36話 大総統ダフネス・フガール
ガーネット帝国城四〇階、最上階。
神々に最も近い場所として、大神官の資格を持つ者しか入ることを許されぬ“禊の間”というものがある。
一つのフロアまるまるが、室内とは思えぬほどの植物で覆われていて、さながら小さな森のようだった。清浄な空気が流れ、陽光をふんだんに採り込めるガラス張りの天井をしている。
清めた水を流した人工滝。その飛沫を背に受け、深く瞑想をしていたダフネス・フガールは静かに目を開いた。
灰褐色をした短い髪、知性を感じさせる切れ目、程良く引き締まった身体。もう人生も折り返し地点に入った五十二歳になるのだが、とてもそうは見られなかった。
その半生といえば、覇道を行くが如く、まるで前もって決められているかのような華々しさがあった。
十代で頭の回転の早さから神童と称せられ、二十歳で代々フガール家が継いでいる最高三大神信仰教の頂点、大神官の座へと着き、三十路そこそこの時に当時の大総統が急に病没し、さもあつらえられたかのように、帝王となる機会を得たのである。
なぜ大総統ではなく帝王となるのかといえば、神々の声を聞く代理人としての役割が与えられているフガール家が主導者となる場合、代々“王”として君臨するのが常であったからである。
だが、歴史の中では自身の野望を神の声と嘯き、独裁君主となった帝王もいた。それに反発した一部の民衆、潤沢な資金を持っていた地主たちが結託し、今から五○○年ほど前に革命運動を起こした。地主たちは自身を“貴族”と称し、民主的に指導者を選ぶことのできる大総統制を導入することを、当時の帝王に認めさせたのである。
大総統が擁立された場合、政治は貴族の中で選ばれた大総統が執り行い、フガール家は大神官としての役割だけを果たすこととなる。そして、フガール家は単なる一貴族としての権限しか持ち得ず、全ての決議は帝臣役員という代表者たち(そのほとんどが有力貴族で構成されている)の議会を通して決められるのだ。
しかし、今代のフガール家当主たるダフネスは非常に優秀であった。大神官としての役割も充分に全うした上、政治的な手腕にも非常に長けていたのである。
大神官に着く以前、単なる一貴族としての立場でありながら、聖イバン教会との自由教義条約を結ぶための下地を築く立役者となる。他にも三将軍の一角スカルネ家を援助しつつ、キードニアを警戒した軍事増強を提案し、またはキードニアの科学者サガラの亡命を受け入れ、帝都内の技術革新を積極的かつ柔軟に取り入れた。
これら数多くの功績から前大総統の信任も篤く、さらに大物貴族にしてその立場をひけらかすことない謙虚な姿勢、政策や儀礼を重んじる姿に民からの人気も総じて高かったのだ。
世襲的に地位を受け継いだ現貴族たちは、今なお大総統制を敷いて民主性を謳うが、実のところ政治的権力の上に長く居座りすぎたせいか、慣習的に利己的な腐敗政治を行っていた。帝臣役員たちは、貴族が有利になるような便宜を図り続けたのである。それに辟易としていた力を持たぬ平民は、こぞって民主派貴族とも言えるダフネスを支持した。民主主義のために帝王制に回帰せんとする様は貴族たちには痛切な皮肉であったろうが、血筋、能力、立場、人気の四拍子が揃ったダフネスが次代帝王になることはもはや決定されていたようなものだった。
ダフネスは人々の心を掴むのが非常に上手かった。指導者になることが決まったとき、本来、フガール家の血筋ならば帝王を名乗るべきはずのところを、彼はあえて自らの肩書きを“大総統”とした。そうして『神々に選ばれた帝王こそがガーネットを治めるべき支配者である』という、過去のフガール家暴君たちが抱いていたであろう選民意識を真っ向から否定してみせたのである。それはつまり、『自分は独裁者にはならない』という宣言をしたのと同じ意味合いであった。
多くの貴族たちは大きな奇貸を失うことを怖れ、革新的なダフネスの行為を、先祖や伝統を無視したものであると抗議した。そして一貴族が突出することをなんとか阻止しようと試みたが、世論が良識ある指導者の誕生を待ち望むのを抑えるには至らなかった。やがては勝ち馬に乗りたいと言うのが人の心理なのか、貴族議会の中でも内部分裂が起き、ダフネス側に傾いた者も半数以上となってしまった。
ダフネスの貫徹した態度は、その国名にもよく表れている。帝王が治める場合は、“神国ガーネット”。大総統が治める場合は、“ガーネット帝国”。と、歴史上はそう国名を表していたにも関わらず、それを“神国ガーネット帝国”としたのも意図あってのことだ。それは“神々に与えられた宗教国かつ人間が治める帝国”という、大総統と大神官を兼任するダフネスの強い主張が込められていた。何よりも、神々を優先すること……それは与えられた立場ゆえではなく、本人の強い信仰心、ひたすらな神々への敬虔さからであった。
権力者でありつつ、神々の徒でもある……その姿勢は、生真面目で頑迷な最高三大神信仰教徒たちの心をも捉えたのである。彼はそういった部分の配慮すら忘れていなかったのだ。
民衆、貴族、教徒……それぞれの支えを得て、ダフネス・フガールの立場はまさしく盤石なものとなった。それ故、大総統となって以来、建国一〇〇〇年以来の“傑出した指導者”、“最高の賢王”……そう呼ばれ、完全無欠とさえ思われて、いまなお多くの人々に慕われ続けている。
だが、それを信じていたのは、ダフネスの外側しか知らない人々だけであったのだが…………。
禊の間を出ると、ゲナがバスタオルを抱えて待っていた。
本来は最強の政敵として存在していてもおかしくない男だ。事実、貴族たちは自らの利を守るためにゲナを大総統にしようとした事実があったのである。だが、何を隠そう、この男こそがダフネスにとって最も信頼できる気心の知れた竹馬の友なのである。
「副総統が侍女の真似事などするな」
ダフネスはからかうように言って、口の端をニヤリとさせた。しかし、差し出されたバスタオルは素直に受け取る。
「神告は?」
ゲナは、ダフネスが頭を拭き終わるのを待ってから問うた。
「ウム。間違いなく行われる。夢見の日取りと、暦占いが一致した。神々からのアプローチで間違いないだろう」
それを聞いて、ゲナはホウッと小さく安堵の息を吐く。
「…その様子だと、随分と貴族たちの対処に苦労しておるようだな」
「ああ。いっそのこと帝王制に戻したら良いと言われたさ。貴族議会の話を聞かないのは大総統制度ではない、と。有事を前に指揮を執れぬのは指導者としてあるまじき事だそうだ」
「相変わらず、道理も歴史も知らぬ者たちだな。私が仮に帝王を名乗ろうと、神告を前にしては身動きがとれぬのは同じだ。帝王制になればより不平を漏らすだけだろう。それとも私に大総統を降りろとでも言いたいのか?」
「そこまでを言う気概を持つ者などいないさ」
「ならば結論が見えぬな。理解に苦しむ話だ」
ダフネスは髪をかき上げて、肩を竦める。
「今に始まったことではないさ……。
そんなことよりも、懸念しているのは龍王の動きの方だ。イクセスやクロイラーを配置した場所を悉く避けられている。それでいて、いくつかの主要な基地を壊された。ファルドニアの包囲網は完全に破れている状況だ。
箝口令を敷いてはいるが、やがて兵全体に広まるだろう。士気が下がるのは時間の問題だよ」
「ルゲイト・ガルバンか。厄介な策士だな。
……他国との連絡は?」
「ハミルトン街は協力を惜しまないとの返答だ。キードニアは相変わらず沈黙、閉じこもって、使者の言葉に応じる様子もないとの事だね。道領国には連絡船が行ったきりだ。デイルダは自国の防衛が精一杯であると、情報提供は惜しまぬが、軍事協力はできぬと断られた。小諸国もだいたい同じだな。中央大陸以外では、対岸の火事といった様子だ」
「実質の被害を被っているのは我が国だけだからな。ガーネットが潰れれば、次に狙われるのは必然と決まっているだろうに……。危機意識が足りん。龍王は全人類の敵だとなぜわからんのか」
「ファルドニアの隣で戦々恐々としつつ、対抗策を練っていた我々とは根本から違うさ。ましてや、神々の寵愛を受けていることへの僻みもある。キードニアは特にそうだろう」
言われるまでもないという感じに、ダフネスは頷く。最初から大した期待など抱いていなかったのだ。
「神告を受ける前に、ある程度の体制を整えて置きたい。神の命令に即座に対応できるようにな。
……サガラには、いまは兵器開発にのみ力をいれるよう話しておいてくれ。
また軍の入隊枠を緩和させ、賃金を見直そう。戦える者はできる限り協力するように布告をだす。一時的な仮入隊でも構わん。金額を引き上げれば、颯風団に流れていたならず者も考え直すだろう」
「兵士の質が下がるのではないか?」
「イクセスならば制御できるだろう。むしろ、ミルキィ家に毒された信仰兵団などより、無法な荒くれ者どものほうが扱いやすいに違いない」
「確かに…。品行方正なクロイラーは反対するかも知れんがな」
「いざとなれば、戦力増強とでも銘打って、特例を出してロダムを復帰させる。多少強引でも、いまならば貴族どもも口出しできまい。軍部には睨まれたくないだろうからな」
「なるほど。予告なしでの颯風叩きは、それなりに奴らへの脅しになったというわけか…」
ゲナはそう続ける。自分が考えたことを先に言われたので、ダフネスは面白そうに笑った。
「軍規の乱れは生じるだろうが、何よりも戦力底上げをしなければならん。他国の支援が期待できない以上は現戦力を強める他ない」
龍王が自分の代に攻めてきた事は、有事とはいえ、ダフネスを奮い立たせるものであった。
神の名のもとに、神敵である龍王を滅ぼす。その指揮を執れることは、ガーネットの指導者としてこれ以上ない誉れにも感じていた。
神々が神界凍結で身動きがとれぬ今、打てるべきすべての手をもってして龍王と戦う……それがダフネスの決意である。
「……それで」
ダフネスの表情が、指導者のそれとは変わる。それに気づいたゲナの頬がピクッと小さく動く。
「ユーウは?」
予想していた台詞に、ゲナは少し落胆した。が、そんなことはおくびにも出さない。
「案じなくても、今回は大人しいものさ。父君が行っている神告の重要性も理解できる年頃になったということだろう……。無茶なワガママは今のところ聞かれない。ま、下層階の浴場を貸し切りにするだの、厨房を使って丸焦げの料理を振る舞うだの……その程度は相変わらずだがね」
少しダフネスは意外そうな顔をする。
ダフネスが側にいる時は大人しいのだが、会議や外に出かけた時に臣下にとんでもないワガママを言うのがユーウの常だったのだ。
「城から出たいとか言わないのか?」
買い物に行きたいと言うのはユーウの決まり文句だった。
外に出してもらえないと、帝都の行商人を呼び寄せ、出された品を選びもせずにまとめ買いをするのだ。
それだけならまだしも、「神獣が見たいから連れてこい」といって泣き喚いたこともあった。その時には、懐いている世話係ウォルタが宥めるのも通じず、ダフネスが戻るまでずっと暴れまわり、怪我をしたメイドもいたぐらいだ。
「……そうだな。なんだか他に興味を示したものがあるようでな。DBの資料を集めさせたりしていた」
「DB?」
ダフネスは考える仕草をするが、心当たりがないと肩を竦めた。
「忘れたか? デイルダ……大教会レ・アームが情報提供代わりに求めてきた件だ」
「ああ。思い出したぞ。確か、イバン教会ならば、何らかの龍王の情報を握ってるやも知れぬと調べさせたのだったな。
結果としては、まるっきり役立たぬ、イバンと聖女、時代の証人の寓話しかなかったわけだが……」
バカにするかのようにダフネスは鼻を鳴らす。
いくら自由教義協定を結んだからといって、ダフネス自身は最高三大神信仰教徒だった。国益などを考えて寛大な振る舞いこそしているが、イバン教を内心は盲信的な異教徒に過ぎないと考えていたのだ。
「そうだ。その情報の見返りに、民間に組織を一つ作ることを認可した。
たかが一人の神父ごときが行う活動とばかりに、委細は聞かず放っておいたが……。どうやら異端者などを集めて作った武装組織らしくてね。危険が生じる前にイクセスが潰そうとしたんだが、なにやらロダム閣下が肩入れしているらしい」
「……フム。興味深いが、ロダムが目にかけているのなら大丈夫なのではないか?
だが、なぜユーウがそんなものに興味を?」
「詳しくは報告待ちなのだがな……。龍族の襲撃の際、敵のリーダー格を倒したのが、そのDBの人物らしい。時期的なものを考えると、それが関係しているのかも知れない」
「まるで接点が見あたらないが?
城も攻撃にあったそうだが、防壁シールドが機能していたんだろう? わずかな揺れすら、こちらは感じなかったというのに…」
禊の間にいたダフネスは外界のことをまったく知らなかった。龍族の襲撃も報告こそ得てきたものの、その事実も未だ半信半疑といったところなのだ。
「もしかして、ユーウが何かを見たのか?」
「いや、その時間は間違いなく寝ていたはずだ。作戦自体も当日、誰にも気づかないよう行われていた。帝都側は漏れがあったが、城内の情報規制は徹底的に行っていたしな。DBが作戦に入っていたことも、私と軍部しか知らないことだ」
ダフネスは顎に手をやって考える。
「……ユーウに会うべきか」
さりげなくダフネスは言ったつもりだったが、ゲナはあからさまに眉を寄せた。
「神告までは、俗世とは関わりを絶たねばならんのは知っているだろう。これで神告が失敗……つまり、神々からの助言がなくては世界の終わりだ」
「そんなこと解っておる」
少しムッとした表情をして、ダフネスはクルリと踵を返す。
「……まあ、もし少しでも王女に変わった動きがあればすぐに知らせよう」
「……ああ。頼む」
機嫌が戻らないのを感じとり、ゲナは片眉を上げる。
「……彼女も我慢しているのだよ」
我慢しているのはダフネスだけであることを重々承知していたが、ゲナはそんな風に言って諭す。
「解っておる。ウォルタに、風邪など引かせぬよう……ゆめゆめ気をつけろと伝えてくれ」
「了解した」
ダフネスは落ち込んだ様子のまま、同階にある“清浄の間”と呼ばれる自室に戻っていった。
行き来できるのは、この連絡路と禊の間を含めるたった三フロアだけなのだ。告知師は、神告までこの階に留まり続けなければならないのである。
「……まったく。これさえなければ、完全な指導者なのだがな」
ゲナは誰にも聞かれぬ愚痴をこぼすと、エレベーターに向かって引き返したのだった…………。




