破滅の扉
いま、破滅への扉が開かれた……
ひっそりと静まりかえった森の中、いくつもの木漏れ日がその神聖な湖を照らしていた。
湖のほとりで、一人の少女が柔らかな微笑みをたたえて佇んでいる。
長く美しい髪は湖の蒼よりもさらに濃く、瞳は琥珀を思わせる。その端麗な容姿は完璧すぎて、まるで精密に作られた人形のようだった……。
緩やかに流れる時間を経て、彼女の心は湖と同化していた。その美しい心が、キラキラと光を透き通す水面に現れているかのようだった。
彼女は寛容と慈悲に溢れていた。無私公平な彼女だったからこそ、森は彼女を受け容れ、ここに住む繊細な住民たちの信頼と敬意に値した。
少女の邪魔をするまいと、森は沈黙を保ち、住民たちは足を忍ばせて急ぎ足に立ち去っていく。
彼女は森にとって“命”だった。誰も何人もそれを穢してはならないというのは、森と住民たちの不文律の約束事であったのだ……。
だが、その空気が一瞬にして凍てついた。
風が慌ただしく吹き抜け、住民たちはざわめきだし、森は動揺して木の葉を散らす。
誰だ? 誰だ? 誰だ?
部外者が入ってきたことに、森は警鐘を鳴り響かせる。
彼女も眼を細め、顔を上げた。唇に指をそっと当て、“大丈夫。心配しないで”と目配せした。住民たちは一瞬だけ静まりかえったが、それでも緊張が消えるわけではなかった。
少女は、部外者……その気配のする方にゆっくりと向き直る。
一瞬だけ驚いた顔をした。だけれども、それは予期できぬことではなかったのだと、少し寂しげな表情となる。
「……あなたは私に大きな渇望を見ていますね」
凛としてはいたが、優しく心に響き残る声で彼女はそう言った。
少女の眼が捉えていたのは、一人の痩せこけた男だった。
眼は言いしれぬ深い悲しみを湛え、今にも消えてしまいそうな程に存在感がなかった。
森はこの部外者の存在を強く警戒するように彼女に伝える。決して油断してはならぬ、と。
だが、言われるまでもなく、彼女はこの男の本質を見抜いていた。
その特筆するに値しない男の底にある、高潔で高貴な輝く力。自分とは異質の存在。
気付いた時には、先の台詞を思わず口走っていたのだ。
男はいきなりの台詞にも動揺することなく、薄い口髭をわずかに上下させながら答えた。
「……ご存じでしたか」
彼の声も、その見かけ通りで、消え去りそうな程に小さかったが、不思議と彼女の耳にまとわりつくようだった。何度もその言葉がエコーしているように感じる。
「あなたが何者なのかは知りません……」
その言葉の先を、彼女はためらう。言うべきか言わざるべきか……。悩んだ末、彼女は続けた。
「ただ、私の“力”が……欲しいのでしたら……」
彼が切り出す前に、彼女は先にそう告げた。
だが、最後の部分はほとんど言葉になっていなかった。目的は解っていても、確信がなかったからである。少女は、具体的にはどうなるのかまでは解らなかったのだ。
少し不安気に彼を見やると、彼は皮肉めいた笑みを浮かべて首を横に振った。
「……滅相もない。私の方が“壊れて”しまいますから」
次の瞬間、大きな一陣の風が、二人の間を吹き抜けていったのだった…………。




