魔法呪文学
陽の光が十分に差し込む地上とは違って、地下書庫へとつづく階段は薄暗い。石の壁に片手を添えながら降りていくと、ひんやりとした空気が身を襲う。燭台の半分になった蝋燭に火を灯せば、ぼんやりとした光が書庫を照らし出し、現れたのは壁全体を覆うほど大きな本棚だった。ずらりと並ぶ背表紙は圧巻だが、並べ方には乱雑な所がある。よく使われるのだろう。大小さまざまな辞書は、上下がひっくり返ったり背表紙が後ろを向いたりしていた。逆に隅の方のきれいに並んだ本はうっすらと埃をかぶっていてかび臭い。
実家の父の書斎よりずっと小さいにもかかわらず、圧倒的な本の数にマーシャルは感心していた。本棚を見上げて立ち止まったマーシャルの前方で、黒髪の少年が早速本に手をかける。よどみなく作業をはじめる彼に、マーシャルは慌てた。
『今日からしばらくは、地下書庫の整理をしてくれないか。晴れてるし都合がいいだろう。期限内に終わらせるなら、書庫の本は自由に読んでいいぞ』
早朝に隊長室を訪ねた二人はそう言われていた。ユンスティッドが特に質問することなく頷いたのでマーシャルもそれに倣ったが、正直何をすればいいのか分からない。
「ねえ待って。私は何をすればいい?」
ユンスティッドが顔だけこちらを向けた。嘲笑する感じはないが温かみもない。マーシャルは苦虫をかみつぶしたような思いを味わった。聞かなくてよいなら話しかけたくなどないのはマーシャルも同じだ。しかし、それでは単なる役立たずである。この少年に馬鹿にされることだけは何が何でも回避したかった。
「とりあえず虫干しする。よく使われた跡がある棚は整理するだけでいいから、埃をかぶったのやかび臭いのは机に除けておいて。後で外に運ぶ」
「……整理って、どういう順に並べるの?」
ユンスティッドはマーシャルを無言で見つめた。沈黙が何とも痛い。手に持っていた本を机に置くと、彼はスラックスのポケットから紙きれとペンを取り出した。さらさらと流麗な文字を書き記していく。眺めていたマーシャルは内心感嘆した。マーシャルの家族の誰よりもきれいな字である。
「これに従って右から並べる。本のタイトル見て判別付かなかったら、机の端に置いておけ。あとで俺が並べる」
紙きれがマーシャルに手渡されることはなく、無造作に机に置かれた。ユンスティッドは黒いタートルネックを着ているため、彼が再び背を向けると、黒い髪と相まって薄暗闇に紛れてしまいそうだ。
苦々しい気分のまま、マーシャルはメモを片手に本を並べ替えはじめる。勿論ユンスティッドから離れた所の棚であるが。
(ええっと、『はじめての魔法薬学』に『呪文学大系』、『魔法生物学~近年発見された新種について~』『水を操る術』……それから『賢者の知恵と……』?)
単語が分からずパラパラとページを捲ってみたが、蟻のようにびっしりと並んだ文字と意味不明の図を目にして、マーシャルは即座にそれを机に置いた。並べ替えて机に置いて、それを延々と繰り返す。ようやっと一段分を終えた頃には、昼をとっくにまわっていた。
「ねえ」黒い背中に呼びかけるが、ユンスティッドは整理を放棄して本を読みふけっていた。それがただの本ではなく分厚い魔法用語辞典であることを読み取ったマーシャルは、彼の背中に「本の虫」と書いてやりたくなった。
「そろそろお昼にしない」
わざわざ声をかけてやっているというのに、ユンスティッドが顔を上げることはない。無視しているのではなく気が付いていないのだと、自身も剣の鍛錬に没頭する傾向のあるマーシャルは理解していた。自分だけ先に食べるのは、いくら気に食わない人物が相手とはいえマーシャルの倫理に反する。
ユンスティッドの左肩を軽く叩いて、マーシャルは繰り返した。
「ねえ!ご飯抜きで作業するつもり?」
「いっ!」
ユンスティッドが肩を抑えてマーシャルを睨んだ。思いがけない反応にマーシャルはたじろぐ。
「いくら気が合わない相手でも、暴力はダメだと思うが。それくらいの常識もないのか」
「はあ?」
マーシャルは思い切り訝しげな顔をした。それもそのはずである。彼女は軽く肩を叩いたつもりなのだから。彼女の兄たちを呼び止める時は、もっと勢いよく叩いている。
「剣士にはあまり詳しくないが、ディカントリー家のお前がその程度だということは、たかが知れているな」
「なっ何よその言い草!私は親切で声をかけてあげたの。感謝されても非難される覚えはないわ。第一」
少女は少年の目を見下ろした。大して変わらない背丈だが、マーシャルの方が小指一本分だけ高い。
怒りで顔を赤らめながら、マーシャルはユンスティッドに向かって叫ぶ。
「あんたがひ弱すぎるだけじゃないの?この、チビッ!」
エヴァンズは、昼下がりの魔法師団本拠地を、鼻歌を歌いながら歩いていた。特に良いことがあったわけではないが(しいて言うなら、今日はまだ副隊長の愚痴を聞いていないことだろうか)、天気のいい日は心地よい。
七番隊の隊舎は、もともと師団自体が北側にあり、その上茂った木の間近にあるため、他の隊舎よりも地面がひんやりとしている。
新しく入った見習いの二人。昨日はどうしてか険悪な雰囲気だったが、共同作業で仲直りしているに違いない。そう期待して隊舎の裏に回ったエヴァンズは、声をかける前に菫色の瞳に見つめられて固まった。
薄い紫と言うのは一見地味に見えるが、快活な少女の性格によって一転明るく優しげな印象を与える。そんなマーシャルの瞳だが、今現在エヴァンズを仰ぐ彼女の目は、土砂降りのあとの川の水のように濁っていた。
「隊長、お疲れ様です」
「……おお、お前らもご苦労だな。ちゃんと昼飯は食ったか?」
何気ない質問に、マーシャルはピクリと肩を揺らす。ぎこちない笑顔で微笑んだ。
「ええ、はい。団舎の定食って、思ったよりずっと美味しかったです」
「昨日シャリーが来たとき、食堂は閉まってたからな。気に入ってくれて何よりだ。
「ところでユンスはどうした?」
両手に本を抱えていたマーシャルは、それを地面に置いた板の上に下ろして奥を指さした。マーシャルから離れた日陰で、ユンスティッドが本を並べて丁寧に広げている。
「私、書庫の整理の続きがあるので失礼します」
「頼んだぞ」
引きつったような笑みを張り付けたまま隊舎に戻るマーシャルは、一度たりともユンスティッドの方を見ようとはしなかった。嫌な予感を胸にユンスティッドに近寄ったエヴァンズは、急に寒さを感じる。
「ユンス、あまり根を詰めるなよ」
「いえ、好きでやっていることですから。本に触れるのは楽しいです」
「魔法師団はそういう奴ばっかだよな」
「ええ、本当に。そういう方ばかりだと嬉しいですね」
言葉だけは穏やかだが、ユンスティッドの目は全く笑っていなかった。体の周りから冷気が発生していると錯覚するほど彼の視線は冷たかった。
「お前、魔法とか使ってないよな?」
「何を仰ってるんですか。見習いに魔法は必要ないでしょう」
「いやあ、ここら辺やけに寒いから」
ふとエヴァンズは心配になって、ユンスティッドに釘を刺した。
「人間相手の魔法はダメだからな。身の危険に襲われない限り」
「勿論分かっていますよ。使いません、身の危険を感じない限りは」
淡々と応じるユンスティッドをねぎらった後、エヴァンズは自室へと戻る。二人の間に流れる空気にいささかげんなりとしながら。
―――新入り二人の仲には、暗雲が立ち込めるどころか、雷が鳴り響いているのではないか。
せっかく手に入った猫の手が、エヴァンズの顔に情け容赦なく爪を立てている気がした。
マーシャルは、人生で三本の指に入る辛酸をなめていると確信していた。
マリアが聞いたら「まだお若いのに」と言われそうだが、生憎ここにはマリアどころか家族もいない。魔法師団での二日目の生活を終えたマーシャルは、硬いベッドに寝転んだ。うつ伏せになって枕に顔を埋めるが、息苦しくなって寝返りをうつ。
天井の木目を無心で見つめようと思えど、いっかな成功しない。思い出したくもないが、勝手にあの男の顔が浮かんでくるのには辟易した。
『お前にだけは馬鹿にされたくないな。足手まといの馬鹿だけには』
思い返すも腹立たしい。「チビ」と言われた途端、ユンスティッドのまわりの気温が氷点下まで下がった気がした。しかし、悪いことを言ったかと気を使えるほど、マーシャルは大人ではなかった。
―――絶対に謝ったりはしない!
心に固く誓って、マーシャルは再度寝返りを打つ。うつ伏せで身じろぎすると、鎖骨の下あたりに違和感がある。はっとして起き上がった。
「ペンダント外すの忘れてた!」
急いで金具を外して赤鉄鉱をしげしげと見る。壊れてはいないようでほっとした。
(早く剣師団に移りたいよ……お祖父ちゃん)
エヴァンズは良い人だ。他に数人すれ違った魔法師も、大抵は挨拶すると返してくれた。個室まで与えてもらって、この環境に文句を言うのは憚られる。だけれど、世の中にはどうしても相容れない人間がいるのだ。
(あっちも私を嫌ってるみたいだし。隊長には悪いけど、歩み寄りなんて絶対に無理!最低限のことは教えてくれるつもりみたいだし、ここを出るまでの我慢よ)
不意に隣の窓から漏れていた明かりが消えた。隊舎の外が暗闇に包まれる。気合のこもった掛け声や剣がぶつかる音がするはずもなく、静寂の中で森の動物たちの鳴き声が時折聞こえてきた。
マーシャルは、そっと廊下に滑り出た。いくつかの部屋ではまだ明かりがついていたが、誰かが出てくる様子はなく、すんなりと隊舎を抜け出すことができた。他の建物にもぽつぽつと明りが点いていたが、外は本当に静かなものだった。王宮からも距離があるため、人影が一切ない。夜空には小さな星が散らばり、輝いていた。銀の月は引き絞った弓のようだ。
城壁のすぐそばまで寄り、マーシャルはブーツにさしておいた短剣の一本を引き抜く。
(長剣も持ってこればよかったなあ。どこかで手に入らないかしら)
月の出た夜には、剣の刃が実に美しく映える。槍や弓も良いものだと思うが、マーシャルは剣が一番好きだった。磨き抜かれた刀身に固い柄。短剣の扱いが一番うまいと言われたが、最初に習ったのは長剣だった。
―――祖父の後を追って、初めて武器庫に入った日。
マーシャルにとって、何よりも特別な日である。
昨日は、その日から丁度十年目だった。
短剣を元に戻すと、マーシャルは城壁に手をかけた。石のくぼみや浅い溝を利用して器用に登っていく。突き出した枝の太さを確かめると、思い切りよく飛び移って、そのまま枝の根元に座り込んだ。枝葉の隙間から差し込んでくる月明かりは、少女の心を優しく慰めた。首にかけたペンダントの赤い石が光沢を放つ。それを胸に押し付けて、ようやくマーシャルは「明日も頑張ろう」という心持ちに到ることができた。
「今日で見習いになって一カ月ね、いつもありがとう。やっぱり若い子がいると助かるわ」
そう言われて、嬉しくないわけではなかった。それでも複雑な思いでマーシャルは「これからも頑張ります」と曖昧な笑顔で答えると、相手の女性は「ユンス君にもよろしく」と言づけた。
不幸な偶然で魔法師団の見習いとして入隊して、はや一月が過ぎた。ミーネからの連絡はない。エヴァンズが催促してくれたものの、効果は芳しくないようだ。
もうすぐ兄たちが帰ってくる。
剣師団宛に送られた母の手紙は、マーシャルの元へと届くよう手を回してもらった。その際に、母に今回の思わぬ事故を伝えないようにと頼むことを忘れずに。
母からの手紙には、丁寧な字でマーシャルを案じる内容がつづられていた。その末尾に、兄たちが帰還するという言葉を見つけてから三日。マーシャルは落ち込んでいた。
もういっそ素直にばらしてしまおうかと何度も考えたが、小さなプライドが邪魔をしてそれを許さない。一か月前のあの日をやり直したいと、今では後悔するようになってしまった。
(居心地は悪くない。むしろ私はここが好きだわ)
ムカつく一人を除けば、魔法師団はマーシャルに優しかった。だがやはり、剣の腕を磨きたいマーシャルは中々剣師団に移れないことに焦る。練習相手もなく、一人虚しく素振りしたり走り込んだりすることしかできない。休日は家に帰ろうかと思ったが、母やマリアに根掘り葉掘り聞かれてはかなわないので断念した。
隊舎の端の階段を下り、地下書庫に入ると先客がいた。視線が交わるが、二人同時にそっぽを向く。
「今日は調査書を書く手伝いじゃないの?」
「辞典を取りに来ただけだ」
それだけを言って、ユンスティッドは元来た階段を上っていった。
一月経って分かったことがある。ユンスティッドは――あのマーシャルを苛立たせるばかりの少年は、驚くほど優秀だ。知識が豊富で機転も利く。聡明な彼は、あっという間に七番隊に溶け込み、隊員たちの間で重宝された。最初はマーシャルと一緒に雑用をやっていたが、最近では魔法師たちの実験の手伝いを頼まれることも増えている。
それがマーシャルを惨めにさせた。
マーシャルがこれまで培ってきたものは、ここではほとんど意味をなさない。剣士を目指してきたのだ、仕方がないと言い聞かせても、悔しいものは悔しい。
(『琥珀から採取できる魔力について』と『第十回世界魔法師会議録』。あとは……)
隊員の一人からいくつかの図書を持ってくるよう頼まれていたマーシャルは、リストを見ながら本を引き抜いていく。『魔法石の色と効用』という本を見つけた時、ふと隣に並んでいた薄い古ぼけた冊子が目についた。
『はじめての魔法呪文』という文字がうっすら読める。使い古されていて、あちこち書き込みがあった。
なんとなくそれを分厚い本を重ねた一番下に差し込み、マーシャルは地上へと戻る。本を渡し終えてしまうと、やることがなくなった。寝起きは良くないが、実家での生活で早起きが身についていたマーシャルは、隊員たちの中でも動き始めるのが早かった。城壁内の落ち葉の掃除も済ませ、細々とした頼まれごとも終わらせた。手持無沙汰で自室の机にうつぶせる。
なんとなしに、マーシャルは持ってきた冊子を開いた。
『はじめての魔法呪文』と書かれたとおり、呪文についての概要が記され、後半には初歩的な呪文の一覧が掲載されていた。
(「呪文とは、初歩的な魔法の中でも最も簡単なもののひとつである。人体はおおよそ魔力を有しており、呪文とはそれを引き出す一種の合言葉、鍵である。ただ呪文を唱えれば魔法を行使できるというわけではないが、魔力を引き出すコツを掴めば難しいことではない。そうかといって、呪文学の底が浅いということもない。魔力を引き出すという行為は呪文学の表面に過ぎず、その本質は自然界の力を魔力に上乗せすることにある。膨大な呪文の組み合わせ、復唱による威力の強化、大勢での一斉魔法行使……。この魔法は尽きることない無限の可能性を秘めている―――」)
パラパラとページを捲っていくと、実際の魔法の使い方が書かれている。マーシャルはそれを読み上げた。
「『イグニス』――最も簡単な魔法の一つ。四代元素のうち、火の力を行使できる。火属性の上級魔法については続刊の『追究する魔法呪文』一五八頁参照のこと――」
ためしに「イグニス」と呟いてみたが、何かが起こる様子はなかった。ため息を漏らして冊子を閉じた。
(いいなあ、アイツは魔法師になりたいんだろうな)
直接聞いたことはなかったけれど、マーシャルはそう考えていた。
(私もあんな風に剣師団の役に立てたら嬉しいのに。剣師団にさえ入れてないなんて、現実は厳しい……)
初対面で気に食わないと思ったのは確かだが、ここまでユンスティッドのことを嫌っているのは多分――。
子供っぽいと笑われそうな理由に気が付いてしまって、マーシャルは一人で居た堪れなくなる。気分転換に外の空気を吸いに行くことにした。雨は降っていないが、今日は朝から曇っている。鼠色の雲が青い空と太陽を覆ってしまい、七番隊の隊舎は何時にもまして寒かった。
両腕を突き上げて体を伸ばしていたマーシャルは、ふと己の胸元を見下ろして違和感にハッとした。
(あれ、私のペンダント……赤鉄鉱がない?!)
銀の鎖から、赤鉄鉱が台座ごと消えていた。マーシャルの顔色が見る見るうちに青くなる。
今までの行動を思い出して部屋をあちこち回り、それとなく隊員たちにも尋ねてみたが、探し物は見つからなかった。マーシャルは頭を抱える。
(隊舎内も外も地下書庫も見たわよね?!)
石の大きさは中指の爪ほどだったので、落としたとしても気付かなかっただろう。一番可能性が高いのは、早朝に師団内を走っていた時だと思うが果たしてどの辺りで落としたのか――。
(一度、外を一周してみよう。草の間に紛れているかも)
青ざめたまま隊舎の外に出ると、間の悪いことにぽつりぽつりと雨が降って来ていた。頬を叩く雨粒をぬぐい、マーシャルは隊舎付近から捜索を始める。雨脚はだんだんと強まり、マーシャルの全身を濡らしていく。師団内を半周ほどしたところで、マーシャルはやむをえず隊舎に戻ることにする。土砂降りで足元がぬかるみ、小さな石を探すことなど到底不可能な状態になったからだ。
下着までびしょぬれだったので正面の扉から入ることは憚られ、マーシャルは自室の窓から侵入することにした。窓をすり抜け入ってきた雨粒が床を黒々と濡らして行く。服を脱いで籠に放り入れ、全身を拭いてから着替えると、ようやく不快感がなくなる。だが、どうにも心は落ち着かなかった。気晴らしに誰かの手伝いでも申し出ようと思いつき部屋を出て廊下を覗く。そこでマーシャルは、隊舎の雰囲気がおかしいことに気が付いた。やけに静かだ。静かすぎる。
あちこち戸を叩いてみたが反応はなく、談話室にも誰もいない。エヴァンズもユンスティッドも姿が見当たらなかった。
マーシャルは焦った。
何事かが起こったのは確かだが、雨の中外にいたせいで気付かなかったに違いない。数メートル先ですらまともに見えない土砂降りの中では、人の気配も察知しづらくなる。
どうしようかと隊舎内をうろついていると、扉が乱暴にあけられる音がした。バタバタと足音が鳴り響く。駆け込んできたのはマーシャルも見知った二人で、彼らは部屋の一つに入っていった。マーシャルは声をかけようと思ったが、彼らの険しい顔つきと緊迫した空気に気後れしてしまった。
部屋の中から男たちの声が漏れてくる。焦りといら立ちがうかがえた。
「なぜ、よりによってこんな日に……。この雨じゃ、水晶もうまく働かない」
「それを狙っていたのだろう。とにかく一番良い水晶を持っていこう。剣師団も動いているようだ」
「彼らには後れを取りたくないですね。急ぎましょう」
「盗まれたものには金が多い。こちらの水晶は確か……」
「ええ、金属を探知することに特化しています。さあ、行きますよ。くれぐれも落とさないで!」
バタバタと足音を立て去っていく二人を、マーシャルは呆然として眺めていた。数秒後に、声をかけそびれたことに気が付いて悲嘆の声を上げる。
(せめてどこに行ったのか見ておけばよかった)
後悔は先に立たないものである。
―――それにしても、彼らは何故ああも慌てていたのか。
(『盗まれた』って言ってた。剣師団が動いてるとも。盗賊でも出たのかしら。それで王宮のお宝が盗まれた、と……)
そこまで考えてマーシャルは目を見開いた。事の重大さにようやく気が付いたのである。もっと状況を把握できないかと、先ほどまで魔法師たちがいた部屋に忍び込む。ドアは開いたままだった。
部屋のつくりはマーシャルの自室と変わらないが、その窓は真っ黒いカーテンで覆われ、光の一切が遮られていた。両側の壁には木製の棚が取り付けられ、そこにはずらりと水晶が並んでいる。大きさや形、色まで多種多様で、圧巻の域だった。
部屋の奥まで進んだマーシャルは、机の上に置かれた水晶に気が付く。丸くて透明なごく一般的なものだったが、水晶の中をちらちらと横切るものがあった。
(何?)
目を凝らして覗き込む。マーシャルは驚き、そこに見えるものに夢中になった。
水晶の中には、どこかの森の景色が映し出されていた。木々が生い茂り、時折鳥の影が映る。しかし、雨のためか映像は随分ぼやけていた。先の会話はこれについてだったのだと、マーシャルは理解する。
(それじゃあ、これは北の森の様子なのね)
瞬きもせずに見つめていると、水晶の端に、時折布切れのようなものが入り込むことが分かった。それを目で追っていると、一瞬だが人影が水晶に映し出される。
「あ」
マーシャルは思わず声を上げていた。ほんの一瞬だけのぼやけた映像だったが、マーシャルの優れた動体視力は確かに目にしていた。
映り込んだ人影は背中に袋を担ぎ、その両手にいくつも金の鎖を揺らしていた。その鎖の一つに引っ掛かり、ぶら下がっていたもの。
(な、なんであんなところにあるの?!)
マーシャルが必死に探していた赤鉄鋼が、どういうことか盗賊の手に渡っていたのだ。