ふたつの目
「何、これ……?」
警戒の色を含んだ声が、誰にともなくそう尋ねた。ユンスティッドは答えない。答えることが出来なかった。マーシャルと揃いの怪訝な目で、目前に突如現れた道を慎重に観察する。
丁度壁が壊れたところから、洞窟はゆるやかな傾斜を持ち、道は地下へと下っていた。傾斜……ユンスティッドはぴんときた。(マーシャルのペンダントが勢いよく転がったのは、徐々に洞窟が傾いていたからだったのか)マーシャルが魔法剣で壁や床をつついてみたが、この付近の罠はあれだけだったようだ。くん、と臭いをかぐと、これまでいた洞窟とはかすかに異なる暗闇のにおいが鼻の穴から侵入してくる。
前方の警戒はマーシャルに任せて、ユンスティッドは足元に落ちていた紙蝙蝠の残骸を拾い上げた。しわくちゃの黄ばんだ紙を丁寧に広げると、手のひらより一回り大きい四角い紙になった。
(やはりな)と心の中で呟く。ユンスティッドの予感は的中していた。羊皮紙には、うっすらと文字の書かれた跡が見える。緑っぽい文字の色からして、植物でつくったインクを使っているらしかった。かなり昔のものだ、王国ができるよりも以前の古代文字……判別できる文字数は限られていて、文の全貌は見えなかった。
(古代魔術……王国ができた際に、全面的に禁止されたはずだ。まさかこんな洞窟の奥に残っていたとは)
偶然の発見に、ある種の感動を覚える。王立図書館や学院にさえ、古代魔術に関する資料はほとんど置いていない。ひっそりと口伝された知識だったのだ。
「で、どうするの?進む?それとも戻って朝まで待つ?」
そう聞きながらも、マーシャルは見るからにうきうきとしていた。いつの間にか、ちゃっかりペンダントを取り戻していたようだ。赤い石が、元の澄ました顔で鎖骨の下の定位置にぶら下がっていた。ユンスティッドは、蝙蝠だった紙片を丁寧に折りたたんで、コートのポケットに突っ込んだ。
「お前は、どっちが良いと思う?」
「そりゃあ勿論、」マーシャルはにんまりとした。「進むべきよね、一晩の冒険ってね!」
「だが――――」
ユンスティッドの心の中では、好奇心と理性がせめぎ合っていた。若干優勢だった理性に従って、マーシャルの案を否定しようとしたが、パートナーはすでに地下へと向かって歩み出していた。数秒躊躇してからそれを追うユンスティッド。理性は「やめておけ」と囁きつづけているが、未知への誘惑を振り払うことはできなかった。マーシャルに意見を求めた時点でユンスティッドが迷っていることを、きっとマーシャルは見抜いていたに違いない。それが少しだけ面白くなかった。
マーシャルが前、ユンスティッドが後ろに注意を払いながら、二人は地下へと下る。奥へ進むほど影は濃くなり、ユンスティッドたちは光の明るさを何度か強めなければならなかった。十分ほど進んだ頃合いで、傾斜が更にきつくなり、道幅もぐっと狭まった。両側の壁や足元から、黒い岩が迫り出してきていたため、二人はじぐざぐに岩を避けていく。息が白さを取り戻しはじめていた。
狭い道を下り、少し上り、また下っていくうちに、ユンスティッドは、この道は人工的につくられたのかもしれないと考えるようになった。最初はただの岩の凹凸だと思っていたものが、階段の役割を果たしていると気づいたからだ。急な勾配のところには必ずと言っていいほど、二三段の小さな階段がつくられていた。
(誰かがここを通っていたんだ……もしかしたら現在も。かなり頻繁にくるのでなければ、階段なんてわざわざつくらない)
そう確信する。だが、階段はあまりにいびつで、ここ数十年にできたものとは思えない。もっと昔の時代に、原始的な方法で作られたのではないだろうか……
出し抜けに、マーシャルが「あっ」と叫んだ。
「どうした?」
「うん……最初は気のせいかと思ったんだけど、さっきからこっちに向かって風が吹いてくるのよ」
「風が?」
丁度よくユンスティッドも風を感じることができた。かすかに前髪が浮き上がり、そよそよと揺れる。
「風が吹いてくるってことは、地上につながっているのか。随分下って来たから心配だったが、進んで正解だったな」
気分も明るくそう言ったユンスティッドとは対照的に、マーシャルの顔つきは冴えなかった。それどころか、「ねえ、何だか臭わない?」と不思議なことを聞いてくる。
「そうか?何も感じなかったが。獣でもいるのか」
「それだったらもっと分かりそうなもんよ。そんなんじゃなくて、何ていうか、夏場の魚が腐ったみたいな……」
微妙なたとえにユンスティッドの疑問は深まった。マーシャル自身もいまいち納得のいかないたとえだったのか、しきりに首を傾げている。しまいには「何かこう、ウっ!てくるようなモワッとしたヤな感じの臭いよ!」と、わざわざ振り返ってまで身振り手振りで熱弁してきた。が、ますます想像がつかない。マーシャルと意思疎通の測れないことは往々にしてあったので、ユンスティッドはさらりと受け流した。(先へ進めば、俺にも分かるだろうし)
「とにかく警戒を怠らないようにしよう」
「なにかしら、今どこかで馬鹿にされた気がする」
「気のせいだ」
軽く背中を小突いてマーシャルを促し、再び前進をはじめた。寒さがすっかり元に戻ったころには、細かく波打った蛇のような小道は倍ほどの広さに広がっていた。足元は相変わらず岩が突き出て小石が飛び散っていたが、ユンスティッドとマーシャルが二人並んで歩いても突っかからない程度にはなった。その頃になると、マーシャルが大丈夫かと疑いたくなるほど大胆に歩を進めていくようになっていて、ユンスティッドの慎重さにもだんだんとガタがきはじめていた。そしてついに、ユンスティッドもマーシャルの言っていた臭いを嗅ぎ当てる。確かに魚の腐ったような、吐き気をもよおす臭いだ。それはもはや鼻を多少覆ったところでは、回避できない程に強烈になって二人の前方から漂ってきていた。後ろに逃げ場があったならば、即座に取って返したいほどだが、生憎ここは一本道だ。マーシャルもユンスティッドも、気休めに鼻をつまんで早足で坂道を下っていく。さっさとこの悪臭地獄から抜け出したいという一心で。
臭いに遅れて、また風がやって来た。同じく全身から気力を奪い触れるものすべてを不快な気分にさせる風だったが、臭いと合わさるとその効果は凄まじく、ユンスティッドはよっぽど自分たちの判断は間違っていたのではないかと考えたほどだった。言い出しっぺのマーシャルはその責任をヒシヒシと感じているのか、無言を貫きつつも更に足を速めた。
どれくらい下って来ただろうか。一際強く不気味な風が吹き付けた後、フッと息苦しさが薄らいだ。臭いが消えたわけではなかったが、深く呼吸できるようになる。マーシャルが先にその訳に気が付いて足を止める。ユンスティッドもすぐに気が付いた――――目の前にひらけた空間が広がっている。マーシャルは野生の獣のように警戒網を張り巡らせて、その場にじっとしていた。ユンスティッドは魔法の風を巡らせてみる。虫の羽が振動するような微かな音が聞こえたほかは、大きな障害物にぶつかることもなく風は消滅した。
「何かいるのか?」
一向に警戒を解かないパートナーに不審を覚えて、そう尋ねる。
「なさそうなら、とっととこんな場所から脱出するぞ。気分が悪くなってきた」
「……そうね」
マーシャルは躊躇いがちに頷くと、片手をかざして手のひらの上の光を徐々に大きくしていった。ぼんやりとした白い灯りが、目の前の新たな空間を照らし出す。巨大な黒い岩の内部を丸くえぐり取ったような場所。そこに小石と砂以外のものが存在することに気が付いたのは、二人同時だった。直径五十メートルほどの地面の中央に、一回り小さな円を描く地底湖があった。こんなところに湖があったのかと、不思議な想いに捕らわれる。不用意に近寄ろうとしたところ、鼻の奥がツンと痛くなり目尻に涙が浮かぶ。臭いの大本はこの湖だったらしい。吐き気を抑えるユンスティッドとは反対に、果敢にもマーシャルは湖に近づいて行った。勇敢な彼女を内心で褒めながら、自らも灯りを大きくして湖の様子を観察する。事前に水があることに気付けなかったのは、臭いのせいだけではなく、湖のふちにへばりついた黒い藻のような何かや、底が見えない程に成長した水草のせいもあったようだ。黒い岩と全く同化してしまうくらいに、湖は汚く濁っていた。
マーシャルが引き返してくる。その表情は険しかった。
「ユンス、もうここに用はないわよね。さっさと帰りましょう、今から出れば朝までには町に着けるはずだわ」
「湖に何かあったか?」
「分からない」と、マーシャルにしては珍しく自信なさげな答えだった。「何もいない、と思うけど。どれだけ明りを照らしても湖の底が見えなかったし、水も腐りきって臭いがひどかったから、隅々まで確認できたか怪しいわ。そもそもあれが水なのかさえ……」
マーシャルの瞳には恐怖こそ浮かんでいなかったが、強い警戒の色が現れていた。ユンスティッドも自然と神経をとがらせ、用心深く辺りを見回した。
「とにかく嫌なところだわ、ここ。ボレーアスの町の刺々しい雰囲気も嫌だったけど、もっと違う感じね。さあ、行きましょう」
「ああ……」
強い力で腕を引かれる。よほどこの場所から離れたいらしい。ユンスティッド自身は、嫌な感じというものを理解しながらも、マーシャル程にはこの場所を忌み嫌ってはいなかった。マーシャルたちが通ってきたトンネルの反対側に、同じような大きさの道がつづいていた。今度は上り坂なので、おそらく地上に出られるだろう。去り際に、地底湖をじっと眺めていたユンスティッドは、何とはなしに視線を上に移動させた。何の変哲もない同じような黒岩の天井が広がっている。だが、よくよく目を凝らして、思わず声を上げそうになった。地底湖の丁度中央部分の真上を穿つように小さな穴が開いていたのだ。小さいといっても、大の男が両手を目いっぱいに広げたほどだった。どうやって穴を開けたのか分からないが、ひび割れることもなく、穴は地上まで貫通しているようだった。地上の空も厚い雲に覆われて暗かったため、天井と見分けがつかなかったのだ。
(これは、一体何のために開いた穴なんだ?明らかに人工的なものだ)疲労で動きがぎこちなくなっていたユンスティッドの頭が、たっぷりの油を指したように回転し始める。(いや、この穴が何のためにあるか、じゃない。この地底湖、この空間自体が何か特別な目的のために作られたものなのかもしれない)
ふらついていた視線をしっかりとさせ、上下左右を観察しようと試みる。だが、冬だからか植物の痕跡も生き物の出入りのあとも見当たらなかった。いい加減焦れたマーシャルに「行くわよ!」と強引に連行された時、ユンスティッドの心は疑問にとらわれながらもその手を振り払うことはしなかった。疲労困ぱいしていて、マーシャルに逆らうことが億劫になってしまったのだ。気になることは気になるが、しかし、今調べなかったからといってどうこうなる訳でもないだろう。どうせ王都に帰ったら暇なんだ、自分一人であとから調べに来たって良い。とりあえず町に帰ってベッドで眠りたい……
「ちょっと!こんなところで寝ないでよ!私に引っ張ってけって言うんじゃないわよね、まさか」
「それもありだな」
「ありだな、じゃないわよ!」
パートナーの大声を眠気覚まし代わりにして、ユンスティッドは永遠にも思える細長い坂道を、くたくたになりながら登って行った。朝日が昇る前に何とかかんとかボレーアスの町に帰り着いた二人は、驚く町長に頭を下げて、その後すぐさまベッドに潜り込んだ。室内の暖かな温度と毛皮を使った毛布にくるまれて、ユンスティッドとマーシャルは泥のように眠り込む。寝室から見える窓の外では、昨晩は止んでいた雪が再びちらつきはじめ、しんしんと降り積もっていき、二人の知らぬ間に北の町を埋めていった。白いベールに隠された町は、誰にも悟られないようにその表情を変えて行く。なだらかな変化をじっと観察していたのは、二つの濁った眼玉だけだった。
――――ゆらゆら、ゆらり。
黒い湖面が揺れている。
湖の淵の岩場にしゃがみ込んで、その様子をじっと見ていたマーシャルは、またこの夢かと思った。起きている時にはぼやけていた夢の輪郭が、夢の中では再びはっきりとしてくる。不思議なことだ。
ゆらゆら、ゆらり。
湖面を見つめているうちに、マーシャルはこの場所が、昨晩発見した地底湖であることに気が付いた。あの時は思い出せなかったが、今なら分かる。だが、地底湖を満たす水は現実と違って透き通っていて、一見黒く見えるのは夜の暗さのせいだった。
現実での出来事も、夢で見た出来事も、今なら手に取るように思い出せるのに、一つだけまだ分からないことがあった。この湖の色は、マーシャルのよく知っている色のはずだ。それなのに、どこで見たのかさっぱり思い出せない。
本当に、どこで見かけたのかしら。
以前夢の中で湖面を眺めていた時には、孤独感と恐怖にがんじがらめにされて動けなかった。そこで今回は、先んじて行動してしまうことにする――――どうせ待っていた所で、まだやって来ないのだから。
(……まだ?私、何言ってるんだろう。別に誰かを待っていたわけではないのに)
おかしな矛盾に苦笑しながら、マーシャルは立ち上がった。そのまま流れるような動きで、湖へと飛び込む。伸ばした両手の指先が水面に触れた瞬間、凍りつくような冷たさが電撃のように爪先まで走り抜けた。全身がしびれるかと思ったのは一瞬で、水中に浸かってしまうと、次にやって来たのは冬場の暖炉のような温かさだった。瞼を上げると視界ははっきりしていたし、息が苦しくなることもなかったが、別段疑りはしない。ここではこれが普通なのだ。
体がゆっくりと、底へ底へ沈んでいく。途中から揺らぐ水草が視界に入るようになった。胸元からするりと抜けだした金の鎖も泳いでいる。マーシャルも一緒に揺れながら、深い湖を進む。
もう随分と長いこと沈んでいた。湖底というより海底ほどの深度があったのではないだろうか。マーシャルは黒い岩でできた地面に爪先をつけ、ついには両足でしっかりと立った。足の裏が岩に吸い付くようで、不安定になることなく湖底を歩くことができる。
やがて目的のものを見つけた。ここまで来るのに目的などなかったはずだが、その小さな小箱を目にした瞬間、これを探していたのだと唐突に理解した。まぎれもない歓喜が、マーシャルの胸中を占めた。
私は、きっとこれがずっと欲しかったんだ。
自覚しなかったことが不思議なくらい、狂おしいほどの切望が胸を席巻する。迷わず小箱に手を伸ばし、いつの間にか手のひらに握っていた銀色の鍵で箱の蓋を開けた。まばゆい光が漏れ出し、反射的に目を閉じる。その寸前、小箱があった場所の奥に、さらに深く湖に潜れる場所があることに気が付いた。底なし、という言葉が頭に浮かび、僅かな不安が生まれた。その途端、マーシャルの足がその不安に応えるかのように地面から剥がれ、小箱を抱えたままマーシャルの体はどんどん浮かんでいく。遠ざかる湖底をじっと見つめながらマーシャルは思った。
(私は、いつかあそこに戻らなければならないんだろう)
それが恐ろしいことなのか否か――まだマーシャルには分からなかったので、瞼を下ろして、不思議な力がマーシャルをぐんぐんと湖面に向かって押し上げていくのに身を任せた。
息を吸って胸を膨らまし、喉が詰まって咳き込んだ勢いのままマーシャルは意識を取り戻した。真っ先に目に入ったのは味気ない灰色の天井で、ゴロリと横に転がると、白いシーツにしわが寄った。茶色い毛布を引き寄せて、しばらくぼうっとする。全身が気だるく、関節が痛んだ。
(鍛え方が足りなかった?この程度で筋肉痛とか……いや、でも結構歩いたわね。ユンスと一緒だったしそれほど気にしなかったけど、少なくとも一日で歩く距離にしては異常だったわ)
慣れた靴を履いてきてよかった。そうでなければ、豆がつぶれて今頃は痛みに呻いていたに違いない。
(何だか息苦しい夢を見ていた気がするけど……)
隣のベッドに目を向けて、あれ?と意外に思う。自分でさえこんな状態なのだから、あの軟弱パートナーはさぞかし、と思っていたのだ。ところが、思いもかけずベッドはもぬけの殻だった。毛布はぐちゃぐちゃのままだし、きっと抜け出したばかりなのだろう。でも、どこへ?
「ユンスー?」
存外しわがれた声が出て驚く。どれだけ寝てたの、私。肉体はともかく、喉にまで影響が出るのは久々だ。窓の外を覗いてみたが、空も地面も真っ白で時間間隔が余計に狂いそうだった。夜ではなさそうだけど……
ふくらはぎに走る痛みや、ひきつる腕を無視して何とか立ち上がり、壁につかまりながらよろよろと部屋を出る。向かいの扉の向こうから、ユンスティッドの声が聞こえてきた。マーシャルも室内に入ろうして、ユンスティッドが一人ではなく誰かと喋っていることに気が付く。あの気弱そうな町長だろう。もしかしたら王宮からの手紙に関しての話し合いかもしれない、マーシャルは少し悩んだ末部屋に入るのはやめておいた。
ユンスティッド達の話し合いが終わるまでの時間つぶしに、玄関から町長宅の外に出る。
「うわー、最初来た時より真っ白」
早速玄関の前で滑りそうになり、マーシャルはパートナーがここにいないことをありがたく思った。筋肉痛から無様な受け身になることは予測がつく。いつもは一つにまとめている髪を結ばずにマフラーと首の隙間に詰め込めば、突き刺すような寒さを心ばかり防ぐことに成功した。
玄関周りは雪かきがしてあったが、それ以外は踏み荒らされていない新雪が多かった。町の住民たちも、雪の降る日は外に出るのを控えるのだろう、姿がほとんど見えない。そこでマーシャルは、初日の刺々しい視線を気にすることなく周囲を散策して回った。腰のあたりまで雪が積もっているので、気軽な散歩とは言い難かったが、雪の積もった屋根や岩は普段とはまるで別物で、違う町に迷い込んでしまった気さえした。
ざくざくとモグラがトンネルを掘るように雪をかき分け進んでいると、後ろから「ねえアンタ」と呼びかけられた。
「私のこと?」首だけで振り向くマーシャル。
「そう、アンタのことだ」
話しかけてきたのは、紺色のフードを深くかぶった老婦人だった。毛皮にくるまっているにも関わらずやせ細っているのがよく分かる。声まで枯れ木のようだった。町長もそうだが、北の町の人々は気力というものに乏しい気がする。みな何処か退廃的な雰囲気を漂わせていた。
「アンタ、こないだ王都から来た人の片割れだろう」
「そうですけど……」
「あいつの……町長の仲間なのかい」
その質問にも驚いたが、それ以上に老婦人のキツイ目線にびっくりした。四角い顔の下の方に付いた唇をぎゅっと引き結び、まるでマーシャルが親の仇であるかのように睨んでくるので、ぶんぶんと大きく首を振って否定した。
「いいえ、ちっとも関係がありません、初対面です!私と……もう一人は王都の魔法師で、今回は町長さんの所蔵図書についてお話があってここを訪れたんです」
老婦人は僅かに肩の力を抜き、強張った表情を緩めた。だが、鋭く暗い瞳は相変わらず淀んでいた。
「じゃあ忠告しておこう。あいつには関わらない方が良い」
「あいつ?」
「マクベーンのことさ」
町長さんがどうしたって言うの?マーシャルが聞きかえそうとすると、老婦人が、しっ!と鋭く言って慎重に辺りを見回した。
「こんな辺鄙な町の噂なんて、王都の人は知らないだろうけど、とにかくマクベーンには関わらず、さっさともう一人と一緒にこの町を去りな」
「そんな……」
関わるなと言われても、今回の任務の内容上無理な話だ。もっと詳しく話を聞こうと思ったが、老婦人は「忠告はしたからね」と言ってあっという間に去って行ってしまった。さすが地元民、雪の中なのに進むスピードがマーシャルの倍だ。呆気にとられながらその背中を見送り、マーシャルは途方に暮れた。
(あの町長に何かあるの?随分と不穏なことを言ってたけど……ていうか忠告って。ユンスティッドにも言った方がいいのかしら)
考え考え町長宅への帰り道を戻る。帰りは行きに掘った道を使えばよかったので、かなり楽だった。町長のことは一応ユンスティッドにも伝えた方が良いだろう。しかし、あの気弱そうな町長に、あんな風に言われるような秘め事があるとは思えなかった。昨日、見知らぬ若者に襲われたせいかもしれないが、あの大冒険のあとに「大丈夫ですか」の一言を添えて温かい部屋とベッドを提供してくれた町長は神さまか何かに思えたものだ。
(きっと、あれよね。図書収集癖がこの町の人にはおかしく写ったとかそういうことだわ。私だって、ユンスの部屋に入る度に平積みの本の量にうんざりするし)
そう納得させて、マーシャルは町長の家の玄関からこっそり戻った。話し合いはすでに決着したのか、それとも結論が出ないまま終わったのか不明だったが、扉の向こうから声は聞こえてこなかった。与えられた寝室の扉を開けると、ベッドの上にユンスティッドが寝転がっていた。仰向けになって、黒革のノートを開いた状態で顔の上にのせていた。ははーん、話し合いが上手くいかなかったのだな、と予想する。
「何話してたの、町長さんと」
「ああ、マーシャルか。いや……話し合いにもならなかったな。マクベーンさんは以前送ったリストに間違いはないの一点張りだ、にっちもさっちもいかない」
「そう……町長さんは今は?」
「食事を作って下さるそうだ。俺もお前も昨晩から何も食べてないからな」
「そういえば、お腹空いたわね。やけに力が出ないと思ったら、そのせいか」
「食事のこと忘れるなんて、お前も相当疲れてるな……」
アンタもでしょ、と言いかけて、マーシャルはユンスティッドがだらりと寝そべっている理由に思い当たった。にやりと笑みを浮かべながら、自分のベッドを乗り越えて、壁際のユンスティッドのベッドにそうっと近づく。ユンスティッドは疲れ切っているせいか、視界がノートで塞がれているせいか気が付いた様子はなかった。
そーっとそーっと……
ユンスティッドのベッドに見事接近したマーシャルは、身を屈めるとユンスティッドのふくらはぎの辺りをえいっ!とわしづかみにした。ユンスティッドが驚きと衝撃と痛みの合わさった悲鳴を上げた。パートナーの少年がこんな悲鳴を上げる所を聞くのは初めてだった。自分からやっておいてなんだが、マーシャルも驚いて持ち上げていた足から手を離してしまった。その衝撃がまたユンスティッドを苦しめる。
「お前……マーシャル、覚えとけよ……!!」
「ご、ごめーん。そ、そこまで痛がるとは思わなくて……」
あはは、と笑って誤魔化そうとするが、ユンスティッドから飛んでくる殺気は否応がなく増すばかりだった。だからごめんって!
マーシャルはユンスティッドのベッドの隅の方に腰掛けて、パートナーからほとばしる殺気にどう対処しようか考えていた。しかし考えてみても埒が明かない。というか、面倒になってきた、何とかなるわ多分。ユンスティッドは未だに苦しんでいるようだが、その表情はマーシャルの座っている場所からは伺えなかった。いかんせん、彼の持参したノートが傘のように顔を覆ってしまっているのだ。ユンスティッドの方からは、マーシャルが見えているのかもしれないが……
(コイツが苦しんでる姿なんて滅多に拝めるもんじゃないわよね。これは是非とも見ておかなくちゃ)
怒られたら逃げればいいかと楽観的に考えて、ユンスティッドが動けないのをいいことに彼の体を跨ぐようにしてベッドの上を四つん這いで進み、その表情を真上から覗こうとする。しかし、ユンスティッドの方もマーシャルの思惑は見越していたのか、ノートを引っ張り上げて顔を完全に覆ってしまっていた。
「ちょっと、何で隠すのよ」
「誰が、お前ごときの、策略に、のるかよ」
一言一句を噛み締めるように言ったのは、マーシャルが余程恨めしいからなのか、痛みが引かないからなのか。
「いや本当、そんなに重症だとは思ってなかったのよ」
さすがに悪かったかな、と反省していると、いきなり片腕を掴まれた。ぐいっと引っ張られて、慌てて両腕を突っ張ると、今度は肩から流れ落ちていた長い髪を掴まれる。拍子にユンスティッドの顔からノートが頭頂部の方へずり落ち、鼻から口許が露わになった。
(……怒ってる、わよね)
目元は半分以上隠れていたが、怒気を孕んだ黒曜の瞳が睨み付けてくるのが透けて見えた。瞳の中の海が荒れ狂っているにちがいない。罪悪感を増長するように睨み付けられるなんて、針のむしろだ。視線を逸らしたマーシャルは、指先でシーツのしわを弄り、それを眺めることにした。
「おい」
「ご、ごめんって!悪かったわ!私とアンタの体力を一緒くたに考えたのがいけなかった、反省してます、ごめんなさい」
しばし沈黙。のち、真下で深いため息がベッドの上に零れ落ちた。呆れたとでも言いたげで、むかっ腹が立ったが、ここで何か言ってはまたユンスティッドを怒らせてしまう。
「もういいよ。お前に関してはいろいろ諦めてる」
「え、ウソ。諦めなくたって、もう少し頑張ればいいじゃない。ファイト!」
「これ以上何をどう頑張れって言うんだよ、すでに満身創痍だ……」とユンスティッド。
今度はマーシャルが沈黙せざるを得なかった。ユンスティッドは黒髪をうっとうしげにかきあげてノートを枕元に放りながら、もう片方の手ではマーシャルの髪を掴んだままでいる。故にマーシャルは、ユンスティッドの上から離れることも出来ない。
二人ともが黙り込むと、部屋の中は実に静かなものだった。就寝前によく部屋を暖めておいたので、その名残熱で、窓ガラスに張り付いた雪が瞬く間にみぞれと化し滑り落ちていく。窓枠の下部分には水と雪とその中間のものが混ざり合って、半透明に溜まっていた。しんしん、という雪が降り積もる音が、耳の奥に入り込んで、リリリと小さく鈴を鳴らすような音に変わった。向かい部屋で暖炉の火が伸び縮みし、そこでマクベーンが野菜を切っている、その隣のコンロの上では鍋の中のワインがぐつぐつと煮立っている、そんな情景がマーシャルの頭の中に泡のように浮かんでは消えた。
唐突に髪を掴んでいたユンスティッドの力が弱まり、これ幸いとばかりに、茶色い髪束が指の腹をかすめながら彼の手中からスルリと抜け出した。この状況の打開策が考え付かずに困り果てていたマーシャルはほっとした。それが油断を招いたというのか、ユンスティッドに再び腕をぐいと引っ張られた時、咄嗟に抵抗することができなかった。
「うわっ」
折り重なるようにしてパートナーの胸元に倒れ込み、勢いよく鼻をぶつける。「痛い」と小さく呻きながら前を見ると、まさしく目と鼻の先にユンスティッドの顔があった。
一瞬焦点が合わなくなって、二度三度瞬きを繰り返す。久しぶりに、マーシャルは己のパートナーの顔をとっくりと眺めた。滑らかな肌、尖った顎に薄めの唇、高い鼻、その横の頬骨、少し吊り上った目尻、スッと筆を引いた様なきりっとした眉、黒くて細い髪の毛……ああでも、やはり、この少年の一番印象的な部分は、肌色の瞼の下に埋まった丸い闇色の宝石だろう。
ユンスティッドの分厚い服の上に載っていた指先が、彼の肌の上に滑り落ち、マーシャルは目を大きく見開いた。すみれ色の瞳が、水晶のように輝く。
――――冷たい。
時折、思っていた。ユンスティッドは冷たい大理石みたいだと。鋭く尖った、溶けない氷のようだと。
腕の触れられた部分と指先から、ひんやりとした感触が広がって行く。静寂の中、ほとんど隔たりのないはずなのに、マーシャルの耳は彼の心臓の鼓動音を捉えない。ただ自分の胸だけが、一定のリズムで打っていた。
雪に閉ざされた町の家々、部屋は明りを取り込むのが不得手と見えて、白っぽい暗さが家の中にも覆いかぶさっている。そのせいでユンスティッドの瞳から光が失せて、彼が本当は何処を見つめているのか、マーシャルには判然としなかった。
(私は、ちゃんと、見ているけど)
――――別に、はじめての経験ではなかった。ユンスティッドは背中を向けていて、マーシャルの一方的な視線にやっと振り向く。そういうことがもう数えきれないほどあって、振り向いてくれないことも同じくらいに多くて。
後ろに流していた髪が首元からなだれ落ち、ユンスティッドの胸元に垂れた。視界が遮られ、慌ててかき上げたが、その時にはユンスティッドは既に視線を彼方へやってしまっていた。
「なによ……」
と、不服を唱える。
「いや、あの地底湖のこととお前を突き飛ばした奴のことが気になってな。後者はともかく、地底湖のことは何かの文献に載っていないかと記憶をたどってみたが、さっぱりだ」
「仕方ないんじゃない?だってこんな小さな町だし、資料なんてほとんどないはずよ。それに町の人が……」
「町の人?」
「うん……」
喋りながら、マーシャルは瞼が急激に重くなるのを感じた。外から帰ってきたばかりのため、部屋の暖かさが徐々に体の芯をほぐしていき、それが眠気を誘っているようだった。誘惑に負けて頭が下がっていき、ユンスティッドの胸元に落ち着いた。
「そこで寝るなよ」
「だって眠いのよ……」堪えきれず欠伸が漏れた。
「あのなあ」
ユンスティッドの声がだんだんと遠ざかっていく。同時に腕から圧迫感が失われた。ようやく手を離してくれたのだ。だけど、それが妙な気分に陥らせてくる。マーシャルはとろんとした意識の奥で、知らず知らずのうちにユンスティッドの襟元にしがみついていた。
そうして、とうとうマーシャルは眠り込んでしまった。下敷きにされたユンスティッドの方はというと、呆れながらも、そのまま放置することに決めたらしい。幼い子供がするようにしがみつかれている上、どうせ今の体の調子では、マーシャルを隣のベッドに移すことさえ苦痛を伴うのだ。マーシャルを乗せたまま寝返りを打つと息苦しさが幾分かマシになったが、心地よさげに眠っている少女を横にしているうち、ユンスティッドまでうとうととしてきた。眠気を冷まそうとして、町長が食事までは少し時間がかかると言っていたことを思いだす。それならば、と結局は睡魔に身を任せることにして、丸まっているマーシャルの背中に手を回した。マーシャルが頭を摺り寄せてくる。
「おやすみ」
二人は、町長が食事の時間だと呼びに来るまで、夢も見ない様な深い眠りについたのだった。




