表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
RUIN【破滅】  作者: シギ
一章 紅い眼の少年
45/213

参考文献 モーチス著『審判の書 概要論』

これを読まずとも本編を読む上での支障はありません。

作中の宗教関係の話が複雑ですのでそれについての補完です。

 天上に坐するは、神の王ラクナ・クラナと九神柱。

 

 地辺を這うは、龍の王アーダンと蒙昧なる龍族。


 神界セインラナスと地上フォリッツアの両統治者による、果て見えぬ熾烈なる戦乱。

 これを人々は“神々と龍王による大儀なき戦”と称し、我は此処に“神龍大戦”として記す。



 よこしまなる龍は、永劫絢爛たる天上を羨みて、崇高なる神々に其の爪牙を向けたり。

 神々は天軍を率いてこれを討たんとするも、悪欲なる反抗凄まじく、血煙と悲涙は数百年の刻を経ても止むことなし、累々たる屍が荒地を満たし尽くせり。


 抗い続けたる龍に、ついに陸海空に三つの神獣を遣わしたりて、数多の龍が露となりしも、愚鈍なる王らは尚も退くことを知らず。


 窮まりし龍の王は、最後の攻勢を試みんとして、残りたる総ての同胞と共に飛びたり。

 しかして、神の王の放つ光輝なる槍が刹那に下り、その身を地の彼方へ叩きつけられん。



 永き戦禍がもたらす荒廃を憐れみし神々、かような悲劇が重ねて起きぬよう慈悲から願い想い祈りたり。

 其の神力を用いて、神界セインラナスの大門を厚き氷霜にて悠久に閉ざしたることと相成り。

 

 天の道が閉ざされしを見た龍の王、己が愚慮と傲慢さの悔恨に至り、嘆き呻きつつ、呪われし荒野ファルドニアに逃げ隠れたり。

 かくして、其の後に姿を知る者はなし…………。



 神の王ラクナ・クラナ、人々にフォリッツア全土を下賜たまわらせ、ファルドニア以外の地上を治るべしと命ず。

 太平なる世は、人が増え満ちて拡がり、神々の寵愛の元で恒久なる幸せを謳歌せん……。



 我、イバン・カリズムは切に願う…。

 

 人よ。神に従い崇め奉れ。

 人よ。神の栄光を忘れず、常に謙遜たれ。

 人よ。龍の脅威を怖れず、常に毅然たれ。


 人よ。汝らが真実に出会うことを我は心より願う……。




『イバン・カリズム著 審判の書 第一章 要約節より抜粋』




---



 

 さて、僭越ではあるが解説させてもらおう。

 イバン・カリズムの経歴は未だ謎が多いが、間違いないとされているのは、神在歴しんざいれき前三〇年から、神隠歴四〇年頃の実在の人物ということである(補足:神界凍結以前を神在歴と呼び、神界凍結以降を神隠歴と呼ぶ)。

 イバンの出自は種々様々であり、神界セインラナスより遣わされた天軍の一人であったとか、統括神ラクナ・クラナのもう一つの姿であったとか、七つめの未だ名の知れていない神柱ではないかという説もある。

 神々と龍王の戦いを経験して克明に残した歴史家であり、神々の大水晶柱を置き、初代神国ガーネットを興した建国者、時代の証人と呼ばれる代行者を派遣した宗教家と、その働きは尋常ではないほど多岐に渡っている。

 聖教会【聖イバン教会】はイバンを“神の代理人”として信仰の対象にしているが、ガーネット国教である三神教【最高三大神信仰教】はそれを否定しているのは周知の通りである。


 審判の書の原著は、“古代クリバス言語”という神々が使っていたとされる言葉で、薄い木片を連なり合わせた木簡に書かれている。

 その内容は、大きく三章に分かれている。冒頭に述べた神々と龍王の戦いを綴った一章、神国ガーネットの興りから始まるイバンの自叙伝とも呼べる二章、そして老剣豪や紅き破滅に関する予言が書かれた三章である。

 それ以外にもイバンが書かれたと呼ばれる書物は幾つか残存するが、その真偽は未だ結論が出ていないものが多く、殆どが偽書と思われる。

 我々、聖教会からすれば、審判の書は“イバンの記した一切の偽りなき真の聖典”として信仰の根幹たる部分なのであるが、歴史学者曰く、イバン自身が実際に書き記したのは一章だけである可能性が高いとのことである。

 つまり何が言いたいかというと、イバンは一章だけを審判の書として記したが、残りの二章と三章は全く関係なく、別の者の手によって編纂された可能性が高いということである。

 二章は時代の証人という百十一人の信徒が推敲したと思わしき文が散見される。元はイバン本人の言行録であったものを、その信徒たちが時代に合わせて書き加えたものであろう。良かれと思ってやったことであろうが、資料として見る時にその価値が損なわれてしまっていることは否めない。

 三章に至っては、老剣豪バージル・ロギロスが神隠歴七〇年代の人物にも関わらず、まるでその“戦いを側で見ていた”ような記述があるために、全時代を通して怪しまれている。また一章や二章で神を褒め讃えていたにも関わらず、急に人格が変わったかのような、神の冒涜とも捉えかねない表現が見受けられる。聖教会ではこの部分は、“意図的に信仰を試すために書かれた”としているが……その説明は少々苦しいものがあるのではなかろうか。


 三神教神官や神学者らにより、審判の書の真実性を追求され、聖教会は苦しい立場となったことがあるのだが、「イバン・カリズム及びその近しい信仰ある立場の記述であれば、これはほぼ正史として扱うべきであり、我々の信仰には些かの不都合もない」との五代目教皇ファガン・ブエスの『行動信仰宣言』により、今では審判の書の著者がイバンだけでなくても問題ないと判断されている。だが、これも些か強引すぎる主張であろう。もちろん、ファガンの主張は聖教会の存続を考えるならば正しい。しかし、それを受けとる我々が拡大解釈してしまう余地を残している。つまり、“信仰さえあれば、すべて正しいとするのか?”ということだ。

 そこで、現在の聖教会では、審判の書を『歴史書ではなく、イバン・カリズムの精神と慈悲の心を学ぶ精神の書である』と説明する神父が多い。現教皇としては、この意見に全く反対ではないが、審判の書の歴史的価値を全て無視することは甚だ軽率であろう。

 少なくともイバンの生きていた時代の考証となるものであり、後に他の考古学的発見が、審判の書の真実性を証明することも否定できないではないか。

 ともなれば、単に信仰のみで審判の書を語るのも、また精神論だけに寄るのも、まさに啓蒙的信仰の蔓延を招く危険性がある。

 今一度、審判の書の再考察を行い、歴史的にもイバン・カリズムの行いが正道であると示す……これが、これからの聖イバン教会に必要な現在の責務だと考えられる。


 話が逸れたので元に戻そう……。


 一章についてだが、上記に抜粋した、“万人向けの要約”が冒頭に述べられ、残りはイバンによる細かい情景描写や深い考察が述べられている。

 この内容については、最高三大信仰教も『正しい内容である』と認めているところだ。

 頭の固い歴史家や無神論者の中には、神々どころか神界セインラナスの存在を疑問視する者もいるが、実際にファルドニアに龍王の居城なる建築物が存在することからしても、これらが全くの嘘偽りであるとは考えにくい(調査はガーネットが拒んでいるので進展はしていないが)。

 未だ神界セインラナスに通じる“神の階段”の発見にも至っていないが、それが見つかれば人類史上の世紀の大発見となり、神々の時代がまさにイバンが語った通りであったことを知ることになるだろう。


 イバン・カリズムが歴史の偉人であったか、それとも神の代行者であったか……その結論は、聖教会と三神教の対立、歴史学者らの異なる見解を幾度となくぶつけ合っても未だ出ていない。

 そして、神告でもイバン・カリズムの存在について、神々は沈黙したままである(神告でイバンのことについて尋ねたという記録はないのだが、その理由はイバンを“ただの人”とする三神教の主張にそもそも反するからであろう)。

 ダフネス・フガール大総統は、『歴史の真実は神が知るので、我々は信仰を尊重すべきである』と述べ、裁定神パドラ・ロウスの語ったとされる『天に神在るは自明なり。信教問わず、信法問わず、ただ崇め仕えるべし』に通ずるものであるし、私も全くの同意見である。

 三神教はイバン・カリズムを信仰対象にしてはいないが、その歴史的存在価値を決して見失うものではないともしている。これは両者の隔たりを埋める上で極めて重大な点である。

 聖教会も、ガーネットが執り行っている神告や、フガール家の告知師の立ち位置についてもある種の敬意を払うべきであろう。でなければ、イバンの軌跡を踏みにじることにもなりかねない。

 そして、聖教会側からもイバン信仰をただ流布するのではなく、その先にイバンが伝えようとした本質は何か、“神々そのものへ立ち返る信仰”をことさらイバンが主張していることを忘れてはならない。

 元々は同根なる宗教、双方が利点を認め合うことで、イバン・カリズムという存在は、『我々と神々を結ぶキーパーソン』として確立した意義をとり続けることとなると私は信じている。

 神隠歴九七二年にラミティオン自由教義議定が結ばれたが、未だ聖教会と三神教との溝は深いように思う。

 私はこれからも、ただ聖イバンの教えを布教するだけではなく、三神教の訴えを真摯に傾聴し、その教えの精神を吟味した上、同じ神を信じる者として手を取っていけたらと考えている次第である。きっとダフネス大総統も同じ想いでおられることであろう。

 多分に自論が多くなってしまったわけであるが、この審判の書についての概要と共に、聖イバン教会のことが少しでも読者の関心を高めることになれば幸甚である。

 そしてなによりも、多くのガーネットの民…とくに最高三大信仰教徒のご理解の一助となれることを切に願い、ここに筆を置く次第である。


 最後にイバン・カリズムのこの言葉を、改めて引用して締めくくるとしよう。


『人よ。汝らが真実に出会うことを我は心より願う…』




-聖イバン教会 大教会レ・アーム 大司教モーチス・レイドン著『審判の書 概要論より』-

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ