49話 デンドラの憩い亭(2)
地響きと共に、ガーネットを目指す大軍団はゆっくりと南下していた。
ヘジルの推定した数、一万から二万匹というのは、良い読みだったと言えよう。しかし、それは“地表の魔物だけを数えたら”…という話である。
地中や海辺に生息している魔物は、未だその生態や概数は明らかではなかった。ヘジルもそこまでは勘定に入れることができなかったのだ。
実際の魔物の軍隊の総数は、およそ三万五〇〇〇匹。
帝都の防衛であれば、人間の方が数では優勢。だが、個々の魔物の能力を考えれば、魔物の方が戦闘力が高く、圧倒的に魔物の方に分があるだろう。
魔物の中心、紫色のフルアーマーを身につけた魔族がいた。上半身は人、下半身は馬という『半人半馬』であり、魔王トトの忠実なる僕である。
魔族の指揮のもと、コウモリの羽をつけた赤子のような姿をした下級魔族『グレムリン』たちが、忙しそうに飛び回る。
グレムリンは、両手に魔玉石を抱え、砕いては周囲の魔物にばらまいていた。周囲に充ちる魔気に酔い、魔物たちはさらに凶暴化、増殖を繰り返す。
これが思考なき魔物たちを同一方向に向かわせ、さらには戦力を強化させる手段だったのである。
ケンタウロスがガーネット領北部に辿りついた時、その勢力としてはグレムリン五〇体ほどしかなかった。
それ以外には、キードニアから連れてきたファントムウルフが一〇〇〇体ほど。海上を飛び回っていた『シーコンドル』が五〇〇体ほど。いずれも、魔王トトが封印されたせいで魔気の量が薄くなり、かなり弱体化している状態であった。
ケンタウロスは、すぐさまグレムリンに指示を出し、周囲の魔気を高める作業を急がせた。
魔気の濃度が高くなると、水を得た魚の如く、魔物たちは本来の姿を取り戻し、かつての力を振るえるようになり、不自然な分裂と増殖を始めた。
しばらくして、魔王トトがピアーと共に戻って来る。
特に帝国のことを語るでもなく、嬉しそうにニヤリと笑い、ケンタウロスに短くこう言った。
「神の都を蹂躙せよ! 余の恐ろしさを、世界に今一度教えてやるがよい!」
ケンタウロスは悦びに身を震わせた。
かつてのバージルのような強敵と戦えることに!
人間と再び戦争ができることに!
魔王軍の一角を担う武人として、それに勝る悦びはないのだ。
「行け! 歩みを止めるな!!
人と神に見せつけてくれようぞ!
地上フォリッツアを真に支配するは魔族であると!」
戦斧を掲げ、檄を飛ばすと、グレムリンたちがまったく同じ言葉を復唱する。
理性なき者に言葉は通じなかったが、その怒声に呼応するかのように咆吼を上げたのだった。
無骨な鉄仮面越しにケンタウロスは笑う。退屈で蒙昧な日々は終わり、ようやく血の舞う闘争が味わえるのだと……。
ーーー
草原の真ん中で、人間の男が一人ポツンと立っていた。
地平線まで続く魔物の群。それを見た人々の反応は皆同じであった。慌てて逃げ出すか、その場で腰を抜かし、そのまま魔物たちに喰い殺されてしまうかである。
偵察と思わしき兵士も何人かいたのだが、グレムリンたちはすぐに見つけて処分した。絶望の表情のまま、魔物たちに喰われる人間を見るのは心底愉快なものだった。
だが、いま目の前にいる男は怯えた様子もなく、無表情のままに軍勢を見ているのである。
我が物顔で進軍を続けていた魔物たち、理性なき軍団の指令を担っていたグレムリンは、その異様な雰囲気を感じ取ってすぐさま軍を止める。
“もしかしたら、何かの罠かもしれない”…その可能性を考えたのだ。
魔物を止める……それは簡単なことだ。魔気を撒くことを止めれば、魔物たちは止まるのだから。
だが、これだけ大規模な軍団だ。全体が止まるまで十数分ほどかかった。
その間、男は律儀にも、身じろぎもせずその様を見ていたのである。
ご馳走を失った魔物たちは、不思議そうに辺りを見回していた。
あまり長いことは止めてはいられない。放っておけば、そのうちこいつらは共食いし始め、グレムリンたちを襲うことすら厭わないだろう。即席で作り上げた軍団は、そういったリスクも孕んでいたのである。
本来ならば、魔界や魔王そのものから放たれる魔気を吸って、徐々に邪悪な力をつけることが最善であったのだ。
急激な魔気投与は、魔物たちを単なる殺戮しか生まない凶戦士にするだけなのである。
「……多いな」
男がそうポツリと呟いた。
グレムリンはそれを聞いて、嬉しそうに笑う。
そうだ。これだけの軍勢だ。
ここに神が、もしくは龍王がいたのならば話は変わってくるやもしれない。
だが、目の前にいるのはただの人間だ。たった一人の人間に、この大軍勢はどうしようもないだろう。恐れて平伏し、震えて泣きじゃくる以外どうすることもできないのだ。
だが、男は信じられない行動にでた。
腰の剣を静かに抜く。黒い刀身をした直剣だ。
それをおもむろに構えると、ブンッと振った。
ズザンッ!!!!
グレムリンたちには一瞬何が起きたか解らなかった。
ただ、男の眼下に一線、水平の傷跡ができていた。草原に、魔物の群に対して、平行の一直線が描かれたのである。
攻撃したわけではない……グレムリンたちはそう思った。
恐怖でこの男はどうにかしてしまったのだろう。ならば相手をする価値はない。罠などではなかったのだ。
「よく解らぬガ。我らが足を止める理由もあるまイ。
行くゾ! 時間を無駄にしたワ!! このような些事に構ってはおられヌ!」
一匹のグレムリンがそう言い、再び魔玉石を砕いて放る。
狂った魔物たちは興奮しだし、再び歩みを開始した。
そして、描かれた線を、魔物たちが踏み越えようとした時だった……
「…この意味が解らなかったのか?」
男が呆れたように呟く。
そして、一閃! ヒュンっという風切り音が響く。
何かが煌めいたかと思いきや、線を踏み越えていた『キングレオパルド』という、大きな豹の魔物の首がポロリと地面に落ちた。
それだけでない。トレントの枝が、ブラッドバッドの羽が、ファントムウルフの鼻先が……線を越えた部分から先が、綺麗に無くなってしまったのだ。
男は動いていない。だが、この男が何かをしたに違いない……それは誰の目にも明らかだった。
攻撃されたことで、理性無き魔物たちの本能が荒ぶる!
(目の前のヤツは障害物だ! 目の前のヤツは敵だ! 目の前のヤツはエサだ!)
もはやグレムリンたちが止めることはかなわないだろう。怒りに我を忘れた魔物を制止することなどできるはずがない。
魔物たちは一斉に男へと向かって牙をむける!!!!
そして、信じられないことが起こった。
何十、何百、何千……それらの魔物が力を一点に向けているはずだ。
対象がどんなものであれ、生き残れるはずがない。そんなことができるのは、自らの主である魔王トトぐらいなものである。
だが、目の前の男は生き延びていた。涼しげな顔をして、傷一つ負ってはいないのである。
周囲に飛び散る血しぶき、響きわたる絶叫、落ちる肉片……それらはすべて魔物によるものだった。
素早く回り込もうと、背中から襲おうとするが……男はそれを許さない。一線を越えた瞬間、魔物は命を失うのである。
「グオオオンッ!!」
ひときわ大きな魔物が姿を現した。
それは金色の体毛に覆われた大熊、『グローリーベアー』だ。
魔物の多いキードニアでも最強級の魔物。人間のランク付けでもAレベルであり、肉弾戦ではドラゴンとだって戦えるというほどの魔物だ。それも今は膨大な魔気を得てかなり強化されているのである。
ドーピングをもってしても繁殖力は弱く、この軍勢の中では一〇〇体もいなかったのだが、それでもこの軍勢にだって匹敵するほどの戦力を有する個体だ。
グレムリンたちは、これで勝負は決した……と、そう思った。
だが……
「フッ」
男は笑う。それは気の触れた者のするような顔ではなかった。
振り下ろされる丸太のような腕を避け、四肢をズダンッと素早く斬り落とす!
そして苦しむ間も与えられず、グローリーベアーの頭頂に黒剣が差し入れられた。
血振りすると、紫色の血がその金色の毛にベシャリとかかって汚した。
「もう隠し玉はないのか?
あるならさっさと出すがいい」
「グギギ! 貴様は、本当ニ人間なのカ!?」
「人間以外の何に見える?」
男はエビルゴーストを剣圧で消しやる。ボシュッとロウソクの炎が消されたかのような音がした。物理攻撃が効かないはずの霊体ですら、男の前では無意味だった。
「なんてことダ! これハ、『ギネズーラ』様ニ報告せねバ!」
「愚かナ! たった一人ニ追いつめられていル、などト! そのようなことを言えるものカ!!」
グレムリンたちが揉め始める。
「……そうか。貴様らの頭はギネズーラというのか」
淡々と魔物を殺しながら、男は頷く。
「俺の存在を早く伝えるがいい。全滅させられる前にな」
「何を言うカ! 我が軍勢を前ニ、強がりヲ!
貴様がいかに強くとモ、関係ないワ! 人間である以上、いつかは疲労しテ……」
そこまで言って、グレムリンはピタッと言葉を止める。
いつの間にか出来上がっていた“死の壁”に圧倒されたのだ。
あの線の上に、魔物たちの死体が積み重なって大壁をなしていたのだ。
男は無闇に戦っていたわけではない。壁を作り、魔物たちの侵攻を妨害しつつ倒していたのだ。結果として、死体が増えれば増えるほど壁は厚く高くなっていく。
壁の頂に立ち、魔物たちをバンダナから出た片目が睥睨する。
それは空を飛ぶグレムリンたちが見上げなければならないような位置にまで達していた。
「疲労か。辟易こそするが、残念だが俺にはまだ余裕があるぞ。少なくとも、貴様らを根絶やしにするぐらいのな」
その言葉は嘘には思えなかった。あれだけの大群を相手にして、息一つ乱していないのだ。
男は剣に意識を集中させる。不穏な気配を感じとり、グレムリンは戦慄を覚える。
「な、なにヲするつもりダ!?」
漆黒の戦気を纏い、それを剣に集めて放つ!!
ズアッ!!!!
それは、たった一撃……放ったのはたった一撃だった。
それだけで、多くの魔物の頭が弾け飛ぶ!! 辺りの草は血に濡れ、死に溢れていた。
「雑兵では相手にならない。さっさと、貴様らの親玉を連れてくるがいい」
「き、貴様の名ハ!?」
怯えつつ、グレムリンが問う。
「……デュガン・ロータス」
漆黒の戦気を揺らめかせながら、男は静かに名乗ったのだった。
こうして、デュガンという一人の剣士により魔物大軍団による侵攻は足止めされていたのである……。
それはデンダラの宿が出した料理のおかげだった……と、その真実を後に知る者はほとんどいなかったという。




