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祈りの月光 夢のあと



「不老不死などと、どうしてそう思う?」


 マクベーンは感情の読み取れない顔でそう聞きかえした。


「禁術――――古代魔術には、強力で凶悪なものが多い。一晩で城壁を崩壊させるもの、天候を自由自在に操るもの、大地を隆起させ山を作ってしまうもの……そういったものは戦乱の時代にほとんど失われているはずです。魔術は戦いに置いて恐ろしく力を発揮する、魔術書の奪い合いが多発し、敵に奪われるよりはと燃やされた本も多い。なにより、初代国王自身が、大量の書物の破棄を行ったと、史書に記されている。

 だが逆に、戦場に置いて無力と見なされた魔術は、あまたの人の目をかいくぐり、表舞台には決して現れず、ひっそりと伝わった……その最たる一つが、不老不死の法だと聞きます」

「それは魔法師の間での噂かい。随分詳しい。君はその情報から、私が不老不死だと」

「それもありますが、ほとんどは偶然の積み重ねです。最初にあなたが僕らを殺そうとした時、それは失敗に終わり、それだけでなく僕らはこの地底湖を発見した。この特異な空間を知り得たことが一つ。そして、もう一つ、今朝拝見した地下書庫。リストには掲載されていない魔法書がいくつもあり、その全てが治癒魔法に関するものだった。さらに、僕が手に取った見知らぬ本――――古書の収集が趣味ならご存知でしょう、本は何回も何回も同じページを読んでいれば、あとがついて、適当にその本を開いたとしてもそのページがひらかれやすくなる。僕が見たページには、延命法が記されていた」

「私が不老不死の術を行ったとして、その理由は何かね」

「あなたは奥方を亡くされたと聞きました。それがきっかけで死に恐れをなしたのではないですか」

「なるほど、だが全て君の想像にすぎん。机上の空論だ。禁書も全て、今は灰となった。証拠はない」


 ユンスティッドが拳を握りしめた。マーシャルは、今の話の突拍子のなさに驚き、座り込んだまま固まっていた。


(町長が、不老不死?)


 さすがにそれはないんじゃないの、と思わず言いたくなる。机上の空論、想像にすぎないというマクベーンの言い分の方が正しいように思えた。しかしマーシャルの舌は動かない。ユンスティッドの考えを否定しきることができない。不老不死、マクベーン、禁術、妻の死……あと少しで、何かがつかめそうだった。


「ふざけた話を聞かされて時間の無駄だった。私たちはもう出発するよ。君たちも命を大事に、王都に帰ると良い。さあ、行こう、カイ、ライアン」


 引き留める言葉は見つからない。この場を、この町を去ろうとするマクベーンを見送るしかないのだろうか。らああああああ、おおおおおゃお、と若い男の腫れぼったい唇から吠えるような声が絶えず発せられている。轟音を背景に、マーシャルの頭の中でマクベーンの言葉が繰り返し響いた。


(カイ、ライアン……カイ、ライアン……カイと、ライアン)


――――イニシャルは、KとR。


 マーシャルの体に電撃のような痺れが走り、大きな衝撃を残していった。


(まさか……まさか!)


 愕然とマクベーンに付き従う二人の人間を見つめる。若い男のニット帽の下からのぞく髪色は薄い茶色、瞳は青かった。腐臭を放つ小柄な人間にへばりついていた髪の毛もくすんだ茶色だ。あの真っ黒な二つの穴に入っていたはずの目玉は、一体何色だったのだろう。その答えを、マーシャルは知っている気がした。震える手で地面をつかみ、ゆっくりと立ち上がった。唇がわなわなと震えている。目の前が真っ赤になり、瞼の裏がチカチカした。目眩がするほどの怒りを覚えた。


「アンタは!」


 地面に転がっていた長剣を拾い上げ、マクベーンの背中に突き付ける。今すぐ飛びかかって、その胸を貫いてしまいたかった。


「アンタは、じ、自分の息子を、実験台にしたのね」


 マクベーンの歩みがピタリと止まった。


「地下書庫で肖像画を見たわ。アンタの横にいる男によく似た人と、小さい男の子が写ってた!でもあれは三十年も前の日付だった。その子が……」


 白くブヨブヨとした小さな体を見つめる。喉はきっとつぶれてしまっているのだ、息を吸って吐くだけの、もはや人間とは呼べないもの。水草が半分以上剥がれ落ちた身体にぶらさがっているものは、最初服の裾かと思ったが、べろりと剥がれた皮膚だと気付いた。いたいけな少年の肖像をマーシャルは思い出す。爽やかなブルーの瞳が優しげに細まり、口許は浅い椀をかたどったようで、こちらを見つめる笑顔は初めて見る者の胸にも愛しさをかきたてた。


(それをコイツは!)


「アンタは不老不死になるために息子を犠牲にした!だから二人は成長していない。本当なら、その子はとっくに大人になっているはず!」


 叫びながら、マーシャルの目尻には涙が浮かんでいた。何て事を、何て酷いことをするんだろう、父親なのに、息子なのに、家族なのに!


「奥さんが亡くなって悲しかったからって、実の息子を使うなんて」

「悲しかった?」


 マクベーンが振り返った。仮面をかぶったような顔の上で、二つの瞳が徐々に生気を取り戻し始める。だが、反対にマクベーンの焦点はここから遠ざかっていくようだった。


「確かに、あれは悲しい事故だった。イーラ、私の妻。私を理解してくれた。賢くよく気の付く、すばらしい妻だった。私が不老不死の法を探し求めはじめた時も、彼女だけが応援してくれた」

「え……?」


 マーシャルは眉を顰めた。てっきり、不老不死の体を求めたのは、マクベーンの妻の死がきっかけだと思い込んでいたのだ。

 恍惚とした表情でマクベーンは語り続けた。もはや周りが目に入っていないようで、視線は上空の一点を見つめている。


「そう、君の言ったことは少し当たっていたね。私が不老不死になりたいと願ったきっかけは、妻だった。だが彼女の死ではない、彼女の出産で、私の心は新境地に至ったのだ。

 長男のカイが誕生した時、私の心は歓喜に震えた。自分の血を継ぐ者が、これほど愛しいとは!私の心はすぐに欲望を覚えたよ。愛する者とずっと一緒にいたい、ライアンが生まれた時その思いは決定的なものとなった。永遠だ、私は愛する家族と永遠の日々を過ごすのだ。イーラに相談を持ちかけたら、『ああ、あなた!素敵だわ』彼女は目に涙を浮かべて私を応援すると言ってくれた。彼女の期待と激励はは私の背を何度も押してくれた!

 研究をはじめて十年目、私はいよいよ不老不死の法に辿り着く直前まで来ていた。だが、文献の情報だけでは頼りない。イーラ、また君が言った。家族のため、どうか自分の体を使ってくれと。『君が永遠の世界に一番乗りするんだね』そう君と笑いあった。だが、実験は失敗に終わった。君はその犠牲となり、死んだ」


 マクベーンのこけた頬を透明な涙が伝う。


「私は大いに悲しんだが、忘れ形見の息子たちのためにも再び研究をつづけた。だが、先の妻の件だけでは情報は、不十分だった。私に何かあっては本末転倒だし、私は今度はライアンに相談を持ちかけることにした。ライアンは幼かったが、妻に似て美しく利発な子だった。しかしライアンが頷きかけたところで、カイが割って入った。『親父、長男は俺なんだ、俺が先なのが当然だろう』そう言ったかな、カイは。あれは少しわがままな奴だったが、勇敢で逞しく、ライアンと同じく私の自慢の息子だった。

 私はカイの提案に従って、カイをこの地底湖に連れてきた。そう、その頃にはこの地底湖を発見していたんだよ。イーラの時とは違い、実験は半分以上成功した。カイはその日から、永遠の世界の住人となった。私は満足して、今度こそライアンにも実験に参加するように言った。ライアンは笑って頷いたよ。あの子と愛情のこもった視線を交わし合うのは、何より幸福な瞬間だった。だが、私は一つ重大なミスを犯していてね、ライアンの体は小さすぎて魔術に耐えきれなかった。一度は失敗したかと思った。水中でしか生き難くなってしまったから。だが、ライアンの体はそれきり成長しなくなった。完璧とは言えないが、成功していたんだよ!

 それを確かめた私は、ついに自分の体に魔術を施した。すでに研究は完成していて、私は二人の息子の仲間に加わった!願いはかなったんだ!」

「馬鹿なことを!」


 狂った男を睨み付けて、マーシャルは吐き捨てた。胸がムカムカとして、吐きそうだった。マクベーンは心底不思議そうな顔をして、二人の息子の肩を抱き寄せながら言った。


「どこがだい?君だって、愛する人と永遠に共にいられたら嬉しいだろう。家族や友人や恋人と、永遠の時を生きたいと望んだことがないっていうのかい」

「愛情と自分の欲望をはき違えないで!」

「私だけの願いではない、家族全員の願いだったんだよ。永遠を一緒に生きることが。そうだろう?カイ、ライアン」


 たった十ばかりの子どもに、父親の愛情を装った狂気の、何を見抜けたというのだろうか。

 マクベーンは息子たちに愛おしげな視線を送った。抱き寄せられた二人の息子は、片方は焦点の定まらない目で空を見つめ、もう片方はすでに見るための瞳を失っている。マーシャルはその光景を忌々しげに睨んだ。

――――なんて、一方的で狂った愛情なんだろう。

 あの最北の町に降り積もる白い雪は、真実魔物だったのだ。町を離れようとしている男にさえ、長い腕を伸ばそうとする。未だマクベーンは白い魔物に捕らわれたままなのだ。彼の内側で踊る狂気と、足元から忍び寄る魔の手と、マクベーンはきっと永遠に逃げることができない……文字通り、永遠に。


「さあ、もう行かなければ。計算違いをしていたと言ったがね、そろそろ私がこの町にいては怪しまれる時期になることをすっかり忘れていたんだよ。不死の体を手に入れてからは、時の流れがめっきり遅く感じるようになった……。そうだ、ライアン、外に出る前に服を着ないとね」


 彼は二人の息子の手を取って、地底湖を歩み去ろうとした。どうして、それほど幸せそうに微笑むことができるのだろうか。醜悪になった息子を目の前にして、まるで、あの肖像画のままの息子の幻を見ているような――――


(きっと、本当にそうなんだ。あの肖像画を惜しむことなく、地下書庫に放っておいたのも、目の前に本物の息子たちがいると思っているからなんだ。マクベーンの世界は永遠の世界なんかじゃない、過去の幻で出来た世界なんだわ)


 カイがまた、おおおおお、らああああと吠えた。彼はそれしか音を発しない。言葉をしゃべることが出来ないのだろうと思ったが、やがてそれは違うことに気付いた。気付いた瞬間、凍りついた。

 らああああ、らああああ、とカイが繰り返す。


(ライアン、って言いたいんだ)


 意味のない吠え声ではなかった、カイは幼い弟の名を、ずっと呼ばわっていたのだ。だが、その弟は目玉をなくし、悪夢のような醜い人形と化している。兄を兄とさえ認識できていないに違いない。自分を何度も呼ぶ兄の声を、そこに潜んでいるかもしれない深い愛情を、ライアンは二度と感じることはできないのだ。

 怒りの炎が、マーシャルの理性の糸を焼ききる音がした。マクベーンの背中に向かって鋭い一声を飛ばす。


「待ちなさいマクベーン!」


 足を止めない町長に、ぎりりと奥歯を食いしばった。


(あの子、まだあんなに小さかったのに!私の、肩にも背が届かないくらいだったのに)


 何が愛情だ、何が永遠の日々だ!

 剣を構えて、ダンッ!と一歩踏み出したマーシャルの前に、ユンスティッドが立ちはだかった。


「邪魔よ、どきなさいユンスティッド」


 ギラギラと燃え滾る炎が、ユンスティッドの頬を炙った。苛烈な怒りを前にしても、ユンスティッドはひるまなかった。


「やめろ、マーシャル」

「どきなさいって言ってるでしょ!」


 脅すように剣の切っ先をパートナーの首に突き付ける。ユンスティッドは一瞬動揺したが、強く睨み返してきた。


「いいや、どかない」


 舌打ちしたマーシャルは、一度正面に踏み込むふりをしてユンスティッドを惑わすと、その脇をすり抜けてマクベーンの背中に迫った。


「その首掻っ切ってやる!!」


 物騒な言葉にさすがに驚いたのか、マクベーンが振り返った。すでにマーシャルは目前に迫っている。すみれ色の目、マクベーンの暗い目、揺れる青い目、暗闇をたたえる二つの穴――――それらが一斉に交差した。

 ガキン!と甲高い音が鳴り響く、マーシャルの剣の切っ先が岩にはじかれた音だった。マーシャルは、激昂した瞳で後ろを振り向く。その両足は地面から生える氷で固められていた。


「マーシャル」

「うるさい!私はコイツの殺さないと気が済まないのよ!」

「マーシャル」


 ユンスティッドは、理知的な瞳で諭すようにマーシャルを見てきた。許せない!と叫ぼうとした喉がクッと詰まり、言葉を飲み込む。すみれ色の瞳を、目一杯にひらいた。その中を激情がほとばしり弾ける。


(だって……だって、ユンス。アンタだって、分かっているはずでしょう)


 ぐちゃぐちゃの心のままにマーシャルは叫んだ。


「コイツを殺さないと気が済まない!

 だって、あんまりよ。あんまりにもこの子たちが、可哀想じゃない……!」


 マーシャルの目尻に溜まっていた涙が、コップの水があふれるように決壊した。頬をとめどなく流れ出す。許せなかった、マクベーンが。でもそれよりも、その息子たちが哀れでならなかった。


「マクベーン、アンタのそれは父親の愛情なんかじゃない。どんな言い訳をしようと、アンタは息子の未来も、親への愛情も信頼も期待も何もかも、踏みにじったのよ」


 しかし、マーシャルの涙ながらの言葉もマクベーンの心の一片たりとも揺らすことが出来なかった。彼は冷めた目で、マーシャルを一瞥すると、息子に視線を戻して微笑んだ。マーシャルは泣いた。カイとライアンが可哀想で頬を濡らした。彼らの父親は、息子を愛していると言いながら、今ここに生きている息子を見ようとしていない。マクベーンが見つめているのは、過去の幻影なのだ。愛情という優しい言葉が、この上なく虚しく響く。マーシャルには、もうかけるべき言葉が見つからなかった。ただ、怒りと悲しみと悔しさと憐れみ、黒く渦巻く感情だけが残されて、静かに泣いていた……

 冷たい滴が足元の氷に当たって砕けるように、この悲しみも、一緒に砕けてくれればいいのに。そうでもなければ、やりきれなかった。

 ユンスティッドがマーシャルの横にやって来て、マクベーンと向き合った。


「行ってください。北方山脈を越えるのでしょう?それなら早く行った方が良い。今なら雪も降っていませんから」

「山は天気が変わりやすいから、きっとすぐに降りだしてしまうよ」

「それでも、少しでも早く行ってください。町の人に見つかっては困るのはあなたの方でしょう」

「私を捕まえる気はないようだね」


 早く行ってくださいと、ユンスティッドはそれだけを繰り返した。


「君はそこの女のように怒らないんだね。とても冷静だ、きっと有能な学者になるだろう。怒りは判断を誤らせるからね」


 ユンスティッドの右瞼が、ピクリと引きつった。


「冷静に見えますか、俺」

「ああとても」


 マクベーンの肯定に、黒曜の瞳がすうっと細められる。いつもより一段低い声が隣のパートナーの口から飛び出て、マーシャルは驚いた。


「ふざけるなよ」


 凍てつくような声音と視線だった。


「俺のパートナーを三度も殺しかけておいて、実の息子に殺人を犯させようとしておいて、そんな口がよくもいけしゃあしゃあと。怒ってない?怒らないわけがないだろう、自分でも驚くほどに、あんたが憎いよ」


 発せられる怒気に、マーシャルの肩がびくりと揺れた。彼が喋る度に、空気の粒が凍りつく。ユンスティッドがここまで怒るなんて、今までになかったことだ。


「あんたを捕まえるのは容易だが、それをしないのはあんたのためでも、俺が冷静だからでもない。ひとえに、あんたの息子が憐れだからだ。そいつらを王都に連行してみろ、晒し者にされ研究材料にされ、最後には処刑される。それでは、あんたの愛情とやらのために犠牲になった彼らが、あまりに報われないからだ」


――――だから、さっさとここを去れ。

 マクベーンは、肩を軽く竦めた。


「言われなくてもそうするさ。しばらくは息子たちと山で静かに暮らしたいね、なあカイ、ライアン。久々に三人で遊ぼう。ライアンはそり遊びが好きだったね」


 マクベーンは、背中を向けながらマーシャルたちに輝かしい笑顔を向けた。


「有限な君たちの人生に、ポーミュロンのお導きがあらんことを」

「神もあんたの祈りだけは聞き届けないだろう」


 ユンスティッドの言葉を聞きながら、マーシャルは思った。今の言葉はマクベーンには応えやしない。あの人はきっと神などどうでもいいのだ。だって永遠の世界には、あの家族以外の誰も、踏み入ることなどできないのだから。

 マクベーンと二人の息子の背中がだんだんと遠く、ぼやけていく。マーシャルは瞬きもせずにそれを見送った。彼らが見えなくなってからも、しばらくの間はカイの遠吠えが風に乗って流れてきた。らあああああ、おおおおおお、おおろおおおお……

 頬は涙で濡れそぼっていた。その上を、新しい涙の粒がツルリと滑り落ち、地面を黒くした。涙の一粒一粒が永遠の世界に降り注いで、少しでもあの二人の息子の恵みになったらいいと、そう祈った。

 切実な祈りに応えるように、その時、一筋の淡い月光が、地底湖の中央に降り注いだ。






 青白く発光する光の粒が、湖面に降り、小さな円を描く。その円は波紋を広げるように徐々に広がり、ついには湖面のふちまで広がった。まるで大きな魔法陣のように、湖が光っている。マーシャルとユンスティッドは目を細めた。一際強い光が放たれたあと、そっと目を開けたマーシャルは息をのんだ。

 湖が、透き通っていた。

 へりに近寄ると、湖底のわずかな凹凸まで見える。岩に走る亀裂の中から、小さな水泡がいくつも吐き出され、湖面まで上がって来ては弾けた。青緑の藻と水草が優雅な踊り子のように身をくねらせている。いつのまにか悪臭も消え失せて、鼻から耳の穴を通り抜けていくような雪と水の清らかなにおいが辺りを支配した。やがて湖の発光がおさまると、湖面は巨大な鏡となり夜闇を映しこむ。天井の穴の真下には白い満月がぽっかりと浮かんでいた。


「これが俺が行った儀式の成果だ」とユンスティッド。

「地下書庫でちらっとだけ目にしたんだよ。記憶が合っていてよかった、浄化の魔術だそうだ」

「きれい……」


 ユンスティッドが湖に入っていく。靴にまとわりついていた泥や水草が透明な水に溶け込んで沈んでいった。マーシャルはその背中を見ていた。

 きれい、と呟いたきり、マーシャルは口を開かなかった。月を仰ぎながら、ユンスティッドがぽつりぽつりと話す。


「あの家族、この国を出たところで、一生ひっそりと暮らしていくしかないだろうな。あんな姿を見られれば、どんな僻地にいようと噂になってしまう。今までよくも隠してこれたと思うよ」


 マーシャルはぼうっとして相槌も打たなかった。


「この地底湖、やっぱり古代魔術の儀式を行っていた場所だったんだな。俺がさっき湖の中を淵にそって歩いただろう?古代魔術は大規模で、大人数で行われるものが多いからな。この湖はさながら大鍋代わりと言ったところか。上にあいている穴は、月光を取り込むためのものだったんだ。月の光は魔術的な力を持つと言われるから」


 しん、と沈黙がおりた。ユンスティッドが、またおもむろに口を開く。相手もいないのに、変に饒舌だとは思わなかった。彼がどうしてこんな風にしゃべり続けているのか、マーシャルはよく分かっていた。


「あの町長は、狂ってた。おかしいと思ったよ、俺も。だけど、同時に彼の気持ちが分からないでもなかった。例えば俺が禁書を入手したとして、知識欲にとりつかれてああならないとは限らない。そう思うと、怖いな、少し」


 マーシャルは濡れた頬をぬぐい、目尻から涙を払った。


「アンタは大丈夫よ」まだ声は震えていたが、マーシャルは笑って見せることができた。

「そうなったら殴って正気にもどしてあげる」

「お前に殴られると、記憶まで飛んでいきそうだ」


 ユンスティッドの軽口に、マーシャルは下手くそに苦笑した。心の中でパートナーに感謝する。マーシャルが泣き止むのを待っていてくれたのだ、この少年は。

 もう大丈夫、という意味を込めて、マーシャルも湖の中へと足を踏み入れ、ユンスティッドの隣へ寄って行った。水は清廉な冷たさを保っていて、目に見えない汚れまですっきりと流してくれるようだ。月の光には魔力が宿ると言ったっけ、そうかもしれない、と感じる。特にこんな麗しい満月の夜には。

 瞼を下ろすと、暗闇の中に去って行った親子の姿が思い浮かんだ。マクベーンの慈愛に満ちたあの視線を思い出すたびに虚無感が胸を襲う。あの男のことが憎い。きっとマーシャルは一生マクベーンを許すことができないだろう。怒りは未だ、心にとぐろを巻いて鎮座していた。


(でも、マクベーンが息子二人を愛していたことは確かだ)


 どんなに一方的で歪んでいて狂っていようと、彼が愛情と呼ぶそれを、マーシャルは否定することができない。マクベーンの行動が愛情ゆえのものでなかったら、彼らは本当に報われないからだ。

 マクベーンは幸せそうだった。それは仮初めのものではなく。愛する息子二人と、永遠の日々を過ごす。その夢がかなったと、実に嬉しそうに語っていた。

――――だからあの男は一生気付かなければいい。

 勇敢で逞しいと自慢していた青年の瞳が、幸せの象徴のように言っていた幼子の瞳が、自分を見つめ返すことは決してないのだと、気付かなければいい。いといけな子のブルーの瞳を奪ったのが自分だと思い知れば、マクベーンはきっと絶望する。愛情の裏に隠された恐ろしい何かを暴いてしまう。だから気付かなければいい。過去の幻が消え去った瞬間、マクベーンは楽園の中、孤独に生きることになるのだから。二人の息子が父親を愛していたならば、きっとそれは望まれないことだ。

 不意にマーシャルは疑問に思った。

――――目と目が合わないって、どんな気分だろう。 

 たとえば、両親や祖父がマーシャルを見つめる時、そこには確かな愛情が込められている。兄たちの視線には期待と信頼が、仲間たちの視線には親しみが。マーシャルが彼らに送る視線にも、きっと似たような感情が込められている。彼らの瞳に映り込んだ、自分のすみれ色の瞳を覗けばそれが分かった。

 湿った土から芽が生えるように、小さな好奇心が生まれた。


(ユンスは、どんな目で私を見ているのかしら)


 マーシャルがパートナーと目を合わせることは多い。喧嘩している時、話し合っている時、何でもない瞬間……でも、思い出そうとしても、ユンスティッドがどんな目の色をして、どんな光を宿して自分を見ていたのかが浮かんでこない。何度も機会はあったはずなのに、霞がかかった様にはっきりしない。彼の背中ばかりが脳裏に蘇り、頭の中の彼は一向に振り向いてくれない。

 強く深い願望が、マーシャルの全身を駆け巡り、気付けば隣に佇むユンスティッドを一心に見つめていた。逆らえない不思議な力に従いながらも、内心は怪訝な想いで一杯だった。これで何が分かるというのだろうか、私は何を望んでいるのだろうか。


 胸の奥で、誰かが囁いた。見つめれば、きっと分かるだろうと。


 ユンスティッドの瞳が、反射した月光に照らされて銀色に輝いている。いつもの暗い海に星が散ったようだった。ずっと空を見上げていた彼の首が、やおら下がる。前触れもなく、彼はマーシャルを振り向いた。瞳を覆う幕が下りて、上がる。一度きりのその動作が、やけにゆっくりに思えた。幕の向こうのユンスティッドの瞳とマーシャルの瞳がかち合う。

 黒い海はさざ波を寄せていた。黒曜に込められた思いが何なのか、それとも冷たい月のように何も思ってなどいないのか、マーシャルには定かでなかった。けれどそれは些末なことだと気付く。ユンスティッド=シルバートが、この瞬間、紛れもなくただ一人を、マーシャルだけを瞳に映していることに意味がある。これほどに満たされる。

 彼の瞳の海に映りこんだすみれ色を見れば、マーシャルがどんな風にユンスティッドを見つめているのかも分かるはずだった。だけれど、それができない。できなかった。


(どうして、こんなに)


 体の芯から指先へと広がり、細胞の隙間にまで浸透していくような思いに、マーシャルは陶然とした。


(どうして私、こんなに、幸せだと思うんだろう)


 胸が詰まる。目が離せなくて、その海にのまれてしまいそう。時間の流れがひどく遅くなり、時が止まったかのようだった。これが永遠の世界かと錯覚するほどに。

 たとえば、強者との戦いを待ちわびている時、母や兄に叱られている時、暇な休みに課題に出された本を読んでいる時、マーシャルは時間がゆっくりに感じる。でも今はそれらとは違う。

 そうか――――マーシャルは丸い目をさらに丸くした。一秒よりさらに短い時間でさえ逃さないように、感じていたいと、見つめていたいと思うから。

 何か話したいような、何も話したくないような、そんな二つの気持ちが束の間せめぎ合った。これから取るであろう夕飯のこととか、帰ったら王都は晴れているかなとか、いろいろあった旅だったねとか、たわいもないことを話題にしてもよかったけれど、そういう気分にはなれなかった。

 息を吸って吐きだす。たったそれだけなのに、白く凍った吐息には魔法がかけられているような気がした。きっと私の知らない古代の魔術なんだ。だから、ここでの言葉は特別になるのだ……


「私、ユンスとデュオを組めてよかった」


 突然の発言に、ユンスティッドはびっくりしていた。


「何だ、急に」

「思ったことは正直に言った方が良いんでしょう?だから言ったの。今改めてそう思ったから」


 照れたりはしなかった。本心からの言葉だったから。ユンスティッドも、ふざけたりしないで、真っ直ぐにそれを受け取ってくれた。


「そうだな」

「うん」

「俺もそう思うよ」

「うん……」


 マーシャルは、この幸福の理由も意味も分からぬままに、自然と微笑んでいた。ユンスティッドも微笑み返す。いつもの皮肉めいた笑みでも、少し悪戯っぽい笑みでもなく、どこか謎めいた微笑みだった。

 ねえ、アンタは、この幸せの理由を知っているのかな。

 そう尋ねたかったけど、マーシャルは黙っていた。二人は視線を外して、今度は揃って青い月を見上げる。何も言わなかったのは、胸が詰まっていたからじゃない。マーシャルの左手の指先と、ユンスティッドの右手の指先が触れ合って絡み合って、無粋な言葉でこの手を離してしまいたくなかったからだ。

 魔法の空間では嘘を吐いてはいけない気がした。厳かな月が月光を注いで見張っている。


――――どうして幸せかなんて、きっともう、お互いに分かりかけていた。


 雲が再び月を隠してしまうまで、二人はずっとそうしていた。







 王都への帰路の途中、パカラパカラと軽快な蹄の音を聞きながら、まどろみに身をゆだねたマーシャルはまた夢を見ていた。

 目の前には、あの地底湖がゆらりゆらりと広がっている。これが最後の夢だと、何となく知っていた。

 マーシャルはのんびりと湖の淵に座り込み、黒い湖面を見つめていた。大丈夫、慌てなくたって。自分が何を待っていたのか、今ならちゃんと分かっているから。

 黒い湖面は月光を反射して、ところどころ白い。発光するような輝きを見つめていると、ふっと湖面に影が落ちた。そこに映った瞳の色は、湖面と同じ黒色をしていた。夢と現実の記憶が重なり合い、一つになる。なんだ、黒い湖面の色を、私はもうずっと見てきたんじゃないか。

 しゃがんだまま立ち上がらないでいると、湖面の色の持ち主がそっと隣にやって来た。マーシャルは振り返らないから、その顔は見えない。でも、湖面に映った瞳はマーシャルを見つめていた。そうか、彼もこうやって私を見つめている時があったのだ。気付いたら嬉しさとおかしさが込み上げてきて、忍び笑いをしてしまう。

 少年の左手が彼の腰の横にぶら下がっていた。マーシャルが手を伸ばすと、ちゃんと応えてくれる。隣にユンスティッドがいることを感じて、マーシャルは微笑んだ。ユンスとパートナーになれて本当によかった。振り返ればいつだって、目と目を合わせられるユンスで本当によかった。

 瞼を閉じると、体がゆらゆらと揺れている気がした。この場所とも、もうすぐお別れだ。現と夢と、マーシャルのいるべき場所はここではないから、目を覚まさなければならない。でも……、最後に思った。


(夢の中でも、出会えてよかった)









――――けれど、その年の冬が明けた頃、繋いだその手を離したのは、マーシャルの方からだった。


第5章完結です。

――――次章、最終章。

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