。今日から、また…俺様の妹になってくれるか?」
「それはムリだよ」
「え!?」
お兄ちゃんのギョッとした顔を見て、私はおかしくなってプッと吹き出す。
「違うの。私は、今も昔も…ずっと、お兄ちゃんの妹だよ。だから、これから“妹になる”なんてないよ」
私の言葉の意味が解ると、お兄ちゃんは安心したようにハアーッと大きく息を吐き出した。
「もう、二度と…置いていかねぇ。二度と、逃げねぇ。
だから……お兄ちゃんを許してくれ」
お兄ちゃんは決意したかのように言う。それがお兄ちゃんにとって、どれだけ重い言葉なのか私には解る。
お兄ちゃんが強くなったのは私のためでもあるんだ。両親の仇を討って、堂々と村に帰って来たかった…そうじゃなきゃ、私に顔向けできないとかそんな風に考えていたんだろう。
お兄ちゃん、本当にバカだから。でも、バカだけれど、そんな風に不器用に優しいお兄ちゃんだからこそ、私は好きなんだと思う。放っておかれたからって、キライになんてなれるはずがない。
「お兄ちゃん」
「オウ?」
「そういえば、仇の正体は……わかったの?」
「いや、情けねえ話だが…手がかりすらつかめてねぇんだ」
「……そう」
“わかるわけない”…どうしてか、そんなことを思いつつ、私はただ頷く。
私はお兄ちゃんにもたれかかったまま……しばらく、そのままで空を見上げていた。お兄ちゃんも黙って同じようにしてくれていた。
空に輝くお月様。もしかしたら、お月様だったら“事実”を目撃していて、お兄ちゃんに教えちゃうかも……そんなことを考えて、私はそんな幼稚な考えをすぐに捨ててしまった。
どうしてか、私の頭の片隅には、あの邪悪な龍王アーダンがお父さんとお母さんを噛みながら笑っている姿がずっとチラついていたのだった……。




