閑話―彼女にふさわしいもの
朝日の眩しさに目を覚ましたユンスティッドは、ベッド脇に吊るしてあるノストラ神殿の紋章が刻まれたガラス板を、ぼんやりとした視界にいれた。
―――海と我らの父たるポーミュロン、我らが貴方を愛し敬い恐れるように、貴方も我らをお慈しみください。昨日と今日と明日に祝福を。
すばやく祈りの文言を唱え終えると、ベッドから身を起こしてカーテンを開ける。高い城壁と茂った緑の後ろに、大空とたなびく白雲があった。日当たりが悪い部屋だったが、そのおかげで眩しい太陽光に目がくらむことはない。ユンスティッドは、昨晩の作業で凝り固まった首を、こきりと左に傾けた。
―――王宮を騒がせた盗賊団の事件から約二月、マーシャルが魔法師団を去ってから一月が過ぎていた。
森の緑は未だに夏の装いを残してはいるが、頬を撫でる風は涼しく、冬の接近を知らせていた。ユンスティッドは素早く着替えると(彼の衣装は似たようなものばかりだったので、迷う必要は全くなかった。せいぜい、袖の長さが違う程度である)、隊長室へと向かい、扉を叩いた。
「開いてるぞ。―――ああ、ユンスか。おはようさん」
「おはようございます」
腰を折ってきっちりと頭を下げるユンスティッドの態度に、律儀な奴だとエヴァンズは思う。真面目なのは良いことだが、エヴァンズ自身が自他ともに認める楽観主義なので、少年の性格では息がつまりそうだと感じてしまう。
「今日は、俺から伝えることはない。自分の時間に当てて構わないぞ。ああ、ただ他の隊員が頼みごとをした時はいつも通りよろしくな」
「承知しました。昨日のことですが、ゲラークさんの研究は、薬品の微調整で上手くいきそうだということです」
「そうか。これで、しばらくは騒音に苦情がくることもないな」
一週間ほど絶えず鳴り響いていた爆発音に、敷地を警備する剣師団団員から山のような苦情が届いていたため、エヴァンズは毎日頭を悩ませていたのだ。魔法師団では耳栓をしてやり過ごすことが暗黙の了解となっているが、剣師団ともなれば聴覚を遮断するわけにもいかずに不眠症が多発したらしい。事情を知っていたユンスティッドは、軽く苦笑した。
「すごい音でしたからね。ですが、今回の研究で、キカル石の新たな使用法が見つかりそうですよ」
「キカル石は薬の材料としては優秀だな。傷薬にもなるし……よし、剣師団には『今後の負傷者の治療に大いに役立つ成果をあげました』と報告して、丸く収めてもらうか!」
ぱちんと指を鳴らし、エヴァンズは早速引き出しから書類を引き出した。
「それでは、僕は自室で本を読んでいますので」
「おう。あんま根詰めるなよ、若いんだから」
「若いからこそでしょう」
ユンスティッドはさらりと言ってから、隊長室の扉を静かに閉めた。それを見届けたエヴァンズは、ぼそりと呟く。
「アイツと足して二で割れば、ちょうど良いくらいだったんだがな」
一月前に、嵐のように去っていった少女を思い浮かべた後、気を取り直して書類の作成に取り掛かった。
隊長室を出たユンスティッドが自室へと戻る途中、背後から声がかかった。
「待って、ユンス君」
若い女性隊員が、小走りに駆け寄ってくる。七番隊副隊長を務めるキルシュ=カーズだ。七番隊には彼女より年上の隊員が幾人もいたが、彼女自身の面倒見の良さと生真面目な性格により、その地位に文句をつけるものはいなかった。魔法師と言う人種は、面倒なことをひたすら嫌うものが多いため、階位が上がらないように問題行動を起こす隊員もいるくらいで、常日頃から上層部の悩みの種となっていた。
「ちょっと頼みたいことがあるのだけど、時間いいかしら」
「構いませんよ。暇ですから」
「実は、剣師団へ届けなければならない書類があるんだけど、急用ができてしまって」
「ああ、代わりに届ければいいんですね」
困った様子のキルシュの頼みを、ユンスティッドは快く引き受けた。魔法師団の中では比較的常識のある彼女には、ユンスティッドも世話になっていたからだ。
「ごめんなさいね。学院に講義に行く予定だった隊員が、熱を出しちゃったみたいなの。それで、私が代理講師をすることになって」
「それは大変ですね」
王国が抱える唯一の学術機関は、北の森を越えた先の街にあった。ユンスティッドもかつて数年通っていたため、レンガ造りの巨大な校舎の景観が思い出される。慌ただしく隊舎を去るキルシュを送り出したユンスティッドは、渡された書類を一瞥した。
(……あの事件の事後報告か)
隊舎を出て、剣師団の敷地へと足を進めながら、ユンスティッドの記憶が蘇っていく。
見習い仲間と何だかんだ協力して盗賊団と戦った怒涛のような一日のあと、翌日からは罰則に追われる日々だった。エヴァンズに言い渡された反省文と草取りは勿論のこと、他の隊の隊員に用事を言いつけられることが増えた。明らかにユンスティッドの失態に付け込んで、面倒事を押し付けていた彼らに、何度怒りを抑え込んだことか。マーシャルが復帰するまでの二三日が一番大変だった。主に体力的な意味で。
灰色の廊下を渡り、噴水のある中庭を横切って、段差の小さい階段を上り下りする。石造りで無愛想な感じのする王宮だったが、窓や渡り廊下から臨む庭の、芝生の緑や整えられた花壇が彩りを添えていた。派手すぎない所が、割かし少年の気に入っていた。
事件を起こした盗賊団は、一週間もしないうちに剣師団の手により捕えられた。元々、目をつけていたところらしく、これを機にアジトを突き止めたとエヴァンズから伝え聞いた。指揮を執ったのは、ディカントリー家の長男であり、鮮やかな手腕には称賛が浴びせられた。妹の方はこってりと絞られたらしく、珍しく覇気がない様子が印象的だった。
つらつらと記憶をたどっている間に、剣師団のある南の塔が間近に迫っていた。塔の一階で、事務仕事を受け持つ文官に書類を手渡すと、ユンスティッドの用事は終わってしまう。
(随分と、魔法師団とは様子が違うんだな)
両団の本拠地は王宮の両端にあるため、ユンスティッドがこちらを訪れるのは初めてだった。賑々しい掛け声や、絶え間なく剣のぶつかる音が聞こえるのが珍しくて、彼はぶらりと見学してみることにした。隊舎が点在しているのは魔法師団と変わらないが、人数が圧倒的に多く、部屋の数は足りているのかと疑問に思う。あちこちで、剣士たちが血気盛んにぶつかり、また強者たちから稽古をつけてもらっていた。団舎の裏は、一際広い鍛錬場が広がっている(そうは言っても、低い柵で囲まれた平らな地面があるだけだったが)。ちょうど誰かが練習試合をしているようで、人だかりができていた。ユンスティッドは、団員たちの後ろから、それを覗き見ることにした。
カンッと甲高い音が響き、剣が弾き飛ばされる。どちらも若い剣士で、実力は同程度。白熱した試合だった。それを観戦していた男の一人が、前に進み出る。
「誰か、俺とやりたい奴は居ねえか」
腕と足が丸太のように太い、見るからに屈強な剣士である。すると、間髪入れずに名乗り出た声があった。
「はい!私がやるわ」
「なんだ、ディカントリーとこのガキか。お前まだ見習いだろう。どうせなら兄の方連れてこいよ」
「私に勝ったらね」
挑発するように笑って細身の剣を構えるマーシャルに、相手の男は「いい度胸だ」と言って襲いかかった。マーシャルが軽快に避けると、分厚い両手剣が地面を叩き割る。素早さではマーシャルに軍配が上がるが、全体としては劣勢だった。しかし、少女の笑みは曇ることなく、傷ができてもなお楽しげである。ユンスティッドは、知らず知らずのうちに、二人の試合に魅入っていた。
ところで、あの事件を機に、ユンスティッドとマーシャルの中が改善されたかと言うと、そんなことは有り得なかった。鬱憤としていたものが多少は解消されたものの、やましいところが無くなったことで、むしろ二人の性格の食い違いはますます顕著になった。事件から数日の内は、マーシャルも謙虚な態度を見せていたため、ユンスティッドの気分も穏やかだったが。
『お前、まだ終わらないのかよ。ラベル貼りくらいさっさと終わらせろよ』
『しょうがないじゃない。薬の名前なんてわかんないんだもの』
『剣師団でも、治療薬ぐらいは扱うだろう?それぐらい覚えとけ。まあ、その小さい頭に入らないなら仕方ないか』
『な、頭でっかちよりマシよ!この……チビッ!!』
この短いやり取りが、二人の関係を再び決定づけた。エヴァンズが嘆いていたのには良心が痛んだが、ユンスティッドには関係を修復する気はさらさらなかった。マーシャルにもその気がないことは明白である。結局、いがみあったまま、マーシャルは魔法師団を去っていった。去り際に、「アンタがいなきゃ、魔法師団にいても良かったのに」と名残惜しげな厭味を言われたため、ユンスティッドの送別の言葉は「それなら、魔法師団初の脳筋能無し魔法師の誕生だな」であった。
分厚い剣の刃が、倒れ込んだマーシャルの右脇に突き刺さった。男がニヤリと勝利の笑みを浮かべる。マーシャルの負けだった。周りに集まっていた剣士たちが、やんやと喝采を浴びせかけた。「次は俺がやるぜ」と早速進み出ていく者もいる。
マーシャルは、一瞬悔しそうにしたものの、すぐにからりとして再び観戦に回った。ユンスティッドは少女に勘付かれないうちに、するりと輪から抜けた。マーシャルの勘の鋭さは侮れないと、よく知っていたので。
―――やはり、剣を握るのが合っていると感じた。あの少女には。
ユンスティッドには山積みの本が似合うように、マーシャルにも相応しいものがあるとすれば、それは間違いなく剣だろうと、付き合いの浅いユンスティッドでも理解できた。
ひょんなことから一緒の時間を過ごした二人だったが、これからは別の道を行き、その道が交わることはないだろう。ユンスティッドは、それが寂しいことだとは思わない。むしろ、彼と彼女の道が数カ月でも交わったことが、ひどく不思議だった。あれほど神経を逆なでする人間に、今後出会うことはあるのだろうか。
(できれば出会いたくないな。あいつと会うのも、もうこりごりだ)
剣師団の敷地から離れ、南の塔の先だけが見える所まで歩くと、ユンスティッドは立ち止まって振り返った。
同じ王宮にいる限りマーシャルと一度も顔を合わせないことは難しい気がするが、せめて数年―――ユンスティッドの背丈が彼女のそれを超すまでは(そうなるはずだと少年は頑なに信じていた)、そんな事態が起きないことを祈る。
足早に魔法師団の隊舎へと向かうユンスティッドの背中を、天辺に登った太陽が照らす。彼のブーツが石の床を鳴らす音が規則正しく響き、昼間の陽気な太陽が、心地よさげにその足音の刻むリズムにのって揺らめいていた。
少年の願い虚しく、それから一年も経たないうちに、二人は再会を果たすこととなる―――。
第一章完結です。