最終話―あなたが一番
マーシャルが橋の支柱を伝ってホールの一階に下り立ったところ、黒い人影が本邸の方からやって来るのが見えた。シルバート公爵だ。本邸への出入り口を塞いでいた氷は溶けきって水たまりとなっている。
「二人とも無事かね」と公爵。
「まあ、何とか、はい」
危機一髪、命からがらという感じだったが、無事なことに変わりはない。少し目線を逸らしながら、マーシャルはそう答えた。すぐに公爵の方を見た。
「公爵さまもご無事で何よりです」
「君たちのおかげだよ。向こうの剣師団の団員も奮闘してくれた。幸いなことに、こちら側に犠牲者はいない」
それを聞いて、兄たちが無事なことを知る。胸を撫で下ろして安堵した。まあ、自分が無事であの兄が負けるなどありえないことなのだが。
公爵は、顔色一つ変えずホールの中を隅から隅まで見回していた。とりわけ、二階と一階に茂っている氷と樹木のジャングルを。そういえばここ、この人の家だっけ、と今更ながらに冷や汗をかきはじめる。いや、でもホールを壊した犯人はこの人の息子だ。つまり私は悪くない、大丈夫。万が一家族に伝わりでもしたら、父と長兄の逆鱗に触れるに違いなかった。
大丈夫ダイジョウブと呪文のようにぶつぶつ唱えていると、公爵が短くも深いため息を吐いた。
「まったく、我が家をこんな有様にして……」
マーシャルは即座に謝罪の姿勢を取ろうとした。だが、それは必要のないことだった。公爵は本邸の出入り口を振り返り、「全てあなたのせいですよ」と不満を訴えた。疲れ切っていたマーシャルは、物陰に隠れていた小さな気配に全く気付かずにいた。現れた老人の姿を見て、口と目を大きく開く。
「ほっほっほっ」
老人は朗らかに笑った。黒い燕尾服に身を包んだ小男だった。目が線のように細くて、額と目尻に三本のしわがある。顎からは山羊のような白ひげが生えていた。マーシャルは口を金魚のようにパクパクとさせながら、震える指先で老爺を指さした。
「や、やや、ヤギのお爺ちゃん!何でここに?!」
何故ここに、と言ってはみたものの、この老人が舞踏会に参加していることは既に知っていた。公爵邸に侵入した直後にすれ違いそうになり、結果的にマーシャルに物置の場所を教えてくれたのがこの老人だったからだ。
「久しいの、シャリーちゃんよ」
「ええ、ちょっと待って。ヤギ爺ちゃんがこの場にいるってことは……」
いや、まさかそんな。だってそうしたら私たちの努力と血と汗と涙が……涙は流していないけれど。嫌な予感に頭を振ったが、山羊髭の老人はあっさりと種明かししてくれた。
「そうじゃよ、儂が黒幕じゃ」
「やっぱり!」
膝から崩れ落ちそうになるのを堪えながら、マーシャルは小さな老人の胸倉をつかんで揺さぶってやりたい気持ちを必死に抑え込んだ。廊下ですれ違ったあの時に真相に気付くべきだった。
「黒幕というのは、言い得て妙ですな」と公爵。
「そうじゃろうそうじゃろう。響きも中々いかしとるじゃろう」
「今のは皮肉だったんですが」
公爵は額に手を当て、二度目のため息を吐いた。老人は笑みを絶やさず、公爵のため息とマーシャルから飛んでくる怒気とを受け流した。
(相変わらず、食えない爺さんね)
マーシャルは、殺気に近い怒気を込めた視線で何とか老人に一矢報いてやろうと苦心した。
――――この老人のことは、昔からよく知っている。
マーシャルの祖父がまだ王都の方で暮らしていた頃、よく家を訪ねてきていた。その度に甘いお菓子やかわいい人形を山ほどお土産にくれたので、マーシャルは山羊髭のお爺さんを良い人だとすっかり信用していた。ヤギのお爺ちゃんと呼び始めたのは例によってティリフォンで、次兄は常連客のほとんどにあだ名をつけて遊んでいた。祖父の客は髭を生やしている人が多かったので、そういう人には髭の特徴からあだ名を考えていたようだ。巻き髭のおじさんにはクルリンさん、ちぢれ髭のお爺さんにはモジャモジャさんなんて名前を……
だが、ある折にマーシャルは、山羊髭の老人が実はただの優しい人でないことを知ったのだった。チェスが異常に強かったわけも、お土産をもらう度に祖父が生暖かい視線を向けてきたわけも、その時思い知った。
マーシャルは半眼で、目前の老人を睨み付ける。
「……で、今回のこれ。やっぱりヤギ爺ちゃんのいつもの駒遊びなわけ?」
「察しが良いの。どうじゃ、楽しかったろ?」
まるでとびっきりと善行をしたとでもいうようににこにこと微笑む始末。マーシャルの頬が引きつった。血が固まりかけていた傷口がまた開きそうになる。
「た、楽しかったわけないでしょ?!」
「ほう、それは本音かい?本当に楽しくなかったのかい?それにしては戦っている間、随分笑顔を浮かべていたと思うがのお……」
「い、いや、それはその……楽しくなかった、と言えば嘘になるかもしれないけど……いやでも、普通の人たちまで巻き込んだわけだし、あの人たちは怖い思いしたはずだから、楽しかったって言うのも正しくないような……」
「相変わらず正直じゃな」
「ていうか!見てたなら助けてよ!結構命の危機だったのよ?!」
「いやあ、ドレスからのぞく肌のチラリズムが最高じゃと思っていたら、うっかり見入ってしまって。シャリーちゃんも見ない間に立派に育ったの。もう少し肉が欲しいところじゃが」
「その髭引っこ抜くぞスケベジジイ」
どすを利かせた声で凄むと、おお怖い怖い、と老人は大げさに身を震わせて、公爵の腰にしがみついた。公爵は振り払いこそしないものの、心底うっとうしげな雰囲気を出している。
マーシャルもため息を吐いた。無事戦いは終わったというのに、頭の中がまた火を噴きそうだった。
――――本当、こんなじいちゃんが、最高位の軍師だなんて、この国終わってるんじゃないかしら。
伝説と謳われる偉大な祖父と並び立つ存在だといくら言われても、未だにマーシャルは信じられないでいる。だが、確かにこの老人は性格に難はあっても、その脳ミソは一級品だ。恐ろしいほど頭が切れ、ディカントリー家と同じように戦場を心から愛する人間でもある。ただし、老人が楽しむのは剣を打ち鳴らしての戦いではなく、チェスの盤上での白黒の戦いだったが。
マーシャルの祖父と違って野心に満ち溢れ、未だ王宮で軍師としての最高位についている老人は、白い山羊髭をときながらうきうきと話し始めた。
「いやあ、今回の舞台も最高じゃった。何せ相手駒が一級品じゃからのお。ディカントリー家の息子一人だけでも楽しめると思っていたが、実際は娘がやって来た。ビックリしたが、そのおかげで近年まれに見るいい出来じゃった」
「どうせ私が来ることまで織り込み済みだったんでしょ」マーシャルは顔をしかめた。「いやあ、さすがにそこまではのお」とすっとぼけているが、どうだか。
「まあ、シャリーちゃんは今回の功労者じゃ。納得がいくまで説明しよう。ほれ、何でも聞いてみい」
説明しようと言っておいて、質問されたことにしか答えないつもりなのが見え見えだ。らしいといえばらしい台詞だった。はあ、と息を漏らしてから口を開く。
「――――黒幕って言ってたわよね。あの覆面たちは『公爵さまを脅して学院の大金庫を開けること』が目的だって思わされてたみたいだけど、本当の目的は何だったの」
「いい質問じゃな」老人の両瞼の隙間で、茶色い目玉が光った。「今回の一番の目的はのお、その『公爵さまを脅して学院の大金庫を開けること』を企んでおった不届き者を倒すことじゃの、簡潔に言えば」
「へえ、じゃあその不届き者って誰よ」
「名は明かせんが、そのうち噂になるじゃろう。まあ、とある辺境のトッポイ貴族じゃな。これがまた小賢しくて鬱陶しい奴でのお。中々尻尾を出さんかった」
「あの覆面たちは、そのトッポイ貴族の仲間ってこと?」
「そうじゃ。その貴族の子飼いの刺客部隊じゃ。あやつらのせいで、今までどれだけの無実の血が流されてきたことか」
「ふーん、じゃあヤギ爺ちゃん。今回はすっごく楽しかったんじゃない?敵の懐に正々堂々と潜り込んだわけでしょ?」
老人はちょっと驚いた表情をした。それからふっふっふっと笑い出した。
「シャリーちゃんも中々の頭が回るようになってきたの。儂が昔チェスで鍛えてやったおかげかもしれん――――そうじゃ、今回の作戦、かかった年月は丸六年。不自然にならないよう少しずつ彼奴の懐に忍び寄り、彼奴が儂を味方だと思い込むまで信頼関係を築き、今回の件が成功したならば隣国に行って情報を売りその力を借りてこの国で革命を起こそう、そして二人で頂点に立とうと盃を交わす――――ふりをした」
ふりをした、と言った瞬間、老人の笑顔に暗い輝きが宿り、糸のように細かった目がうっすらと開く。まるで悪魔の微笑みのように見えた。いや、実際悪魔なのだろう。このパッと見人畜無害な小さな老人に陥れられた人々にとっては。
マーシャルが呆れ返っていると、老人の横で黙り込んでいた公爵が助け舟を出してくれた。
「しかし、それでは現実にここまでの事件を起こす意味が説明できていませんよ。その貴族の謀反の証拠を押さえて、陛下に上奏すれば済んだことでしょうに。彼女は危うい目にあったのですから、きちんと説明しなければなりません」
「お前も真面目よのお。だから大した才能もないのに、学院の理事長なんぞ面倒な役目を押し付けられるのよ」
「余計なお世話です」
感情を表に出さない公爵が、珍しく不快感をあらわにした。鼻にしわが寄っている。老人はまた、いつもの笑顔に戻っていた。
「そうよ、どうしてこんな事件を引き起こしたの。別にそいつと約束したからって、忠実に守らなくてもいいじゃない」
「いやあ、ついでにあの刺客部隊がどれくらい使えるか見ておきたくてのお。丁度公爵が近々ホールを改築する予定があると言うし、最近大きな捕り物もなくて儂の頭脳も暇を持て余しておったし、久々に駒遊びしたかったんじゃ」
「最後二つが本音ね」
「おお、そんな怖い目で見るでない。しっかし、今回は儂の負けじゃのお。事前に公爵から舞踏会の情報を入手しておったから、割と自信のある布陣だったのじゃが」
道理で、マーシャルは得心した。はっきりしたリーダーらしき人物がいない割に、覆面たちの統率がとれていると思った。この老人が裏で操っていたのなら納得だった。
「下手したら死んでたわよ……」
「生きとって良かった良かった。終わりよければすべて良し、一件落着じゃ」
これ以上何を言えばこの老人に反撃できるのか分からず、マーシャルは諦めて脱力した。死んでいたかも、と言ったが、きっとマーシャルが死ぬことはなかっただろう。祖父の友人であるこの男が、その孫であるマーシャルをみすみす死なせるようなことはしない。作戦にはいくつかの穴があったし、第一、途中で撤退させない時点で覆面たちを生かして帰すつもりはなかったのだろう。そう考えると、命令にどこまでも忠実に戦った覆面たちが少し哀れだった。真実を知ることなく死んだ者たちは幸運だったかもしれない。「何人か息があるようじゃが好都合。これから新しく吐かせたい情報も出て来るかもしれん」なんて言葉を耳にしたからには、尚更そう感じた。骨の髄までむしゃぶりつくして情報を絞るとる気に違いない。
「さすがはディカントリー家の一人娘、ずばぬけて優秀じゃ」
「だから、うちはヤギ爺ちゃんのチェスの駒でも何でもないのよ。勝手に巻き込んで遊ぶのはもう勘弁して……」
「ほっほっほっ」
この狸ジジイ!歯ぎしりしたが、怒る気力も既に枯れ果てていた。うー、と意味のない唸り声を上げる。
「それじゃあ公爵さま、あなたも今回のことは全て知っていたんですね」のろのろと首を回した。
「ああ、その通りだ。把握しているのは陛下とこの人と私の三人だけという極秘事項だった。だが、女性を危険に晒してしまった上、自分は途中で逃げ出すなど――――この人からはディカントリー家の次男が来ると聞いていた故、承知したのだが……いや、言い訳はしまい、すまなかった。君が無事で本当によかった」
「はあ、ありがとうございます……」素直に謝られたので、マーシャルの中で公爵の好感度はむしろ上昇した。ごめんなさいの重要性をここで実感する。しかし先程ユンスティッドに悪ふざけの件で謝ったが許してもらえなかった。何がいけなかったのだろう、解せない。首を捻り不満に思いながら「でも」とつづける。
「公爵さまが謝る必要はありません。悪いのはヤギ爺ちゃんですし、私が楽しかったのは事実ですから。その……一応、息子さんには黙っておきますね」
知ったらシルバート家で過去最大の親子喧嘩が勃発するかもしれないと危惧して、マーシャルは付け加えた。公爵は淡々と返事をした。
「おそらく、息子はもう粗方の事情を察していると思うが、君の気遣いはありがたく受け取っておこう」
「はあ……」ため息なのか返事なのか、自分でも判別しがたい声を漏らした。
公爵は、さっと手を伸ばして隣の老人の腕を掴んだ。じたばたと暴れ「なんじゃ!無体なことをするでない」と喚く小さな体を、無理やり押さえつけた。
「私はこれからこの人と、此度の事件の後始末をせねばならん。ホールはどの道取り壊して全面改装する予定だった、君が気にすることはない」
ホールを壊した責任の大半はあなたの息子さんにあります、という事実は、公爵の心労をこれ以上増やさないためにも黙秘しておいた。
「放さんか!か弱い老人に何をする」
「ピンピンしていますから、平気でしょう」
「儂はもっとシャリーちゃんと親しみたいんじゃ。久々に成長を確かめたいんじゃっ」
「それを聞いて貴方を自由にする人間がいると思いますか。いたら其奴は極悪人です。女性に失礼なことをさせるわけにはいきません」
「放せー!」
きびきびとした動きで公爵は踵を返した。彼にずるずると引き摺られながら、老人も本邸への入り口をくぐる。公爵が一度振り返って、「最後に一つ。息子が大変世話になっている。よければこれからも親しくしてやってほしい」と言ってきた。自分のことを知っていたのだとビックリして、気の利いた返事一つ出来なかった。二つの足音はすぐに雨音に紛れて小さくなっていった。彼らが屋敷の奥の闇と同化するまで、マーシャルはぼうっと突っ立ってそれを眺めていた。あの人、一貫して無表情なところがユンスティッドにそっくりだなあ、とそんなどうでもいいようなことを思いながら。
やがてマーシャルに寄り添うのは、激しい雨音と冷たい空気だけになった。それに時々、ゴウゴウという風の音が加わるのみだ。嵐のせいかあちこちにそびえる氷柱のせいかは分からないが、ホールは冷え込んでいた。腕に鳥肌が立って、ざらざらとしている。あたためるように擦った。
マーシャルは振り返って歩き出した。体はへとへとだったけれど、どうしても会わなければならない人がいた。
進路を塞ぐ大きな氷塊を何度か滑り落ちながら乗り越えると、その向こうの光景には思わず目を瞬かせざるを得なかった。一面の大理石は氷の下に埋まり、シャンデリアからもつららが垂れている。氷柱の高さは天井を突くほどで、それが何十本もそびえ立ち、何本かは傾いでいて、また何本かは折れて床に転がっている。大火で燃やされたはずの焼け焦げた森も、氷におおわれて黒っぽい氷山と化していた。氷山の上からも氷柱は生えている。あれほど壮大だった天井画は、ところどころから色や模様が覗くだけで、あとは白い霜のようなものがついて全貌は隠されていた。
シャンデリアからつららが落下して床に当たり、粉々に砕けた。氷柱は一本一本がマーシャルが三人手を繋いで輪になったよりも太く、見上げた先端はとがっていた。断面は多角形に角ばっていたが、表面はやすりで削ったようにつるつるとしていたし、中まで透き通っていた。芯の部分だけが白く濁っていて、それが真っ直ぐな血管のように氷柱の中を通っている。
吐き出した息は白かった。布に覆われていない足や腕が寒い。戦った後で汗をかいていたので余計にだった。
(水晶の林みたいだ)と思う。
氷柱は視界を遮って来るので、マーシャルは柱の間を縫い、氷山の影や、時には氷柱の周りを一周して黒髪の少年を探した。道すがら、覆面たちの体が氷像となって転がっているのを見かけた。その体の下の氷は、若干の赤みを帯びている。少年が先程倒れていた場所を真っ先に確認しに行ったが、姿はなかった。柱が並ぶ同じような景色が広がっているので、巨大な迷路の中でさまよっているような不思議な心地に陥る。子供の頃、兄や王都の友達と街で隠れん坊をしたことを思い出して、少し楽しくなってきた。鬼になった時は、隠れている人を見つけると、嬉しくって飛び跳ねたものだ。黒髪の少年がそういう子供らしい遊びをするところはあまり想像がつかなかった。今度聞いてみようか。
楽しい遊びにもやがて終わりが訪れた。
(あっ)
マーシャルは声を上げずに叫んだ。ホールの真ん中ら辺の氷柱の一つに回り込んで、ここにもいないと、ちょっと途方に暮れていた直後のことだ。目線の先に、一本の氷柱がある。僅かに傾いたその柱は、他のものとは色が違っていた。根元が白く、白の上に黒いものがぼんやりと浮いている。向こう側にあるものの色が透けているのだ。気配を殺して、マーシャルはそうっとその影を忍び見た。探していた少年の後ろ姿が、ちらりと見える。黒色の正体は彼の髪色だった。氷柱に背を預けて、座り込んでいるのだ。向かい側の氷柱の表面には、彼の正面からの姿が映りこんでいた。でもマーシャルは、頑なに後ろ姿ばかりを見ていた。
今度は、ぱぁんという破裂音はしなかった。
でも、込み上げてくるものは全く同じだ。マーシャルは俯いて、ユンスティッドに近づいていく。ギリギリまで声はかけずにいた。赤い靴のヒールが、氷の欠片を踏んづけた。パリッ、と小さな音が鳴る。ユンスティッドがふっと顔を上げて、氷の向こう側からマーシャルを見つけた。黒曜の瞳は、氷柱の中で屈折した光のせいで少し歪んで見える。それでも、それはユンスティッドの瞳だった。
ぱぁんという音こそしなかったけれど。
(やっぱり、私って単純……)
天井から飛び降りた、その直後に呟いた言葉をもう一度。
あの時――――天井から降ってきたマーシャルをユンスティッドが見つめた時、その黒曜の瞳が見開かれるのを見た途端、わだかまっていた全ての不安が泡のように弾けとび、空中に霧散する感覚を覚えた。細かい粒子となったそれは、今度は別のものとなってマーシャルの足元に降り積もる。やがて胸元まで埋めてしまった。今もそうだ。後ろ姿を見ただけで、頭まですっぽりとその何かに埋められていく。
マーシャルはゆっくりと顔を上げた。どうしてだろう。分からないままに、湧き出す気持ちの奔流に身を投げた。
ただただ無性に、笑顔が込み上げるのだ。
私、ユンスに会いたかった。
「ユンス」
その声に応えて、ユンスティッドが少しよろけながら立ち上がった。足は自分で直したらしい。目立った外傷はなくて、マーシャルはほっとした。
「マーシャル、無事だったか」
ユンスティッドも安堵した様子を見せた。
「うん、アンタもね」と答える。
マーシャルは、何となくまた俯いて氷漬けの大理石を眺めていた。込み上げる笑みは絶え間なくて、どうしても引っ込まない。どうすればいいんだろう。
ユンスティッドが、ごそごそと服の胸ポケットを漁って、中から何かを取り出した。シャラシャラと心地いい音が鳴っている。差し出されたので反射的に受け取って、ユンスティッドの顔と見比べた。マーシャルの赤いペンダントだった。
「大事なものだろう、落とすなよ」
「あ、ありがとうっ」
ぎゅっとペンダントを握りしめて懐にしまいこんだ。今までだって大切にしていたけれど、これからはもっと大切にしようと思う。肌身離さず持っていよう。
不意に頬に冷たいものが触れた。氷のようなひんやりとした温度にビクッとする。見上げると、しかめ面のユンスティッドがいた。揃えた指が頬の傷をなぞる。
「無茶は程々にしろって言ったのに、あまり効果はなかったみたいだな」
「命に別状はないわよ」
「血だらけじゃないか.....まさかお前その赤いドレス、」
「血で染めたんじゃないからね?!」
「どうだか......絶対に無茶はするな、今度からそう言い渡すことにする」
「アンタだって」一方的に責められて、マーシャルはムッとした。「森生やしたり、火事起こしたり、ホールを壊したのはアンタじゃない。私よりよっぽど無茶だったわ。アンタのお父さんは気にするなって言ってたけど」
「父が?」
「なんでも、ユンスなら粗方の事情は察してるだろうって。アンタ、本当に分かってるの?」
だとしたら驚きだった。ユンスティッドは数秒黙考した後、答えた。
「……今回の事件は例の軍師殿が関わっているだろうってことと、俺の父もグルだろうってことぐらいだがな、確実に分かってるのは」
「あの人と知り合いなの?」
「こないだお会いした時には思い出せなかったが、うちにも何度かいらっしゃったことがあったからな。第一、あの方変わり者だと有名じゃないか」
「まあ、そうね……じゃあ、あの巨大な火柱とか魔法でドンパチやってホール壊してたのとかも、全部知ってた上でやってたってこと?」
「それは……」
痛いところを突かれたのか、ユンスティッドは黙り込んだ。じゃあ、やっぱりあれは単純に敵のやり口にムカついて仕返ししただけだったんだ、とマーシャルは思った。マーシャルがじっと視線を注いで、ユンスティッドがそれを受け流すという時間がつづく。「…………まあ、確かにちょっとやりすぎた。今回は他人のこと言えないか」とようやく認めて、決着した。
マーシャルが笑うと、頬の傷が外側に引っ張られてピリリと痛む。痛みに片目を瞑ると、ユンスティッドがちらりと傷に目を遣った。大きな傷の出来た左の頬に触れたまま、小さく治癒魔法の呪文を唱える。まだ乾ききっていなかった血液がはがれて、頬の傷がふさがっていく。少しくすぐったかった。
傷が完全にふさがると、ユンスティッドは他の傷も治そうとしたのか頬に添えていた右手を外そうとした。長い指が頬を滑り落ちていく。離れていってしまう。
(イヤ)
そう思った時には、マーシャルはユンスティッドの上から自分の手を重ねて引き留めていた。彼の骨ばった手を自分の頬に押し付けるようにする。自分から離れていかないように、そのまま触れていられるように。ユンスティッドが目をぱちくりさせていた。マーシャルだって、驚いているのだ。
一年前の旅立ちの日も、ユンスティッドの手を握っていた。だけど、その時よりもずっと、この手に触れていたいと思う。
「お前、その手……!」
ユンスティッドが、自分の手にのせられたマーシャルの左手の甲を見てぎょっとした。赤目との戦いで火傷を負って、皮膚が少しただれてしまっていた。ユンスティッドが険しい顔をして火傷した皮膚を再生してくれるのをぼんやりと眺める。痛みはもうないから、別に構わないのに。真剣な顔をして治してくれるから嬉しかった。左の手のひらを見せろと言われたが、首を横に振った。だって、そうしたら隙をついてユンスの手が逃げていってしまうかもしれない。それが嫌だからこうしているのだ。いっそう強く、ユンスティッドの手を頬に押し付けた。
ユンスティッドの体温は低い。指先や手のひらからは冷たさしか伝わってこない。触れた指先はマーシャルから体温を奪っていく。ユンスティッドの肌にマーシャルの温度が移っていく。だんだんと、同じ温度になっていく。
このまま溶けてしまえばいい、離れなくなってしまえばいい。
雨音が屋根を叩く音が沈黙を埋めていた。
「ユンス、あのね……」
マーシャルは躊躇いがちに口を開いた。ユンスティッドが、こちらを見た。マーシャルはつっかえつっかえ、途切れ途切れに喋る。
「会ったら、話したいこと、たくさんあって」
離れていた一年間のことを語り合って、二人で夜更かししようと思っていた。砦の中での生活のこと、剣の試合で連勝したこと、面白かった事件……それから、ユンスティッドの話を根掘り葉掘り聞くのだ、自分からはきっと詳しくは話してくれないから。朝までそうやって過ごしたい。
マーシャルは、黒曜の目に魅入られていた。
「どうしても聞きたいことも、あって……」
ハロルドに突き付けられた問い。じめっとした暗い部屋で、一人悩んだ。壁一枚分の距離が寂しかった。悩んでも答えは出なかったから、ユンスティッドに聞けば分かるかと思っていた。だけど、言葉が上手く紡げない。喉の出口まで山ほどの言葉が込み上げているのに、何かがその流れをせき止めている。震える唇の端を、ユンスティッドの親指の付け根がかすった。
「あのね……」
三度目に言いかけた時、上の方から息のこぼれる音がした。マーシャルは目を見開いた。視線の先で、ユンスティッドが微かに笑んでいた。夜のように静かな声音が降ってきた。
「――――何?」
どうして、その時だったのか、あとから考えてみても分からなかった。何の変哲もない短い一言だったのに。でも、確かにその時だった。
彼の口許に浮かんだのは微笑みといっても、きれいな弧を描くようなはっきりとしたものではない。ただ両端の口角にぐっと力を入れただけの、思わず浮かべてしまったというような、本当に小さなものだった。それだけだった。でも、それで十分だった。
マーシャルは唐突に悟った。
(わたし……)
なぜ今まで分からなかったのだろう、不安に思ったりしたんだろう。マーシャルは不思議だった。
(私って本当に、どうしようもない)
他の誰かと比べようだなんて、どうしてそんなこと思ったんだろう。考えるまでもなかったのに。比べることなんて出来るはずがなかった。だって、全然違う。
ユンスはデュオのパートナー。でも、たとえパートナーでなくったって、彼という人間が自分にとってどういう存在か、考えればすぐにでも答えに手が届いたはずだ。不安になったのも、一緒に踊りたいと望んだのも、会いたくてたまらなかったのも、どうしようもなく笑顔が込み上げるのも……
こんなに、こんなにも触れていたいと思うこの心が、ずっと訴えていたというのに。どうして気付かなかったんだろう――――だけど、今、やっと分かった。
ああ、この人が私の一番だ。
誰よりもユンスが、私の一番なんだ。
それは天啓のように空から突然降ってきたものでも、頭の中で湧いたものでもなかった。ポーミュンロンが贈ってくれたものでもない。マーシャルが王都に帰還する日を待ちわびていたように、この心もずっとこの日を待っていた。
マーシャルはユンス、と呼びかけた。すみれ色の瞳が透き通ってきらめく。確かなものはそこにあるのだと、気付いたのだ。己の唇がするすると紡ぎだす言葉を、心の奥底に眠っていた宝箱を差し出す気持ちで聞いていた。惜しいとは思わない。この箱はもう長いことユンスティッドを待ち続けていたから。
だから、あなたに受け取ってほしい。
*****
ユンスティッドはその時思い知っていた。
真っ赤なドレスがひるがえっていた。高いヒールが大理石の床を打ち鳴らす。茶色い団子髪からほつれた毛が踊る。背中からは躍動感が溢れていた。マーシャルが天井から突然降ってきた時、勿論驚きはした。けれど、ユンスティッドはそれよりも、キルシュに言われた言葉を思い出していた。
――――会えば分かるわ。嫌ってほど思い知るわよ。
隣にマーシャルがいなくたって平気だと思っていた。この一年、それなりにやっていたし、マーシャルがいた時よりも研究は捗った。静かな時間も増えた。偶に、やけに長い手紙が届けば、それで十分だと思っていた――――
もしかしたら、マーシャルはもう自分の隣には戻ってこないかもしれないと思っていたから。
彼女がやはり剣士になりたい、そのために剣師団に行って夢を叶えたいと言うならば、笑って送り出してやろうと思っていた。それぞれが別の道を歩んで、その道が二度と交わらなかったとしても、マーシャルがどこかで頑張っていると思えば、自分も頑張れるだろうと思っていた。それは紛れもない本心の一部だったから、その奥に隠れた一番の望みに気付くことが出来なかった。
「ねえ、ユンス」
何十枚もの手紙より、たった一度きりでいい、自分の名を呼ぶこの声を欲していた。そのことを、嫌というほど思い知った。
離れていても、心までが遠ざかるわけではない。それでも、隣にいる方がずっといい。無茶をしたら駆け寄ってやれる距離がいい。名前を呼びあえる距離がいい。笑いあえる距離でいれば、ユンスティッドは多分、ずっと幸せだ。この先々まで、道は明るく照らされていく。
マーシャルの赤い唇が言葉を紡いだ。
「私にとって、アンタが一番よ」
それが、二人にとっての何よりの真実だった。ユンスティッドにとっても、いつの間にかマーシャルが一番になっていた。
ユンスティッドは小さく応えて頷いた。マーシャルの蕾のほころぶような笑みにつられて、黒曜の瞳も細められ、口許がゆるやかな弧を描く。これがどれだけ驚くべきことか、ユンスティッドは長い間気付かずにいた。氷の鏡に映った自分の笑顔と一年ぶりに再会した。
マーシャルの人生は彼女だけのものだからとか、口出しするとかしないとか、そういうことではないのだ。ユンスティッドがありのままの思いを口にすれば、マーシャルはそれを受け止めた上で、自分の判断を下すだろう。ユンスティッドのどんな思いも、きちんと受け取ってくれるだろう。ユンスティッドは、ただ言えば良いのだ。口を開いて自分の気持ちを素直に伝えるだけで、マーシャルは答えてくれる。なぜならここにいるマーシャルは、顔の輪郭も声音も髪の毛の手触りも何もかも、はっきりしているのだから。
口を開くと、きらきらとした瞳でユンスティッドの言葉を待ちわびていてくれることが、どれほど嬉しいか。それを説明するためにどれだけの言葉を尽くせばいいのだろう。
ユンスティッドはマーシャルの丸い頭を片手で引き寄せて、その肩に顔を埋めた。長い後ろ髪が紛れ込んで、頬をくすぐった。お互いあちこちすすけていて、焦げ臭かった。
驚いて固まっているマーシャルに、懇願するように囁く。自分の声が少しだけ掠れて聞こえた。
「他の奴をパートナーにするなんて言うなよ」
すみれ色の目が、みるみる真ん丸になった。
「俺とのデュオをこのまま解散したいなんて、言うな。傍にいてくれ」
意地とか良心とか余計な優しさとか、そういう上辺の金メッキを全部剥がした下に埋まっていた。それがユンスティッドの本心だった。
マーシャルはポカンとしていた。丸くなった口と目が、彼女の驚きようを伝えている。
「ど、どうしたの。頭でも打った?」
「打ってない」
「じゃあ、変なものでも食べたとか……」
「食べてない」
「実は双子の弟......」
「兄弟はいない。中身が入れ替わってもない」
ユンスティッドが首を横に振り続けたところ、ようやくマーシャルもそれがユンスティッドの偽りのない本音だと気が付いたようだった。唖然としていたのは少しの間で、そのうち表情が緩みはじめ、にやにやと笑い始める。
「どうしようかしら」
目元を欠伸する猫のように細くして、マーシャルは意地悪に考え込むふりをした。ユンスティッドは大人しく待っている。
「そうね。アンタが……」ひどく楽しげに、マーシャルは言った。
「ユンスがずっと、隣にいてくれるなら」
その条件はみせかけでほとんど頷くことに等しいと、マーシャルは気付いているのだろうか。勝気な輝きがマーシャルの瞳で踊り、ユンスティッドに誘いかけているようだった。躊躇いなくその手をとった。いつかかがり火に照らされて、二人で踊ったあの日のように。
マーシャルが、ユンスティッドが頷くのを待っていた。頷かないはずがないと彼女は思っている。そして、多分、その次に口にする言葉を考えてくれている。マーシャルの思い通りに事が運ぶのは癪だったけれど、でもユンスティッドはこれ以外の返事を考え付かなかった。
「勿論」
そう言うと、マーシャルが本当に幸せそうに笑うのだ。
「それじゃあ、一緒にいましょう。ずっと、ずっとよ」
約束よ、とマーシャル。紙もペンもなかったけれど、ユンスティッドは一生この約束を忘れないだろう。
膨らんだ赤い袖に包まれたマーシャルの肩が動き、伸びてきた両腕がユンスティッドの首に回された。
ああ、これ以上思い知らせてくれるなよ。気付かなかった自分が馬鹿に思えてくるから。そんな己の思いを知っていながら、この手は勝手にマーシャルの背中に伸びて、長く柔らかい髪を梳き、その腰を強くかき抱いてしまう。
どこかで氷が溶けて、水滴がはねる音がした。
ユンスティッドは、理性ではどうにもならない衝動というものを、この時はじめて自覚した。
もうずっと、マーシャルに会いたくて、その笑った顔が見たくて、溌剌とした声が聞きたくてたまらなかった。季節が一巡するうちに、手のひらの熱を分け合うだけでは到底満足できなくなってしまっていた。手を繋ぐよりももっと、近くにいたい。
傾いた三本の氷柱が支え合って、二人の頭上に屋根を作っていた。それは、マーシャルとユンスティッドのためだけに作られた、特別な空のようだった。良く晴れた日の水色、ミルクを垂らした乳白色、夜の帳の紺色、海のエメラルドグリーン、不思議に透き通る青……キラキラと反射する水滴は空を彩る星々だった。中は昼のように明るいのに、星が輝いている。氷漬けの大理石は、時折パチパチと音を立てて二人をはやし立てる。
氷の床に映り込んだ二つの影が近づいていく。
二人の目と目があった。今まで何度もしてきたように、いや、それよりももっと強く深くお互いを見つめあう。あまりに強すぎて、瞳がバターのようにとろけてしまいそうだ。二人の目の輪郭をたどったら、今ならぴったり形が合うかもしれない。
ユンスティッドもマーシャルも、互いの瞳の中に、自分を引きつける丸い磁石が埋め込まれているのだと、信じてやまなかった。
最初に鼻先が軽くぶつかって、焦点が合わなくなり、そして額が触れ合い、同時に瞼を下ろす。まつ毛がこすれ合って小刻みに震えていた。氷柱に囲われた空間は寒くて、うなじの辺りの産毛が逆立っていた。感じる吐息もとても冷たかった。
――――ユンスティッドの隣はマーシャルで、マーシャルの隣にはユンスティッド。いつまでもそうしていよう。
最後の距離を埋めたのは、どちらが先だったろう。教えてくれる人はいなかったけれど、二人ともちっとも気にしなかった。
なぜって、キスをするには必要のない事だったからだ。
外は嵐の中だった。
一年分を埋め尽くすようなキスをした。
呼吸も熱も奪い合うような、初めてにしては長くて深いキスだったなと思う。でも二人とも夢中だったから、正直よく分かっていなかった部分もある。ようやく唇を離した時には、マーシャルの頬は上気していて、ここが氷に囲われた空間だということはすっかり忘れ去っていた。体がほてって、視界が潤んでいた。
相手の首にすがり付いたまま、マーシャルはユンスティッドの端正な顔立ちを見上げた。こんな時でも、この顔はあまり感情をあらわにしない。マーシャルの頬は真っ赤だろうに、この男は何だか平然としているように見えて面白くなかった。頬をつねってやりたくなる。
急に寒気が襲ってきた。ぶるりと震える。辺りの寒さを、マーシャルの体が思い出したということだろうか。
(それにしても、随分と寒さが増しているような……)
というか、自分たちの周りだけ冷気が多いような気がする。一体どこから流れて来るんだ、氷の柱か、とあちこち観察しているうちに、マーシャルの視線は眼前のパートナーに辿り着いた。ユンスティッドはいつもと変わらない。それが妙に引っ掛かった。表情はともかく、顔色までもあまりにいつも通り過ぎる。私の方が息が長く続くのに、おかしい。
マーシャルはハッとした。
(ま、まさか、コイツ……!)
呆れればいいのか、怒ればいいのか。迷った末、マーシャルは両腕を首から外した。半眼になって、ユンスティッドの胸倉をつかむ。
「ちょっとユンス!」
「何だ」
「アンタ、その冷気を出す魔法今すぐ止めなさいよ!ていうかいつの間に呪文唱えてたの?」
自分で聞いておいて、ある可能性に思い当たった。
「まさかキスしてる時?!じょ、冗談じゃないわよ!いくら自分の顔が赤くなるところを見せたくないからって……」
意地っ張りにも程があるわよ!と怒ると、ユンスティッドは全く悪びれた様子もなく飄々と返した。
「ばれたか」
マーシャルは口をあんぐりと開けた。
「ばれたかって、あのね……」
胸倉を掴んでいた手から力が抜け、指から服がするりと剥がれる。開き直られたらもう、呆れるしかないじゃない。
いや、でも今後のために、ここは文句の一つや二つや三つや十個くらい言っておくべきだろう。そうじゃないと、コイツはまた平気でやらかすに違いない。
ぶつぶつと文句の内容を考えていると、ユンスティッドが首を傾げた。
「不満か」
「当然でしょ!」
「ふーん」と気のない返事。
マーシャルは人差し指の腹でこめかみを揉んだ。
「全く、あのね、こういう時くらい……」
けれど、折角考えたその言葉は、途中で遮られてしまった。
腰を引き寄せられ、マーシャルは驚いて顔を上げた。ユンスティッドの笑顔がすぐそこにあった。浮かんでいたのは、あの謎めいた微笑みでもなく、かといって優しげなものでも嘲るようなものでもない。彼がごく偶に見せる、何かを企むような、悪戯好きな様子がちらつく笑顔だった。
顔の上に暗い影が落ちる。そこからこちらを見つめる目は、暗い夜の海の色をしていた。
「それじゃあ、もう一回」
長い指が頤をすくい上げた。
マーシャルの放とうとした文句は、その唇もろとも、ユンスティッドに飲み込まれてしまったのだ。
【FIN】
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次話はおまけになります。




