背中を合わせて
マーシャルのとっておきの第一声に答えたのは、残念ながらユンスティッドではなかった。彼は周りの状況を忘れてしまったのか、唖然としたままでいる。
「誰ですか貴女は」
意気揚々と名乗りを上げようとしたが、覆面の男はあっさりと首を振った。
「いえ、貴女が誰かは知りませんが、たかだか一人増えただけのこと」
「人質はいくらでも作れますから」と怜悧な女の声。
出鼻をくじかれてマーシャルはムッとした。しかし、確かにその通りだ。公爵を脅すならば、てっとり早いのは本人か身内を使うことだろうが、この場にいる貴族だって十分に人質になりうる。
「ねえ、ユンス」
「言っとくが、これ以上仰天させること言うなよ。というか、何でさっきお前まで吃驚してたんだ。驚いたのは俺の方だぞ。ああ、くそっ」
声しか聞こえないが、ユンスティッドの動揺ぶりはひしひしと伝わってきた。こんな時でもなければじっくり観察したいところだが、生憎その余裕はない。
「ねえってば。このたくさんのお客さんたち、邪魔なんだけど、どうにかできない?」
お客さんというか、今は人質候補と呼ぶべきか。ユンスティッドはため息三つ分の間黙り込んだ。「何とかしてみる」頷くと同時にユンスティッドは早口で呪文を唱えた。「コングラキア」二人と公爵を取り囲んでいた覆面四人が、魔法の行使を阻止しようと動き出した。剣を大きく振るって、三本のナイフを同時に叩き落とす。「ヴィンディカット!」の声と共に、氷の魔法が炸裂する。出入り口付近に立っていた覆面たちの足元から氷柱が生え、彼らを封じ込めた。すかさず誰かが「今だ!逃げるぞ」と一階の招待客たちを出口に促す。マーシャルの耳には、兄の声に聞こえた。
一人が走り出したのを皮切りに、貴族たちが一気に出口に押し寄せた。残りの覆面たちが剣で脅して押し戻そうとするが、パニックを起こした客たちの勢いはとどまらない。作戦はこのまま成功するかと思われたが、招待客の半分ほどが外へ出ていったところで、出口が氷漬けになって塞がれ、氷柱も砕けてしまう。犯人は当然ユンスティッドではない。
「ちょっと、そっちにも魔法師がいるなんて聞いてないわよ」とマーシャル。返事はない。これは思ったより厄介かもしれない、と内心舌打ちした。ユンスティッドが咄嗟の判断で、取り残された招待客たちの周りに結界を張る。
「まあ、百人いれば十分でしょう。先程より動きやすくなりました」
出ていった者たちは見逃すつもりらしい。どうせこの嵐だ、ろくな助けは呼べまいと思っているのだろう。
覆面の幾人かが武器を構えたままぶつぶつと何事かを唱え始めた。ユンスティッドが耳打ちしてくる。
(おい、結界は多分それほど持たない)
(って、どれくらいで解かれそうなの?)
(せいぜい十五分だな)
マーシャルは階下を一瞥した。ホールの奥半分に貴族たちがすし詰めにされている。そこにちらほら見知った顔を見つけ、覚悟を決める。
(ユンス、あのさ……結界の手前に壁を作れない?結界を張ったおかげで、お客さんたちの方は守りが手薄になってるでしょ?)
(俺たちがいる方と切り離すってことか)
(そういうこと。そうすれば敵の数も人質の心配も減るわ。それから、壁を作ったら結界解いちゃって大丈夫よ。あっち側にはエヴァンズ隊長もキルシュさんもいるし、他にも心強い味方がいるから、多分ホールの外にも何人か)
ユンスティッドが小さく首を縦に振った。小声の詠唱が流れ出す。無言の信頼が嬉しかった。
ホール内の気温がぐっと下がるのを感じながら、マーシャルは駆け出した。目標はシルバート公爵。公爵の重要性は敵も承知しているのか、三人の覆面がマーシャルを迎え撃った。だが、マーシャルに戦うつもりはない。襲い来る刃を紙一重ですり抜けると、公爵の太い腰に手を回した。「失礼します」と一応断りを入れて、目を点にしている公爵を引きずるようにして走る。
欄干に足をかけて一階に飛び降りた――――公爵を抱えたまま。
本日二度目の落下に、胃の腑が震えている。振り向きざまに怒鳴った。
「そっちは任せた!」
固い床に着地するとジーンと足が痺れた。骨の髄まで響くような痛みだ。痛みを堪えるため俯いた頭の上に、二階から怒声が降ってくる。
「これ以上驚かせるなって言っただろうが!」
「肝っ玉が小さいこと言ってんじゃないわよ!」
怒鳴り返してから、公爵を庇うように前に出た。こちら側の覆面たちの数は三十人ちょっと。上には五人いたから、合わせて四十人。居並ぶ覆面の敵たちの向こうには、床から天井までを塞ぐ巨大な氷の壁がそびえていた。敵方の魔法師が炎を出して溶かそうとしているが、表面の薄皮一枚が溶けるのみ。アイスを舌で舐めとるようにとはいかないようだ。
公爵はいきなり抱きかかえられ飛び降りてきた時こそ驚いていたものの、すでに平然とした顔でいる。さすがは公爵様。マーシャルは感心した。息子の方もこれくらい肝が据わってればよかったんだけど。
「あの公爵様。すみませんけど、隙を見て逃げて下さい」
「君は大丈夫か?息子もそこそこ役に立つとは思うが」
「はい、ご心配なく。私強いですから」
邪気のない笑顔で言うと、公爵はうむと頷き迷いのない動きで振り向いた。本邸へと逃げ込む気だ。たしかに、このだだっ広いホールよりは敵に見つかりにくいだろう。だが、覆面たちがそうそう公爵を見逃すわけがない。マーシャルがナイフと短剣で気を逸らそうとしたが、敢え無く本邸への出入り口を氷で塞がれてしまった。公爵が立ちはだかった壁の前で足踏みをする。片手に一旦炎を生み出したものの、指を折り曲げてもみ消してしまった。代わりに、結界魔法の呪文を唱える。
「すまないが私には息子ほど体力も才能もない故、加勢したところで足手まといになるだけだろう。だが、己の身くらいは守ることができる。私のことは構わなくていい」
「えっと……でも公爵様を逃がさないと意味がないんじゃ」
公爵の言いたいことがいまいち理解できなかった。公爵は親切にも、嫌な顔一つせず説明してくれた――――いくら公爵が自分の周りに防護結界を張ったとして、敵が周りにいては勝ち目のない籠城戦と同じことだ。だから、
『この場にいる敵を殲滅しろ』
(そういうことかっ)
下された指令に、歓喜のファンファーレが鳴り響く。
マーシャルは短剣をしまい、魔法剣と持ち替えた。ぐっと柄を握り込むと、凸凹とした部分が手のひらに食い込む。覆面の敵が一、二、三、四、十、二十……いーっぱい。背筋をぞくりとしたものが走り抜け、むき出しのうなじがカッと熱くなった。ホールは氷で気温が下がっているはずなのに。
ああ、血が沸騰する。
全身が炎に包まれるようだった。この熱は体内からやって来る。
ふふふふふ、と俯きがちに低く笑う。覆面たちが腰を低くして容赦ない殺気を放ってきた。マーシャルは顔を上げる。この先のお楽しみを前に、獲物を待ち構える猛獣のごとく舌なめずりした。
「上っ等!かかってきなさいっ!!」
数十の殺気と一つの巨大な闘志がぶつかり合い、爆発した!
こちらの誘い文句に乗ったのかは分からないが、前方にいた覆面十人ほどがたちまちマーシャルを取り囲んだ。精密な正円の包囲網が形成され、覆面たちは一斉に両手を交差させてナイフを投げ放った。足元を狙ってきたナイフの軍団を、上に跳んで避ける。天井のシャンデリアと距離が縮まった。
そこへ覆面たちが細い剣をかざして襲い掛かってきた。剣の切っ先が頭上に落ちてくる前に、マーシャルは「イグニス!」と一声叫んだ。剣に炎がともる。マーシャルの闘志に似て、苛烈な色をしていた。地面につけた片足を軸に、体を回転させる。一緒に一周した魔法剣が、燃え盛る炎壁をつくり出した。消火しようと水の魔法を使ってきた敵を見極める。アイツか!マーシャルは突進した。
「なっ、貴様!」
炎の壁を突き破ってきたマーシャルに、覆面の男がぎょっと後ずさった。やっぱりだ。武器を携えてはいるが、敵方の魔法師たちは接近戦に弱い。ならば先に潰すのみ。
「まあ、条件はコッチも同じなんだけどね」
男の喉笛に突き刺さった剣を肉を抉るようにして引き抜き、包囲網から脱出しながらマーシャルはぼやいた。男の喉元から噴水のように噴き出した血がドレスにかかり、赤色が黒ずむ。
もし接近戦もこなせる私が、魔法をユンスティッド並に極めたら、きっと最強になれるはず。夢のまた夢だけど。でも、それって……つづく言葉は胸にしまった。
隣のシャンデリアの真下まで移動したところで、再び敵に取り囲まれた。今度は四人だ。対極線上の二人がナイフを足元に投げてきて、マーシャルはジャンプして避けざるを得なかった。残りの二人が斬りかかってくる。
「芸がないわね」指の間に挟んだナイフを両方向に飛ばす。
斬りかかってきた二人の体が傾いだ。喉元にナイフが一本突き刺さっている。「悪いけど、短剣の扱いとナイフ投げじゃ負けなしなの」ナイフ投げの二人がひるんだ隙をついて、その二人も斬り捨てた。四方の敵が、どさりと倒れ伏し、マーシャルは敵の檻から解放される。
だが、鳥籠から逃げた鳥を捕まえようとする手が伸びてきた。するどい爪を生やして迫ってくる。マーシャルは腹を蹴り飛ばされて、壁まで吹っ飛ばされた。
「がはっ!」
背中を強く打ちつけられて、息が止まる。
「調子に乗らないで下さい」と冷淡な声。
鋭いハイヒールで容赦ない一撃をくらわせてきたドレスの女を睨めつけた。
「やったわね、コンチクショウ!」
声には抑えきれない興奮が滲みだしている。どんどん楽しくなってきた。口元には薄い笑みが浮かんだが、すぐに掻き消えた。背筋に悪寒が走り、マーシャルは痛む体を無理やり動かして横に跳びすさった。さっきまでもたれかかっていたところの壁を割って、怪獣の牙のような鋭い木の根が飛び出してきた。完全には躱しきれず、横腹部分の赤い布が裂けて皮膚から血が飛んだ。
お返しよ、と言わんばかりに、マーシャルは覆面の女に足払いをかけ引き倒すと、両ふくらはぎに思いっきり剣を振り下ろした。女が太い針のような武器でマーシャルの足の甲を突き刺してきた。チリッとした痛みを無視して、剣の刃を押し進めた。骨の固い感触にぶち当たってもなお強く。女が堪らず悲鳴を上げて気絶する。どくどくと血が流れ、大理石を汚した。間髪入れずに逃げ腰の魔法師に向かって行って、鳩尾に剣の柄を叩き込んだ。
(とり、あえず……七人っ)
先ほど壁に叩きつけられた衝撃が効いてきて、ふらりと一歩後ずさった。そこで床に転がった何かにけつまずき、後ろにたたらを踏む。ヒールで踏ん張ろうとしたところで、トンッと背中に触れるものがあった。振り向くと、肩を上下させるユンスティッドの背中が、マーシャルを支えていた。
「おい、大丈夫か」
「平気よ、これくらい」
ユンスティッドはいつの間に下りてきていたのだろう。二階を見上げて、マーシャルは「わお」とよく分からない称賛の声を漏らした。
床と欄干は凍りつき、その氷を突き破って樹木が天井や階下に向かって伸びている。さらにその上から氷の山が顔を覗かせていた。二階は氷と樹木の無法地帯と化していた。欄干の間から敵と思わしき者の手が一本垂れ下がっていて、その指から剥がれ落ちた短剣が落下する。大理石とぶつかって甲高い音を立てた。カキンッ。
「何があったか見ておけばよかった」
「そこまで余裕綽々だったのか」
「うるさいわね」
背中合わせで立つ二人の周りに、殺気をざわつかせた覆面たちがじりじりと迫ってくる。その数は未だ三十近い。不味いな、とユンスティッドが思わずと言った様子でこぼした。
「……ねえ、ユンス。私思ったんだけどさ、私がアンタ並に魔法を極めたとしたら、至上最強の戦士になると思わない」
「何たわごと言ってるんだか」呆れた声が返ってきた。
「分かってるわよ、夢のまた夢だってことくらい。でも、つまりそれってさ……」
祖父や父、兄たち、ハロルドの背中とも違う。でも、ユンスティッドの背中はマーシャルの心を強くする。私たちを隔てる壁はもうないのだ。
胸にしまっておいた言葉のつづきを、今度は最後まで言い切った。
「アンタと私が揃ったら、最強無敵ってことよね」
怖がる要素など、どこにもない。
ユンスティッドがマーシャルを見た。彼は気が付いたはずだ。すみれ色の瞳に宿るのが、勝利への渇望と戦いへの喜びと、それから唯一無二のパートナーへの信頼だけだということに。マーシャルが上体を低くした。腰をかがめるにつれて、ユンスティッドから背中が離れていく。額に張り付いた前髪をかき上げた。よし、前がはっきり見える。
「無茶は、」
ユンスティッドの言葉の末尾をマーシャルは横からかすめ取った。
「ほどほどにね」
「よく、分かってるじゃないか」
少年は唇を弓なりにした。黒曜の目にも、マーシャルの烈火のごとき闘志が燃え移ったようだった。向かい合う敵の数は半分ずつ。二人はダッと駆けだして、それぞれの戦いへと飛び込んだ。
マーシャルの前に、早速覆面が立ちはだかった。敵もとっくに、マーシャルたちを止めない限り公爵が手中に落ちないことを分かっているだろう。
覆面の男に後ろを取られた。グンッと迫る短剣を片足で蹴りあげて弾き飛ばす。靴底に当たって欠けた刃先を見て、相手が賢しらに言い当てた。
「靴底に何か仕込んでいるのか」
「仕込むっていうか、特注で作った鉄製の靴底ってだけなんだけどね」
その尖った靴先で男の横腹に回し蹴りを入れる。男は壁際に吹き飛んで頭をしたたかに打ち付け、ぐったりと動かなくなった。
(これが一人目)
ふっと床に影が落ちた。互い違いの方向から覆面が二人襲い掛かってくる。ぎりぎりまで引きつけたところで、マーシャルは腕を床について頭をすばやく下げた。目標を見失った覆面二人が勢いを殺しきれず味方同士で激突する。額から血を流して、床に落ちてきた。
(二人、三人目)
両手をついて腹ばい状態だったマーシャルに、またも上から敵の刃が降ってくる。今度の敵は二刀流だ。マーシャルは腕の筋肉と腹筋にぐっと力を入れて、床を両足で蹴り上げた。背筋が引き締まる。靴底から生える高いヒールが相手の柔らかい部分に突き刺さる感触がした。
(四人!)
足を下ろした反動で起き上がり、そのままとんぼを切った。上体を起こしたところから、再び後ろにひっくり返って倒立状態になり、そこにいた覆面の首を膝の裏で挟み込んだ。万力で締め上げながら、床から手を離して男の首にぶら下がる格好になる。自由になった手を使って転がっていた短剣を拾い目の前にあるすねをえぐった。足を床に下ろすと、傷ついた男はいとも簡単に引きずられて倒れた。
(これで五人っと)
マーシャルは太腿のベルトからもう一本短剣を抜き、腕を交差させた。長剣を低く構えた敵が両側から迫ってくる。さらに背後から飛びあがったもう一人の敵がマーシャルの頭をかち割ろうとしていた。
風を起こして上方の敵を吹き飛ばそうとしたところ、そいつは横から飛んできた覆面の巻き添えとなって、何もせぬまま床で押しつぶされて伸びてしまった。「ぐはぁっ」という叫びだけが余韻を残す。横から飛ばされてきた男はユンスティッドの魔法の犠牲者だろう。ご愁傷さま。
マーシャルは腰を低くして、短剣で双方からの敵を迎えうつ。短剣と敵の長剣が噛み合ったのを確認した瞬間、マーシャルは「グラエキース!」と叫び、四本の剣の刃先を凍らせた。凍りついた短剣を即座に捨て、「何っ?!」とまごつく敵二人を回し蹴りと膝蹴りですばやく仕留める。
(六、七、八人目!)
優雅でいて荒々しい戦いの舞が一先ず終了した。マーシャルの視界に映る敵は、指で数えられるほどに減っていた。ユンスティッドの方はどうなっているのか、と思って横目で見る。そして思わず遠い目をした。
なんということでしょう、ジャングルです。
そんな感想しか浮かばなかった。
外の嵐にも匹敵する大雨が降ったり、青白い雷が樹木を燃やしたりしている。二階より酷い有様だった。ユンスティッドが氷の魔法ばかり使っているのは自分の家を壊さないためかと思っていたのだが、もはや気にしていないのか、大魔法の応酬をおっぱじめていた。敵方の魔法師の多くはユンスティッドが相手取ってくれているようだ。道理でマーシャルの方で魔法を使ってくる奴がいないはずだった。
「こっちもさっさと片付けないとね」
目算できる程度に敵も減らせたことだ。なるべく拾い集めておいたナイフの本数にはまだ余裕がある。覆面たちのものをいくらか拝借したからだろう。
一番近くにいた覆面の男の片膝がわずかに曲がった。マーシャルは、ベルトからナイフを全て引き抜いて両手の指に挟んだ。片手に三本ずつ、敵の数は六人。ぴったり帳尻が合う。今日は散々先手を取られていたので、大分鬱憤もたまっていた。
「それじゃあ一番マーシャル、行っきまーす」
にやあっと笑って、マーシャルはいきなり跳躍した。高く高く、とんでもないジャンプ力だった。このまま鳥のように翼を生やして飛んで行ってしまうのではないかと思わせる。
つられて上を見上げた覆面たちが、ハッと表情を強張らせた。シャンデリアが逆光になって、マーシャルの姿が見えにくいことに気が付いたのだ。狙い通りの効果に満足しながら、マーシャルは見下ろした覆面たちに向かってナイフを投げ放った。銀色の小さな猟犬は、主人の命令に忠実に三人の喉笛を見事噛み千切る。
しかし残りの三人は仕留め損ねてしまった。ナイフから逃れ攻撃に転じようとする覆面たち。マーシャルは着地すると同時に武器を魔法剣に替えて応戦した。一人の腹と腕に、もう一人の両肩に傷をつけたが、覆面二人は剣を捨てて足での攻撃に切り替えてきた。靴底から飛び出た黒い光る刃に、げえっと潰れた蛙のような悲鳴を上げる。
「ちょっと、靴底に何か仕込んでるのはそっちの方じゃない!」
最初の方の男の台詞は芝居だったのか。あっさり騙されたことに地団太を踏みたくなった。怒りに任せて剣の柄で敵二人の膝の皿を叩き割ってやる。潰れた膝が内出血を起こして赤く染まった。今度こそ、覆面たちは苦悶の声を上げて崩れ落ちた。
その向こうに一人の覆面。顔を見てすぐに悟ったが、そいつは大分頭に血を上らせていた。額に青筋が浮いている。他の覆面たちに比べると、明らかに短慮だった。戦い慣れしていないのだろう。
ダメじゃないの、と呆れながら、マーシャルは腰の横に両手を垂らして、無防備な振りで未熟な刺客が真正面から突っ込んでくるのを見ていた。
「うおおおおおおお!!」
男の突き出した剣の穂先が顔めがけてやって来る。鼻先ギリギリまで穂先が近づくまで待って、マーシャルは片足をすっと持ち上げた。ふくらはぎから太腿までをさらけ出して、赤い靴のヒールを男の顔面にめり込ませる。
「顔洗って出直してきなさい」
カラン、と男の手から剣が剥がれ落ちる。ほとんど同時に、男の顔も靴底から剥がれた。鼻血は垂れているし、白目を剝いてしまっていた。その口から何か白いものがこぼれ、意識を失った男の体の横に落ちた。折れた前歯の欠片だった。
「あら、男前」
ひゅうっと口笛を吹いて、男の体を跨ぎ、マーシャルはユンスティッドの方に軽い足取りで寄って行った。未曾有の災害の跡地のようになっていた場所では、ユンスティッドが固まった泥の出っ張りを掴んで下りてくるところだった。大分息が上がっている。白い服はあちこち焼け焦げて、金ぴかの装飾もどこかへ行ってしまっていた。一方、マーシャルのペンダントは、鎖が千切れることもなく首元に留まっている。さすが元剣師団長からの贈り物と言うべきか。
マーシャルは、最後に倒した男の顔を指さしながら、ユンスティッドに提案してみた。
「アンタも前歯でも折ってみたら?歴戦の戦士みたいでかっこよくなるかもしれないわよ」
「断固拒否する」
つれない返事に、マーシャルは割と本気でがっかりした。妙案だと思ったんだけどな。ぶつくさ呟きながらユンスティッドに向かって走り出す。少年はきょとんとして目を瞬かせている。その背後から気配を消して忍び寄っていた覆面の心臓を、マーシャルは真っ直ぐ貫いた。ずるりと抜くと、傷口から川のように血が流れ出た。刃先が赤黒い血で汚れていたので、近くに茂っていた樹木の葉っぱでぬぐう。血を吸った剣の輝きは、禍々しさを増していた。
ガクッと首を垂れて冷たくなっていく男の胸の辺りを見つめて、マーシャルと見比べたユンスティッドはぼそっと言った。
「お前って、心臓に毛が生えてそうだよな」
マーシャルは「ヤダー」とでも言いそうな表情を作って、両手で胸を庇うようにした。
「何、スケベな話?」
「知ってるか?人間って心臓が一二秒止まった程度じゃ死なないんだ」
ユンスティッドの優しげな口調が恐ろしかったので、マーシャルはその場でごめんなさいと謝罪した。素直に謝ったのに頭をはたかれた。何故だ。
「そっちは全員倒したのか?」とユンスティッド。
「ユンスはどうなの」
「見ての通りだ」
ユンスティッドの親指が背後の凄惨な景色を示した。誰かが動いている気配もないし、おそらく死んだか気絶しているのだろう。しかし、この少年はよくこの中で生き残っていたなと思う。意外に丈夫よね、コイツ。
「うーん、それじゃあ。最後にやることは決まってきたわね」
「最後?」
そうよ、とマーシャルは頷いた。くるり、と振り向き、ユンスティッドや公爵が最初に立っていた二階の辺りを見上げる。すみれ色の視線をたどったユンスティッドは、何かに気付いて目を見開いた。
いつの間にか、氷と樹木の森の上に覆面の男が二人佇んでいた。思考を悟らせない無表情で、こちらを見下ろしている。視線を注がれていたのに、戦闘中には気づかなかった。二人とも灰色の髪の毛をしているが、瞳の色が違う。右の男は目の覚めるような空色、左の男は燃え立つような赤色だ。
「……どうやら、最後の仕事が一番厄介そうだな」
「分かる?アンタも結構戦い慣れしてきたじゃない」
からかうと、ユンスティッドは顔をしかめた。
「そう言われたところで、嬉しくも何ともないけどな」
「折角褒めたのに」
赤目の男が歩き出し、欄干の上に立った。碧眼の男も、もたれかかっていた氷柱から身を起こした。痛いほどの沈黙がホールに満ちる。
緊張の一瞬。
マーシャルは目が乾いた。だが、それは空気が乾いているからではない。体内の炎が熱風を巻き起こして、眼球の内側を煽っているのだ。
――――いざ、尋常に。
マーシャルと赤目の男。双方が動き出した時、最後の戦いの火ぶたが切られた。
二人で奏でる




