憧れと迷い
短めですが、切りがいいので。
―――本当に、あの人はすごい。
ハロルド少年の幼さの残る顔は、内からあふれ出る思いで輝いていた。彼の視線の先では、少女と青年が激しく刃をぶつけ合っている。青年の鋭く重い攻撃を、持ち味である身軽さで避けていく少女。時折、小さな隙を作り出しては反撃するその姿に、ハロルドはますます尊敬の念を強めた。
少女が剣を突出し、青年が素早く身を引く。そこで少女は軽くジャンプして、剣を振り下ろそうとした。勝負に出たのだ。しかし、その攻撃を難なくかわされ、とうとう二人の勝負に決着がつく。少女の首筋に剣先が付きつけられた。
「勝負あったな」
「あー!くそうっ。負けました!」
肩で息をする二人のもとへ、ハロルドは水とタオルを持って駆け寄った。三人がいるのは、五番隊の隊舎の裏手であり、ハロルドは王宮と剣士団の敷地を隔てる柵に寄りかかって試合を見学していたところだった。
青年――マーシャルたち二人の先輩にあたる、五番隊隊員ノーノに水とタオルを手渡し、少年はマーシャルを振り向いた。
「シャリー、お疲れ様。すごかったですよ」
「負けちゃったけどね」
眉根を寄せたマーシャルは、すぐに笑顔になって水とタオルを受け取った。木の器に満たされた水は、火照った体を冷ましていく。一気に飲み干して、マーシャルは地べたに座り込んだ。春先の空は、澄んだ青である。
「でも、本当にすごかったです。シャリ―は僕と変わらない年なのに……。先輩にだって肉薄する勢いでしたよ」
それを耳にしたノーノが「おいおい」と苦く笑った。
「そう言われては私の立場がないな。一応、同期の中じゃあ強い方なんだけれど」
「い、いえ!先輩も勿論素晴らしかったです。とても勉強になりました」
ハロルドは真っ赤になって、ペコペコと謝った。その様子を、ノーノは可笑しそうに眺める。青年の背中まである長い髪が、彼の肩が震えるのに合わせて零れ落ちた。目の覚めるようなオレンジ色をしている。
「まあ、シャリーが強いことは事実だけれどね。気を抜いたら負けてしまいそうだ」
「そんなこと言って、結構余裕だったでしょう」と、じと目のマーシャル。
「いいや、本当さ。でも、私の実力を買ってくれるのは嬉しいよ」
白い歯を見せて笑うノーノの姿には、女性に人気だという噂も納得せざるを得ない爽やかさがあった。何だかなあ、とマーシャルは引きつった笑顔を返し、ハロルドはそんなマーシャルを見つめていた。一秒、二秒、三秒……。あまりに熱心に見つめてくるので――ハロルドには往々にしてそういうことがあったが――マーシャルは気になって、
「どうしたの。なにか顔に付いてる?」と、問いかけた。
「う、ううん!何でもありません……」
ハロルドが顔を赤らめて俯けるのも、いつものことであった。ノーノが、なかなか顔を上げられないでいる少年に模造剣を差し出す。
「ハロルド、次は君の番だよ」
「そんな、僕……上手くできるでしょうか」
ハロルドの心は不安でいっぱいだった。ただでさえ己の剣技に自身の欠片もありはしないのに、あれほどの試合を見せられてしまっては、少年は尻込みしてしまう。初々しい彼の様子に、ノーノは優しく声をかける。
「君らしく頑張ればいいさ、それに」
―――シャリ―に格好いいところ見せたいだろう?頑張りなさい。
囁かれた言葉に、ハロルドは、はっと顔を上げる。その顔はやる気に満ち溢れており、ノーノは満足げに頷いた。
何やら分かりあった様子の二人を傍から見ていたマーシャルは、男ってわけわかんないと、頭を捻るのばかりである。
見習いたちの間に波紋を呼んだ三日前の朝会。団舎と塔に挟まれるように並んだ全団員に向けて、剣士団団長(マーシャルの父である)から発表があった。見習い以外の団員は誰しも承知のことらしく、一様ににやにやと笑っているのが不気味で、少年少女の不安をあおった。
『既に各隊長から連絡がいきわたっていることと思うが、見習い諸君へ発表がある。今年の入団試験まであと二カ月となった。見習い諸君の中にも、もちろん受験するものも多いだろう。そこで、諸君の実力を向上させる意味で、団員たちと実際に任務にあたってもらおうと考えている。
『―――静まったか。任務と言っても簡単なものであり、一般の団員たちが主体となる。しかし、それに安穏とせずに、今後はより一層鍛錬に励んでほしい。明日からは、普段の雑務の他に、鍛錬の時間を設けている。詳しいことは所属隊の隊長から聞いてくれ。
『未来の栄えある剣士たちのために』
―――未来の栄えある剣士たちのために。
最前列に並ばされていた見習いたちは、後ろからの大合唱にぎょっとして振り返った。毎年の恒例行事なのか、後輩の間抜け面を目にした団員たちが腹を抱えて笑い転げる光景がしばらく続いていた。
惚けながら五番隊の隊舎に戻ったマーシャルとハロルド、そして同じ隊に所属している二人の見習い少年たちは、入り口の扉を開けるなり、隊長室へと引っ張りこまれて怒涛の説明を受けることになった。
『団長のお話の通り、君たち四人には明日から特別鍛錬の時間を設けてある。しかし、四人いっぺんに鍛錬をするとなると、普段の仕事に支障が出るのでな、二人一組になって一日ずつ交代で行うこととした。実際に任務にあたる日は、大体一、二週間後だと考えてくれて構わない。それまで、存分に腕を鍛えてくれたまえ。
『―――ええ、デュオ?そうだね、鍛錬を共に受ける相手が仮のデュオを組む相手だと思うといいだろう。正式なものではないが、見習い時のデュオが、そのまま正式なものに変わることもあり得ないことではない。パートナーとなめらかな連携ができればなお良し!』
立て板に水のように話される内容に混乱をきたしたマーシャルの頭は、それから今日に至るまでのことを全く記憶していない。鍛錬時間が増えることは嬉しかったが、何しろ仕事の多さにてんてこまいだった。この三日間は、ろくに呪文学の本も読めていない。嬉しい悲鳴というべきだろうか。複雑な気持ちで毎朝を迎えるマーシャルである。
乾いた地面が土煙を上げていた。その中から、「わっ!」と高い悲鳴が聞こえてくる。勝負あったとばかりに、ノーノとマーシャルは、砂まみれになったハロルドのもとへ向かう。あちこち擦りむき、ごほごほと咳き込んでいる少年を、マーシャルが片手で引っ張り上げた。
「前より随分強くなったわね」
「ほ、本当ですか?!」と、ハロルドが勢い込む。
「自分でも分かってるでしょう?今日は何度か打ち合えてたじゃない」
ノーノがマーシャルに同意するように言い加える。
「ああ、最初のころは一撃で転がっていったからね。短い間でよく上達した」さらに、にやりと意地悪く笑って「春の力は偉大だね」とハロルドをからかってやる。少年は、熟れたリンゴのように赤くなったが、マーシャルに熱視線を注ぐことはやめなかった。
「……でも、まだまだシャリーには敵いません。やっぱり、貴女は僕の憧れです。仮とはいえデュオを組めて、僕本当に天にも昇りそうな気分だったんですから」
そんなことを臆面なく真正面から言われてしまい、今度はマーシャルが赤面する番だった。きらきらとした瞳を向けられ、たじろぎながら礼を言う。ハロルドの純粋さに、からかった張本人さえ苦笑する始末である。
「シャリーを目標にするのは良いことだと思うよ。この調子で頑張れば、正式な入団の後も二人でデュオを組めるかもしれない」
「本当ですか?!」
「あくまで可能性の話だけれどね」
ハロルドは少し先の未来に思いを馳せ、憧れの人の隣に並んでいたいと強く願う。
「僕、頑張りますね」
まごうことなく、マーシャルに向けられた決意だった。きらきらと、ただ真っ直ぐに前を見つめるハロルドの姿が、棘のようにちくりと刺さる。先ほどの試合について話し込むノーノとハロルドの後方で、マーシャルはぎゅっと胸を押さえた。視線を落とすと、数匹の蟻が食べかすを抱えて地面を歩いている。黒い蟻たちの中で、一匹だけ道を失ったのか、ぐるぐると回っているのがいた。
―――迷い続けることはできないから、覚悟を決めなければ。
そしてもし、マーシャルが答えを見つけたとして、誰かを悲しませることも有り得るのだろうか。ハロルドの痛いほどの憧憬が、マーシャルに問いを投げかけ続けていた。
隊長の述べた通り二週間後に、マーシャルたちの初任務の日はやって来た。
ハロルドと二人、期待を胸にノーノに連れられて早朝の王宮を出た。半月がうっすらと消え始めた空の下、灰色の堅牢な城がひっそりとそびえたつ様子には、無意識に息が詰まる。正面の大門が開くまでには時間があったため、門兵に頼んで、傍らの小さな扉を開けてもらう。簡素な木戸に取り付けた蝶番が、小さく悲鳴を上げた。平らな石を川底に並べただけの橋を渡って、三人は街の西端に降り立った。ノーノがあらかじめ呼んでいた辻馬車に乗って、いよいよ王都を出て目的地に向かう。
車輪の振動が身体に伝わってくる。舗装された道を外れると馬車はより一層揺れ、ハロルドは両手両足を踏ん張っていた。マーシャルは、鎖骨の下でカシャカシャとなるペンダントの鎖を抑えながら、窓から流れる景色を眺めていた。クリーム色の壁と橙色の焼煉瓦の屋根が、道を挟んだ両脇に立ち並んでいる。
家並みが途絶えたところで、向かいに座るノーノと目が合う。ハロルドが揺れの大きさに四苦八苦している様子を楽しそうに観察していたはずのノーノは、笑いをかみ殺しながら、いつの間にかマーシャルへと視線を移していた。
「緊張している?」
「いえ、それほど」あっけらかんとした答えに、ノーノは笑った。
「さすがだね!将来はきっと大物になるよ、シャリーは。末は団長か……と言いたいところだけど、君の上には化け物みたいな奴らがいるからな」
「兄さんが聞いたら怒りますよ」
「大丈夫、私がセトラーに怒られなかったときなんてないからね。小言の原因が一つや二つ増えたところで、痛くも痒くもないさ」
飄々と言ってのけるノーノに、マーシャルはいっそ感心した。実はこの青年、マーシャルの上の兄と同期の入団者なのだが、二人は水と油のように相容れない関係だった。数年間デュオを組んでいたことがあると聞いた時には、驚きの余り目を見開いたまま固まった経験がある。
ようやく馬車に慣れてきたらしいハロルドも、いそいそと話に加わってきた。
「でも、ノーノさんとセトラー様といえば、噂に名高いデュオですよね。それなのに仲が良くなかったんですか」
「仲が悪いわけじゃないさ。セトラーのことを嫌っているわけじゃないからね。まあ、セトラーの方は、『貴様はチャラチャラして好かない』とか言っていたけれど」
ノーノの女性受けのする言動は、確かに兄の癇に障りそうだとマーシャルは納得した。それと同時に二人の関係が、どこかの誰かさんと自分を彷彿とさせてげんなりとする。
「ていうか、アンタ、なんで兄さんのこと様付けで呼んでるの」
「ええ?だって、剣士皆の憧れじゃないですか」
「団長じゃなくて?」
そう聞くと、ハロルドは大げさに手を振った。「団長は畏れ多すぎて」という言葉に、ノーノは苦笑交じりに頷き、マーシャルは不満げに唸った。
「じゃあ、前の団長は?私の憧れなの」
「ぜ、前団長?!それこそ伝説じゃないですかっ」
今度はノーノも一緒になってぶんぶんと首を横に振るものだから、マーシャルは不機嫌に鼻を鳴らした。
王都とガゼルトの港に背中を向け、馬車は轍を伸ばしていく。馬車が二台すれ違えるくらいの道の両側には草原が広がっているはずだが、春を迎える前のそこはまだまだ寒々しい。ディカントリー邸のある丘が遠目に見えるところを走っている途中、荷車を引く驢馬とすれ違う。とぼけた顔は、馬の精悍な顔つきとはまた違う魅力を感じる。「春が近づくので、王都に商いをしに行くんですよ」とハロルドが教えてくれた。マーシャルとノーノが物知りだと褒めると、少年は「実家が商家なんです」と控えめな笑顔ではにかんだ。とぼけ顔の驢馬がどんどん遠ざかっていく。すれ違うのも離れるのもあっという間だった。
昨日までの緊張も何処へやら、景色と言う景色をのんびり楽しみながら馬車に揺られていると、そのうちに岬と入り江が交互に現れるようになった。王都から二時間ほど、一際大きく陸を侵食した入り江の側面にできた海食洞窟、そこが今回の目的地だった。
「帰りも頼む、日が暮れる前に王都に着くよう迎えに来てくれ」
「了解しましたよ。頑張ってくださいね、剣士さま方」
ノーノから行きの運賃を受け取りホクホクとした御者は、激励の言葉と共に去っていった。
(剣士さま方ですって、シャリー)
(私たち、まだ見習いなのにね)
そう小声で交わして、二人は顔を見合わせた。双方、嬉しいけれどくすぐったいという表情をしている。ぽんっとノーノが二つの小さな背中を叩いた。
「一丁前に照れていないで、さあ初任務に向かうよ。くれぐれも気を抜かないように」
「はいっ!」
二人は元気の良い声で返事をし、先を行くノーノの後を追うのだった。




