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波乱の舞踏会



 春も雨は冷たい。

 最初は大粒の雨がバラバラとあられのように降ってくるだけだったが、しばらくするとバケツをひっくり返したようなザーザー降りに変わった。

 シルバート公爵家のダンスホールへの入り口の屋根の下に、黒い燕尾服に身をつつんだ男性が佇んでいた。彼は畏れ多くも公爵家の軒下で、雨宿りしているわけではない。代々シルバート家に仕える由緒正しき執事だった。招待客の一覧表を一瞥して、屋根の外の天気と見比べた。久しぶりの大雨と大風。まだ来ていない客はいるが、この嵐の中馬車を走らせることはしまいだろう。主人に諸々の伝達事項を伝えるため、一旦ホール内に入ろうとした執事に、待ったの声がかかった。彼は慌てて振り向いて、完璧な笑顔で対応を試みようとしたが、傘をさして歩いてきた人物の正体を認めて意外そうな表情をあらわした。


「ヴィノーチェ様、これはお久しゅうございます」

「ロッソでいいって、何度も言ってるだろう」

「いえ、ユンスティッド様のご学友をそのようにお呼びすることはできません」

「ふん」とロッソは鼻を鳴らした。このやり取りは、数えることが馬鹿らしくなるほど繰り返されてきたものだった。

「まあ、いいだろう。本題は、ボクを中に入れてほしいってことだ」


 執事は恭しく頷いて、ロッソと背後に隠れていた同伴者を屋根の下に招いた。蝙蝠傘とコートを預かろうとすると、ロッソは「構わないでくれ」と断った。


「ユンスがどうしてもというから、少し顔を出しにきただけなんだ。ホールには入らず、庭から直接屋敷の方に行くことにする」

「左様で。しかしながら、この雨の中を屋敷まで歩かれるのは……」

「これだけ濡れてるんだから、今更だな。とにかく気にするな。ああ、それから、案内もいらないし、ユンスにわざわざ伝えなくていいからな。連絡手段くらい携えている」


 優秀な執事は畏まりましたとだけ言った。大方、魔法の道具でも持っているのだろうと、予想していたのだ。執事はそちらの方面にはあまり明るくなかった。ロッソともう一人は――屋根の外にいる時は暗く、顔が傘に隠れていたため気付かなかったが、おそらく若い女性だった――そそくさとダンスホールを囲うようにしてある庭に出ようとした。


「ところで、ロッソ様。そちらのお連れの方はどちら様でしょうか。初めてお見かけする方かと存じますが……」


 執事の言葉に、身長差のない二つの背中がピタリと止まった。ロッソが首だけで振り向き、そっけなく答える。


「学院での助手仲間だ。ユンスとも知り合いだ」

「そうでございますか。失礼いたしました。芝生が濡れて滑りますので、お気を付け下さい」


 執事の完璧な礼による見送りを受け、ロッソたちはその場を離れ、再び降りしきる雨の中へと向かって行った。

 ホールの建物の角を左に曲がり、執事の気配も遠くなったところで、ロッソの後ろにぴったりついていた人影が、ロッソの背中から離れた。今まで小股で目立たないように歩いていたのが、急にさっさと元気よく歩きはじめる。

 同伴者――――つまりマーシャルは、隣でむっつりと黙り込んで歩いているロッソを見た。


「ロッソって、嘘も吐けたのね」

「キミ、ボクを何だと思っているんだ。必要ならばそれくらい朝飯前だ。もっとも、今回の芝居が必要だったかどうかは疑問が残るところだが」

「あははー、ごめん。協力してくれてありがとう」


 ロッソは、マーシャルにまるで犯罪者でも見るような不愉快な目つきを向けた。実際、マーシャルはロッソを学生寮の一室から無理やりさらってきたため、誘拐犯だと訴えられても文句は言えない立場だった。書き置きくらい残しておくんだったかな、と今更後悔しても遅い。


「しかし、舞踏会に出るわけでもないのに、どうして今日でなければいけなかったんだ?ユンスと仲直りしたいのなら、日を改めた方がいいと思うぞ。ユンスはこういう日は機嫌がよくないことが多い」

「いろいろとやむにやまれぬ事情があるのよ。全部終わったら説明するわ」兄から内密にするよう念を押された情報を話すわけにもいかない。「ていうかロッソ、仲直りって何?私ユンスと喧嘩した覚えないわよ。まさか、手紙で文句付けたこと怒ってるの……?」


 一度、ユンスティッドが寄越す手紙が素っ気なさすぎると文句をつらつら並べて送ったことを思い出し、マーシャルは青ざめた。ただでさえ冷たい風雨にさらされて紫に変色していた唇が、さらに色をなくした。


「ユンス、私のこと何か言ってた?」と、恐る恐る尋ねると、ロッソは躊躇いもへったくれもなくすらすら回答しようとする。

「ボクが『ユンスとシャリーは仲が悪いのか』と尋ねたところ、」

「うわああああっ!やっぱいい!答えなくていいから!」


 何なんだキミは、と言ったのだろう、多分。マーシャルの両手の下で喋られたので、ふがふがと豚の鳴き声のようにこもっていて聞き取りにくかった。ジロリ、と睨まれたが、これも多分がついた。眼鏡のレンズはしとどに濡れていて、その奥の赤茶色の目もにじんでいたからだ。

 庭に張り出したバルコニーが一時的な屋根となったがすぐに通り過ぎてしまう。傘もあまり役に立たない様な土砂降りだった。

 ロッソは何度かこの黒い屋敷を訪れたことがあったため、ダンスホールがある建物から本邸に行く裏口のことも知っていた。裏口の扉が見えてくると、ロッソは扉横の軒下に入った。


「使用人たちが使う出入り口だ。あとは自力で頑張ってくれ。何をするつもりかは知らないが」

「ロッソはどうするの?」

「しばらくここで雨宿りしてから、学院に戻る。執事がいたら適当に誤魔化しておくから安心しろ」

「ロッソ、アンタ今すごく頼もしいわよ」

「そうか、褒められるのは嬉しいな」


 ロッソは眼鏡を外して服の裾でぬぐおうとしたが、コートもびしょ濡れだったため逆効果だった。マーシャルが着の身着のまま引っ張ってきたため、やぼったいコートの下は毛糸の伸びきったいつものセーターだ。マーシャルの方は、公爵家に潜り込んでも怪しまれないよう、コートの下には真っ赤なドレスを身にまとっていた。ひざ下丈のワンピース型で、襟ぐりや服の裾には同色のレースとフリルがあしらわれていた。首元はいつもの赤いペンダントで飾られている。普段、側頭部から馬の尻尾のように垂らしている髪の毛は団子にして、羽のついた銀製の髪飾りで止めていた。


「それじゃあ、頑張って」とロッソ。


 そう言いおいて、雨どいから流れてくる雨水と飛沫から身を守るため、軒下を横ばいで歩いて扉から離れようとした。「うん、ありがとう」と言って颯爽と屋敷の中に消える心づもりだったマーシャルは、急に心細くなってきて、反射的にロッソのコートの袖を掴んだ。濡れたコートの生地がピンと張る。隣のダンスホールにユンスティッドがいるのかと思うと、一昨日ハロルドによって呼び起された不安が存在感を増していく。もしユンスとばったり会ってしまったら?心の準備も出来ないうちでは、平常心を保つことなどできない。滑稽なほど挙動不審になって、問い詰められて、取り返しのつかない会話を交わしてしまったら……

 らしくもなくおどおどと視線をさまよわせるマーシャル。ロッソのコートの生地がきりきりと伸ばされる。その手をロッソは無遠慮に払い落とし、鼻白んだ。


「シャリー、まさかボクがキミの手を握ってついていくとでも思っているのか。悪いけど、ボクはユンスとは違うんだ」


 振り払われたマーシャルの手が、行き場をなくしてぶらんと揺れた。

 ロッソの言い方に従えば、ユンスティッドであればマーシャルと一緒に来てくれるということだろうか。

 それこそまさかだった。

 ユンスティッドであれば、手を握った途端、こんな馬鹿なことしている暇があったら本でも読め、さっさと帰るぞ、とマーシャルの襟ぐりを掴んで引き返すに違いない。ごねたとしても、口喧嘩で終わるのが関の山だ。マーシャルは小さく笑い声を立てた。空元気でも、笑うと少し気が楽になった。


「ごめん、ロッソありがとうね。風邪ひかないように気を付けて」

「体は丈夫な方だから心配無用」


 ひらひらと片手が振られる。さっさと行けということらしい。マーシャルは、そっと扉に手をかけて、外側にひらいた。扉は音もなくマーシャルを迎え入れた。たとえ蝶番が悲鳴を上げたとしても、大雨の音に紛れて誰にも聞こえなかっただろう。扉の先は、明りのついていない薄暗い台所だった。扉を閉めると雨音が小さくなり、代わりに水道から滴り落ちた水滴がピチョンと音を立てて跳ねた。

 静かに息を吸いこむと、マーシャルは意を決して、夜中の公爵邸へと潜り込んでいった。




――シルバート家の舞踏会の水面下で、きなくさい動きがある。ひと騒動起きるかもしれない。そこにはユンスティッドも参加しているはずだ――

 ティリフォンによる話を要約すると、おおよそこんな感じだった。

 「かもしれない」と断定こそしていないが、兄の所属隊に動く予定があるということは、確かな筋からの情報なのだろう。なぜひと騒動起こされる前に叩かないのかと尋ねたところ、兄は無言で笑った。久々に大暴れできるかもと知って、話を聞き流していたに違いない。肝心なところで役に立たないティリフォンだった。

 しかし、情報が完全でないとはいえ、ユンスティッドが参加する舞踏会で不穏な動きがあると聞いて黙っていられるわけがない。矢も盾もたまらず、馬を飛ばして半日ちょっとでこの町まで来てしまったが、いささか早計過ぎたかもしれない。ロッソを(強制的に)巻き込んで屋敷に侵入することには成功したが、さて、ここからはどうしようか。

 ティリフォンたちの作戦がどうなっているのかは分からないが、おそらく中と外に人員を分けて置いているはずだ。二百人はいそうなパーティーだったので、難なく潜り込めるはずだった。私はどうしようか。最大の利点は一人で好き勝手行動できるということだ。できれば、他人に見つかりにくく、ホール全体が見回せるところ……とくれば、目的地は自ずと定まってくる。

――――まあ、敵への対処法は、実際に事が起きてから考えればいっか。何が起こるのかさっぱり分かんないし。 


 とりあえず目的地まで急ごうと、マーシャルは階段を探して廊下をさまよった。大きな舞踏会の際は使用人たちもホールの方で給仕をするため、忍び込むには絶好の機会だった。裏口から赤カーペットの廊下を四分の一ほど行くと、小部屋の向かいに細い階段があった。正面階段ではない、こちらも使用人用のものだろう。

 ひと気がないことを確認してから、一息に二階へ上る。二階は下の階より扉の数が少なく、大きな部屋が多いようだった。廊下はひっそりとしていて、雨音がよく響く。ランプにはすべて明かりがともっていたが、黒いベールを一枚下ろしたような暗さだった。カーペットの上を抜き足差し足で進み、廊下のさらに奥を目指した。


(うーん、扉の大きさが変わんないな……どれも立派だ)


 何となく入るのを躊躇うような重圧感がある。さすが金持ち。マーシャルが探している部屋は、一目でそれと分かるものだと思ったのだが。こうなるとしらみつぶしに見ていくしかないだろうか。

(あんまり危険は冒したくないんだけど)

 仕方ないかしら、と思いつつ、とりあえず廊下を一通り歩いてしまおうと足を早めた時だった。

 背後から人の近づいてくる気配がした。

 カーペットで足音が消されていたため、気付くのに遅れてしまったのだ。足音は一つだった。どうする、このまま何気ないふりを装ってすれ違うべきか。ちらっと後ろを振り返ったマーシャルは、人影の特徴的な顔を認めて、慌てて首を戻した。背中をツウッと冷たいものが流れていくのを感じる。


(な、なんであの人(・・・)がこんなとこにいるの?!やばい、近づかれたら速攻でばれる!)


 マーシャルは、焦りと緊張を悟られないよう平常心を装い、できうる限り一番素早く優雅な動作で手近な部屋の扉を開けて潜り込み、後ろ手に鍵をかけた。部屋は暗くて狭く、埃っぽい。誰もいないことを確認して、扉に寄り掛かりへたりこむ。廊下を先程の気配が通り過ぎていった。

(か、間一髪だった!公爵家のパーティーなんて絶対知り合いはいないと思ったのに、なんでいるのよ!)

 理不尽な悪態を吐きながら、座ったまま部屋を見回した。何日か窓を閉め切っていたのか、むっとするかび臭さと雨のにおいが漂う。明らかに人が暮らす部屋ではなかった。椅子や机が乱雑に積み上げられ、埃をかぶった花瓶が五つほど並んでいる。マーシャルはピンときた。


「ラッキー!」


 と、思わず小声で快勝の叫びを上げ、拳を突き上げる。

 そう、マーシャルが探していた部屋というのは、物置部屋のことだった。庭を通ってくるときに、ホールと屋敷が同じ高さでつながっていることは把握済みだ。


(大抵、物置っていうのは、天井とかの装飾がないから……)


 高く積み上がっていた椅子の上によじ登り、がたがたと天井板の境目を探る。そう時間をかけずして、カタリと何かが外れる音がした。よし、大当り!板を外して出来た四角い穴に、マーシャルは満足げに鼻から息を吐いた。あとはここから天井裏に侵入すればいい。縁に手をかけて、飛びあがろうとした。


『――――なんて、あんまあったことじゃねえだろ』

(ん?)


 廊下の方から、どこかで聞き覚えのある声がした。つづいて聞こえてきた声を耳にして、マーシャルは危うく椅子から転げ落ちそうになった。


『そうですか?』


 極力感情を抑えたような淡白な声音。必死にバランスをとりつつ、マーシャルは奥歯を食いしばる。絶叫しそうになるのを堪えるためだった。


(ユ、ユンス……?!)


 間違えない。ということは、最初の声はエヴァンズ隊長。耳を澄ませばキルシュもいるようだった。三人は、物置の左隣の部屋に入ってきた。よりにもよって、こんな時、何故ここに!空気を読んでよ!と泣き言を言いたくなる。今からでも間に合うならば、両隣の部屋の表の空気に「黒髪黒目の無愛想男立ち入り禁止」と書きたい気分に駆られる。結界魔法とか習っとけば良かった!さめざめと嘆いた。

 天井裏を伝ってホールに向かうには、ユンスティッドたちのいる隣室の上を通らなければならない。三人の会話にマーシャルの名前が登場した暁には、動揺して天井板を踏み抜く自信があったので、大人しく三人が出ていくのを待つことにした。静かに四段の椅子から降りて、隣室との壁際に寄っていく。壁にもたれかかって、片膝を抱えた。今のところ、会話の内容は公爵家の豪華な造りについてであり、マーシャルの胸がかき乱されることはない。

 ユンスティッドの声は、エヴァンズと同じくらいの大きさに聞こえた。元々声量が大きいエヴァンズと同じということは、黒髪の少年はこちらの壁側の席に座っているのだろう。エヴァンズが冗談を言って、キルシュが笑い声を立てる。ユンスティッドはきっと小さく肩を揺らしているのだろうなと予想した。


 一年ぶりの、ユンスティッドの声だった。


 壁を通り抜ければ数歩の距離にユンスがいる。壁越しに、背中合わせの二人だった。今すぐここから立ち去ってしまいたい衝動に襲われるが、彼の抑揚のない声がかすかに聞こえる度、マーシャルは耳をそばだてて熱心に聞き入っている自分に気が付く。短い相槌さえ、こぼさないように拾ってしまっていた。海辺の白い貝殻の欠片を丁寧に集めている気分になる。しとしと、ざーざー、ぴちゃぴちゃ、三人の声……音がいくつも混ざっているのに、不思議と静かに感じた。


(ユンス……ねえ、聞きたいことがあるの)


 心の中で語りかける。あたかも、二人の間を細い糸が繋いで声が届くかのように。


(アンタは、このまま私とデュオを組んでいたいと思う?もしかして、本音では違う人と組みたかったりするのかしら。私はこれまでもこれからも、魔法ではアンタと切磋琢磨するような関係にはなれないと思う。いつだって先を行かれるもの。追いかけるだけで精一杯だわ。アンタが剣術に少しでも興味があれば、私にも何か与えることができたかもしれないけど……そんなことはありえないだろうし。私はたくさんのことを数年間で学んできたけど……)


 マーシャルからユンスティッドの与えたものなんて、きっと数えるほど。一つ二つあればいい方かもしれない。

 考えれば考えるほど、ユンスティッドにとって自分とデュオを組む利点は何なのだろうと思わされてしまう。けれど、ユンスティッドは確かにマーシャルとパートナーで良かったと言ってくれた。それを疑うことはしたくない。上辺だけの言葉だと思うつもりも毛頭ない。でも……でも……頭を振っても否定の言葉がいくらでも湧き出てくる。

 隣部屋で、三人が楽しげに話している様子が手に取るように分かった。こんな風に座り込んで、うじうじと悩んでいる自分を顧みたマーシャルは、何だかおかしくなってくる。


(こんなところでいくら語りかけたって、答えてくれるわけがないのに)


 馬鹿なマーシャル。

 会って直接聞けばいいじゃない。なんなら今すぐ飛び出していったっていい。ユンスは私とデュオを組んでいたいかって聞けばいいじゃない。


(でも……)


 そこまで考えて気が付いた。ユンスティッドは、その質問には頷いてくれるだろう。マーシャルの知っているユンスティッドであれば、「ああ」と答えるだろう。だけど、そのあとは?


(「だけど、お前が望むならデュオは解散してもいい」――――きっとそう言うわ、アイツ)


 目に浮かぶようだった。そういう人だった、ユンスティッドは。少年の口から、パートナーはマーシャルでないと嫌だと言われる場面は、残念ながら想像がつかなかった。

 結局は、マーシャルの気持ち次第なのだ。

 私……私はユンスとデュオを組んでいたい。でも、その理由は何なんだろう。ハロルドの言った通り、これは剣の道を究めるのにも魔法の研究をするのにも関係ないことだ。

 ユンスティッドと他の人とは、どう違うんだろう……どうしてユンスでなければならないと思うんだろう……

 隣部屋から、三人が席を立って廊下に出る気配がした。ダンスホールに戻るようだ。ユンスティッドも踊るのだろうか。誰とダンスをするんだろうか。ぐっと力の入った足の裏、爪先を床からはがして、マーシャルは脱力した。ああ、行ってしまった。

 三つ分の声が遠ざかっていく。しかし、間をおかずに、かさこそと物音がした。一匹の家ネズミが物陰から現れて、部屋の角っこに走っていった。マーシャルはふと、自らの体を見下ろした。コートは屋敷に入ってすぐの場所に隠してきていた。魔法で温風をおこしてドレスに当てたので、濡れネズミとまではいかなかったが、赤いドレスは水分を吸って少し黒ずんでいる。あんなネズミでさえよく乾いた毛皮の服で全身を包んでいるのに。

 この家では何もかもがきらびやかだ。片手で首元のペンダントをきつく握り込む。マーシャルだけが、暗い物置で膝を抱えて悩んでいる。みじめとしか言いようがなかった。


(遠征に行く前に、言えばよかったかな。帰ってきたら、また私とデュオを組んでって)


 小さな約束さえしなかった。思いつきもしなかったのだ、そんなこと。マーシャルにとって、ユンスティッドの隣にいることは当たり前になってしまっていたから。けれど、ユンスティッドにとっては違ったのだろうか?あの言葉はもう有効ではなくなってしまった?それが事実だったとしたら、マーシャルは寂しかった。


 このまま物置に居座っていると、いつまでも悩んでいそうな気がして、マーシャルは思い切りよく立ち上がった。今は悩むよりすべきことがあった。

 もう一度椅子の塔にのぼり直して、ジャンプして天井裏に上がる。意外と薄い板を踏み抜かないように、慎重にすばやく梁を伝っていった。かさこそ、ネズミかイタチか、数回物音とすれ違いながら、部屋から部屋へと渡っていく。サックスとクラリネットが旋律を奏でている、カドリールが始まり、やがて真下から直接振動が伝わってきた。ダンスホールに着いたのだ。


(多分だけど、こういうでっかいホールには、どこかに覗き穴があるはず)


 古い建物ほど、偵察の先達たちの遺産が見つかりやすい。案の定、ホールの四隅の一画に、両手で囲めるくらいの穴がぽっかり空いていた。シャンデリアの近くにあるため、下からでは全く気付かれないだろう。腕のいい人が作った覗き穴でよかったと、マーシャルは腹ばいになって穴からホール内を観察し始めた。

――――まるで傘の博覧会だ。

 外が土砂降りなことも相まって、余計にそう思った。赤、青、黄色、モスグリーン、ピンク。リボン、フリル、レース、シャラシャラ鳴る金銀の腕輪。男の人の燕尾服は、先が二又になっていてひらひらとたなびく旗のようだ。その中に、ユンスティッドの姿を発見した。


(キルシュさん綺麗……あの二人が踊ってるんだ。そっか)


 不思議な安堵を覚えたのも束の間、キルシュが羨ましくてたまらなくなった。


(いいな、キルシュさん。いいなあ)


 踊りたかった、ユンスティッドと。華やかな舞踏会で……いいや、別に天井も大理石の床も、豪華なシャンデリアだってなくて構わない。ユンスティッドと二人でなら、どこで踊ったって楽しいに決まっている。

 キルシュの姿がいつの間にか自分にすり替わっていた。ぼうっと見つめていると、急に二人が回るのを止めた。マーシャルの脳内の幻想も同時に掻き消される。キルシュが何やら叫んでいたが、ここからでは聞こえなかった。二人はそのまま別れてしまった。

 どうしたんだろう?首を傾げたが、事情は分からないままだった。しばらくして、会場が静まり返り、低い声が厳めしい調子で話していた。公爵のいる二階の一画は四角い舌のように突き出ていて、ユンスティッドもそこにやって来た。ふっと会場の明りが落とされる。覗き穴を隠していたシャンデリアからも光が抜け落ちた。招待客がざわめいた。マーシャルも、興味をそそられて身を乗り出す。

 それから、ユンスティッドの素晴らしいショーが始まった。

 これまでお行儀よく閉まっていた唇の隙間から、大きめの歓声が漏れてしまった。だけど、下のホールはその何百倍もの歓声と拍手でひしめいていたので、気付かれる事態には陥らなかった。マーシャルの位置からは、ユンスティッドの姿は少ししか見れなかった。何せ、床までの距離は数十メートル、ユンスティッドと公爵のいる二階部分まででも十メートル以上の距離がある。遠目は利く方だったが、それでも人の頭は二本の指で挟めてしまう。


(やっぱり、ユンスの魔法は綺麗)


 だからこそ、先程の疑問が舞い戻ってくる。

 ショーの終わりで、大理石の床がまばゆく発光した。招待客たちが拍手喝采を送った。マーシャルも、心の中で惜しみなく手を叩く。本当にすごかった。知り合いに見せて自慢したいほどだ。だが、胸を覆う霧は晴れない。


(あの綺麗な魔法が、ずっと私だけのものだったらいいのに)


 もしかして、これがユンスティッドとデュオを組んでいたい理由だろうか。他の人より綺麗な魔法を使うから?そんな馬鹿な。

 マーシャルは乗り出していた上半身を元の位置に戻そうとして、動きを止めた。


(それにしても、明りが点くのが遅いわね)


 それでもまだ、その時は不審な気配はなかったのだ。

 事態が動いたのは、明りが戻る直前だった。真暗闇の中で、誰かがすばやく移動した。限られた人間にしか察せられないほど、気配のない動作だった。明りが点く。暗闇に慣れてきていたほとんどの人は目がくらんだだろう。すみれ色の瞳だけは、眇められることなく、しかとホールを――――気配が動いた方角を嫌な予感をひしひしと感じながら凝視した。

 そして、全てはシャンデリアの白い光の下にさらされた。

 ホール中の人間が、階上を見上げて一斉に息を飲む音がした。緊迫した空気に顔を穴の中央から覗かせたマーシャルは、眼下の光景に歯を食いしばる。とうとう事が起きてしまった、最悪(・・)の展開で。

 今やこのホールの中で、最も眩しく輝くのはシャンデリアではなくなった。一人の男性の首筋にピタリと当てられた銀のナイフが、恐ろしく鋭利な輝きを全員の喉元に突き付けていた。その誰かとは――――

 ユンスティッドだった。





(あっちゃー)


 マーシャルは腹ばいになったまま頭を抱えた。

 ユンスティッドの首筋にナイフを突きつけている男は、黒い燕尾服こそ他の招待客と変わらない。だが、鼻から顎までをすっぽり覆う黒の覆面が、異様な雰囲気を醸し出している。ホール中が固唾を飲んで見守る。そのうち貴族たちは気が付いた。自分たちをぐるりと囲むように武器を手にした覆面の者たちが佇んでいることに。その数およそ五十人。全員が、先程まで何でもないようにダンスを踊っていた者たちだ。若い貴族の女性が、パートナーだった男性の豹変にふらりと体をぐらつかせる。ユンスティッドの傍にいた公爵も、両端を覆面の男女に囲まれて動けないでいた。

 中年太りした伯爵が、果敢にも一歩前へ出て、唾を飛ばしながら覆面たちに叫んだ。


「何なんだね、君たちは!一体何の真似だ」


 覆面たちは動かなかった。やにわに、伯爵の背後で震えていた夫人があられのない悲鳴を上げる。耳に痛い金切り声がホールに響き渡った。伯爵は自身の背中に押し当てられた固い感触に目をぎょろつかせ動揺し、周囲の招待客たちは一様に青ざめ、少しでも覆面たちから離れようとする。だが、入り口はとうに覆面たちによってふさがれ、人がひしめくホールで既に逃げ場はなくなっていた。別室にいた者たちも覆面の一人に剣を突きつけられて、転がるようにホールになだれ込んできた。外に出ていた執事が異変に気づいて「旦那様!」と駆け込んできたが、たちまちのうちに捕まって貴族たちの間に放り込まれてしまう。

 公爵が動揺を悟らせない声で尋ねた。


「望みは何だ。何故こんなことをする」

「王立学院の大金庫を明け渡していただきたい」


 侯爵の右隣にいた覆面の男が答えた。丁寧な口調には髪の毛一本ほどの尊敬の念も込められていなかった。招待客たちはざわめいた。


「それは出来んな」

「いえ、やっていただきましょう。公爵、貴方だけが金庫の開け方を知っているとの情報はすでに掴んでいます」


 今度は左隣の男だ。


「何故、大金庫など欲しがるのだ。あれには学院の文書が入っているだけ、魔法を学びたいならば正式な入学手続きを踏むんだな」

「しらばっくれても無駄です。学院の大金庫は王国一守りが固い場所。知っているんですよ?他国との密約文書、重要書類は王宮とこの町の大金庫に分けて保管されているのだと」

「そんな文書を手に入れたところで腹の足しにもならんぞ」

「これ以上のお喋りは何の益にもなりませんね」


 ユンスティッドを捕まえていた覆面の男が、ナイフをわずかに傾け首に食い込ませる。少年の顔が歪んだ。


「ご子息のために、お早いご決断をお願いしますよ。私も緊張していまして、うっかり手が滑らないとは限りませんから」


 そして誰もが動かない、膠着状態が始まった。

 天井裏から話を聞いていたマーシャルは、頭の中でティリフォンを罵っていた。


(ひと騒動っていうか、大騒動じゃない兄ちゃん!もうちょっと詳しく話してくれれば、最初からユンスの側にいたのに。ここから駆け付けるのはちょっと手間よ、もう!)


 歯噛みしながら策を練る。とにかくユンスティッドを解放することが先決だ。不幸中の幸いは、人質が丸々太った豚貴族ではなかったことか。二階にいるユンスティッドの位置は穴の真下ではなく、少し向こう側にずれていた。真下だったらマーシャルが飛びおりて敵を蹴飛ばしてもよかったのだが、斜めに飛ぶには穴の淵にぶらさがって振り子のように体を振る必要がある。そんなことをすれば即座にばれることは確実だった。あの覆面たちは全員それなりの手練れだ。


(さーて、どうしたものか……)


 マーシャルはおもむろに左足を上げて、後ろに蹴りあげた。カキンッと靴底が固いものを弾く。暗闇から飛来したナイフが、カランと板の上に落ちた。忍び寄っていた敵の首に手刀を叩き込む。呻き声すらあげずに男は昏倒した。コイツも覆面をつけている。縛るものがなかったので、両足を使えなくして隅に転がしておいた。

 まったく、こんなでかいネズミの相手してる暇なんてないんだってば!

 いきり立つマーシャルだったが、自分の言葉に思考を立ち止まらせる。

 ネズミ、ネズミ……天井裏は家ネズミたちにとっては楽園なのか、ここにくるまでにもたくさんの物音を耳にした。ほら、丁度小さな影が足元を走り抜けていく。マーシャルの手がすばやく伸びて、哀れな小動物の尻尾をつまみ上げた。チュウチュウと悲しげな鳴き声の前で、太ももから取り出した短剣を見せつける。いいこと思いついちゃった。


(とりあえずユンスを捕まえてる奴をひるませて、ユンスから引きはがさなきゃ)


 手際よくネズミ三匹を手に入れたマーシャルは、動かなくなったネズミの体をシャンデリアの影に隠しながら前後に振る。ここだ!と思ったところで、敵に向かってネズミを放り投げ、つづけざまにあと二匹も投げつけた。

 ヒュウッと風を切ってネズミが飛んでいく。過たず己の顔を狙って降ってくるネズミの死骸に、覆面の男が目を見張った。「何だ?!」男は長剣を構えたが、それはあまり意味のない行為だった。なぜなら、三匹のネズミは、男の剣の届く範囲に入る前に、ボウッと音を立てて明るく燃え上がったからだ。男はユンスティッドから手を離して、飛来した火の玉を避けた。

 しめた!

 敵とユンスティッドの距離があき、その中間点は穴の真下だった。今しかない。躊躇なく穴に向かって飛び込んだ!

 ふわりとした浮遊感、のち、重力に従って体が急速に落下する。胃の腑が押し上げられる。シャンデリアの光も壁の絵画も灰色の大理石も、全てが混ざり合って白っぽいモザイクになる。驚きに満ちた貴族たちの目、覆面たちの警戒心をむき出しにした視線、最後に、


――――丸くなった黒曜の瞳が、マーシャルを出迎えた。


 白っぽいモザイクの中に、黒髪黒目の少年の姿がぽっかり現れる。ユンスティッドしか見えなかった。

 ぱぁんと、頭の中で何かが弾け飛ぶ音がした。

 弾け飛んだものの正体が何なのか、すぐに分かってしまった。皆を驚かせているのはマーシャルのはずなのに、その自分までもが驚きに目を丸くしている。ユンスティッドと向かい合って、二人ともがお互いの顔を見て間抜けなビックリ顔をしているなんて。こんなこと、今後一生ないかもしれない。

 胸の奥底から込み上げてくるものがある。


(……私って単純)


 ひとりごちる。前から知っていたけれど、改めて実感してしまった。


「マーシャル?!」ユンスティッドがぎょっと叫んだ。

「お前、何でこんなとこに……」


 その声に我を取り戻したマーシャルは、ドレスの中に手を突っ込んで魔法剣を抜き出した。気を引き締めたものの、第一声に迷う。大切なことだわ。一秒にも満たない黙考の末、とっておきの台詞を思いついた。出会った頃に同じような状況に陥ったことを思い出したのだ。あの時と立場は正反対だから、今なら言える。にやりと口角をいっぱいに上げた。

 覆面の男に挑むように魔法剣を構えると、背後のユンスティッドに対して高らかに叫んだ。


「バカなアンタを助けに来たのよ!」





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