最北の町へ
ゆらゆら、ゆらり。
黒い湖面が揺れている。
湖の淵の岩場からその様子をじっと見ていたマーシャルは、ふと思う――――どこかで見たことのある光景だ。
ゆらゆら、ゆらり。
湖面は絶えず揺れていて、それにともなって白銀の光たちが形を変える。透き通った湖の水が、つい数日前までは緑に濁っていたことをマーシャルは知っていた。だから水中には魚も虫も住んでいない。
透明なはずの水が、夜のせいでこんなにも黒く見えるのが不思議だった。でも、その黒は濁った黒ではない。深く、どこまでも潜っていけそうな……
どこで見たんだろうね。
そう問いかけようとして隣を振り向き、首を傾げた。そこにはもう一人の誰かが佇んでいると思っていたのだ。
だけれど、振り向いた先には誰もいなくて、マーシャルはようやく自分は一人きりでそこに佇んでいたことに気が付いた。とたん、恐ろしいほどの孤独感が押し寄せてくる。黒い水面から今にも化け物が這い出してきて、襲ってくるような錯覚に陥る。マーシャルの足はすくんでしまっていた。どうして?こんなことで怯むわたしではないのに。
一体、自分はこの光景をどこで目にしたのだろうか。
それさえ思い出せれば、この恐怖は消え去るのだと、本能的に知っていた。
思い出さなければいけない……思い出さなければ……
(目を覚まさなくちゃ)
――――そう思った瞬間、マーシャルはハッと飛び起きた。
(今のは、夢……?)
一瞬自分がどこにいるのかも分からなくなって、寝ぼけ眼で左を向いた。すると、慣れ親しんだ顔が、呆れた表情を浮かべてこちらを見ているではないか。ぱちぱちと瞬きを繰り返していると、
「ぐっすりお休みだったようで何より」
と、数年来のパートナー――ユンスティッドが皮肉っぽく言ってきた。
「どんな状況でも眠れるお前の図太さには感服するよ」
「アンタが神経質すぎるだけでしょう」
言い返したと同時に、ガタンッと大きな音がして、腰掛けていた長椅子が上下に揺れた。地面がぐらつく感覚に、「わっ」と声を上げて背もたれにしがみつく。ユンスティッドはこれを予測していたのか、大して動じずにいる。相変わらず憎たらしい奴!ぶつくさ言いながら、深く座り直して辺りを見回した。
箱のような狭い部屋は薄暗く、マーシャルとユンスティッドの他には誰もいない。二人が並んで腰かけている長椅子の向かい側にも、まったく同じ長椅子が向かい合うようにして取り付けてあった。部屋には二つ窓があったが、ユンスティッドの側の窓は真っ白に曇っていて何も見えない。仕方なしに自分の右側にとりつけてある窓ガラスを手でこすり、くもりを取り払う。窓本来の機能を取り戻した部分から外を覗き見て、マーシャルは思わず感嘆の声を上げた。
「わあ、きれい!」
外は一面の銀世界、空からはさらさらとした粉雪が降り注いでいた。風に流された雪が窓に張り付き、やがては水滴となって落ちていく。小鼻を冷たい窓に押し付けるようにして下を覗き込むと、後方に車輪の轍と蹄鉄の残した跡が見えた――――そう、マーシャルたちは馬車に乗っているのだ。
ひらひらと舞い落ちる雪は、白い花が降り積もるように、一枚また一枚とマーシャルの視界を埋めていく。ひとしきりその光景を楽しんで窓から顔を離すと、すっかり鼻先が冷えてしまっていた。ヒリヒリと痛む。窓ガラスの境目から僅かに吹き込んでくる風が、うなじを撫でていく。眠気はすっかり飛んでいき、全身が寒さに震えはじめた。隣のパートナーは茶色の毛布にすっぽりくるまっていたが、マーシャルは分厚いコートを一枚羽織っているだけだ。両手で体を抱きすくめながら、マーシャルはここ数日のことを思い返してみた。
エヴァンズ隊長に新しい任務を言い渡されたのは、四日前のことだった。
正午過ぎ、呼び出しに応じた二人が隊長室に行くと、マーシャルが常々素敵だと思っている晴れやかな笑みを浮かべた隊長が待っていた。そして、開口一番に彼はこう言った。
『おう、お前らのデュオに新しい任務だ』
『久しぶりですね』とユンスティッド。
確かにその通りだったので、マーシャルは頷いた。前回の任務は、一月前キルシュについて王立学院との会議に出向いたっきりだ。
エヴァンズは、やけににこやかに少年少女を――――とりわけマーシャルを見つめた。
『喜べシャリー、今回の任務地はボレーアスだ』
『ボレーアスって……』
記憶を引っ張り出す前に、ユンスティッドが説明しはじめる。
『王国最北の町だ。王都からだと四五日かかるはず……そうですよね、エヴァンズ隊長』
『ユンスの言う通りだぞ、分かったかシャリー?』
頷きつつもマーシャルは納得がいかなかった。どう考えても、二人して自分をバカにしている。喉の奥で唸っていると、ユンスティッドに睨まれた、理不尽!
『それで隊長、任務の内容は何でしょうか。もしかして視察では?』
『いんや』エヴァンズは首を横に振る。『今回の任務は取引だ』
『取引?』
マーシャルとユンスティッドがそろって首を傾げた。首を傾げる角度まで同じだったので、エヴァンズは噛み殺しきれなかった笑いを漏らした。
『実はな、ボレーアスの町長というのが、なかなかの古書収集家なんだ。それで数年前に、王がウチを通じて古書のリストを差し出すように命じたんだが……』
『音沙汰がないということですか』
『いんや』と、これにも首を振るエヴァンズ。『返事はあった、古書のリスト付きでな。しかし、話し合いの結果どうにもその申請には不自然な点がいくつもあってな。学院のお偉い先生によれば、「収集家と呼ぶにはあまりにお粗末な目録」らしい。それで一度直接会いに行こうってことになったんだ』
『取引というのは……』
『可能なら、何冊かの古書を王宮に引き取らせてもらいたい。お前らにはその交渉をしてきてほしいってわけだ』
エヴァンズは、どうだ嬉しいだろう、とでも言いたげな様子だったが、マーシャルは別段嬉しくもなんともなかった。
(交渉ねえ、要するに必要なのはユンスなんでしょう?私はおまけってことね)
がっくりと肩を落とすと、エヴァンズがびっくりした様子で青い目を丸くした。
『おいおい、もうちっと喜ばねえか』
『だって隊長、私の出る幕なさそうじゃないですか。むしろ一言でも喋ったらコイツに邪魔者扱いされそう!』
「コイツ」と黒髪の少年を指さして強調する。嫌味のつもりが、彼が当然と言わんばかりに頷いたので、マーシャルは、自分で自分の怒りの火に油を注ぐ結果となってしまった。
エヴァンズは背もたれ椅子から立ち上がると、マーシャルに近寄って頭を乱暴に撫でた。
『お前、冬は王都が寂しくなるから嫌だってぼやいてただろ?ボレーアスは良い町だぞ、景色は綺麗だし、何より酒が美味い!任務自体はとりあえず町長の収集古書が一目確認できればいいから、せっかくの長旅楽しんで来いよ』
『コイツと二人で、ですか?』
馬車での旅は楽しそうだし、行ったことのない街を訪れるのも素敵だと思う。だけれど、ユンスティッドと二人旅といわれるとちょっと憂鬱だった。ボレーアスという町が賑やかならいいけれど、一週間以上コイツとしか喋れなかったら神経が数本切れてしまうに違いない。実際のところ、自分の物覚えの悪さはそのせいなのではないかと、マーシャルは度々考えていた。いつの日か決定的な証拠を掴んで、馬鹿だ馬鹿だというけれど、お前のせいだと糾弾してやるつもりだ。
しかめっつらのマーシャルに気付いているだろうに、エヴァンズ隊長はちっとも取り合ってくれなかった。
『ユンスとの旅、楽しそうじゃないか!』
『ええ?そうですかあ?……まあ、割り切って観光と思えば、楽しめないこともないかもしれないですけど』
『よし!それでこそシャリーだ』
よく分からない納得をされてしまった。
マーシャルが力強く背中を叩かれている傍ら、先程から成り行きを静観していたユンスティッドがじっと視線を注いできた。
マーシャルは上目遣いで見返す。『なによ』
ユンスティッドはしみじみと言った。『お前は楽しめても、俺は疲労が蓄積されるだけの旅になりそうだ、と悲観しているところだ』
すっと目を細めて半眼になるマーシャル。
よっぽど、その背中に回し蹴りをきめてやろうかと思った!
(それにしても、まさかこんなに寒いなんて!王都よりもずっと寒いじゃない)
事の発端を思い返しているうちに、ユンスティッドが行きがけに「防寒具をもっと増やした方がいい」と言っていたことまで思い出した。「暑がりだから平気よ!」と相手にしなかったが、こんなことならば多少荷物になっても毛布を持ってこればよかった。長袖の下着を二枚着込み、その上から毛皮の服と分厚いコートを着ているはずなのに、芯から凍えるようだ。北の寒さは容赦がない、防寒具たちをやすやすと突破してマーシャルを苦しめてくる。
「さ、さむい!もう限界!」
悲鳴を上げて、マーシャルは座ったまま左隣へと詰め寄った。毛布にぬくぬくとくるまって目をつむっていたユンスティッドは、咄嗟のことに反応できず目をしばたたいている。その隙を狙って、えいやっ!とばかりに毛布の中にもぐり込んだ。思った通り、いやそれ以上に、人肌にあたたまった毛布の中の心地よさは格別だ。マーシャルは「はあー」と気の抜けた声を出した。
「でもちょっと狭いわね」と言うと、ジロリと睨まれる。
「文句を言える立場かよ。勝手に潜り込んどいて」
「なに、私が凍え死んでもいいって言うの?大体、自分だけあったまろうなんて、非人間のすることよ!悪魔よ悪魔!」
「分かったから、ちょっと黙れ」
そう言うと、ユンスティッドは再び瞼を下ろした。間もなくして、気持ちよさそうな寝息の音が聞こえてくるようになる。マーシャルは不満げな顔をした。何よ、自分だって馬車の中でも寝れるんじゃない。
腹いせに起こしてやろうかと思った。しかし、毛布のぬくもりが強張った体をほぐすにつれて、マーシャルの頭も段々と霞がかってくる。
(なんだか私も、また眠くなってきたかも……)
瞼が重くなり、うとうととまどろみはじめた。頭を支えきれず、ユンスティッドの肩に寄り掛かる。元々薄暗い部屋が、さらなる暗闇に包まれて、次第にぼやけていった。毛布がずり落ちないように引き上げて、二人分の体をすっぽりと覆うようにかけ直したのを最後に、マーシャルの意識は遠のいていく……
健やかに寝息をたてる二人を乗せて、馬車はガタゴトと進みつづけた。目指すは最北の町、ボレーアスだ。
その町は、山腹の切り立った崖の上に佇んでいる。後ろには隣国との国境にもなっている北方山脈を控えながら、王国最大の森の終着点でもある。
王宮から北東に広がる森は、上空から見ると砂時計のような形をしており、王宮に近い側をオークの森、ボレーアスに近い側をモミの森と呼んでいる。間のくびれた部分を東から西へ通り抜けると、王立学院のある街に突き当たる。ボレーアスは、その巨大な森が山脈とぶつかって途絶える場所に位置しているのだ。
マーシャルが二度目に目を覚ました時、馬車はすでにモミの森の終わりに差し掛かっていた。ユンスティッドはまだぐっすりと眠り込んでいる。今は何時だろうか。窓の外を見たが、空には灰色の雪雲が垂れ込めていて、朝か昼かも判然としない。とにかく今が夜ではないことだけは確かだ。空気まで白く染まってしまったかのような景色を見て、マーシャルは大雑把な判断を下した。
わざわざ顔を出して御者に話しかける気分ではなく、マーシャルはぼうっと窓の外を眺める。馬車は森の東側を走っているので、マーシャル側の窓から森を見ることはかなわない。こちらにはいくつかの丘が広がっているはずだが、何もかもが真っ白で、景色が流れているかどうかさえも怪しく思えるほどだった。
――――静かだ。
ユンスティッドしか会話の相手がいないため、彼が眠ってしまっている今、馬車内はしんと静まり返っていた。ひゅーひゅーという風の音や、車輪の回る音、馬が雪を踏みしめて、時折御者が鞭を鳴らす音が外から聞こえてくる。そういった雑音に耳をそば立てながら、旅の終わりが近づいているのを感じていた。それが分かったのは、北方山脈がすでに見上げなければならない程間近に迫っていたからだ。目的の町は山の途中にあるため、平坦だった道はいつの間にか緩やかな坂道に変わっている。窓の外を眺めていると、やがて終点の目印を発見した。
馬車が走る道の前方に、背の高い六本のモミの木が生えていて、横一列に並んでいた。その右隣にこじんまりとした木の門が立っている。雪の重みで左に傾いでいたが、門の上の木板に、はげたペンキでこう記してあった。
【 最北の町 ボレーアス ↓ 】
「ちょっとユンス、着いたわよ。いつまで寝てるつもり?」
肩をゆさぶったが、ユンスティッドは眉を顰めるだけで起きる気配がない。早起きの習慣がついている自分と違って、この少年はいまいち寝起きがよくない節がある。
「起きなさいよ!」
勢いよく毛布を引っぺがしてやると、襲い掛かった寒さに黒い瞳がぱっちり開いた。
「何で毛布とるんだよ……寒いだろう」
「アンタが起きないからでしょ!もう着くわよ」
ほら!と窓の外を人差し指で指すと、ユンスティッドは自分の方の窓のくもりをふき取って、そこから外の様子を確認した。これで彼にもマーシャルの行いが正しかったことが分かるだろう。
「本当だな……予定通りなら、今は昼過ぎか。すっかり寝てしまってた……起こしてもらって悪かったな」
「分かればよろしい」
偉ぶった態度で腕を組むマーシャルを無視して、ユンスティッドは再び外の景色を目で追いはじめる。門番のようにこちらを見下ろす六本のモミの木が十分に近づいたところで、速度を落とした馬車は道から外れて門の脇に停められた。
御者がやってきて、むっつりとした顔で到着を告げた。
「着いたよ。降りな、あんちゃんたち」
口より下が黒ひげで覆われている御者の顔を見て、マーシャルは忍び笑う。すると目敏く気付いて睨まれたため、慌てて馬車から外に飛び出した。
旅の間、毎晩宿はとっていたが、それ以外は馬車内でずっと揺られていたため、止まった地面の感覚に束の間違和感を覚えた。雪は腰のあたりまで積もっていて、ためしに足を突っ込んでみると、膝の少し上あたりまで埋まってしまう。それより下は凍りついて固くなっていた。
あとから馬車を下りてきたユンスティッドが、御者にチップを払う。往復の運賃は前払いしていたため、帰りもこの場所に迎えに来てもらえるように頼む。予定では三日後の夕方には帰路につけるはずだ。
二人は今来た道を戻っていく馬車を見送った。黒い馬と、黒ひげの御者……マーシャルたちの旅のお供だった黒い馬車は、やがて一つの点になった。
そこでユンスティッドが鞄を肩に掛け直して、門の方を振り向いた。
「それじゃあ行くか」と言って、さっさと歩きだす。
マーシャルもそれについて、斜めに傾いた木の門をくぐった。
門をくぐり抜けてさらに一時間ほど山道をのぼりつづける。岩山に沿って張り出した坂道は傾斜がきつく、しかも下が凍りついているせいで歩みはどうしても遅くなってしまう。他人と荷馬車が通るための整備はしてあるようだったが、冬の大自然の前では月夜のランタン。氷と雪の滑り台を逆から上っている気分だ。
やっとのことで二人が街の玄関に到着した時には、日が暮れようとしていた。
(ここがボレーアス……!)
はじめての町に、マーシャルの好奇心が顔を出した。
「町の見学は後回しだからな」マーシャルがきょろきょろとしはじめたのに気が付いて、ユンスティッドは言った。「とりあえず町長の家に行くぞ。古書云々はともかくとして、泊めてもらえるよう頼んであるから」
ユンスティッドは先頭に立って、町の中央を通る道に踏み出した。
ボレーアスの町の中は、どことなく王宮内を思わせる雰囲気だった。漆喰の壁とオレンジの屋根が延々とつづく王都とは違って、王宮と同じ灰色の家が多かったのだ。雪の重みに耐えるためだろう、ほとんどが四角い石を積み上げてできている。
歩いていくうちに、どうやら町の人に歓迎されていないらしいということが分かってきた。王都で感じる陽気な雰囲気はなく、じっとりとした陰鬱で湿っぽい空気が流れている。気配に敏いマーシャルは、家の中や物陰から視線を感じて眉をひそめた。
「なんだか嫌な雰囲気」
「こんな時期に来客なんて滅多にないからだろう。それに北部は元来閉鎖的で警戒心が強いんだ。お前も下手な注目を浴びないようにしろよ」とユンスティッド。
「はいはい、分かってますよーだ」
釘を刺されそうになったら、軽く受け流すに限る。もちろん、その後に必ずついてくる小さな溜息だって。
町長の家は、街の一番奥――――つまりは登山道の続きが現れる場所の手前に佇んでいた。ひっそり、という言葉が似合いな家屋で、見た目は他の家と変わりない。ただ、隣接している薪小屋はほかのものよりも一回り大きく、家と同じ色の煙突からはもくもくと煙が吐き出されている。白く立ち上る煙は、小さな家の居所を懸命に主張しているようだ。
二人は茶色い一枚扉の前に立ち、代表してユンスティッドがベルを鳴らした。最初は返事がなく留守かと思ったが、しばらくして「はい」という弱々しい声とともに扉がひらいた。
「ようこそおいで下さいました」と、弱々しい声の持ち主が言った。
白髪交じりの灰色の髪をした痩せこけた男が二人を迎え入れる。こけた頬に精一杯の笑みを刻んでいるつもりらしいが、ひきつった顔にしか見えなかったので、その試みは失敗していると言えるだろう。細くとがった顎には、ぶつぶつと無精ひげが生えていた。
(この人が町長さんかしら)
するとマーシャルの問いに答えるように、男が挨拶した。
「私がボレーアスの町長、ウィル=マクベーンでございます。この度は遠いところからお越しいただいて……外はお寒いでしょう。居間をあたためてありますので、中にお入りください」
ありがたい言葉にお礼を述べて、二人は灰色の家に招かれることにした。
町長の言った通り、中は確かにあたたかかった。マーシャルたちのために火を焚いていてくれたのだろう。だけれど家があたたかいのは、どちらかといえば家自体が狭いせいに思えた。町長は居間と言っていたが台所とくっついていたし、通り過ぎた時に見えた扉の数はたった二つ。本当に町で一番偉い人なのか疑いたくなる質素さだ。
「今グリューワインを作りましょう。それともブランデーの方がいいでしょうかね」
「いえ、今は結構です。それよりも、来て早々に申し訳ないですが、お渡ししたいものがあります」
鍋を火にかけようとしていた町長が、ぴくりと肩を揺らした。彼はぎこちなく振り向くと、光の消えた目でこちらを見てくる。その瞳の中があまりにもうつろなので、マーシャルはぞっとして、知らず知らずのうちに腕をさすっていた。
「王宮からの手紙です。私からも説明した方がよろしいでしょうか」
町長は、ユンスティッドが鞄から取り出した封筒を受け取った。その両肩は力なく落ちている。彼はやはり弱々しく首を横に振った。ため息こそつかなかったが、彼がこの手紙を喜んでいないことは明らかだった。
「いいえ……この場で拝読しても?」
「私たちがいてはあなたも落ち着かないでしょう。荷物さえおかせていただければ、町の見学に出向きたいと思います」
町長は頷いて、マーシャルたちから荷物を預かった。寝室に置いておいてくれるらしい。「夜になるとさらに冷え込みますから、あまり遅くならないうちにお帰り下さい」という言葉に送り出され、二人は再び雪の町へと戻ることになった。
「あの場で読んでもらえばよかったじゃない」
あたたかいグリューワインも飲みたかったし、なにより暖炉の薪が恋しくてマーシャルは恨み言を口にした。今マーシャルが凍え死んだならば、それは確実にユンスティッドのせいだろう。
それに対して、「無神経なことを言うな」ときつくたしなめるユンスティッド。
「町長にとったら一大事だぞ。強制じゃないとはいえ、王宮からの命令を無視するなんて並大抵のことじゃない。目録を偽ったのは、きっとどうしても知られたくない貴重な本があるんだよ……」
もしかして種々の記録、いや大魔法師ログスエムの日記……まさかノーグの書か…?!
ぶつぶつと書物の名前を呟き始めるユンスティッド。その大半はマーシャルの聞いたことのないものだ。というか、先程からさっぱり共感できない。ふーんと気のない相槌を打つ。
「アンタが町長の立場だったらどうするのよ」
ためしに聞いてみると、真顔で返された。
「全財産もって国外逃亡を図る」
マーシャルは、珍獣でも見るような視線をパートナーに送りつけた。
「あっ……そう。悪いけど、私には分かんない世界だわ」
たかだか本じゃないか、と思ったが、言ったが最後、ユンスティッドの機嫌を損ねてしまうに違いない。以前本をぞんざいに扱ってぐちぐちと文句を言われた時のことを思いだす。何か言ってやりたい気分ではあったものの、下唇を噛んでその衝動を抑えこむ方が賢明だろう。
そう決めた途端、たちまちのうちにその話題からは興味が失せてしまった。そのため、マーシャルは町の探索に専念することにする。先程通ったばかりの中央道を途中で折れて、山を背にして細い道を進んで行く。路地裏は、表通りにましてじめっと湿っぽく、かび臭さが充満していた。おまけに酒の臭いが鼻をつく。大方の原因は、家と家の間に積まれた酒樽と、足元に転がった空き瓶だろう。
酒造の町はどこもこんなふうなんだろうか?潮のにおいが流れこむ王都で育ったマーシャルには、経験したことのないものだ。
そうだ、エヴァンズやキルシュにお土産を買って行ったら喜ぶだろうか、と思いつく。あまり手持ちのお金はないけれど、七番隊の分ぐらいならばなんとか買えるはずだ。
頭の中で所持金の計算をしていたマーシャルは、すっかり上の空で歩いていた。それでも酒樽や木箱につまずかなかったのは日頃かかさず行っている鍛錬のおかげに違いない。現に後方のユンスティッドは手間取っているようで、幾分か距離がひらいてしまっていた。一度か二度、空き瓶がぶつかってガチャンと音を鳴らしていた。
ごちゃごちゃと大小ならんだ家の間を、ヘビのように細い路地が這う。くねくねとした道をしばらく進んでいくと、不意に前方から強い突風が吹きつけてきた。思わず立ち止まって目をつむる。風がやんだのを見計らって瞼を上げたところで、眼前に広がる光景に息をのんだ。
「うわあ……すごい絶景!」
切り立った崖の上からは、巨大な樹氷の森がはるかかなたまで見渡せた。雪化粧をほどこしたモミの木がどこまでもつづき、その先は王都までつながっているはずだ。日の下ならば緑に見えるはずのモミの葉っぱたちは、凍り付き、雪をまとって青に近い色をしていた。
マーシャルは感動に瞳を輝かす。
滑らないように気を付けて、崖のふちまで近づいて行く。左方には、同じように崖っぷちに立って景色を眺めている若い男がいた。町の人だろうか?日が暮れたばかりだから、仕事帰りかもしれない。私たちと同じような感じかなと、とりとめのないことを考える。
視線を上にあげると地上にいる時より空がずっと近く見え、吐き出したそばから息が白く染まった。
「王都の景色と全然違う……静かできれいだわ」
恐ろしいほどに白く美しい森は、平地が続く王都の近くでは絶対に見られない。なにより、ガゼルトの港はやはり、夏場の太陽の下でこそ輝くのだ。冬は冬で楽しい祭りが待っているけれど、マーシャルは春夏のにぎやかさが好きだった。魚のにおいと陽気な歌があちこちから聞こえてくる季節が。だからこそ、世間から切り離されたようなこの町の景色が、どこか幻想的に思われる。
今は夜が近いから暗くてよく見えないけれど、明日の朝もう一度見にこよう。朝日に輝く雪はとても美しいはずだ……
この絶景は、一人で堪能するにはあまりある。身を軽く乗り出したまま、マーシャルは後ろにいるはずのユンスティッドを呼んだ。
「ねえ、早く来て!すっごくきれいなんだから」
おそらくまだ路地にいるのだろう、少し遠くから「今行く」と返事が返ってきた。左の方から走ってくる足音がしたので、マーシャルは、視線はそのままにしゃべりかける。
「エヴァンズ隊長の言ってたとおりよね、帰ったら隊のみんなに自慢しましょう……」
そこまで話して、マーシャルはぷつりと言葉をとだえさせた。唐突に、頭の中にある一つの疑問が浮かんできたのだ。黒い一点のシミのような、心を不安にさせる疑問だった。
(あれ、ちょっと待って。なんで、アイツが私の左側から走ってくるわけ?路地は真後ろのはずじゃない)
ぽつんとした一点のシミが、じわりと脳内に広がる。まるで毒が侵食するように。
嫌な予感がした。
人気のない場所だったし、寒さで感覚が鈍っていたから、てっきり近づいてくる気配はユンスティッドのものだと思い込んでいた。
しまった!!
「誰?!」
鋭く叫んで振り向いたときには、すでに危機は目の前まで迫りかかっていた。先ほどまで向こうにいたはずの若い男が猛然と突っ込んでくる。ちらりと確認すると、ユンスティッドは路地から抜け出したばかりだった。
(まともにぶつかるとまずい!)
咄嗟に崖のふちの方に避ける。すれ違う一瞬に、ニット帽の下の男のこけた頬と窪んだ眼孔がのぞいた。夜の暗させいなのか、真っ黒な穴の中には、そこにあるはずの眼球が見えなかった。男がまとう異様な空気と突き刺すような殺気に、マーシャルの全身が総毛立つ。
「コイツ……!」
本能の警告に従って、腰の革ベルトからすばやく短剣を引き抜く。苛立ちに舌打ちした。なにせ後ろは崖っぷちだ。下手を打てば山の麓に真っ逆さま、自分の体が地面に叩きつけられる様子など想像したくもない。だが、それよりなによりマーシャルを憤らせたのは、男が真っ向から向かってこなかったことだ。
(そりゃあ奇襲がいけないとは言わないし、不意打ちは効果的だと思うけど。それはお互いに戦う意思があることが前提だって!初対面のコイツに突き飛ばされるなんて御免被るわよ!)
目の前の男の全身に目を走らせ、武器を所持しているかを確認しようと試みる。それによってマーシャルの対応も変わってくるからだ。
しかし、その必要性はすぐに消え失せた。戦う気満々のマーシャルには見向きもせずに、若い男はくるりと背を向けて走り去ってしまったのだ。
予想外の行動に、マーシャルは「はあ?!」と素っ頓狂な声を上げる。追いかけようか迷ったが、男の目的がわからないことにはどうしようもない。結局短剣を元のように戻した。
……とりあえずの危険は乗り越えたようだ。だけれど、あの男は一体何がしたかったんだろうか。全然予想がつかない。
でも、とマーシャルは眉間にしわを寄せた。去り際にちらりとのぞいたニット帽の下で、男の口許が不吉な笑みで縁どられていた。嫌な予感は一向におさまる様子がなく、マーシャルの表情もこわばったままだ。
「大丈夫か?今のは何だったんだ」
今度こそ正真正銘己のパートナーが近づいてきた。いつもどおりの黒髪黒目を目にして、マーシャルの表情が少し緩んだ。よかった、今度は本物だ、と安心する。
『私にもわからない、でも気をつけた方がいいかもしれないわ』
そう答えようとしてひらかれたマーシャルの口から、しかし、言葉が発せられることはなかった。
――――気が付いたときには、足場ごと宙に放り出されていた。
最初の内、マーシャルには何が起こったのかさっぱり理解できなかった。言葉を発するための息が、喉に絡まって呼吸の邪魔をしてくる。息が苦しい。向かい合うユンスティッドが、彼らしくもない呆然とした表情をしているのが可笑しいと、そんな呑気なことさえ考えていた。
襲い掛かるふわりとした感覚、視界で土くれが飛び散った。そこでようやく事態を悟る。
(あのオトコ、崖が脆いことを知ってたんだ……!)
してやられた!と悔しさに歯噛みする。
必死に伸ばした手はむなしく空を切った。
視界から街並みとパートナーの姿が消えて、次にあつい雲に覆われた夜空が入ってくる――――そして最後に、マーシャルを投げ出した岩山の絶壁が。
歯を食いしばって、意地でも目はつむってやるまい、と固く決意する。
闇夜に包まれた森に向かって、体が一直線に落下していく。雲に覆われた空からの距離感は掴めなかったが、すさまじい速度で過ぎ去っていく岩壁を見れば自分が地上に近づいていることは分かった。びゅんびゅんと風を切って、なすすべもなく落ちていく。冷たい空気が針のようになってむき出しの肌に突き刺さった。
乾いて涙のにじむ菫色の瞳で、マーシャルは元居た場所を見上げた。
随分前に見えなくなった崖の上から、ユンスティッドが叫んでいる。
すべてが遠ざかっていく中で、冷たく無情な空気は、聞きなれた彼の声だけを耳に届けてくれた。
「マーシャル!!」




