帰還
その町は魔法の町と呼ばれていた。
正式な土地名は勿論あって、それにちなんだ町名も存在してはいたのだが、大抵の人に尋ねると「ああ、魔法の町。え?それが正式な名前じゃないのかい」と、とぼけた返事が返ってくるのだ。それというのも、その町には町の敷地の半分を占める王立魔法学院が数百年も昔から建っていて、その巨大な建物と向かい合うように町の北側に在る大きな黒い屋敷には、学院の理事長が代々住まわっていたからだ。王国の魔法の中枢といわれる屋敷の中、その最上階の最も豪奢な部屋にて、部屋の主が重苦しいため息を吐いていた。
きれいにカールされた黒い口髭をもつ男だった。曲げた肘を卓の上についている。髪油で撫でつけた黒髪はつやつやと光り、体はさほど大柄ではないものの、年と身分相応の威厳を備えていた。若いころから魔法の才はないが頭は優秀だと担ぎ上げられ、研究に一生を捧げたい一族の者たちにまんまと当主の座につかされてしまった苦労性の公爵。ここ数年の彼のもっぱらの悩みは、最愛の妻との間に設けた一人息子のことだった。
インク瓶や万年筆の上を通って、卓の両端に積み上げられた書類の山(右の山が未処理、左の山が処理済み、と分別されている)の間を抜け、公爵はうっそりと立っている息子を見た。そして……
ユンスティッドは、微動だにせず父親が三度目のため息を吐くのを見届けた。微動だにせず、というのは外見に限ったことで、頭の中では明日行う実験の予定を組み立てることで忙しかった。他の優秀な人間の例に漏れず、ユンスティッドも幼い頃から、興味関心のないことをさも熱心に聞くふりをし、内心は全く別の――――例えば今日の夕飯までに何冊本が読めるか、というようなことを考える技を身につけていた。
公爵、またため息。
巧みな技を持っているとはいえ、ユンスティッドもいい加減にげんなりしてきた。
(父上も、話があるならさっさとはじめてくれればいいのに。ため息ばかりつかれていては堪ったもんじゃない。頼むから早く終わってくれ)
父である公爵に呼び出された理由を察することはそう難しいことではなかったので、ユンスティッドはそう思った。父親に呼び出されることは滅多にないことだが、予想通りならば、今回の案件は三日後のパーティーについての注意事項だろう。くだらない、早く解放してほしい、とそればかりを願った。
「ユンスティッド」と、重々しい口調で公爵がやっと口を開いた。この人はいつもこういう重苦しい喋り方をするため、ユンスティッドは心構えする必要はないだろうと判断した。
「お前ももう十九になる、成人してから三年が経つな」
「はい父上」
「シルバート家は魔法を司る長たる家系、お前が魔法師団で立派にやっていることは伝え聞いている故、家長としても誇らしい」
「ありがとうございます父上」
「だがなユンスティッド」
話の雲行きがそこで変わった。
「魔法研究に没頭するのは一向に構わんが、どうもお前はもう一つの役割をおろそかにしがちだ。言うまでもない、公爵家嫡男としての役目である。以前から言っているように、お前に当主の座を強要するつもりはない。変わり者の研究者が多い一族だからな、そこは理解している。次代の当主は商才のある甥っ子か、現在は隣国に遊学している従弟にでも継がせようと思っている」
「はい父上」
「しかし、私が当主であるうちは、お前にもそれ相応の振る舞いを求めたいのだ。お前は成人してこの方、ことごとく舞踏会や夜会の誘いを断っているな。あいや、分かっている、魔法師の仕事が忙しいんだろうということはな。だがな、そろそろ私が断るにも難が生じてきている。縁談のために送られてきた肖像画が部屋から溢れかえりそうだ。おまけにパーティーにほとんど姿を見せないものだから、どうにも肩身が狭い。とりわけ当家主催の舞踏会を、お前は二年連続で欠席しただろう?親しくしているお家の方々の反応も芳しくなくてな。だからユンスティッド、此度の舞踏会では、常の倍は愛想よく振る舞いなさい。それから、」
ぐんと声の調子が深まったので、おそらくここからが本題だったのだろうな、と察することができた。この人はいささか前置きが冗長な嫌いがあって困る、と息子としての不満を抱く。
「今すぐとは言わない、強制もしないが、舞踏会に伴うパートナーを見つけておきなさい。毎回同じ人を連れていれば、縁談の数を少しでも減らせるだろう」
公爵は太い指でこめかみを揉みほぐした。黒く太い眉が、それに合わせてぐねぐね動く。山ほど舞い込んでくる縁談にほとほと参っているらしい。そういう事柄は完全に親任せにしていたユンスティッドは、多少の罪悪感を覚えた。親孝行の心が顔を出し、ユンスティッドの首を素早く縦に振らせる。
「分かりました。お言葉通りにいたします」
「どうしても当てがないのであれば、今回に限っては私が適当な女性を紹介しよう」
「いえ、知り合いの方にお願いするので、お構いなく」
「そうか」
公爵はホッとした様子で、ようやく笑顔を見せた。
「突然呼び出してすまなかったな。帰ってよろしい」
一礼して、メイドが開けてくれた扉から部屋を退出する。長い廊下にはえんじ色のカーペットが引かれていた。規則正しく置かれた陶器の花瓶には、公爵夫人が好みそうな淡い色の花々が咲いている。丁度時期なのか薄い紫色の花がどの花瓶にも飾られていて目についた。
すぐそこの角を曲がって階段を降りようとしたユンスティッドは、曲がる直前に現れた人物とあやうく正面衝突しそうになった。「うわっ」「おっと」二人同時に身を引いて事なきを得た。
「これは申し訳ございません、ユンスティッド様」
黒い燕尾服に身を包んだ小男が、ひょいと頭を下げた。ユンスティッドも謝罪の言葉を口にする。山羊のような白ひげをはやした陽気そうなその男は、全身真っ黒な公爵とは正反対に見えた。
「お帰りになっておられたのですか」
「ええ、昨日帰ったばかりでして」
「それはそれは、お父上もさぞお喜びでしょう」
ほっほっと奇妙にくぐもった笑い声をあげて、彼は「では、ごきげんよう」と優雅な挨拶と共に去って行った。ユンスティッドははて、と首を傾げる。
(どこかで会ったことがあるような)
まるでスキップをするように歩いていく小男の背中を見つめたが、ついぞ答えは見いだせなかった。気を取り直したユンスティッドは、まっすぐに屋敷の外へと下りて行った。
三日後の舞踏会に出席するため、久しぶりに故郷の町へと帰って来たユンスティッドは――と言っても、王都から馬車で一日かからずと着く場所だが――夜から朝に掛けては実家の屋敷で過ごしたものの、昼間は王立学院に勤める友人のもとに入り浸ることに決めていた。
教授の研究室に隣接した無人の助手部屋で、王都から持ってきた書きかけの研究報告書を机に広げて唸りこむ。そこへ、外からドアノブをガチャガチャと鳴らす音がした。大股一歩でドアに辿り着き、開けると、実験器具を詰め込んだ箱を抱えたロッソがよろよろと立っていた。「生徒が実験室を爆破させたので、しばらく避難することになった」と言う。部屋の角に器具を収めた木箱を置くと、ただでさえ狭かった部屋がさらに窮屈になる。
「実験はひとまず中止だ。ボクはこれから休憩しに行こうと思うんだが、君はどうする?」
「そうだな……」
報告書をまとめにかかろうと思っていたユンスティッドだが、夜でも支障はないだろうと、快くロッソの誘いに乗った。二人は実験棟を出ると、学生寮の一室に向かった。ロッソが休憩と言えば、それはもれなく妹のビアンの部屋で一服することを意味するからだ。
ビアンは控えめな笑みで、こぎれいな部屋に二人を迎え入れ、手際よくお茶入れた。手作りのクッキーが小皿で出される。砂糖漬けのチェリーをのせて焼いたクッキーは、兄の好物だった。ヴィノーチェ家の一員、魔眼ネコのリングアが「クッキークッキー」とルンルンご機嫌だ。水色の尻尾がぶんぶん揺れている。実験棟の薬品臭い部屋部屋とは違って、ここには清廉で穏やかな空気が流れていた。本来ならば二人一部屋の寮生活だが、冬の間は帰省している学生も多く、ビアンのルームメイトも多分に洩れずそうであった。
ユンスティッドから話を聞いたロッソは、他人事ゆえの同情を込めて「それは何とも面倒そうだ」と感想を述べ、ずずっと音を立ててお茶を啜った。湯気で曇った丸眼鏡を片手で外し、そのためにずれた焦点を合わせようと、眉間に細いしわを寄せた。
「今までは上手いこと避けていたじゃないか。今回はしくじったのか」
「そうだな……しくじったというか先手を打たれたというか。一年前に舞踏会に出席できるよう休みを調節しておけと手紙が来たんだ」
「一年も前に?」ロッソは驚いていた。ユンスティッドは嘆息する代わりに肩をすくめた。
「毎年このシーズンに舞踏会をやることは決まっているからな。今回ばかりはさすがに断れなかった、魔法師団じゃ急な任務も滅多にないしな」
「今までのつけが回ってきたということだな。キミ、こっちに帰省することはほとんどなかったから、親孝行しろという神の計らいだろう」
「ああ、今回は諦めて、しっかり愛想よく振る舞ってくるつもりだ」
「頑張りたまえ」
気のない励ましを送って、ロッソはティーカップを口許で勢いよく傾けると、底にたまった色の濃い部分まで飲み干した。まるで無関心な態度は予想通りというべきか、ユンスティッドの失笑を誘った。ロッソの好き嫌いのはっきりした性格を、昔から気に入っていたのだ。自分のことを優柔不断だと思ったことはないが、この友人には敵わない。
「興味があれば、お前も誘おうかと思っていたが……」
「ボクが人ごみが嫌いなことを知った上での言葉か。嫌がらせととるぞ」
「一応聞いてみただけだ、怒るなよ」
「怒ってはいない。キミとの交友関係について真剣に考え直そうかと思っていただけだ」
しかめた顔をそのままに、ロッソはクッキーのお代わりを要求した。一瞬ビクッとしたビアンは、大びんに詰めていたクッキーをざらざらと皿の上に流す。我が物顔で冬眠に備えるリスのごとくクッキーを詰め込みだしたロッソを横目に、ユンスティッドは優しい笑顔を心掛けてビアンに礼を言った。よくやったというように、リングアが頭をすねに擦り付けてくる。耳の裏をかいてやると、リングアはごろごろと喉を鳴らした。
眼鏡を拭いてかけなおしながら、ロッソは口に詰めていたものをごくんと飲み込んだ。
「しかしユンス。その、パーティーに同伴するパートナーに当てはあるのか?キミ、女はあまり好かないだろう」
「気づいてたのか」意外な思いがした。
「キミ、毎度ボクに愚痴を言っていたこと覚えてないのか。くだらないと思いつつ、聞いてやったというのに」
「てっきり聞き流してると思っていたから、壁に話しかけるような気持ちで喋ってたんだよ」
聞いたロッソは憤慨した。失礼な、一割くらいは聞いていたから概要は理解している、キミにそんな風に思われていたとは心外だ、と怒っている。ユンスティッドは軽い調子で謝った。
「悪かったって」
「ふん……ところで先程の答えは?」
「ああ、そこら辺は大丈夫だ。元々、キルシュさんに頼んであったから」
「キミのところの副隊長か。なら安心だな」
テーブルの横で二人の会話を聞いていたビアンが、遠慮がちに口を挟んできた。
「でも、その……マーシャルさんがいれば、もっと良かったですよね……」
「それはその通りだな」
首を振ると同時に、ロッソはボリンと大胆にクッキーを噛み砕いた。皿に伸ばされた手がスカッと空振る。空っぽになった皿を見て、さっと手を引っ込めた。ビアンは兄の健康を気にしているのか、一定量以上のお菓子を出すのは控えていた。
「カーズ副隊長は、ボクらより大分年上だろう?パートナーを務めるのに問題はなくても、縁談避けにはならないんじゃないか。その点シャリーなら、年もちょうどいいし、ユンスも気兼ねなくパーティーに出られる。つくづくこの状況が悔やまれるな」
「別に、そんなことないさ」
思いの外そっけない声が出て、自分でも驚いた。ロッソは気付いていないが、ビアンとリングアがきょとんとこちらを見上げている。水色のやわらかな毛並みを撫でて整えてやった。リングアは喜んだが、こちらを見る目はこの場の誰よりも慧眼に思えて、何だか落ち着かなかった。
「あいつはあいつで頑張っているんだから、この状況が悪いだなんて思わない。自分のことくらい、自分でどうにかするさ」
「ふーん……シャリーが行ってからもう一年経つけど、キミ、あんまり寂しそうな様子は見せないな。平気そうだ。シャリーはキミに懐いていたと思ったんだが、実は仲が悪かったのか?」
「仲が良いとか悪いとかじゃなくて、デュオだったからな。常に一緒に行動しているのが当たり前だったし」
「そういうものなのか」
「そういうものだ」
淡々と答えた。
「今のパートナーは誰だと言っていたっけ」
「ジュレイン――――キルシュさんの息子で、俺たちの後輩だよ。勉強熱心な良い子だ。マーシャルよりよっぽどな」
「やっぱり仲が悪かったんじゃ……」
それ以上言わせまいと、ビアンはリングアの脇をすくい持ち上げて、ロッソの顔に覆い被せるようにした。丸い腹がべたりと眼鏡にくっつく。ロッソは顔をそむけると、妹に非難の声をあげた。が、ビアンはそれを無視して、ひたすらユンスティッドに申し訳なさそうな目線を送ってくる。そんな兄妹をビアンの手にぶら下がったままのネコが半眼で眺めていた。難儀な家族だ。
ユンスティッドは無意識にビアンの頭に手を乗せて、いたわるように軽く髪を掻き混ぜた。しかし、その髪の色が真っ赤なことを認識して、ハッとした。ぎこちなく止まった手の下で、ビアンがビックリして固まっている。
「あー、悪い」
ビアンはぶんぶんと首を振った。怯えさせてしまっただろうか、とすまなく思う。小さな頭からそっと手を外すと、少し冷たい空気が手のひらをかすめていって、なぜか物寂しい気持ちにさせられた。
窓辺に寄って、両開きの窓の片方を開けると、湿った空気が流れ込んできた。空は晴れているが、そのうち一雨来るかもしれない。学生寮は学院内の奥まった場所にあるため、眼下にはうっそうと繁茂した常緑樹が見える。幾人かの学生が、わいわい歓談しながら寮の入り口から出ていった。
間近から、甲高い子どものような不思議な声がした。
「ユンス、さみしい?」
リングアがじっと、紅玉の瞳でこちらを見つめていた。事前に手紙でリングアがついに片言ながら人語を操るようになったとは聞いていたが、実物を前にするとやはり一驚を喫する。ユンスティッドはすぐには返事をすることができなかった。
「リングア、シャリーいない、さみしい」
くるんと巻いた尻尾がしおしおと垂れた。顎の下をくすぐってやる。
「……今度王都に来たときには会えるさ、多分」
「ユンス、さみしい?」
「そうだな、少し」
「シャリー、かえってくる、ほんとう?」
「本当だよ」
その回答はネコの満足いくものだったらしく、尻尾は再び持ち上がった。ズボンにじゃれついてくるので抱き上げると、頭を頬にすりつけてくる。長いヒゲがユンスティッドの耳の近くに当たって、そこがむずむずと痒くなった。
「シャリー、かえってくる」
「そうだな」
「ユンス、シャリー、いっしょ。ビアンよろこぶ」
無邪気な言葉に、ユンスティッドは答えなかった。数年間一緒にいたせいだろうか、最近しきりと、マーシャルが帰ってきたあとのことに言及される。そして必ず皆、ユンスティッドとマーシャルが一緒にいることがさも当然であるかのように話すのだ。その度に自分は、曖昧に答えをにごしてきた。
「デュオ、いっしょ」
繰り返しリングアが言った。黙り込んだユンスティッドが根をあげるまで繰り返した……ロッソやビアンが怪訝そうにこちらを見てきたため、無邪気で執拗な詰問にとうとう折れざるを得なくなった。ともすればリングア以外の誰にも聞こえないような小さな声で、しかしきっぱりと断言した。
「それは、あいつ次第だから、俺がどうこう言えることじゃない」
ユンスティッドがそれ以上何も言わないことを悟ると、リングアがにゃあと一声鳴いた。二の腕をペシッと尻尾で叩かれ、そのまま腕の中から逃走を図られる。足元に降り立ったネコを見たユンスティッドは、素直に答えてしまったことを後悔した。ネコの表情からは無邪気さは消え失せていて、先程までのそれが装ったものであることは明白だったからだ。
*****
平原を西から東へ横切っていた剣師団一行は、馬を急がせていた。遠征拠点である西の砦を出てからすでに四日、王都はあと一日かからぬ距離に迫っていた。昼時の今、本来ならば木陰でも見つけて一息つき、馬を休ませても良い頃だったが、彼らの後ろから追い迫るものがそうすることを阻んでいた。昨日から吹き始めた西風が、海の方から黒い雲を吹き寄せ、少しでも足を緩めればすぐにでも追いつかれてしまいそうだったからだ。乾いていた空気は湿り気を帯び、服の間に入り込んでは背筋をぞわぞわと逆撫でていく。
水分を吸って柔らかくなった手綱を、マーシャルはピシッとふって馬の体に当てた。鐙を爪先で踏み、前のめりの体勢で馬の早足による揺れを抑え、前を駆ける同僚たちに遅れないようについていく。前方の馬の後ろ脚が蹴った土が、ブーツの上に飛び散ってかかるが、すぐに後ろに流れていった。黒い雲は昨日から急激に成長して、王都を楽に覆うほどになっていた。遠くの方は視界が利かない。地上に落ちてきそうに垂れ込めた雲の軍勢の間では、雨粒たちを鼓舞するような稲光が蛇の舌のように時折ちろちろと光っては消える。轟く雷鳴に怯える馬を、何度も宥めてやらねばならなかった。
(あの雲が来る前に、王都に辿り着けると良いけど)
マーシャルの表情も、雨雲が立ち込めたように曇っていた。いつもは元気に跳ねている眉尻も、今は不安げに下がっている。急ぐ旅ではなかったが、嵐の中平原で立ち往生するわけにはいかない。無理をおしてでも今日中に王都に帰りたいというのが剣師団一丸の思いだった。
そのため、前方に王都の大門が見えてきた時、誰もが安堵の息を吐いた。
隊長の声に従い、徐々に速度を緩め、城門が目の前になった頃には、馬たちは並足で進んでいた。
マーシャルは汗で額に張り付いた前髪を払い、後ろから吹き付ける風で乱れた髪を整えた。両手で髪の房を分けて引っ張り、側頭部でくくった髪紐をきつく締め直す。マーシャルがいるのは最後尾だったため、大門までにはまだ距離があった。懐かしい姿に感傷に浸る。マーシャルにとって、約一年ぶりの王都への帰還だった。たった一年、されど一年……随分長い間ここを離れていた気がする。
(帰ってきた……)
高い城壁と大門の間から、剣師団の到着を待ちかまえている王都の様子がうかがえた。日が落ちた後だが、街は活気づいている。大通りからは喧騒が聞こえ、煌々と明るい飲み屋の光がそこここに灯っていた。チリンチリンと誰かがバールの看板をくぐる音まで聞こえてくるようだ。オレンジの屋根の上で野良猫たちが秘密の集会を開いている。
(帰ってきたんだわ……)
自分だけでなく、剣師団の面々からも吐息のような声が漏れた。まだ幼い新入隊員などは、ひとめも気にせず浮かれてはしゃいでいる。砦の中では極力抑えなければならなかったた郷愁の念が、故郷を前にして爆発したようだった。マーシャルも王都から長期間離れるのははじめてだったので、彼らと同じように万歳三唱したい気分に陥る。しかしそうならなかったのは、マーシャルの意識がすでに王都の大門をくぐり抜けて、中央通りをひた走り、大噴水を越え、街の最奥にある王宮「鷲の宮」までたどり着いていたからだ。砦のように堅牢な建物の上を漂ったあと、北へふわふわと飛んでいく。背高のっぽの北の塔が見えてきた。その先の、木陰にある七番隊の丸太で出来た隊舎。剣師団とは違う、もう一つのマーシャルの大切な居場所。(中にはきっと……)そこにいるはずの姿を探そうと隊舎の中を覗き見ようとしたマーシャルだったが、穏やかな声によって意識を引き戻されてしまった。
残念、楽しい想像はここまでだ。ちょっと先走りすぎちゃったわね、と自分で自分に苦笑して、マーシャルは隣を振り向いた。
「なあに、ハロルド」
「もうすぐ王都ですね、って言ったんですよ。シャリー、すごくそわそわしてますね。よっぽど楽しみみたいだ」
そんなにあからさまだっただろうかと、マーシャルは馬上で居住まいを正した。でも確かに、二週間前から毎晩カウントダウンをしては同僚にしつこいと怒られた。何度言ってもやめないマーシャルに、最後は諦めていたが。
「ハロルドは楽しみじゃないの?」
「シャリーほどには。僕の家は商家なので、小さい頃旅をすることは多かったんですよ」
「へえ、知らなかった」意外や意外、旅慣れしているのだ。マーシャルは目を丸くした。確かに、砦での生活でもハロルドは何かに手間取る様子は見せなかった。
「それに、この遠征も二回目ですから」
「そういえばそうだったわね。さすが先輩、すっごく頼りになったわよ」
腕を伸ばして肩を小突いてやると、相手は「やめてくださいよ」とからから笑った。
この一年、マーシャルにとってハロルドは良きパートナーだった。二人は一年前にデュオを組むことになったのだ。お互い、前のデュオを旅立ち前に解散して、新しいパートナーの手を取った。入団時にごたついた事情から先輩団員と衝突しがちなマーシャルをいつも諌め、彼らとの仲をとりなしてくれるのもハロルドで、彼には感謝しても感謝しきれない。面倒見がよく人当たりも良いハロルドが後輩からも慕われるのは道理というものだった。
(でも、それも今日で終わりかあ)
ハロルドと切磋琢磨した日々は楽しく、彼とのデュオを解消することは寂しくもあったが、同時に待ち遠しくもあった。こんな酷いこと、ハロルドには決して言えないけれど。他人の気持ちに敏い彼のことだ、ずっと王都に帰る日を心待ちにしていたマーシャルの態度から、とっくにばれているかもしれなかった。毎月届く手紙を大事に棚にしまうところを見られたのはつくづく失態だった。黒髪の少年からの手紙は、文字も少なくて、最低限のことしか書かれていなかった。けれど、自分の知っている中で一番整った文字の並ぶ手紙を捨てることなどできなかったのだ。
(早く王宮に帰って、それから会いに行こう)
前の手紙でいつ帰って来るのかと聞かれ返事を曖昧にしたのは、彼を驚かせるためだった。真っ先に会い行って、気配を消したまま後ろから肩を叩いてやったら、どんな反応を見せるだろうか。想像するだけで笑ってしまいそうだ。
三頭前の馬が鞭を当てられ、大門をくぐった。少しして、すぐ後ろの団員が同じようにぞろぞろと付いていく。王都を囲う城壁と同じ白い石でできた門は、アーチ状になっていて、柱の側面には花や鳥を蔦に絡めたレリーフが彫られ、十三の色で鮮やかに彩られていた。十年に一度、国を挙げての事業として修繕される美しい門は、灰色の王宮とは対照的に明るく陽気なイメージを来訪者たちに与える。
マーシャルの心も海面を旅するクラゲのように浮き立っていた。
そんなマーシャルと馬を並べていたハロルドは、上機嫌な様子をじっと観察するように眺め、おもむろに口を開いた。それは、丁度二頭の馬の鼻面が大門の柱の間に差し掛かった時のことだった。
「シャリー、王宮に着く前に話しておくことがあります」
周囲が浮き足立っている中で、ハロルドの声だけが奇妙に冷静で、ひっかかりを覚えた。笑みを浮かべたまま振り向いたマーシャルは、声と同じく静かな表情に口角を下げる。何か大事な話をしようとしているようだった。
「これは僕だけの意見ではありません。聞いて、よく考えてほしいんです」
「ええ……」
ハロルドの次の言葉を聞いた瞬間、マーシャルは己の心臓が膨らんだまま一瞬止まるのを感じた。
「シャリー、正式に剣師団に所属しませんか?」
ハロルドは、確かな口調でそう言った。マーシャルは息をのむことしか出来ず、まじまじと目を見開く。足元に突然落とし穴ができて、真っ逆さまに落ちていくような驚きだった。
「前々から言おうとは思っていたんです。魔法剣は実用段階まで出来上がっているんでしょう?だったら、剣師団に所属して、時折魔法師団に出向く、それでも構わないはずです。隊長方も、おおむねこの意見に賛成してくれています。ですから……」
「ダメよ」
最初マーシャルは、その声が自分が発したものだとは気付かなかった。普段の声とはかけ離れた、冷たく相手を突っぱねるような物言いだったからだ。ハロルドの表情が微かに強張った。
「駄目?」
よく考えてくれと言われたばかりなのに、どうして即答してしまったのだろうか。混乱しながらも、マーシャルの口は次々と勝手な言葉を紡いでいく。マーシャルの心と体が内と外に分裂して、内側のマーシャルは置いてきぼりにされている気分だった。
「ええ……いや。いやよ」
「どうして」ハロルドが戸惑った顔をした。
どうして、なんてマーシャルの方が聞きたかった。遠くを走っている言葉を捕まえようと、足を必死に上下させる。させながら、断ったばかりのハロルドの提案について考えた。否定するべき要素はどこにもない、悪くない提案だ。そう語りかけると、少し近づいたと思った外側のマーシャルが再び急激に遠ざかっていく。待ってよ!マーシャルは、逃げていく外側の自分を必死に手繰り寄せようとした。また口が勝手に動き出す。
「だって、そしたらアイツと……ユンスとデュオが組めないじゃない」
口に出してハッとした。パタリと足を止めた外側のマーシャルに、内側の心がようやく追いつく。不思議なことに、マーシャルの口は全てを見透かしているようで、声に出して心に本音を自覚させているみたいだった。
「だから……」
ハロルドはそうですかとあっさり諦めたりはしなかった。
「それって、剣の道を究めるのにも魔法の研究をするのにも関係ないことじゃないですか。デュオのパートナーなんて、剣師団じゃ数年単位で変わりますよ」
「いやよ、絶対」きつく相手を睨む。「そんな裏切るようなこと……」
「裏切るって、シルバート君だってもしかして、そろそろデュオのパートナーを変えたいって思ってるかもしれませんよ」
「嘘」
口をついたのは、根拠のない否定だった。しかしマーシャルは自分の言葉を疑わず、そんなわけがないと自信を持っていた。そのマーシャルを試すように、ハロルドは食い下がった。
「本当に?」
ほんとうに?
鳶色の目がじろじろとマーシャルの心を隈なく覗いてくるようだ。
王都に帰ってきたら、またユンスティッドとデュオを組むものだとわけもなく思っていた。
だが、根拠のない自信は絶対のものではなく、ひびが入ればあっけないほど脆く崩れた。
「シャリーの思い込みではなくて?本当に?」
しつこいわよハロルド!叫んで耳を塞いでしまいたかった。
冷酷にもとれる言葉の数々にマーシャルは傷ついた。頭から爪先まで冷たくなっていく。心臓にナイフが突き立てられたようで、傷がじくじく痛んだ。傷口を縫いとめようと、マーシャルは記憶を手繰り寄せ、必死に言葉を探した。
「……ユンスは私がパートナーで良かったって、言ってくれたもの」
「でもそれくらい、誰でも言ってるじゃないですか。他のデュオでだってよく聞きますよ。その人たちも当たり前のようにデュオのパートナーを交代していきます。それと何か違うんですか」
全然違う、とマーシャルは言いたかったが、言葉が喉に絡みついたように出てこなかった。何もなかったところに小さな不安が生まれ、ユンスティッドと離れていた期間を糧にするようにあっという間に肥大する。毎月くれたあの空白の多い手紙も、その巨大な根っこに吸収されていった。
(違う、全然違う。でも、そのわけを問われたら、答えられない。分からないわ、そんなこと)
マーシャルは下唇をかみしめて俯いた。表情は冴えなかった。
ハロルドは、浅いため息を吐いて、マーシャルの肩にぽんと手を置いた。
「返事はすぐでなくて構いません。ゆっくり考えてみてください」
返事なんて、考えるまでもないのに。私の心は決まっているのに。
けれどとうとうその気持ちを声にすることはなく、自分の馬を一歩先に歩ませたハロルドの背中を、マーシャルは眺めた。背後でゴロゴロと雷が轟いた。マーシャルの心に暗雲がかかり、不安が掻き立てられていく。
分からない、分からなかった。
一年前、すぐ隣にいたあの頃だって、ユンスティッドの心情を慮ることは難しかった。それでも、隣にいてユンスティッドの表情を伺って、もし薄く微笑んでいたならば、ああ私と同じ気持ちでいてくれるのだと実感することができた。でも、それすら出来ない今となっては……
分からないわ、ユンス――――
(だって、もう一年も、アンタの顔を見ていない)
空っぽの手のひらは、冷たい寂しさだけを握っていた。




