青の洞窟
海食洞窟、通称「青の洞窟」。
小さな入口から小舟で入ると、サファイアの海面が輝く幻想的な世界が広がる。ともすれば観光名所にもなりそうな美しい光景だったが、天上が低く落盤の可能性が高いため、一般人は立ち入り禁止とされている場所である。しかし、どの国にも掟破りのならず者はいるもので、どれほど呼びかけても「青の洞窟」に侵入するものは後を絶たない。というのも、この洞窟の最奥部には、海面と同じ色をしたサファイアの原石が群がっていると専らの噂なのだ。それを信じるものが後を絶たず、数年前から「青の洞窟」を定期的に見回り、危険箇所や侵入者の有無を確認することが剣師団の任務として行われていた。
マーシャルたちは、岬の上にある灯台で小舟を一槽借りることになっていた。研究所にもなっている灯台は、午後からの来客の準備で慌ただしい様子を見せていたが、ノーノが剣師団の紋章を見せると岬の下に拵えてある小さな桟橋に案内してくれた。真っ先にオールを手に取ったノーノに対し、「自分が漕ぎます」とマーシャルは言い張ったが、青年はそれをやんわりと断る。彼が漕ぎ出した小舟は静かに海食洞窟へと近づいて行った。空は雲一つない快晴であり、沖の方にはキカル石(治療薬などに幅広く使われる魔法薬の材料の一つ)の原産地であるキカル島の影が見える。活火山の尖った山頂が、空に挑むようにしてピンと伸びていた。
「これから洞窟に入る」
海水が入り込む小さな入口付近で一度手を止め、ノーノは後ろの二人を振り返った。
「見て分かると思うけれど、入り口が小さい上に、入ってすぐは天井も低い。頭を打たないように姿勢を低くしているんだ」
マーシャルとハロルドが忠告に従い頭を下げたのを確認して、ノーノ自身も姿勢を低くしながらいよいよ洞窟へと船首を差し向ける。小舟はゆらゆらと左右に揺れながら、洞窟内へと入っていった。
ノーノに言われたとおり頭を下げ、姿勢を低く保っていたマーシャルだが、洞窟に入り目が慣れてくるころには、思わず頭を上げて辺りを見回してしまいそうになった。
「うわああ!」
今にも起き上がりそうな少女の丸い後頭部を、ハロルドが遠慮がちに抑える。女性の頭に触れることに気が引けているのだ。
「シャ、シャリー、危ないですよ。頭を下げていないと」
「ハロルドの言うとおり。ぶつけたら、脳天が割れるように痛むらしいからね」
「き、気を付けます」
ぶるりと身を震わせて姿勢を戻したマーシャルだったが、きらきらと輝く瞳があちらこちらへ向くことは止められなかった。「青の洞窟」と呼ばれるだけのことはある、紺碧の宝石の美しさをそのまま水中に溶かし込んだような現実離れした光景がそこには広がっていた。海底は夜の海のように暗い紺色をしているのに、水面はともすればエメラルドグリーンにも見えるような光をはらんでいる。妖精の国だと言われても、今のマーシャルならば信じたかもしれない。
「きれいですね」
「本当、こんなの初めて見たわ」
見習い二人が、揃って感嘆の息を漏らす気配を背中に感じ、ノーノは声をかけた。
「もうそろそろ天井が高くなってきたから、頭を上げても大丈夫だよ。二人とも景色を見たくてうずうずしているようだしね」
言われて即座にピョコンと二つの頭が上がる様子が可笑しくて、ノーノは口内で笑いをかみ殺した。セトラーに笑い上戸で可愛いもの好き(これはノーノの女好きを揶揄した言葉だったが)と言わしめた青年剣士は、存外二人の後輩を気に入っていた。
海食洞窟を中程まで進んでいくと、底が浅くなり、ごつごつとした岩が船の下に顔を覗かせるようになった。ノーノは二つの岩石が顔を突き出すようにしている場所を見つけると、見習い二人に船を降りるよう促し、自分もそうしながら船をもやい綱で括り付け固定した。ゆらゆらと揺れる小舟は、時折岩肌に側面をぶつけている。綱の具合を確認し、ノーノがマーシャルたちに向き直った。
「いよいよ見回りですね!」
目を輝かせるマーシャルを制し、ノーノは「その前に」と小舟から大きめのバスケットを取り出す。にっこりとほほ笑みながら、ハロルドのお腹を指す。
「お腹、空いてるんじゃないかな」
「さすがノーノさん!もうペコペコだったんです」
バスケットの中身を見せた途端、コロリと態度を変えたマーシャルに、ノーノとハロルドの男二人は顔を見合わせて苦笑した。
先ほどの言葉に嘘偽りはなく腹ペコだったマーシャルは、バスケットの中のサンドイッチに遠慮なく手を伸ばした。ハロルドはノーノに気を遣ってちらちらとそちらを気にしているが、ノーノの方はマーシャルと同じようにさっさとサンドイッチをパクついている。運動量が多い剣士たちには大食らいが多く食堂の定食を一気に三つ四つ頼む猛者もいるくらいなので、マーシャルが躊躇する理由はなかった。少女の豪快な食べっぷりに、ハロルドも卵を挟んだサンドイッチを齧りはじめる。魚や肉を溢れんばかりに盛り込んだ昼食は、さすが剣師団というべきか。
パンからはみ出したレタスを上手いこと口に収めたマーシャルは、隣でもぐもぐとパンを咀嚼しているハロルドに目を留めた。
「ハロルドって、女の子みたいな食べ方するわよね」
「えっ?!」ハロルドは心なしか青ざめた。
「小食ってわけじゃないけど、食べ方がお上品と言うか」
先を考えず喋ったせいで、マーシャルはむにゃむにゃと言葉尻を濁した。それをノーノが拾い上げる。
「まあ、分からないことはないよ。ハロルドは商家の出身だって言っていたけど、きっとご両親がマナーに厳しかったんじゃないかい?」
そう言うノーノも剣士にしてはお綺麗な食べ方をしているため、口許は綺麗なままだった。マーシャルの言葉にショックを受けたままのハロルドは、青ざめながら頷いた。
「貴族でもないのにって思うんですけど」
マーシャルは赤身魚とトマトを入れたサンドイッチを頬張りながら、「そんなことないわよ」と言った。
「家は一応貴族の末席にいるけど、私と真ん中の兄ちゃんはマナーがなってないってよく怒られるもの。『身分関係なく礼儀は大事よ』って、ママの口癖だったわ」
「シャリーはいいんですよ、そのままで素敵ですから」
何故か頬を赤らめたハロルドに、飲み込もうとしていたパンを喉に詰まらせたマーシャル。ゲホゲホッと咳き込むが、ハロルドが慌てて手渡した水で流し込んで事なきを得る。
(ハ、ハロルドって、時々こっ恥ずかしいこと平気で口にするわよね)
ぜいはあ。息を荒くしたままの少女と、心配そうに彼女を覗き込む少年という光景が広がる昼食の場で、「恋は盲目」という小さな呟きがオレンジ髪の青年の口から零れ落ちた。
「ノ、ノーノさん、見回りの前に、そこら辺うろついても良いですか。ちょっと食べすぎたみたいで」
「ん?ああ」
ノーノは手元のサンドイッチを見下ろして、マーシャルと見比べる。
「私の目の届く範囲ならば大丈夫だよ。私とハロルドはまだ食べ終えていないから」
「少し動きたいだけなので」
マーシャルはそそくさとその場を離れ、底の浅い部分を飛び越えると、昼食を食べていた場所とは反対にある岩場から海を眺めた。入り口は黒い点のように小さくなっているというのに、どこからか光が差しこんできている。海面の小さな波が、光の粒を散りばめたようだ。全く、不思議な光景だった。
眩いばかりの水面を前にして、マーシャルはほんのりと赤らんだ頬を掻いた。
(ハロルドって良い奴なんだけど、どうにもあの視線は慣れないわ)
とりわけ人前であの熱視線を受けた時には、恥ずかしくてたまらない。頼むから勘弁してくれと言う心持ちになるのも、マーシャルにとっては無理なからぬことだった。
素直に嬉しいと言えば良いのだろうか、と思いついてその場面を想像してみると、それだけで顔から火が出そうになった。「無理!」と内心悲鳴を上げて、大仰にかぶりを振る。ハロルドたちから身を隠すようにして、岩の陰に座り込んだ。地面には岩石が削られて丸まった小石や、砂浜から漂ってきたのだろうか、ガラス瓶が転がっている。同じく流れ着いていた小枝を拾い上げて、マーシャルは地面を穿った。下は岩石なので、跡が付くはずもないのだが。
(今までは、ドン引きされるか敵対心燃やされるだけだったからなあ)
小枝を振りかぶって放り投げる。細い棒きれはしばらく海面を漂った後、マーシャルの足元に戻ってきた。
海の底の暗い青が煙のように揺らぐ。マーシャルの視線も、それにつられるように揺れ動いた。後から思い出しても不可解なことだが、本当に突然に、ふっと黒曜石のように暗く冷たい瞳が脳裏をよぎった。ゆらゆらと揺れる波が自分を嘲笑う意地の悪い顔を思い出させて、マーシャルは猛烈に腹が立ってくる。足元にあった小石を掴み、小枝に続けて海面に叩きつけるようにして投げるが、軽い石だったので飛沫はほとんど立たずに二つ三つ波紋が広がっただけだった。
(やめたやめた!)
向こう岸で男たちがバスケットを片付けているのに気が付き、マーシャルは頭の中の残像を振り払うように立ち上がった。その時、視界の端で何かが日光を反射して銀色の光を放った。
―――何だろうか?
首を傾げながら岩と岩の間のくぼみを覗き込む。地面に這いつくばるようにして手を伸ばすと、指の先が固いものに当たったので、何とか掴んで四苦八苦しながら引き出してみる。目にしたマーシャルは、洞窟に入った時に負けず劣らず瞳を爛々とさせた。
「剣だ!」
興奮した大声が洞窟内にわんわんと響く。バスケットを船の中に仕舞い終えたノーノたちが、何だ何だと近寄ってきた。
「本当に剣じゃないか」と驚いて見せ、それからノーノはハッとして剣呑な目つきをした。「ということは、誰か侵入者がいたのか」
不穏な気配に、ハロルドが息をのんで身を竦めた。一方のマーシャルは、きらきらと輝く顔で剣の柄を撫で、刃先を日に透かしている。横から同じように剣を観察していたノーノは、最初の内は鋭かった眼光をだんだんと弱めていく。
「うーん、この剣、随分と年代物だね」
ようやく剣から顔を上げたマーシャルと怖々とこちらを伺っているハロルドに示すように、刃の根元に刻まれた刻印を指さした。
「これ、剣師団の紋章だよ」
「本当だわ」とマーシャル。
「でも、僕らが知っているものと少し違うような」
「その通り。これは、先の戦の時に使われていたはずのものさ。つまり、ざっと六〇年は前のものだね」
「そんなにも?!……どうして、そんなものが洞窟にあるんでしょうか」
ハロルドの疑問に対し、ノーノは「私の方が知りたいな」と肩を竦め、お手上げ状態だということを伝えた。と、そこへ私欲満々で切り込んだのは、すっかり剣を気に入ってしまったマーシャルだ。
「あの、これ貰っても良いですか?」
塗料がはげてくすんだ赤色の柄を抱き込むようにしている。期待を込めてノーノを見上げると、彼はうーんと唸った。
「一応上の方に見せなければいけないけど、最近の物ではなさそうだし、持っていても問題ないと思うよ。というより、手放す気ゼロだよね」
「はい!」
いっそ清々しいほどに歯切れの良い返事をして、マーシャルは喜色満面で赤い長剣を腰に差した。刃がむき出しだが、そこは人気のない洞窟なので問題ないと判断する。年代物だからか、普通の剣よりもずっしりと重く、服が引っ張られる感覚がした。
ルンルンと鼻歌でも歌いだしそうなマーシャルを、ハロルドがにこにこと見つめている。
「帰ったらまた、剣の試合をしましょうね」
「ハロルドったらやる気ね」
「シャリーに少しでも追いつきたいんです。仮とはいえ僕たちはデュオなんですから、足を引っ張らないようにしないと」
「私だってまだまだ精進中だもの。一緒に……」
一瞬間を開けてから、マーシャルは少しぎこちなく笑んだ。
「頑張りましょうよ」
「?はい」
マーシャルの不自然な笑顔を、ハロルドは小首を傾げた。
「そこまでにしようか」
そのまま話し込みそうな勢いの二人の背中をずずいと押して、ノーノは眉根を寄せた険しい表情をした。
「君たち、これは遊びではないんだよ?侵入者がいた場合を想定して、油断なく動かなければ」
慌てて姿勢を正して歩き始めたハロルドとは違い、マーシャルはペロリと舌を出した。先輩剣士のしかめっ面が作りものだと見抜いていたのだ。
「ごめんなさいノーノさん。つい興奮して」
「ディカントリー家のそれには慣れているつもりだけどね」
自分の胸元にある少女の頭を優しく撫でる。さらりとした髪の感触を楽しみながら、ノーノは視線を遠くに遣ってハハハと乾いた笑い声をあげた。
「待機命令出されてるっていうのに、珍しい武器につられて敵軍勢に突っ込んでいくよりマシかな」
始終嬉しげだったマーシャルの表情が一気に曇り、気まずそうに目線を彷徨わせた。
「腹ごしらえも終えたことだし、出発しようか」というノーノの一声により気まずさから抜け出した三人は、岩場の凹凸に足をとられないよう注意を払いながら洞窟の奥へと歩を進めていく。ノーノによれば、夕方近くになると潮が満ちてきて入り口が使えなくなるということなので、周囲を警戒しながらも歩く速度は緩めない。ノーノ、ハロルドの順番で、マーシャルがしんがりを務めた。地面に亀裂が入っていたり、急な段差があったりする所ではノーノがあらかじめ声をかけ、二人が付いてくるのを確認してから再び足を動かす。海水が滴り落ちて反響する以外は、三人の革靴が地面を踏みしめる音しかしなかった。洞窟内は静かそのもので、侵入者などいないに違いないと決めつけてしまいそうな程である。
順調に三人が歩いていくと、奥に行くにつれて両側の岩が迫り出し天上も低くなり、洞窟の入り口付近と同じくらいまで道が狭まっていった。三人は頭上に十分気を付けながら、中腰になって壁伝いに慎重に進んでいく。やがて、海水もほとんど流れ込んで来ない、人が二人分しか通れない様な所まで差し掛かり、ノーノが「止まって」と後ろの二人を制止した。
思いの外長い洞窟に息が詰まる思いを味わっていたマーシャルとハロルドは、ほっと安堵する。頭を下げたまま、ノーノが二人を振り向いた。
「ここが最奥部だよ。この先は道がもっと狭くなっていているから、私一人で確認してくる。といっても、ほんの数十歩だからね、すぐに戻って来るよ」
ノーノの向こうに見えている洞窟の最奥は、道が細いせいか闇に覆われていて突き当りがあるのかさえ分からなかった。不安に襲われたのか身体を固くするハロルドに気付き、マーシャルは彼の左手を握ってやった。まだ幼い少年の手は、少女の物とさほど大きさが変わらない。潰れた豆を触らないように注意しながら、マーシャルはノーノに微笑んだ。
「ここで待っていますから、何かあったら大声出してくださいね」
「頼もしいねシャリー。ハロルドも、万が一何かあったら伝えるから、シャリーと一緒に逃げなさい」
「ノーノさんは……」
「そんなに不安がらなくても大丈夫だよ。君は少し、心配しすぎる嫌いがあるね。私よりシャリーを守らなければね」
ノーノは茶目っ気たっぷりに笑って、軽い足取りで二人の元を離れていった。長身を屈めたノーノの姿が、濃い影の中へ吸い込まれていく。それと同時に足音も消え、青年の何もかもが闇に飲み込まれたようだった。二人は手を繋いだまま、しばし無言で待った。有難いことにハロルドの不安が的中することはなく、数分もしない内に遠ざかっていた足音が再び大きくなった。しかし、ノーノが近づくにつれ、ハロルドだけでなくマーシャルまでも眉を顰めることとなった。
「何かあったんですか」
「いや……」
ノーノは険しい顔つきのまま、言いよどむ素振りを見せた。
「気のせいだといいんだが、とにかく、早めにこの場から離れよう」
気になって仕方なかったが、今度はマーシャルを先頭にして一行は来た道を戻りだす。最初の内は足元をしっかりと確認しながら歩いていたマーシャルだったが、そのうちに最低限の注意を払うだけになり、急いで歩くことに神経を注いだ。
(なに、これ?)
帰り道の海面は、もはや幻想的などという呑気な感想を抱かせてはくれなかった。背後から何かが忍び寄る気配に、マーシャルの背中が一気に泡立つ。つい先程までは、何の気配もなかったというのに!
「走れ!」
とうとうノーノが叫んだ。咄嗟にマーシャルは、ハロルドの片手を掴んで全力で駆けだした。気配の元が何にせよ、相手取るにはこの場所は狭すぎた。三人分の荒い息遣いがやけに大きく響く。それを気にしている余裕もなかった。
前方に大岩に繋がれた小舟が見えた。ノーノが乱暴にもやい綱を外すと、三人は責め立てられるようにして小舟に飛び乗る。船首を出口に真っ直ぐに向け、力強くオールが海面をかく。三者一様にこめかみを汗が伝っていた。点のようだった出口が、その姿を大きくしていく。ノーノが懸命に船を進め、穴の向こうの景色が見えるほど出口に近づいた時だった。
これまでとは段違いの、ぞっとするような何かが小舟の上を覆った。ぴちゃんと、小さく水の跳ねる音がする。続いて液体が滴る音。最後尾に座っていたマーシャルが反射的に船から飛び降りることができたのは、ほとんど奇跡に近いことだった。
飛沫を上げて海面から顔を出したマーシャルは、眼前に広がる光景に金縛りにあったかのように固まり、即座に反応することができなかった。
―――とてつもなく大きな狼だ。
そんな馬鹿みたいに単純な感想しか持てなかった。ハロルドとノーノの二人を丸ごと水の球体に閉じ込めて、その生き物は海上に立っていた。水のように透き通った身体に、ルビーのような血色の目玉が二つ。
水球の中で、ハロルドとノーノが苦しそうに喉を抑えている。二人の口から水泡がいくつも吐き出された。
四本足の獣が悠然とこちらを向く。獣と少女を隔てるのは、誰もいなくなった小舟だけだ。その透明な身体はゆらゆらと不確かだと認識した途端、狼によく似た頭部が膨れ上がり、マーシャルの顔程の大きさになった赤い瞳がぎょろりと動いた。
「っ!」
常備している短剣を太腿から引き抜き、マーシャルはその巨大な瞳へと投げつけた。その隙に岩場へと上がろうとしたのだ。しかし、眼球を貫いたはずの短剣は、透明な獣の身体を通り抜けて水中に落ちる。ボチャンと無様な音が鳴り、短剣は海底へと沈み込んでいった。
それでもマーシャルは、獣の脇をすり抜けて、水球に捕らわれているハロルドの腕を掴み引きずり出そうとした。しかし、水の中に手を突っ込んだ瞬間、選択を誤ったことを悟る。見た目には普通の水でしかなかったのに、透明な液体は生き物のように粘度を持ってマーシャルを腕から絡め取る。
―――このままでは、三人とも助からない。
水を操る獣には、明らかに普通の手段では対抗できなかった。洞窟内と外の気配を探ったマーシャルは、ぐっと歯を食いしばり、次いで大きく息を吸った。
「たっ」
水に飲み込まれる寸前、少女は喉を振り絞るようにして叫ぶ。
「助けて―――!!」
その声が、誰に届くとも知れないで。
―――この馬鹿女、と誰かに怒鳴りつけられた。
その後のことを、マーシャルはあまり覚えていない。
ただ、水球に引き込まれたはずの自分の身体が、気が付くと小舟の上に放り出されていた。黒い人影が、マーシャルと獣の間に立ちはだかっていた気がする。状況を把握する暇もなく、ノーノとハロルドが続けざまに船の中へと転がってきた。洞窟の奥の方から大きな波が襲ってきて、三人の剣士を乗せた小舟は獣と人影の横を掻い潜り勢いよく出口へと流されてゆく。マーシャルには、ぐったりとしている二人の身体を引き寄せ、オールを手に船の転覆を抑えることしかできなかった。塩っ辛い水をかぶりながら無我夢中で出口を抜けると、辺りは嘘のように静かだった。
洞窟から押し寄せる波が、小舟を桟橋の方へと押し流す。離れて行く洞窟を振り返り、マーシャルは悲鳴に近い声を上げた。
「シルバート!!」