ディソナンスデュオ
初っ端から、ユンスティッドの動きが封じられた。碧眼の男が、氷の壁でユンスティッドの周りを覆ってしまったのだ。疲労の溜まっていたユンスティッドは、逃げ遅れて、まんまと氷の檻に閉じ込められてしまう。
「ユンス!」
この勝負、どちらか一人がやられた側が負ける。そのことは全員が重々承知していた。ユンスティッドも即座に魔法陣を展開して、炎で氷の檻をこじ開けようとしているが、そのそばからどんどん氷の壁が追加されていくので、一向に脱出することがかなわない。氷の檻が大きなドームになるまでにそう時間はかからないだろう。
マーシャルはユンスティッドを助けに行くべきか、先に覆面の一人を潰すべきか迷った。その隙を見事について、赤目の男が背後から首を狙ってきた。寸でのところで避けるが、ゴオッ!と風を切る刃の音には冷や汗をかかされる。あの攻撃を受けたら、確実に頭が地面に転がるだろう。生首になって王都に帰還なんて最悪だ、と気合を入れ直す。
ゴオッ!と再び剣が振るわれる。横っ飛びに避けたところを、突風に体をさらわれた。あの碧眼の魔法だ!
(しまった!)
大の字になって壁に叩きつけられる。魔法師は周到な作戦を練っていた。マーシャルの四肢を氷漬けにして壁に磔にしたのだ。赤目が覆面の下であくどい笑みを浮かべたのが分かった。「案外早くお別れの時が来ましたね」と捻くれた口をきいてくる。
マーシャルは舌打ちして、何とか氷の手枷と足枷を外そうともがいたが、結果は芳しくなかった。ユンスティッドも未だ閉じ込められたままで、助けは望めない。右手には魔法剣を握っているが、手首までがっちり押さえられているのでビクともしない。赤目の男から真っ直ぐマーシャルに向けられた殺気が、死の予感を運んできた。
マーシャルはすうっと息を吸うと、「イグニス!」と叫んだ。燃え上がったのは魔法剣ではない、左の腕だ。ジュウッと肉の焦げる音がしたが、マーシャルは更に火力を上げていった。氷の手枷が緩んだところで、左腕を引っ張った。上半身を思いっきり捻り、目の前に迫っていた攻撃を避ける。頬から下がぱっくりと縦に割れて、顎を伝った血がポタポタと大理石の床に滴り落ちた。マーシャルは左手で取り出した短剣で四肢を捕える氷を叩き割り、自由の身を取り戻した。
赤目の男がスズメバチのような突きを繰り出してくる。マーシャルは脇腹が痛むほど大きく身をよじり、何とかその攻撃も避けて、体勢を立て直す。赤目はマーシャルの火傷を負った左腕を見て目を眇めた。嘲笑の色が浮かんでいる。
「気でも狂ったかと思いましたよ」
「死ぬよりはマシよ」
「その潔さは買いますがねっ」
そう言いながらも、赤目は容赦なく攻撃を繰り出してくる。縦横無尽な刃の軌道を読むのは至難の業だった。マーシャルは防戦一方だ。ユンスティッドを助けに行くどころではない。
「お世辞じゃなく強いわね」
「お褒めに預かり光栄ですよ、お嬢さん」
そうせせら笑った。こんな風に会話を交わす余裕があるのだ。マーシャルは歯噛みした。これは、相当気合入れ直さなきゃね。
後退していた体を止め、一歩大きく前に踏み出して攻撃に転じようとした。
その時、ボウッと向こうで火柱が上がった。巨大な灼熱の柱が天井まで届き、シャンデリアが熱気で歪む。ホールを二分していた氷の壁の下に、瞬く間に水たまりができた。
「ユンス?!」
(まさかあの中に?!)
慌てて救出に向かおうとしたマーシャルは、炎の中から現れた少年を発見してほっと胸を撫で下ろした。しかし、無事だったのは良かったが、何だか、様子が……
「マーシャル!」
名前を呼ばれたマーシャルは、ビクッとした。赤目の脇腹に向けて剣を突出し、それが躱された隙にすばしっこい動きで横をすり抜け、ユンスティッドの下に駆けつける。
ユンスティッドの後ろでは炎が立ち上っていた。熱気が一帯に溢れていて、ゆらゆらと揺れる蜃気楼のようだ。ユンスティッドの目が完全に据わっているのを見て、マーシャルは頬を引きつらせた。頬の筋肉を動かすと、さっき作った傷が痛む。
「あの碧眼の男」ユンスティッドは、二階から悠々とこちらを見下ろしている男を視線だけで示した。「今から一階に引きずり下ろすから、何とかしてあの森の中に追い込んでくれないか」
「森?」
ユンスティッドの背後には、大量の覆面を倒した時にできた樹木と氷の森がこんもりと茂っていた。ホールの四分の一を占める大きさだ。何か作戦でもあるのかしら。マーシャルは、いいわよ、と二つ返事で頷いた。
先ほどマーシャルが吹き飛ばされたよりも強烈な大風を巻き起こして、ユンスティッドは宣言通り二階から魔法師を叩き落とした。すぐに赤目が援護に回る。今度はマーシャルが一方的に責め立てる戦いとなったが、攻撃は受け流されるばかりだ。むかっ腹が立つが、今の目的は赤目を仕留めることではないので、息をつかせない連続攻撃で二人の覆面を追い詰めていく。碧眼の魔法は、ユンスティッドが後ろから全て抑え込んでいた。
そのうちに赤目がこちらに意図に気が付いた気配がした。だが、森はすぐそこに迫っている。マーシャルは攻撃のテンポを意識的に変調させて、敵の不意を突いた。体勢を一気に低くして、その状態で赤目の横をすり抜け、碧眼の腹を剣の柄で突き上げる。さらに蹴りを叩き込み、その体をぽーんと森の中へと放り込んだ。碧眼が幹をミシミシと折りながら、森の中に落ちていく。赤目は森を一瞥しただけで、助けに行くことはしなかった。マーシャルと二人、再び打ち合う。
(これでいいのよね?)
マーシャルが絶好の機会で碧眼に止めを刺さず、生かしたまま森に追い込んだのは、ユンスティッドが冷え冷えとした表情をしていたからだ。余程、腹に据えかねたのだろうと思う。だが、冷静なあの少年のことだから、きっと深い考えがあるのだろうと……
「思ったんだけどなあ!」
マーシャルは心のままに大声で叫んでしまった。
「フラッマ」と呪文が唱えられた。
視線の先では、一見普段と変わらぬ様子の――――多少服が焦げて頬がすすけているが、怜悧な面持ちのユンスティッドが森に向かって両手を突き出している。おかしいのは、その両手の先で展開されている魔法陣だ。最初は手のひら大だった魔法陣は見る見るうちに広がって、今や半径だけでユンスティッドの身長の倍はある。魔法陣からは、抑えきれない彼の強力な魔力が熱風となって漏れ出している。歪んだ景色の中に佇むユンスティッドの前髪が風に煽られてふわりと浮き上がり、秀麗な顔が赤く発光する魔法陣によって明るく照らされていた。
魔法陣の直径が、森の最大の樹木の大きさを越えたところで、ユンスティッドは一度目を瞑った。そして次に瞼を上げた時、彼は黒曜の瞳を星空のごとくきらめかせて怒号した。
「燃やしつくす!」
ヴィンディカット!
解放の合図と同時に、その巨大な砲口から灼熱の炎が噴き出した!ゴオッと音を立てて、氷と樹木の森が炎に包まれる。枝葉が良い薪ならば、今のホールはいわば大きな暖炉と言ったところだろうか。
(う、ええええええええっ)
目の前の光景を信じられない思いで見ながら、マーシャルはガクッと顎を落とした。熱風と熱気はこちらまで押し寄せてきて、思わず仰け反った。肌が焼けているみたいだ。顔の横に垂らしていた髪の房が、森からの熱風にさらわれていった。ユンスティッド、いくらなんでも……いくらなんでもだ。これを大胆で素敵と褒める神経は、さしものマーシャルでも持ち合わせていなかった。
「え、えげつなっ」
自分のことを棚に上げた本心が、ポロリとこぼれ落ちた。赤目にとってもこれは予想外の出来事だったのか、攻撃の手を止めて唖然と森を見ている。森の中にいた人間は、まさか全員火だるまに……その先は恐ろしくて考えたくなかった。
だが、マーシャルとユンスティッドにとって幸いか不幸か、森に放り込まれた碧眼はそのままやられはしなかった。森の上から突如、滝のように大量の水が降ってきた。てっきり、天井が抜けて、外の大雨がホールにもやって来たのかと思ったほどだ。
音を立てて炎が蒸発し、水蒸気が発生した。炎の次に、森は白い霧に包まれる。ホール中に広がった霧は、マーシャルたち全員から視力を奪った。とりあえず、赤目から離れようとマーシャルは動きの方向を悟られないように後ずさる。十分に距離が取れたところで、何かがぶつかる音が響いて、霧が波のように押し寄せてきた。
(こ、今度は何?!)
向こうの方を、青白い閃光が走り抜けていった。二つの方向から放たれた稲光が、ぶつかり合い、バチバチと音を立てる。聞いているだけで体が痺れそうだ。雷がぶつかった衝撃で霧がかく乱され、視界が幾分か戻ってくる。三度目に二つの雷がぶつかった時、かなり長い間均衡状態にあった。それは最終的に大爆発を引き起こし、マーシャルは顔を両手で庇って必死に耐えなければならなかった。
「や、やりすぎよ!あとで文句言ってやる!」
「マーシャル!」
遠くからまさかの返事があった。今の言葉聞こえてたわけ、どんだけ地獄耳よ、と焦ったがそういうわけではなかった。ユンスティッドは命令に近い口調で叫んだ。
「お前、ちょっと上に行ってろ」
「は、上?二階のこと?」
疑問はすぐに解決した。近くの床から突然何本もの氷柱が生えてきたかと思うと、落下するときに似た奇妙な感覚がした。足元がヒヤッとしたので視線を落として床の状態を確認すると、そこには大理石が――――透けて見えていた。マーシャルの体は、分厚い氷の板によって空中に持ち上げられていたのだ。地面がどんどん遠ざかっていく。向こうを見ると、霧の中に赤目の姿がチラついた。あちらも一緒に連れてこられたようだった。マーシャルは敵と一緒に、氷の橋の上に立っていたのだ。
二階より少し高いくらいまで上がって、氷柱は成長を止めた。自然と、氷の橋も高さを安定させる。
「上ってこういうこと?!」
切羽詰まっているのは分かるけれど、もう少し意思疎通というものを大事にしてほしいと思う。ユンスティッドはマーシャルに驚かせるなと怒ったが、マーシャルの心臓だって今日はかなりバクバク鳴っていた。階下では魔法師二人が、死力を尽くした魔法大合戦を行っている。氷と炎がせめぎ合っていたが、やがて氷柱から発する冷気が充満し、炎の勢いが弱りはじめる。最後には燻るだけになった。ユンスティッドが勝利を収めるのも間近だった。
つと、耳の近くで声がした。
「よそ見してる暇、あるんですか」
弾かれたようにマーシャルは後ろに跳んだ。床を剣先が削っていく。氷の滓が頬に飛び散って、傷に染みた。
「余裕そうですね」
皮肉をとばしてきた赤目は、だらりと長剣を左手から下げている。隙だらけに見せかけ、こちらを誘っているようだったが、突き刺さる殺気がそれを裏切っていた。
「余裕そうなのはアンタの方でしょ。どうするの、お仲間はやられちゃったみたいよ。降参した方が身のためじゃない?」
「ご親切にどうも。ですが、私一人になったところで、状況が悪化したわけではないですから。あの魔法師の少年に感謝しなくては。貴女との戦いに集中できる場を作ってくれたのですから」
「簡単に倒せるみたいに言わないでくれる?第一、下には私の味方がいるのよ。援護がある私とアンタとじゃ……」
「援護?貴女の味方の少年くんは、しばらく動けなさそうですけど」
ちらり、と赤目は視線を動かした。つられてホールの一階を見下ろしたマーシャルは、あっ!と叫びそうになった。ユンスティッドは確かに勝った。しかし、魔力を使い果たしたのか床に倒れてしまっている。苦しげに息をしていた。
「ほら、つまり私とあなたは一対一。私が勝って、あの少年を殺せば、公爵は手中に落ちる」
「へーえ!言ってくれるじゃない……!」
強気を装いながらも、マーシャルは焦燥感を味わっていた。確かに、その通りかもしれない。
(でも……)
視線を床に落とした。視線を走らせて、足場をよく観察する。ユンスティッドが、自分たちを安易に不利にするような下手を踏むとは考えにくかった。
「ほら、またよそ見してますよ!」
カンッカンッ!赤目が剣を打ち込んでくる。マーシャルは紙一重で全ての攻撃を避けながら、彼の黒い革靴が何度も床に踏み込む場面に目を凝らした。ダンッ、踏込み。ダンッ、ジャンプ……視線をもう一度、橋の隅から隅まで走らせる。
そしてようやく、ユンスティッドの意図に気が付いた。
(そういうことか!)
それまで避けつづけていた攻撃を、橋のぎりぎりで受け止めて、力いっぱい押し返す。後ろに回り込むと、赤目の足に切りこもうとした。
「はっ、足を滑らせて橋から落とそうという寸法ですか。生憎、そんなちゃちな手には乗りませんよ」
「乗ってくれると嬉しかったんだけど!」
二人は切り結び、氷橋の戦いは激しさを増していく。マーシャルは身の軽さを存分に利用して、赤目を翻弄する手に出ていた。避けたと思ったら、剣を受け止め、後ずさったと思ったら、不意をつくように攻め込んでいく……じりじりと赤目は橋の真ん中まで押し戻された。
「グラエキース!」
そこへきてマーシャルは、魔法剣を発動させ、氷の刃を切っ先にまとわせた。剣の長さが一・五倍ほどに伸びる。
「今更槍術の使い手でしたとでも言うつもりですか?!」
「そんなこと言ってるより、頑張って避けたらどう?!」
マーシャルはそれまでと一変して防御をかなぐり捨て、ひたすらに長さを増した剣を振り回した。攻撃範囲が広がった分、生まれる隙も大きくなる。脇が甘くなった瞬間を赤目は決して見逃さないだろう。気を抜けない戦いがつづいた。額ににじんだ脂汗が目に染みるが、痛くても目を瞑ることはできない。どんな小さな隙も命取りになる。
赤目の反撃が首の近くを一閃した。金の鎖の輪の一つが砕かれ、ペンダントが床に転がった。赤目の左足がそれを蹴り飛ばし、ペンダントは氷の床をツルツルと滑り落ちていく。
視界の奥に、橋の行き止まりが見えた。その下にのぞく焼け焦げた森も。心を決めたマーシャルは、呼吸を止めた。
一気に畳み掛ける!
剣の柄に巻きついた指は、切り取らない限りは剥がれそうにないくらい柄に吸い付き、剣と一体になっている。呼吸を止めると心臓の脈打つ速さが少し緩まって、周りの景色もゆっくりと流れ出した。神経が研ぎ澄まされる。金属のぶつかる甲高い音と、眼前の気配だけに集中する。斜め下から襲ってきた剣を受け流したマーシャルは、這いつくばるかのように腰をかがめて、赤目の両足を払うように膝の辺りを狙って剣を真横に振るう。
赤目が真上に跳躍した。そんなことをしても無駄だと、真っ赤な目が笑っている。赤目の跳躍力はマーシャルに負けず劣らず凄まじかった。高く高く、シャンデリアに剣先が届くのではないかと思うほどに高く飛ぶ赤目を仰いで――――
マーシャルは極上の笑みを口許にのせた。
かさついた唇は、寒さのせいで真っ赤に染まっていて、やけに色っぽい。艶やかさを発する微笑みを浮かべたまま、マーシャルの手首がひるがえって、切っ先の方向を変えた。氷の床に剣が突き刺さる。呪文によって炎の衣をまとった剣は、いとも容易く氷を砕き、人一人が十分に通り抜けることの出来る穴を作った。
丁度赤目が落下するはずだったその場所に。
穴のふちに立ったまま、マーシャルは驚愕の表情を浮かべている赤目を見上げていた。どうしてだ、という言葉が彼の中で立ち上るのが分かる。
――――そうでしょうね、どうしてだと疑問に思うでしょうね。だって、あれだけ踏み込んでも砕けなかった分厚い氷の床が、こんな一瞬で砕けるはずがないって思ってるでしょうね。
「悪いわね、やっぱり味方がいる方が強いのよ」
マーシャルは慎重に慎重に相手を追い詰めたのだ。橋の真ん中を過ぎたあたりから、攻撃は全て上から加えるようにしていた。赤目が大きく跳んだり、強く床を踏んだりしないように……氷の床が薄くなっていくことに絶対に気付かれないように。
赤目の目玉が飛び出さんばかりに丸くなる。今から自分が落下する先を見た男は、パクパクと顎を動かす。自分の末路を知ったのだろう、穴の下には青い光を放つ氷の針山が待ち構えていたのだから。倒れたまま上の様子を伺っていたユンスティッドが、残った魔力を振り絞って赤目のために用意したものだった。
「敵が作った足場を利用するなんて、お・バ・カ・さ・ん」
そうしてあとは落下していき針山の餌食になる赤目を、マーシャルは傍観しているだけで済むと思っていた。赤目の血走った瞳と目が合うまでは。
それは執念の一撃だった。
赤目が落下しながら放った剣が、マーシャルの足元の氷にひびを入れた。すばやく退避しようとしたマーシャルの右足を赤目の左手が掴む。鳥の爪が獲物を掴むように、ギリギリと締め上げて離さない。マーシャルは咄嗟に魔法剣を放り出して、崩れかけた穴のふちに手をかけて、氷の呪文を唱えて補強した。だが運の悪いことに、魔力が底をついたせいで不完全にしか補強できなかった。マーシャルと赤目が縦に連なって、氷の床にしがみつく格好となる。
「このっ!離しなさい」
ガンガンと左足で赤目の頭を蹴りつけるが、赤目が両手の力を緩める様子はなかった。
「死んでも離しませんよ。貴女を道連れにすれば、多少は私の思いも報われるでしょう」
「どんな思いだってのよ!」
クッとマーシャルは下唇を噛み締めた。あまり暴れると、氷の床が崩れて、赤目もろとも針山の上で串刺しの最期を迎えることになってしまう。
「最後の最後に油断したのが命取りでしたね!」
「くそっ!」
汚く悪態を吐いて、マーシャルは視線をさまよわせた。ユンスティッドはこちらの状況に気付いているが、彼もすでに満身創痍で、ひきずるようにしか体を動かせない。魔法を使う力はおろか、駆け付ける力も残されてはいないだろう。結界に守られているはずの公爵の姿を探したが、いつの間にかいなくなっていた。
視線を上に戻す。氷の穴から、天井画の端っこが覗いていた。ポーミュロンの頭部と、天上の楽園から降り注ぐ神々しい光だった。まだ楽園に行くには早すぎるわよっ。
「貴女にはもう私を振り払う武器もない。魔力だって残っていないはず。出会ったばかりのお嬢さんと最期を共にするとは光栄ですね!」
「私にとったら最悪よ、赤目野郎」
「ますます光栄至極!」
「死ね、変態!」
ビキッ、と氷がひび割れる音が響いた。このままでは、本当に楽園に旅立つことになってしまう。そんなのは御免だ、と死にもの狂いで打開策を考えた。
(床が割れる前にこの赤目野郎と引きはがせばいいのよ。そうよ、それだけ。でも、魔法剣はここからじゃ手が届かないし、魔力も残ってない、短剣もナイフも使い切ってしまった……何か、何か他に手は……)
ぐるぐると回る思考の渦に巻き込まれて、目まで回りそうになる。そこら中から突き出した太い氷柱が、きらきらとそこだけ美しく輝いていた。恨めしくなって、それらを睨む。透明な柱の中心は白く濁っていて、そこが時折銀色にきらめいた。髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き混ぜていたマーシャルの手が、ふっと止まる。指に固いものがひっかかっていた。
(ああっ!)
呆然とするマーシャルに気付かず、赤目は「もうそろそろですかね」と楽しげにしている。己の命運がついさっき定まったことをまだ知らずにいるのだ。
「ねえ」
マーシャルは親しげに呼びかけた。赤目がこちらを振り仰ぐ。その顔から笑顔が抜け落ちた。彼はヒュッと息を飲み、表情を強張らせている。
すみれ色の目に、もう焦りはなかった。神の御許に旅立つ覚悟を決めて心安らかになったというのだろうか。いや、そんなはずはない。マーシャルの負けず嫌いと諦めの悪さは筋金入りだ。
口許に再び微笑みが戻ってくるのを感じる。
「だーれが、武器はもうないなんて言ったかしら」
そう語りかけたマーシャルの手に握られているものを目にして、赤目は愕然とした。茶色い後ろ髪が弾むように背中に落ちて波打っていた。銀色に輝く、羽のついた髪飾り。針山の太い針とは比べ物にならない、しかし同等の鋭利な輝きを持った細く長い針が、髪飾りから突き出していた。
マーシャルは、おもむろに針の根元を持ち、髪飾りを振り上げた。右ひざを曲げると、赤目とマーシャルの顔がぐっと近づく。
「きっ」
「それじゃあね」
マーシャルは男の手の甲に根元まで針を突き刺すと、穴を広げるために無理やり針を回した。ぐじゅぐじゅと肉がえぐられ、つつかれる。血が流れだし、ダラダラと手首を伝っていき、燕尾服の下にのぞく白い袖を赤く染め上げた。指の間から手のひらへと流れた血のせいで、ずるりと赤目の手が滑る。ついに、彼の左手が足から剥がれ落ちた。諦めず、もう反対の手で足にしがみつこうとした赤目だったが、マーシャルは躊躇わず男の右手にも針を突き立て、仕上げとばかりに頭を蹴り落とした。
「バイバイ」
にっこりと笑う。赤目の顔が歪み、鬼の形相になる。
「きっ……」
覆面の下の口から、獣のような咆哮がほとばしった。
「きっさまあああああああああ!!!」
針山に向かって落下していく赤目を、マーシャルは見送った。誰しもに最期は笑顔で送られる権利があるだろう。だから真下の床が真っ赤に染まっても、マーシャルは誓って笑顔を崩さなかった。




