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閑話―少年たちの学び舎①



 赤レンガ造りの円柱型の建物――――王立学院実験棟の四階の一室で、ロッソは植木鉢を前にじっと考え込んでいた。植木鉢で見事に咲いた赤いチューリップからは、小鳥のさえずりのような歌声が聞こえてくる。真っ赤な花弁を揺らしながら、チューリップはご機嫌に歌っているようだ。「歌って踊るチューリップ」の実験は成功、満足の行く出来だ。しかしながら、別の問題がロッソの頭を悩ませていた。

 何が彼を悩ませているというのか。それを説明するには、まずもう一人の少年について話をしなければならない。ユンスティッド=シルバートというロッソのクラスメイトについて。


 ユンスティッド=シルバートといえば、学院内でその名を知らぬ者がいないほどの有名人だった。

 それこそ彼が入学してくる前から、「天才」や「神童」という呼称がついてまわったほどだ。教師たちは皆彼をほめそやし、何かにつけては彼の名前をあげて大げさな程に称賛した。生徒たちの態度にも大差はない。言うにつけては、「学院史上一二を争う天才だ」「私たちには及びもつかないほどの実力を有している」などなど……言葉の表面だけを見れば、教師も生徒も同じようなものだったけれど、決定的に違ったのは、彼らの表情だった。にやけた笑顔でおべっかを使う教師たちとは違って、生徒の中には 侮蔑の色を浮かべたり、皮肉っぽい口調で話したりするものもいた。

 それもそのはず。ユンスティッド=シルバートは、王立学院理事長の一人息子だ。

 シルバート公爵家といえば、王国でも屈指の名門貴族。優秀な魔術師を何人も輩出し、その血筋を遡ると王族に辿り着く。

 羨望、やっかみ、期待、嫉妬。学院中が彼に注ぐ視線は様々だった。

 ところが、当のロッソ少年の視線はどれにも当てはまらなかった。いや、ユンスティッドという存在に視線を注ぐことさえしなかった。ロッソ少年の態度にただ一つぴたりと当てはまる言葉があるとすれば、それは「無関心」、その言葉だけだっただろう。



「しかし、どうしたものか」


 茎と葉をくねらせているチューリップを目前に、ロッソは呟いた。すぐに独り言をいうのはロッソの癖だ。植木鉢を伝って視線を床にやる。ささくれ立った木板の床が足元に広がっており、木目のほかに黒っぽい染みが点在していた。この部屋は、魔法生物学科の専門実験室の一つだ。今日は教授も先輩たちも出払っていて、下級生のロッソしかいない。北向きの角部屋である上に、陳列棚には乾燥した植物やたくさんのケージが所狭しと積んである。ケージの中では誰かが実験に使った生物が、がさごそ動き回っていた。

 いかにも陰気くさい室内だが、ロッソには慣れ親しんだものだ。それよりも今は、目下の問題を片づけなければならない。





 一人の少年が話しかけてきたのは、数時間前のことだった。

 今朝方、ロッソは毎朝の習慣で、魔法生物学科の花壇で花の水やりをしていた。魔法薬学科との共用花壇は、白い小さな柵を十字に並べて四つに仕切られている。そのうち、右半分がロッソたちのものだった。

 春も終わりに差し掛かった頃なので、花壇の植物は蕾を開いているものが多い。薬学科と比べて、生物科の育てている植物は色鮮やかなものが多かった。ロッソが丁度水をやっている植物などは、「ムール草」といって、花びらのような五枚の葉っぱが美しい金色をしている。ムール草は株によって色が様々なため、掛け合わせることで無限に色をつくれるのだ。


「次は、三色を組み合わせて、花弁一枚一枚が異なる色になるようにしてみるか。それとも、花弁一枚に三色をおさめるか……」


 ぶつぶつと、お得意の独り言がはじまった。ムール草は学科の先輩と共に研究している植物なので、あとで相談をもちかけてみよう。

 ムール草の次は、食用スミレ、ケイレン花と、ジョウロを傾けながら花壇を半周する。真ん中の方の花に腕を伸ばして水をやり終わったところで、ジョウロが空っぽになった。水やりが予定通りにきちんと終わったことに少年は満足した。

 校舎まで歩いてジョウロを元通りに置いてくると、ロッソは再び花壇にやって来た。花壇は中央棟の真裏に位置している。花壇を囲む固いレンガに軽く腰掛けて、肩に掛けていた鞄からノートと鉛筆をとりだした。ムール草のひとつに目標を定めると、ノートの上でさらさらと手を動かしていく。五分もかからずに、手慣れた様子でムール草のスケッチを完成させた。

 ノートを閉じかけたところで、ふっと黄ばんだ表紙に黒い影が落ちた。怪訝に思って顔を上げると、いつの間にか左の傍らに人が立っていた。大きな瞳がじっとロッソを見つめている。整った目鼻立ちをした、黒髪黒目の少年だ。どこかで見たことある顔だとロッソ少年は感じた。クラスメイトだろうか?


「こんにちは」黒髪の少年は礼儀正しく言った。


 さっさと教室に戻りたかったロッソは、それを無視してノートと鉛筆を鞄に仕舞い込んだ。立ち上がって尻に着いた土を払うと、その場を立ち去ろうとする。


「ねえ、ヴィノーチェ君に話があるんだけど」


 肩を掴まれたロッソは、仕方なしに振り向いた。


「何の用?」

「ヴィノーチェ君って……」

「ロッソでいい」

「そう。ロッソは、魔法生物科なんだよね」

「そうだ」早く立ち去りたくて、ロッソはイラつきを露わにしていた。ロッソの眉間にしわが寄っていることに気が付いているだろうに、黒髪の少年はちっとも焦ったりはせず、むしろますます引き留めようという意思を強くしたようだった。

「実は僕、まだ学科を決めていなくってね」


 ロッソはだんまりになった。

 学院には全部で七つの学科がある。一二年のうちは所属学科を決めずに基礎科目を学び、三年生から四年生の一年間のうちに七学科の中から一つを選択することになっている。ロッソは入学した当初から生物学科に来ると決めていた。そのため三年生に進級してすぐに学科申請をしたのだが、そういう生徒はまれで、大抵は秋ごろになるまで学科を吟味することが多い。この黒髪の少年も、その一人なのだろう。だけれど、それとロッソと一体何の関係があるというのだ。

 鼻白んでいる間も、目の前の少年は勝手にべらべらと喋りはじめる。


「他の六つの学科は既に見学に行ったんだけど、どれもピンと来なくて。あとは魔法生物科だけなんだ。ロッソ、案内してくれないかな?」

「なぜボクが」


 なんだか雲行きが怪しくなってきた、とロッソ少年は感知した。面倒なことになる前に、実験棟に逃げ込んでしまおう。

 肩に置かれた手をぞんざいに払い、黒髪の少年に背を向けると、早足で花壇を離れようとした。前方の角を曲がって、中央棟の東に出る。地面は小石や砂利で埋まっていて、踏みしめるたびに石がぶつかる音が鳴った。そして、ロッソの背後からも同じような音が聞こえてくる。


「ロッソは学科の先輩に聞いてない?学科見学を申し出たものがいたら、案内するようにって」

「そんなことは……」ロッソはピタリと足を止めて考え込んだ。そういえば、春のおわりに先輩たちが何か言っていたような気がする。「お前のクラスメイトに魔法生物科に興味がありそうなやつがいたら、しっかり勧誘して来いよ」そのあとにこう付け加えてもいた。「人数が増えれば、その分実験費の割り振りに有利になるんだ。壊れた実験器具とか買い換えたいし、お前だって学校から金貰えるってならありがたいだろ」と。

(今日の実験をはやくはじめたい……だが、先々のことを考えれば、ここでこの男を勧誘して実験費を増やす方が得かもしれない。ただでさえ学費がぎりぎりなんだ)


 ぶつぶつと呟いたあと、ロッソは決心してくるりと後ろを振り向いた。先程曲がってきた角の手前で、黒髪の少年が軽く笑みを浮かべてこちらを見ている。まるでこうなることが分かっていたかのように、ちらつく傲慢さが少し鼻についた。


「分かった、案内しよう。だが、今は無理だ。授業が終わった後でいいな?」

「それでかまわないよ」


 黒髪の少年はロッソに向かって歩いてくると、すれ違い際にロッソの丸眼鏡を見て首を傾げた。


「その眼鏡、つるが曲がってるけど、買い替えないのか?」

「そんな金はない」


 黒髪の少年は、目を瞬かせた。


「お金なら貸してやろうか。返さなくても良いから」

「ボクはこれが気に入っているんだ」


 見栄でもなんでもなく、本心からロッソはそう答えた。金縁の丸眼鏡とは、もう三年もの付き合いになる。使い物にならなくなるまで、買い換えるつもりはなかった。

 それが伝わったのだろう、黒髪の少年は「そうか」とあっさり引き下がった。



 午前中の授業時間は、滞りなく過ぎて行った。三年生にまでなると、基礎を学ぶ科目はほとんどなくなっているため、午後からは自習に近い。中央棟に隣接している図書館に向かう生徒もちらほらいたが、ロッソは実験棟に行くことがもっぱらだった。

 生徒たちが授業を受ける中央棟が面白みのない真四角なのに比べて、実験棟は特徴的な形をしている。そもそも実験棟と一口にいえど、その数は全部で三棟ある。それぞれ東、北西、南西に位置しており、ロッソたち魔法生物科の実験室があるのは北西の塔だった。東と北西の実験棟は、中央棟と図書館を挟むようにして位置している。そして、それら全ての建物は、空中の渡り廊下によって行き来できるようになっていた。

 例によって、百メートル以上の距離がある渡り廊下を歩き、北西の実験棟に辿り着いたロッソ少年。そこからさらに、棟の外壁に張り付くようにしてある螺旋階段を一周して、四階の入り口をくぐる。その階すべてが魔法生物学科のものだが、円を描く廊下にはひとけがなく、虫の羽音さえ聞こえてこない様な静寂で満たされていた。教授たちは学会で出払っているうえ、ロッソの同級生で魔法生物学科に所属している生徒は一人もいないのだ……今のところ。ロッソは入学するまで知らなかったのだが、七つある学科にも人気という名の優劣があり、生物学科は最下位か、よくてもその一つ上という程度だった。ちなみに毎回ワーストワンを争っているのは、魔法予知学科――――別名、占い科、水晶科とも呼ばれている。

 一つの階層には、五つの扇状の部屋がある。南向きの一室、その窓際に置かれた植木鉢を床に下ろして、ロッソは朝のようにスケッチをはじめた。それから、机の上でビーカーを使って、薬草の煮汁に魔法石を砕いた粉末を少々入れて、炎で熱しながら掻き混ぜた。生物科の予算は毎年カツカツなので、炎は勿論呪文を唱えて出現させ、手のひらの上がランプ代わりとなる。ロッソが生物科に入って一番に教え込まれたのは、長時間安定した炎を出す方法だった。本当はきちんとした道具を使った方がいいらしいのだが、節約のためやむを得ず、ということらしい。

 壁際の戸棚に寄って、試験官立てから一本を取り出す。ビーカーの中身を三分の一程度移して、口を押えて数回回した。それを踊りながら歌っているチューリップの根元にかける。ダンスが激しさを増したのを見て、ロッソは満足げに鼻を鳴らした。

 壁にかかっている古びた時計を見ると、すでに午後の授業は終わっている時間だった。ふむ、と座り込んで思案する。


「しかし、どうしたものか……あの少年がもうすぐ来てしまうな」


 当初は関わり合いになりたくないと思っていたロッソだが、一度決めたことはひるがえさない性格だ。申し入れを受け入れた以上、魔法生物科についての案内役をしっかりと務めようと考えていた。


「先輩たちはどうしていた?……そもそも見学者などいただろうか……ボクの時は……いや、そういえばボクは見学などせずに進級したその日に申し込みをしたのだったな」


 植木鉢を元の窓際に戻してから、三角形に並べた三つの机の間をぐるぐると歩き回った。ところどころで木の床がぎしりと鳴ったが、ロッソの思考が中断されることはなかった。

 そうこうしているうちに時間は随分と過ぎて、とうとう廊下から部屋の扉をノックする音が聞こえてきた。結局いい案が浮かばなかったことに落胆しつつ、ロッソは扉を内側に開ける。油の足りない蝶番が嫌な音を立て、黒髪の少年がにこやかな笑みを張り付けて部屋に踏み入ってきた。


「こんにちは」と黒髪の少年。

「こんにちは、ようこそ」とロッソは返した。


 黒髪の少年はロッソを見ると、「ここははじめて来るから、来るのに時間がかかってしまった」と言った。


「そうか、迎えに行けばよかったな」

「いや、教授に聞けばすぐに分かることだったからな。ただ、ロッソがどの部屋にいるのかパッと分からなくて」

「すまない、見学者の対応をするのははじめてなんだ」

「いいよ、気にしないで」


 にこりと微笑む黒髪の少年に、ロッソは感心した。朝の時には強引さばかりに目が行ったが、こうして接してみると、愛想のいい人物だ。ロッソの交友関係が乏しいせいかもしれないが、そんな風に感じていた。

 入り口のところで立ち話をしていた二人だが、ずっとそうしているのもいただけないと思い、ロッソは黒髪の少年を手前の机まで誘導する。端に積み上げてあった丸椅子を二つ引っ張ってきて、座るように促した。


「お茶は飲むか?」

「じゃあ、お願いするよ」


 いつものようにビーカーで沸かそうとして、ロッソははたと手を止めた。客人にそれはまずいと、わずかにある常識が忠告していた。ガラス戸をあけて戸棚の奥を探り、なんとかひび割れていないコップを発見して、今度こそお茶を入れる。茶色い液体の中、茶葉がコップの底へとゆらゆらと沈んでいく。

 黒髪の少年にコップを手渡して、自分も席に着く。身体を斜めに向けて、黒曜の瞳をレンズ越しに見つめた。


「それで、君は何を知りたい?」

「そうだね……」彼はしばらく逡巡した後、「ロッソは何を研究しているんだ?」と尋ねてきた。

「ボクか?ボクは、主に植物専門だな。自生しているのを研究したりもすれば、自分で交配することもある」

「それだけ聞くと、魔法薬学科とそこまで違わないように聞こえるね」

「違うさ、全然。薬学科は、育った植物から魔法薬をつくりだすが、生物科は植物を育てるまでを重視する。そうして作ったものは、奇抜なものが多くて、大抵は薬には使えない」


 立ち上がって窓際まで行くと、黒髪の少年を手招きした。彼が近づいてきたところで、植木鉢に植わったチューリップを指し示す。先程栄養液を与えたせいか、チューリップは二枚の葉を振り回して激しく身をくねらせており、その歌声は高らかだった。黒髪の少年が、驚きに目を見張る。


「ボクが育てたんだ。ほんの一例だけど」

「すごいな……何をやったんだ?」

「普通のチューリップの球根を、丸一日薬液につけて、土に植えてからも特製の栄養液を毎日与えた。魔法薬学の授業で、成長活性剤をつくったことがあっただろう?それを応用したんだ」

「へえ、ケイレン花と似てるね。葉や茎に神経が通ってるの?」

「そうさ。道管、師管の他にもう一本管が通っているって言えばいいのかな。ちゃんと感覚があって、葉を傷つけたりすれば痛がる。細胞同士を擦って、悲鳴らしいものも出るよ」


 そろそろとチューリップに伸ばされていた手が、慌てて引っ込む。


「マンドラゴラみたいな感じかな?」

「さすがにそこまではいかない。鳥の雛が悲鳴を上げるような感じだ。試してみるか?」

 黒髪の少年は首を横に振った。「遠慮しておく」


 そのあと二三の質問を受けて、ロッソたちは隣の部屋へと移動することにした。いろいろと悩んではいたが、結局のところ自分たちの研究結果を見せていくのが適当だろうと考えた末のことだ。カーブを描く廊下を次の扉まで歩いて行く。その間に、ロッソは隣を歩く少年を横目で観察した。先ほどのやり取りから判明したことであり、ロッソにとっては思いがけないことだったが、この傍らの少年は頭が良いらしい。「頭が良い」というどこか曖昧な表現はあまり好かなかったが、彼の知識量は豊富で、質問も的確だった。

 ロッソの中でむくりと体を持ち上げたものがいた。好奇心という名をしている。人間に興味関心を抱くことは、ロッソにとって実に久しぶりのことだった。


「君はまだ学科を決めていないと言ったな」

「うん、そうだよ。どれもピンと来なくて」

「君は頭が良さそうだ、大げさではなくそう思う。どこでだってやっていけるだろう」

「どこでだってやっていけるというのは、どこでやっても同じという意味にもとれる。残り三年を無為に過ごすなんて、それだけは嫌なんだ」


 残り三年、と聞いてロッソは片方の眉を上げた。


「研究生としては残らないのか」

「うん、そのつもり。だから……」黒髪の少年はそこで言葉を切った。軽く俯いた彼の瞳は長い前髪に隠されて、分厚いレンズを通しては分からなかった。


 ロッソが足を止めると、もう一人もそれに習う。隣部屋の扉は目の前だった。鍵を差し入れて回しながら、ロッソは淡々と聞こえる口調で言った。


「この生物科で、君の興味を引けるものがあるといいんだがな。今のところ、ピンと来てはいないのだろう?」


 黒髪の少年はうっすらと微笑んだ。笑顔の多い少年だと思う。愛想がいいのとはまた違う気もしていた。こうやって常に微笑まれていると、相手が何を考えているのかさっぱり見えてこないということを、ロッソははじめて知った。元来他人の心の機微に疎いロッソからすれば、あまり関係のないことではあったが。

 扉を押しあけてロッソが先に入室すると、つづいて黒髪の少年が入ってきた。途端にむせ返るような熱気が漂ってきて、黒髪の少年は思わず足を止めた。その体を強引に前に引っ張って、ロッソは扉を閉める。「少し熱いが、我慢してくれ」スタスタと右横の壁にそって歩いていく。真ん中あたりの壁の上部に錆びた釘が打ちこんであり、そこには大きな湿度計と温度計がかかっていた。湿度と温度を示す針が一定の値を越えていることを確認して、ようやく呆然としているクラスメイトを振り返る。


「何だ、この部屋」

「こういう場所は他の実験棟にはなかったか?」

「薬学科の温室が近いといえばそうかもしれないが……」


 絶句して黒髪の少年は部屋中を見回した。彼の視線を追うように、ロッソ少年も天井を見上げる。

――――その部屋は、まさしくジャングルだった。

 遠い南諸島にあるという熱帯雨林――――話に聞いたことがあるだけだが、この部屋を見るとそうとしか言い表せない。

 うっそうと茂る木々、視界を覆う葉の大きさや形は様々で、少年たちの顔の優に三倍はあるものもあった。足元には色とりどりの花々、木の床はコケや枯葉で埋め尽くされていた。踏みしめると、森の中を歩いているような感覚に陥る。

 その中でもとりわけ目を引くのは、部屋の隅に根付いている巨木だった。まるで部屋の形に合わせるかのように、太い曲がった幹が壁から天井を這い、真向いにある入り口側まで到達していた。こぶだらけの幹からは、節くれだった老爺の指のような枝がおりてきて、すだれのように数メートルにわたって垂れ下がっている。


「最初に言っておくが、火気厳禁だ。呪文も利かないようにしてある。魔法を行使した時点で三日の間は上唇と下唇が張り付いて剥がれなくなるから気を付けろ」

「ああ……」


 ロッソは身を屈めて前を進み始めた。黒髪の少年が僅かに躊躇った後について行く。右へ左へ、迷路をつくりだすように生えている木々の間を何回も通り抜けた。

 そのうち、黒髪の少年は奇妙な現象が起こっていることに気が付いた。

 手を伸ばせば届きそうだった枝葉の位置が、どんどん高くなっているような気がしたのだ。部屋の隅にあったはずの巨木も、一向に近づく様子がなく、むしろかなり遠くまで離れて行っている。


「空間を広げているんだね」


 ロッソは頷いたが、濃い緑が茂る中では合図しても気付きにくいかと思い、声に出して言い直した。


「ああ。もう大分昔のことらしいが、魔法書学科に協力してもらってな」

「そういえば、あそこの研究室もやけに広くしてあったな」

「たしか薬学科の温室も、書科の協力を得ているはず……あそこは天気の操作だな。日光量の調節しているらしい」

「そうか、自慢げに内密事項だと言っていたけど、そんなことだろうとは思っていたよ。温室を覆っていたガラスに書き込んであるってところかな」

「おそらく」


 しばらく歩くと、額を玉のような汗が伝うようになった。二人とも着込んでいた上着を脱いで腕にかけ、黙々と足を進めている。喋ればそれだけ体力を消耗することは分かっていた。

 長い道のりと、どんどん広がっているとしか思えない空間に、黒髪の少年がうんざりしかけた頃、先を行くロッソがぴたりと立ち止まった。

 所狭しと植物が密集しているジャングルの中で、ぽっかりと空いた空間が二人の前に突如現れた。あきらかに意図的に作り出されたもので、腰掛けるための切り株が用意されている。座ると身体が沈み込み、ひんやりとした空気が尻から伝わってきた。


「歴代の先輩たちの苦肉の策だ。暑さにまいってしまった時の対策の一つで、もう少し先まで行くと蛇口つきのベッドがある」

「やけに用意周到だね」

「たまにいるらしい、方向音痴で迷子になる人間が」

「……ここで迷うのは確かに命取りかもしれない」


 黒髪の少年がそう呟いた途端、近くの枝がバサバサと上下に揺れた。「ギャア、ギャア」と奇妙な鳴き声が聞こえてきて、極彩色の物体が空へと羽ばたいていった。黒髪の少年がびくりと肩をすくめる。その口はぽかんと丸く開いていた。


「……動物も、いるんだな」

「ここは魔法生物科だからな。どちらかといえば動物専門の人の方が多いくらいだ。今から君に見せようと思っているのもそう。一応危険動物の区域には結界を張っているんだが、万が一遭遇したら全力で逃げろ」


 黒髪の少年は神妙な顔で首を縦に振った後、


「魔法生物科が不人気なわけが、よく分かったよ……」


 と、ぼそりと付け加えた。



 冷たい切り株の上で短い休憩をとった二人は、ロッソを先頭に縦に並んで、ジャングルの奥深くへと分け入っていった。この森に通い始めて数か月が経過しているロッソは平然とした顔つきでいるが、黒髪の少年はやはりどこか緊張しているようであり、茂みの中や枝葉に隠された向こう側で物音がする度に、彼の暗い色の瞳がすばやく動いていた。

 そんな後方の不安には微塵も気付いていないロッソ少年は、目的地を目指してずんずんと進んでいく。後ろのクラスメイトが付いてきているか、一度も確認しようとはしなかった。後ろを気にしてばかりいては、ロッソすら迷いそうになる巨大なジャングルだったので、仕方ないと言えばそうだった。

 ジャングルに生えている植物は実に様々だった。王国内でもよく見かけるオークの木やマツの木が生えていたかと思うと、見たこともないほど巨大な赤い花が現れたり、身の丈ほどある紫色の葉っぱが群生したりして、とにかく何もかもがとてつもなく大きいのだった。今もちょうど、二人の膝までの高さのある根っこを乗り越え、倒木のトンネルを潜り抜けたところだ。倒木トンネルの天井は、背伸びをして手を伸ばしても届かないほど高かった。

 枯葉とこけに埋もれた地面を踏みしめているうちに、黒髪の少年の息が再び上がりはじめた。ロッソの方は汗をかいているだけで、まだ体力には余裕がありそうだ。その差を感じ取ってか、黒髪の少年がはあはあ言いながら尋ねた。


「いったいどこに向かっているんだ?」

「ビルド教授の研究区域だ、あと少しで着く」

「ああ、教授の……」黒髪の少年は、その言葉に幾分か元気を取り戻した。「あまりお話したことはないけれど、魔法鳥の研究家の大家でいらっしゃるんだろう?」

「魔法鳥は見たことあるか」

「いいや」ちょっと考えて「どんな感じなのかな。魔法生物学は基礎講義でも実習がほとんどなかったから、図鑑でしか目にしたことがないんだ」

「魔法生物と接するには危険が多いからな、それも仕方がないことだろう。どんなものかはすぐに分かる、もう着くぞ」


 ロッソ少年の言った通り、ほどなくして目の前が開けた。巨木に取り囲まれていて、切り株があった空間に似ているが、ここに置いてあったのはどっしりとした作りの大きな机だった。机の向こうには、革張りの黒い椅子の背もたれ部分が見えていた。まわりをよく見ると、ただの木だと思っていたものは、その実、木の中身をくり抜いてつくられた棚だった。ガラス扉の付いたいくつかの木棚には、本や薬品がずらりと並んでいた。


「ここが教授の研究室なんだ」

「へえ!こんなところにあるのか」


 黒髪の少年は意外だという顔をして、研究室を見学しはじめた。ガラス越しに、棚の中身をじろじろと見て回る。彼がそうしている間に、ロッソ少年は机の一番近くにある木棚へ寄っていく。首にかけていた紐を胸元から引っ張り出すと、鍵の束がじゃらりと鳴った。そのうちの一本を使って、ガラス扉の鍵を開ける。音もなく扉は開いた。中には、いろいろな形と大きさをした鳥笛が治められていた。


「来て、いいものを見せるから」


 黒髪の少年が隣にやって来ると、ロッソは鳥笛を上唇にあてて細く息を吹き込んだ。ピュイーと、澄みきった高音がジャングルを一直線に突き抜けて行く。最初は何の反応もなかったが、やがて羽ばたきが近づいてくるのが分かるようになった。二人の少年の元に向かって、「ピュイー」と、返事をしているような鳴き声が飛んでくる。その鳴き声と同時に、部屋の天井――今はもう天上がどこか分からない程に遠ざかっていたが――から黒っぽい塊が滑空してきた。

 いや、黒っぽいと思ったのは間違いだ。黒髪の少年は頭の中でそう訂正した。少年たちの前に降り立った生物は、一見ハヤブサのような形をしていたが、その体はジャングルに紛れるような深緑で、くちばしと尾の先だけが絵の具を塗ったように黒かった。飛ぶスピードがあまりに早すぎて、飛んでいる間は全身が黒っぽく見えたのだ。


「これが教授の魔法鳥?」


 ロッソはハヤブサに餌を放り投げながら、「そうだ。他にもたくさんいるがな」と肯定した。


「確かに珍しい色をしているけど……」

「勿論、それだけじゃない」


 見ていろ、とロッソが言ったその前で、ハヤブサが放られたミミズをついばみ始めた。生きたままの赤茶色のそれを、器用にくちばしで食いちぎる。すると、不思議なことに、食べている側のハヤブサの顔色が変わりはじめたのだ。美しい緑色が濁りはじめたかと思うと、くちばしの根元のあたりから、徐々に茶色くなりはじめた。やがてそれは首のあたりまで行き渡り、頭は赤茶色、首から下は緑、くちばしと尾っぽだけが黒い奇妙な鳥に変身した。


「おもしろいだろう?」


 ロッソは珍しく微笑んで見せた。


「直前の食事によって体の色が変わるんだ。食べた量によって、変色する部分の大きさも変わってくる」

「確かに、おもしろい」


 黒髪の少年も、同じように微笑んだ。彼の場合は絶えず笑みを張り付けていたが、この時の笑顔はそれとはまた違う、好奇心を刺激された顔だった。


「魔法鳥はすべて教授が世話をしているが、学会などでいない日はボクたち学生に任せていく。君は運がいい」

「見せてもらえるのはありがたいけど、大丈夫なのか」

「勿論。運がいいと言ったのは、教授の長ったらしい魔法鳥愛好演説を聞かなくて済むことに対してだ」

「ああ、そういうこと」


 黒髪の少年は納得して、再び三色のハヤブサの観察へと戻った。ハヤブサが警戒しないように数歩分の距離をあけて、鳥について行っている。ハヤブサの方も人慣れしているため、ロッソに協力してくれる心づもりなのか、ゆっくりと研究室を歩き回った。


(ふう、これで一段落だな)


 ロッソは後ろに下がって、太い松の木にもたれかかった。この木はくり抜かれていない、普通の木だ。見上げると、雲の無い青い空が広がっていた。実際は上の方には天井があって突き抜けることはできないのだが、幻覚魔法を使って空があるように見せているのだ。


「これで、彼がうちの学科に入ってくれれば良いんだが」


 ロッソは心底そう思った。今朝には「とにかく学科の所属生徒数が増えればいい」と考えていたのが、今は「ぜひとも彼に入ってほしい」と考えている。この心境の変化は、ロッソ自身思いもよらないことだった。それというのも、ロッソ少年は入学以来人と関わることを避けていたからだ。避けていたという言い方には語弊があるかもしれない、ロッソ少年にそんなつもりは全くなかったのだから。「人付き合い」の方から彼を避けて通っていった、と言った方が正しいだろう。さらに言及するならば、ロッソ少年は生まれてこの方、友人という類のものに恵まれたためしがなかった。

 だから、ロッソがクラスメイトに好意に近い興味を抱くことは、まさに青天の霹靂だった。


「興味はもってくれているみたいだ……しかし決定打に欠ける。何かもっと、あの少年の好奇心をかきたてるような、瞳を輝かせることができるものはないだろうか……」


 松の木の日陰に入ったまま、ぶつぶつと呟いてあれこれ案を練ってみるが、どうにもパッとしない。興味云々は置いておいて、クラスメイトと仲良くなるという選択肢が全く浮かんでこないのが、ロッソ少年らしかった。

 と、そんな眼鏡少年に、「ねえ」と一声がかけられた。


「これって何かわかるか?これも研究対象なのかな」


 呼びかけたのは黒髪の少年で、彼はいつの間にかハヤブサを追うのを止めて、木棚の間の茂った草むらにしゃがみ込んでいた。三色ハヤブサも一緒になって草むらに首を突っ込んでいた。はて、と首を傾げながらロッソは近づいていく。そんなところに研究品が置いてあっただろうか。

 黒髪の少年たちの脇から草むらを覗き込んだロッソ少年は、思わず驚きの声を上げた。そこにあったのは、彼にとって予想外のものだったからだ。

――――卵だ。

 少年二人の顔程の大きさの卵が、草のベッドの上に鎮座していた。





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