王宮剣師たるもの
王宮の裏手、ちょろちょろと水の流れる水路を脇に、女たちが、手を真っ赤にして洗濯をしていた。
たらいに張った水は凍りのように冷たく、背中に寒気が走るが、女たちは誰一人として手を動かすことを止めはしない。数歩離れた木の根元にどさりと置いてある大きな編みかごには、まだまだたくさんの汚れた衣服が残されている。「まったく、うちの末っ子よりひどい汚しっぷりだね」、「仕方がないじゃない、激しい訓練をされるんだから」。女たちは手と口を同時に動かして、洗い終えたものを次々と干していく。洗濯物を干すためのロープが、木々の間を伝って張り巡らされており、白いシーツがパタパタとはためいていた。
その間を縫って、二人の小さな人影が移動していた。時折、茶色の頭がぴょこりと覗いては、シーツの裏へと隠れる。彼らがシーツの林を抜けたところで、手前で洗濯をしていた女性が二人に気が付いた。
「おはようございます!今朝の分、持ってきました」明るくはきはきとした少女の声が、早朝の洗濯場を通ってゆく。一旦手を止めて、立ち上がった女性は、木の根元を指さしながら言った。
「二人ともお疲れさん。かごは、木の下に置いておいてちょうだい」
「はい!」
「分かりました」
明快な少女の声のあとには、声変わりしておらず、まだ甲高いままの少年の声がつづく。二人は両手に抱えた編みかごを――一人は乱暴に、もう一人は静かに置き、うんと背伸びをした。
「ぼく、もうへとへとですよ」
「ハロルドったら、毎日それよね。見習いはじめて何か月目よ」
「えーと、一〇か月目、かな?去年の春に入りましたから」
「でしょう?私より大分先輩なのに。よし、腕立て伏せの回数増やそう」
「勘弁してくださいよ、シャリー」
もともと垂れ気味の眉を更に下げる見習い仲間に、シャリー――マーシャルは、拒否はさせないとばかりに微笑んだ。ハロルドはふにゃりと泣きそうな顔をするが、マーシャルはお構いなしで、少年の片腕を掴んで強引に引っ張る。その力があまりにも容赦ない強さだったので、二人が五番隊の隊舎に到着するまでに、ハロルドは何度も小石に蹴躓いて転びそうになった。
王国を守る双璧、王宮剣師団は、日々鍛錬を欠かさぬ精鋭たちが集まると専らの評判である。その頂点である剣師団団長と十人の隊長たちに至っては、一騎当千の強者ばかりであると、魔法師団と並ぶ国民の自慢となっていた。
そんな剣士たちに憧れて、または各々の事情を抱えて、剣師団見習いの枠には毎年応募が殺到する。夢見る少年少女の見習いの日々は、毎朝大量の洗濯物を抱えて、城の周りを往復することからはじまり、所属隊舎内の掃除、冬になれば落ち葉拾い、雪かき、使われていない武具の手入れ、夕方になれば洗濯場と隊舎を行き来して、隊員たちに洗い終わった衣服やシーツを届けなければならない。その他にもやらなければならないことは山ほどあり、一日が終わった頃、彼らには立ち上がる気力もない。過酷な毎日に耐えられずに辞めていく者もいたが、残った者たちは、疲れた体を引きずり、空いた時間を見つけては、仲間同士で剣技を高め合っていた。
太陽に代わって白い月が空に昇る頃、南の塔と向かい合うように立つ団舎の一階からは、空腹感を刺激する匂いが漂ってきていた。任務を終えて空きっ腹を抱えた隊員たちが、誘われるようにぞくぞくと団舎の食堂に集まった。
マーシャルとハロルドは、五番隊の他の見習いたちと共に、夕飯の準備をしている真最中である。剣師団では副隊長以上の階級の者を除き、全員が団舎で食事をとるため、毎回の食事の準備を手伝うことも、見習いたちの重要な役割であった。
「よし、盛り付けかーんりょう!」
空っぽになった大鍋を見て、マーシャルは額の汗をぬぐった。彼女はシチューを椀に注いでいたのだが、立ち上る湯気で顔が赤らんでしまっている。そこへハロルドがやって来て、「おつかれさまです」と声をかけた。
「顔が真っ赤ですよ」
「そういうアンタこそ、大分息が上がってたわよ」
「お、お恥ずかしいです」
空になったトレイを厨房に持って帰り、焼き上がったパンを運び、次は別の空のトレイを―――という具合に二か所を行き来していたハロルドも、マーシャルと同じくらいには頬を上気させていた。ふわふわとした鳶色の髪が、ところどころほつれている。
すっからかんになった鍋やトレイを洗い場に運び終え、代わりに受け取った見習い用の食事を持ってテーブルに着いた時には、食堂はすっかり閑散としていた。マーシャルたちと同じように席に着き食事をはじめる見習いがいるくらいで(マーシャルは詳しく知らなかったが、先月までは見習いは全部で三十八人いた。今は三十二人なので、六人は辞めたことになる)、整然と並べられた木製の長机と長椅子がどこか寂しげだ。
隣同士に座った二人は、しばらく無言でパンとシチューを貪っていた。
シチューを飲み干し、残りのパンが半分ほどになったところで、マーシャルがはじめて話しかけた。
「そういえば、さっきの何だったのかしらね」
「え?」ハロルドはキョトンとした後、納得して頷いた。「ああ、明日の朝会のことですか?見習いだけへの発表って何でしょうね」
二人があれこれ予想して話し込んでいる所に、ぬっと割り込んできたのは同じ見習い仲間の少年だ。
「やっぱり、お前らも気になるよな!俺らもなんだ」
いつの間にやら、マーシャルたちのテーブルの周りに人の輪ができていた。朝会は、剣師団に所属する全員が一堂に会し、王宮に仕える剣士の心得を確かめ合う、そして師団全体への知らせが伝えられる場である。そこで見習いだけに向けて発表があると、今日の昼に各隊の隊長から言い渡されたばかりなのだ。
「知らないうちに粗相をしてしまったわけじゃないよね。それで連帯責任とか……」と、誰かが不安げに呟く。
「縁起でもないこと言うなよ、そんなことは聞いてないし、きっと良いことに違いないさ」
「また、そんなお気楽なこと言って。期待してがっかりするのは御免だね」
ワイワイ、がやがやと騒ぐ面々。マーシャルも盛んに話し合いに加わった。ハロルドはハロルドで、同意を求められて、頷いたり困り顔をするのに忙しい。
「ねえ、もしかして『デュオ』と関係あるのかもよ」と、ハロルドの左隣に腰掛けていた少年が言うと、何人かが顔を輝かせた。はてな、とマーシャルは首を傾げる。
「でゅお?」
「なんだよ、知らないのか」マーシャルが聞きなれない言葉に反応し損ねているのを見かねて、発言者の少年は呆れながら説明してくれた。
「デュオっていうのは、団員同士が二人一組になって組むんだ。一隊が動くには小さすぎる案件を担当したり、王宮や儀式の警備の時にはデュオで見回りをしたりする。いざって時の連携も求められるし、行動する時にはデュオが基本になる」
「へええ」
何も知らずにいたマーシャルは、感心して話を聞いていた。ハロルドは元々知っていたようだが、他の何人かはマーシャルと同じような反応を見せている。注目が集まったことに気を良くした少年は、「だからさ」と、とっておきの話をするように声を潜めた。自然と他の見習いたちは彼の声に耳をそばだてる。マーシャルも身を乗り出して聞き入っていた。
「俺達って、剣師団に入る予備隊みたいなもんだろう?今の内から、デュオのパートナーを決めておく心づもりかもしれないぜ、先輩たち。そうすりゃ、入団してすぐに任務を任せられるしな」
「じゃ、じゃあさ」と、後ろの方にいたのっぽの少年。
「そのパートナーとの相性とかが、今後の評価に大きく関わって来るってことだよな」
「そういうこと!」
その言葉を合図にしたように、見習いたちはそれぞれ話し合いを再開した。食堂内が再び騒がしくなる。
「なんだか大変そうですね、明日は」
ハロルドの隣で、マーシャルはパンをむしり取っては、黙々と口に放り込んでいた。ハロルドは、デュオのことへ思いを馳せ、少しうっとりとした。
「僕、できればシャリーと組みたいな……なんて。おこがましいかもしれませんけど」
ハロルドの控えめな願いに、マーシャルの胸がドキリとした。それを悟られないように、すばやく笑顔をつくる。
「……何で。そう言ってもらえて嬉しいわ」
「シャリーと組みたい人は多そうですよね」
「ディカントリー家の娘だから?」
「違いますよ」ハロルドは、咎めるような顔つきをした。「シャリーがすごい剣士だから」
「ありがとう」小さくとお礼を言ったマーシャルはすぐさま俯いてしまったので、彼女の珍しくもこわばった表情に、ハロルドが気づくことはなかった。喋っているうちに白い膜が張ってしまったシチューを、彼は慌ててスプーンで掻き混ぜた。
食事を終えたマーシャルは、五番隊の隊舎の入り口でハロルドと別れた。「おやすみなさい」と声を掛け合い、互いの部屋に戻ってゆく。奥から二番目の左側の部屋が、マーシャルに与えられた部屋だった。コツコツと、軽く扉を叩くが、中からの反応はなかった。
「只今戻りました」
案の定、部屋の中には誰もいなかった。剣師団は隊員の数が多いため、基本的に二人一部屋となっている。五番隊には同性の見習いがいなかったため、マーシャルは年上の女性隊員と部屋を共有していた。
燭台に火を灯して部屋を明るくし、扉の真正面に位置している両開きの出窓を開け放って空気を入れ替える。春先の空気は冷たく、夜ならば尚更だった。窓淵には、丸みを帯びた透明なガラス瓶が置いてあり、桃色の花が品よく飾られていた。同室の女性隊員の趣味であり、週ごとに変わる花瓶の様子は、そういった趣味とは無縁のマーシャルでさえ存分に楽しませてくれた。
窓を閉めて簡易な鍵をかけ、マーシャルは二段ベッドに立てかけてある小さな梯子を、大股二歩で上りきった。ごろりと横になると、ベッドの底板がかすかに軋む。立ち上がらずとも手が届くほど近くなった天井を見つめながら、マーシャルは廊下の気配を探った。
(まだ、帰ってこないわよね)
任務やその報告などの仕事で、一般の隊員たちの帰りは、マーシャルたち見習いよりも遅かった。遅いと言ってもそれほど一人の時間が多いわけではないので、マーシャルは急いで枕元に手を突っ込み、一冊の本を取り出した。もう半年以上前になる、魔法師団にいた時に貰った給料で買った本だった。街の一番小さな、知り合いに見咎められないような店を探して、こっそり手に入れたのだ。表紙に彫られた『魔法呪文学入門』という金色の文字を、指先でそっとなぞる。
(えーと、こないだは『自然を操る魔法』まで読んだから……今日はここからね)
うつぶせになって、枕の上でページを繰る。
さして分厚い本ではないにも関わらず、未だに読み終っていないわけは、誰からも隠して読んできたからである。週に数ページしか読み進められない時もあった。
「ルークス」
そう唱えると、手のひらに球体の形をした光が現れた。熱も感触もないそれを、ボールのように放り投げると、ふわふわと漂って、枕元でピタリと止まった。
光の魔法は、マーシャルが炎の魔法の次に覚えたもので、もう何度も使っていたが、胸を満たす感動は一向に薄れる様子がない。むしろ、ますます魔法への憧れが強くなっていくと思ったのは、きっと気のせいではなかった。
(「上級魔法へつづく道―――さて、ここまでは呪文学の基礎知識を語ってきたが、本書もいよいよ終盤に近づき、ここからは基礎知識を応用した上級魔法呪文について少し話していこう。初級魔法・中級魔法を行使する際に必要とされるのは、正確な呪文の発音、単純な魔力の放出であったが、上級魔法に限っては、さらに難易度の高い技術が必要とされる。瞬時に体内の魔力を大量に練り上げ、手に平に集中させて留める。それを「ヴィンディカット(解放)」の言葉と共に一気に放出することによって、初級・中級魔法の数倍もの威力を発揮することが可能となる―――」)
と、そこまで読んで、マーシャルの頭には、とある人物の輪郭が浮かび上がった。
(私なんか、本読んでても全然上手く使えないのに……、すごいなあ)
彼の人は、マーシャルに憧れられていることなど考えもしないだろうが。
―――私だって、死んでも羨ましいとか言わないけどね!
先程の考えを撤回するように小声で言って、マーシャルは再びページに目を落とす。
4ページほど読み進めたところで、同居人が帰室した。金茶色の髪を短く切った、すらりと背の高い格好いい人である。
「お疲れ様です」
本を枕元に隠したマーシャルは、ベッドから降りて――もちろん梯子を一段ずつ下って、先輩を迎えた。
「ただいま、シャリー。まだ着替えてないのかい」
「ついさっき、戻ったところなんです」
「そうか、見習いも大変だね」
嘘ではないけれど、少し気が咎める。
先輩が皮の鎧を脱いでいる間、マーシャルは裏の甕から金だらいとコップに水を汲んできて、金だらいの方を談話室の暖炉で温めた。持ち帰った水がぬるくなった頃を見極めて、二人は全身の汗を拭く。着替えてしまえば、かなりすっきりした。
マーシャルはベッドには戻らずに部屋に二つある丸椅子に腰かけて、先輩が花瓶の水を替えるのを眺めていた。窓から外に古い水を捨てて、コップの水と入れ替える。さらに先輩は、新しく白い花を挿した。茎が途中で三つに分かれ、その先に麦粒のような大きさの花が鈴なりに咲いている。桃色の花を際立たせていて、とても綺麗だとマーシャルは思った。
「そうだ、シャリー」と、振り向く先輩。
「『剣の誓い』は終わらせたのかな」
あっと小さく声を上げる。先輩は優しく微笑した。
「それなら一緒にやろうか」
入り口から見て左側の壁に、短い一文が刻まれていた。膝をつくと丁度目線の位置にくる文字たちは、小刀で彫られているらしい。不格好な文字が右肩上がりで並んでいる所が、最初にこれを彫った人の性格を感じさせて、微笑ましい。
先輩が朗々とそれを読み上げ、マーシャルもそれに合わせて声を出した。目を瞑っていても、一言一句違わない自信があった。
―――王宮剣士たるもの、国のために、剣に生き、剣に命をかけるべし。
剣師団に所属する剣士たちが、自分を戒めるための言葉である。薄目を開けて右隣を伺うと、先輩は祈るようにじっと瞼を閉じていた。
この文句を唱えることで、自分が誉れ高き王宮剣師団にいるのだと実感する。そう、兄たちが、誇らしげに語っていたことを、マーシャルは鮮明に覚えていた。ずっと憧れてやまなかった言葉が、今のマーシャルには重くのしかかる。自分がこの言葉に背いていると自覚していたからだ。
―――私は、本当に、剣に一途に生きることができるのだろうか。
丘の上の白い家にいた頃のマーシャルならば、一笑に付していた疑問だった。自分が剣を手放して生きることなど不可能だという気持ちは変わっていない。強いて言うならば、どこまでも真っ直ぐに続いていた一本の大きな道の脇に、違う方向へと導いてくれる小路がふいに出現したのである。ほんの小さな迷いは、マーシャルを大いに戸惑わせていた。
先輩はまだ仕事が残っていると言ったので、燭台を机に移して、マーシャルはベッドに潜り込んだ。「おやすみなさい」と就寝の挨拶を交わして瞼を下ろす。見習いの朝はとても早く、朝日が昇る前には起きなければならない。マーシャルの疲れ切った身体と頭は、すんなりと睡魔に負けてしまい、あっという間に深く眠り込んだ。
心をちりちりと焦がすような迷いから逃れるために、何も考えないで済む海の底のように、深く深く。