恋とよぶには複雑すぎた
時間が過ぎるのが恐ろしくのろい。誰かが時を操っているのではないかと疑うほどだ。そんな誰かがいるならば、今すぐ怒鳴り込んでやりたいと思う。
つい先程、決勝戦が終わった。残念ながらハロルドは負けてしまい、去年の優勝者が再び優勝杯を手にすることとなった。ハロルドの敗北が決定した時にはマーシャルも「悔しい」と思ったけれど、このあとに待ち受けていることを思い出して、その気持ちは緊張にとって代わられた。思いもよらない展開に、マーシャルの頭は未だかつてない混乱をきたしていたのだ。
(話ってなんだろう。あの時のことについて?いや、でもそんな……)
もしかしたら全く関係のないことかもしれない。例えあの時のことについてだったとしても、それが良いこととは限らないのだ。今度こそ完全に縁を切られるのかもしれない……下手に期待するのはやめておこう。だが、向こうから話し合いの場を設けてもらえたのは思わぬ幸運だった。ずるい考えかもしれないが、マーシャルの想いを伝えるチャンスがうまれたのだ。これを活かさない手はなかった。
決勝戦が終わった後、授賞式まではしばらく時間がある。ハロルドはもうすぐ来るはずだ。控室の入り口で待ち構えているのも何なので、そわそわしながら入り口付近の石椅子に座って待つ。通路側に細心の注意を払って、近づく気配を読み取ろうとした。
カツカツと、石の床を靴が鳴らす音が微かに聞こえた。カツカツ、カツ――――だんだんと近づいてくる。ひたすらにジッと待っていることの辛さといったら、パートナーのお小言を延々と聞いている方がずっとマシだろう。
戸をくぐって部屋に入ってきたのは、予想通りにハロルドだった。飛び跳ねそうになる体と心臓を抑えつけて、ぎこちない動きで立ち上がる。
「すみません、お待たせしました」
「全然、気にしないで。……決勝、残念だったわね」
「また来年がありますから」
ハロルドは一瞬悔しそうな顔をしたものの、すぐに表情を元に戻し、マーシャルの腰掛けていた席の隣に座る。マーシャルも再度腰を下ろした。両膝をそろえて、両手を膝の上に置く。緊張のあまり、いつもより背筋がピンと伸び、ほとんど反っているような状態だった。
(話があるってことは、ハロルドから話しかけてくるのを待てばいいのよね)
微動だにせずに座っていると、ハロルドが微かに上ずった声で話しかけてきた。
「シャリーは……さっきの仕合、いつもとは違う剣を使っていましたよね。何かあったんですか」
「え?」
戸惑いながらも質問に答える。剣をすり替えられたなんて格好悪いことは白状したくなかったため、「うん、まあちょっと」と、言葉を濁したが、たちまちのうちにハロルドの目つきが剣呑なものになったため、急いで「大したことじゃないってば!」と言いつくろわなければならなかった。
「……いつもの剣だったら、結果は違っていたかもしれません」とハロルド。
彼の方がマーシャルよりこのことを気にしているようだ、怒っているようにさえ見えた。それが気恥ずかしくもあり、嬉しくもあったが、マーシャルはあっけらかんと否定した。
「それはないわ。大体使い慣れた剣じゃないと勝てないなんて、なんか悔しいじゃない」
「……それは言えてますね」
「でしょう?まあ私がいけない部分もあったし、そんなに気にしてないから」
「ならいいんですけど……」
渋々といった様子だったが、納得してくれたようだ。ようやく緊張がほぐれてきたマーシャルだったが、それっきり会話は途絶えてしまい、気まずさが川の奔流のように押し寄せてくる。
(話ってまさかこれだけ?そんなわけないわよね)
不安になってちらりと右隣を盗み見ると、ハロルドは軽く俯いていた。前髪が目元にかかっているのを見つけて思った。やっぱり去年話した時よりも、髪が伸びたみたい。
「――――髪の毛、伸びたわね」
気が付いたときには、思ったことがそのまま口をついていた。ハロルドがこちらを向く。見下ろされる感覚には未だ慣れない。ユンスティッドとはここまでの身長差はなかった。
「背も伸びたわ」
「昔とは違いますから」
突き放すような物言いに寸の間胸が詰まった。それに気が付いたのだろう、ハロルドは慌てたように付け加える。
「前に一緒にいた時は、成長期の前でしたし。伸びなかったら困ります。シャリーより高くなれて嬉しいです」
「なにそれ、ちょっと生意気ね」
つとめて軽い調子で返事をしたが、内心は心臓が壊れそうな程バクバクいっていた。苦笑いを浮かべていたハロルドの黒目が、右へ左へ二回ほど往復する。彼の黒目が動くたびに、マーシャルの心も揺れ動いた。一体何を言われるんだろうか……。自分にとって都合のいいことですように、なんて虫がよすぎるかもしれないけれど、そう願わずにはいられなかった。
数秒もしないうちに、ハロルドの黒目が真ん中で定まった。それと同時に彼の心も決まったようだった
「……シャリー、待っていてくれたということは、僕にもあの賭けは有効ということでいいんでしょうか」
「当たり前よ、もともと私が一方的にふっかけたんだもの」
ハロルドがほっとした顔を見せる。マーシャルも内心で安堵していた。彼がこういうと言うことは、マーシャルが勝利していた場合にはハロルドは約束を守ってくれるつもりだったのだ。……仕合に勝っていたならの話だが。
ハロルドの大きな手が膝の上で組まれていた。十本の指が絡まったと思えばほどかれる、その動きが何度も繰り返された。
「シャリーから手紙が来たとき、これはチャンスだと思ったんです」
「チャンス?」
「ええ」とハロルドは頷く。「シャリーと話せるまたとない機会だと。僕にも、ずっと伝えたいことがありましたから」でも、僕はシャリーと違って優柔不断な所があって、と彼はつづけた。「ずっと伝えたいと思う一方で、ずっと迷ってもいたんです。二つある気持ちのうち、どちらを伝えようかって」
マーシャルの胸が一つ大きく鳴った。どういうことだろう?自分は「ハロルドと仲直りしたい」という一心だったけれど、ハロルドには違った事情があるようだ。彼が控室に現れる前までは、決別の言葉を言われるのかと恐れていたが、穏やかな態度を崩さない様子を見ているとそれも違うように思われた。それとも、そうやってマーシャルを期待させておいて、突き落すつもりなのだろうか。
(バカね)マーシャルは柄になく臆病になっている自分を笑った。(アイツじゃないんだから、ハロルドがそんなことするわけないわ。……でも、それなら何を迷ってるっていうの?)
「迷っていた」と言ったハロルドだったが、マーシャルには未だに迷っているように見える。彼は躊躇いがちに口を開いて、噛み締めるように言葉を発した。
「迷っていたんです……この二年、選ぶことが出来なかった」
「両方言ってくれればいいじゃない」と、つとめて明るい調子で助言したが、あっさりと首を横に振られた。
「無理ですよ。それだとシャリーが困る。大丈夫です、心は決まりましたから。仕合に勝った時に、自分の中でけじめがつきました」
ハロルドは、正面に向けていた爪先をマーシャルの方へと向けた。鳶色の瞳とまともに目が合う。鉄くずが磁石に引き寄せられるように、視線をそらすことが出来なかった。ひょっとしたら、仕合の時よりも緊張しているかもしれない。そんな風にマーシャルは思う。
「二年前のことです。覚えていますか?あの時の僕は、ひどくシャリーを恨みました。嫌いだと思いさえした。剣師団に入団して、がむしゃらに鍛錬を積んで、シャリーより強くなろうとしました。裏切られたと思ったし、シャリーはあんなに才能があるのに、どうして魔法師団なんかに入ったんだろうとも思いました」
マーシャルは思わず苦笑しそうになった。たしかに、あの頃の自分は魔法のことなんて何も知らなかった。剣師団に入った方がいいと、当時何人に諭されたことか。
「でもね、シャリー」過去の自分を責めるように重々しい口調で話していたハロルドだったが、ふいに彼の声の調子が変化した。「半年程過ぎた頃でしょうか、気付いたんです。僕の気持ちの半分は、八つ当たりに近かったって」
「八つ当たり?」
ハロルドは頷いた。
「シャリーを許せないとあれほど思った原因は、僕自身の中にあったんです。それを認めないで、全部シャリーに押し付けていた」
「ハロルド自身の中……」小さく繰り返してから、マーシャルはハッとした。もしかして、私の気持ちも……。でも今は、それを考えるべき時ではない。疑惑は胸の引き出しにしまいこんだ。
「原因について、詳しくは言いませんけどね。僕の秘密ですから」
言い終えて、ハロルドはにこりと笑った。秘密の内容が気になったけれど、無遠慮に聞くほどの度胸はない。
「ねえ、シャリー。僕に勝ったら、何て言うつもりでした?」
マーシャルは言いよどんだ。正直に答えても良いものだろうか。どれだけ目を凝らしても、目前の青年の心はもやがかかったように霞んでいる。正直に気持ちを打ち明けたとして、それが彼の望むものでなかったらと思うと、どうしても最後の一歩を踏み出すことが出来なかった。対するハロルドは、妙に落ち着いた笑顔を浮かべて、やわらかさの中にも強い意志が見え隠れする口調でこう言った。
「僕はね、こう言おうと決めていましたよ――――仲直りしましょう、シャリー」
菫色の瞳が、ゆっくりと見開かれていく。最初は都合のいい夢かと思い、次に幻聴だと思い、その次には聞き間違えだと思った。左手で左頬をつねる、痛い。ハロルドがその様子を見てくすりと笑った。
「もう一度、友達になってくれませんか」
「私も……、私も同じことを言おうと思ってたのよ」
「……本当ですか?」
「本当、ポーミュロンに誓って」
ハロルドの笑みが、これ以上ないというほどに嬉しげなものになった。それを目にして、ようやくマーシャルも実感することができた。じわじわと、あたたかな感情が胸の中に広がって頭のてっぺんから指先まで行き渡っていくようだ。
(ハロルドが、仲直りしようって言ってくれた。夢じゃないんだ、ずっと願ってたことが、かなったんだ)
喜びの余り、泣いてしまいそうになる。
「ねえ」呼びかける声は震えていた。「二年前のこと、ごめんなさい。ずっと謝ろうと思ってたの。私は、自分のことに精いっぱいで、ハロルドのことを思いやろうともしなかった」
するとハロルドは真顔になった。
「シャリー、今の謝罪取り消してください」
「なんでよ」ポカンとして聞く。
「シャリーが謝ったら、僕も謝らなければならないからです。それに、正直あの時のことは思い出したくないんですよ、恥ずかしくて……」
マーシャルはますますポカンとした。口を丸く開けて、隣のハロルドを見上げる。見つめる先で、少年は顔を真っ赤にして、視線を明後日の方角へ向けていた。
「……やっぱり、謝罪は取り消そうかしら」
「そうしてくれるとありがたいです」
赤らんだ頬とハロルドという組み合わせのなんと懐かしいことか。知らず知らずのうちに、口の両端が上がっていく。
仕合に負けた時は絶望的な気持ちになったが、今のマーシャルの心は晴れ渡った空のようにくもりがない。単純だと笑われても、今なら逆に笑い飛ばしてやれる気分だ。長い間胸に巣食っていた真っ黒い雨雲は、ハロルドがきれいさっぱり吹き飛ばしてくれた。
「ハロルド、私からも言うわ。もう一度友達になって下さい」
ハロルドは大きく頷いてくれた。
「はい、よろこんで」
変わらない友情を確認し合って、二人は喜びの握手をした。ハロルドの手の方が大きいので、マーシャルの手を包み込むようになっている。互いの成長を感じられることも嬉しくて、顔中から笑みがこぼれ落ちてしまいそうだった。
「今度また仕合しましょう。ハロルドったら、本当に強くなってるんだもの。ビックリしちゃった」
「そりゃあ必死に練習しましたから。でも、シャリーの剣もすごかったじゃないですか。実戦だったらどうなるか分かりません」
「当ったり前でしょ!私だって、二年間魔法の勉強したんだから――――あれは魔法剣って言ってね、ついこないだやっと完成したの!作るの大変だったのよ。でもまだ試作段階でね、いつかは一本の剣で炎とか水とか、いろんな魔法を発動させることが目標なの」
熱く語るマーシャルに、ハロルドは驚いたようだ。
「本当に魔法が好きになったんですね」
「剣も大好きよ、勿論。でも、魔法ってとっても面白いんだから!去年の豊穣祭のランタン、私も作ったのよ」
自慢げに胸を張ると、ハロルドの表情が少し曇った。
「僕には理解できそうにないです」
「私も昔はそう思ってたわ。でも不思議なことに、いつの間にか夢中になってたのよね。偶然が重ならなかったら、きっと今も剣術一筋だったと思う」
「シャリーが剣師団に入っていたら、別の道もあったでしょうね」
その言い方がいかにも寂しそうに聞こえたので、マーシャルは彼の右肩をぽんと叩いた。仲直りしたばかりだと言うのに、落ち込ませたりなんてしたくない。
「一応魔法師団所属ってだけで、剣の道を諦めるつもりはないわよ。この通り、大会だって出させてもらってるしね。気を抜いてたら、また追い越していくから」
「負けてられませんね」ハロルドが強気な瞳で見返してきた。
しばらくはそうやって談笑していたが、授賞式の時間が近づいて係の文官が呼びに来たため、それも打ち切りになった。次に会う約束を交わして、マーシャルは晴れやかな気分で控室を出ていく。先に通路で待機しているよう指示されたのだ。
そんなマーシャルの背中を、椅子から立ち上がった状態のハロルドが見つめていた。鳶色の瞳が切なげに歪んでいる。その目の中では、たくさんの感情がない交ぜになっているようだった。眉間にしわを寄せてきつく目をつむる。しばらくそうしてから、ゆっくりと瞼を押し上げた。そして、ハロルドは先を行く小さな背中を追って、控室を出て行った。
授賞式が盛大に行われ、春の剣術大会は大喝采のなか幕を下ろそうとしていた。優勝者である若い男性は、国王から優勝杯を受け取り、頭上に高く掲げる。ポーミュロンと四人の女神たちが美しく彫り出されたクリスタルのゴブレットで、優勝者は国王から昨年一番出来の良かったワインを注いでもらう権利を得るのだ。国王が紫色の液体を注ぎいれ、彼が杯からそれを飲み干した時、歓声と拍手の音は天を突かんばかりだった。
マーシャルは、上機嫌で王宮への帰り道を歩いていた。るんるんと鼻歌を歌っている。手には三位入賞の証である手のひら大の銅メダルを握りしめている。表にはX型に交わる二本の剣、その下に大会の開催年が刻まれ、裏には王宮剣師団の「剣の誓い」の銘文が刻まれていた。
―――王宮剣士たるもの、国のために、剣に生き、剣に命をかけるべし。
(私風に言い換えるなら、『マーシャル=ディカントリーたるもの、己の欲求のために、楽しいことに生き、その追及に命をかけるべし』ってところかしら)
「うーん、我ながらヒドイわね!」
ちっともそう思っていないことが明らかな声だった。
正門の両脇を守る兵に会釈をして、真正面にある短いアーチ状のトンネルをくぐる。もう夕刻に近いため、トンネル内はかなり暗くなっていた。ひび割れた石壁に触れるとひんやりと冷たい。トンネルを抜けた先、渡り廊下を左に折れてずっと進んでいくと、王宮の北端に辿り着く。そこから程近くに、魔法師団の団舎があった。
今日の夜は剣師団で祝宴が開かれる。優勝者たちを囲んで、皆で酒を飲みかわすのだ。入賞したマーシャルは勿論参加する予定だったが、その前に魔法師団に顔を出しておきたかった。エヴァンズ隊長やキルシュに大会の結果報告をしたいし、お礼も言いたい。
(明日は部屋の掃除もしないとね、一週間以上空けてたから)
団舎と北の塔の間をスキップで通り抜けて、一番奥にある七番隊の隊舎へと向かう。途中、外をうろついていた何人かの魔法師に出くわしたので、挨拶ついでに大会で入賞したことを伝えた。言い方は違えど、どの人も祝福してくれたため、マーシャルの機嫌はぐんぐん上昇していく。歩いているだけで、にやにやと笑みが漏れる。
(仕合には負けちゃったけど、最高にいい日には違いないわ。だってハロルドと仲直りできたんだもの!)
これからはまた気兼ねなくおしゃべりできるし、一緒に鍛錬することもできるのだ。帰り際だって、笑顔で手を振ってくれた。今度会う約束もした。約束をしていなくたって、会いに行ける。
(本当に、仲直りできたんだ……)
予想とは違った形だったけれど、嬉しいことに変わりはない。むしろ喜びはより一層のものだった。
にやけた顔はなかなか元に戻らず、気持ちが落ち着くまで隊舎の周りをうろうろすることにした。日は暮れかかっていたが、春の穏やかな風が吹いているため気温は温かい。首筋を風が何度も撫でていった。
魔法師団の敷地内を三周ばかりして、七番隊の隊舎の前に辿り着いたところで、とりあえず喜びを胸の中の引き出しに仕舞うことに成功する。すると、その代わりに別の引き出しが開いて、後回しにしていた問題がぽっかりと浮かんできた。足取りがゆっくりになり、隊舎の手前でぴたりと止まってしまう。
ハロルドの言葉が頭の中で反響していた。
――――シャリーを許せないとあれほど思った原因は、僕自身の中にあったんです。
(許せないと思った理由は、自分の中にある、か……)
なぜこの言葉に、ひっかかりを覚えたのだろうか。おそらく、半分以上はそのわけに気が付いていた。だけれど、マーシャルは認めたくないのだ。認めたとして、おいしい思いができるわけでもない、多分。
できれば、このまま喉元を通り過ぎて、どこかへ行っちゃわないかしら。
願ってはみたものの、現実がとんとん拍子に上手くいかないことは分かっている――――ガチャリと音がして、隊舎の玄関口に、赤毛の少年が現れた。その後ろから、鶏のひなのように小さな少女がくっついてきて、兄の後ろで扉を閉めた。二人して団舎に向かうつもりだったのだろうか。早足で歩きだしたロッソだったが、マーシャルが隊舎の前で彫像のように固まっているのを認めて、ひょいと片方の眉を上げた。
「シャリー、何日かぶりだな。この間は妹にチケットをくれてありがとう」
内心の動揺をひた隠しにしながら、マーシャルは笑顔で答えた。
「別にいいわよ。処分に困ってたところだったし。ビアンちゃん、楽しかった?」
「はい……マーシャルさん、すごかったです」
引っ込み思案なビアンが、一生懸命褒めてくれているのが分かり、ロッソの登場にひるんでいた気持ちが幾分やわらぐ。
「ビアンは授賞式の前には帰ってこさせたが、シャリーは三位だったそうだな。ユンスに聞いていた通りだ」
「……どうも。そういうロッソたちは、研究どう?上手くいった?」
ロッソは肩をすくめた。
「ぎりぎり目標としていた段階までは。ボクは明日帰らなければならないから、残りはまた手紙でやり取りするしかないな」
「へえ、明日帰るんだ!」
思わず声音が明るくなってしまい、ギクリと身を強張らせる。ロッソが、眼鏡のつるの部分に触れながら、こちらをじろじろと眺めてきた。気まずさにマーシャルは視線をそらす。まずいことをしてしまった。ビアンがはらはらした様子でこちらを見てきた。その足元には、いつのまにか猫のリングアの姿がある。
ずばりロッソは断言した。「シャリーはボクのことが嫌いなんだな」
その言い方があまりにも淡々としていたので、うっかり否定しそこねる。またやってしまった!せっかくいい気分でいたというのに、それが油断を招いてしまったというのか。
一応言い訳しようと試みてはみた。
「嫌いじゃなくて、その……苦手なの」
「同じようなものだろう。だが、はっきりした態度はボクの好むところだ」
「うう……確かに最初は……さっきまではロッソのことあんまり好きじゃないと思っていたけど。でも、その原因はロッソじゃなかったってわかりかけたところなの。だから、嫌いってわけじゃないわ」
「どういう意味だ?」
「ロッソを好きになれない理由は、ロッソにじゃなくて私自身の中にあったってこと」
ロッソの赤茶色の目が、興味深そうにマーシャルを見つめてくる。それを見つめ返す気分にはなれなかったので、そっぽを向いた。「わかりかけている」と言ったものの、どうしてロッソのことを一方的に嫌っていたのか、この時にはすっかり答えが分かってしまっていた。……分かりたくなんてなかったのに。
「で、その理由とやらは解決したのか?ボクのことは好きになれそう?」
「まだよ――――」と、この場を穏便に切り抜けるための返事をしようとしたところで、邪魔が入った。ロッソとビアンの背後で再びノブの回る音が鳴る。ガチャリという音を、今日ほど聞きたくないと思う日はないだろう。
現れたユンスティッドを一瞥して、マーシャルは真顔でロッソと目を合わせた。
「まだよ、これから解決するところ」
諦めと覚悟の気持ちが二ついっぺんに浮かんできて、マーシャルは項垂れる。ロッソは何かを察したのか、ビアンの手を引いて横に退いた。ヴィノーチェ兄妹がいなくなると、マーシャルとユンスティッドの間に遮るものがなくなる。
ユンスティッドは両目の下に濃い隈を作って、両手に五冊分厚い本を抱えていた。団舎の図書室に向かうところだったのだろう。見るからに具合も機嫌も悪そうだったが、マーシャルを無視する気はないようだ。もっとも、無視されたとしても、立ちはだかる気は満々だったが。
「なんだ、帰って来てたのか」と、ユンスティッドの方から話しかけてきた。「大会は終わったんだな」
「気づいてたのね、大会のこと。てっきり、研究に夢中で他のことは忘れてるのかと思ってたわ」
「お前が言っていかないのが悪いんだろう。ビアンがチケットを貰っていたから、それで思い出した」
「言っていけなかったの間違いよ。ロッソと研究室にこもりきりになったのはそっちじゃない」
これにはユンスティッドも非を認めたのか、それとも単純に言い争う気力が残っていなかったのか、意外にも素直に頷いてきた。
「まあ、それはどうでもいいわ」握りしめていた銅メダルを、見せつけるように胸の前で突き出した。
「私、三位だったのよ!」
「優勝はしなかったのか。残念なこった」
「なっ……、アンタってどうしてそうも捻くれてるのよ!普通に褒めてくれてもいいでしょう?!」
今のはかなりカチンときた。
見せて損したわ、とメダルをポケットに仕舞い込む。鎧は授賞式が終わったとに脱いできていたので、今は普段着を着ていた。
ユンスティッドの横からひしひしと視線を感じる。ロッソとビアン、それから猫の分だ。上手くやらないといけない。
「……ねえ、何かお祝いしてよ」
「はあ?」と面倒くさそうなユンスティッド。
「いいじゃない、三位よ、三位!何かくれたっていいじゃない」
ユンスティッドは、あしらうのも面倒くさくなったように見えた。投げやりな口調で答える。
「銅貨三十枚以下ならな。それ以上はびた一文まけられない」
「ケチくさっ!」
銅貨三十枚って、ジェラート二つ食べたら終わりじゃない!
いつもの調子で食って掛かりそうになったところを制止できたのは、ロッソのおかげだった。
「ユンスは相変わらずはっきりした物言いをするな。正直さは美徳だというが、シャリーといい勝負のようだ」と、マーシャルとユンスティッドに言ってきたのだ。
ユンスティッドは、一度無害そうな顔で頷いてみせ、それからさも当然とばかりに付け足しをした。
「こいつの場合は、正直の前に『馬鹿』がつくけどな」
「ちょっと?!馬鹿正直だって、正直には変わりないんだからね!」
「受け答えからして馬鹿丸出しの癖によく言うな」
マーシャルの左頬がピクピクと痙攣するように動いた。知らず知らずのうちに眉間のしわの数が一本二本と増えていく。腹の奥がぐつぐつと沸き立つのを感じた。
(随分と元気そうじゃない。それならこっちだって全力で……)
「って、そうじゃなくて!」
唐突な叫びに、ユンスティッドが顔をしかめ、ビアンがさらに縮こまった。ロッソは動じないでいる。
マーシャルはその場にうずくまった。ついつい喧嘩に発展させそうになってしまったが、そんなことがしたいのではない。いつもだって喧嘩がしたいと思っているわけじゃないけど……ロッソの手前、今回ばかりはユンスティッドに寛大にならなければ。
(ああもう、何て言えば良いのよ。欲しいのはモノじゃないのに)
その様子を見守る者たちの様子は、三者三様だった。
さきほどの大声が響いて頭痛がするのか頭を押さえているユンスティッド、マーシャルの様子を面白がっているロッソ。ビアンだけが、三人から離れた所まで行くと、そっと屈みこんで何事かを猫の三角形の耳にささやきはじめた。
なんだか面白いことになってるなあ。今のネコは、ご主人とおんなじ表情をしている自覚があった。幸いなことに、ロッソも自分も表情を読み取られにくい性質だから、きっと気付いているのは小さいご主人くらいのものだろうけど。そんなことを考えていたら、当の小さなご主人が小声で話しかけてきた。
「ねえリングア」折り曲げた膝の頭が、えんじ色のスカートからのぞいていた。地肌が青白いためか、膝小僧がうっすらと赤色に染まって見える。「あのね……マーシャルさんにお礼、できないかなあ」
お礼?考え込むまでもなく、ネコは思い出した。チケットのことだと。
「大会、とっても楽しかったから……」
頬を上気させて微笑むビアンはとてもかわいらしい。ピンク色は猫の耳の中とおんなじ色だ。
「……それに、マーシャルさんが悩んでるのって、きっとお兄ちゃんのせいだと思うの……だからリングア、お願い」
水色の首を縦に振りながら、ネコは思った。ロッソはこんなに優しい妹をもてて本当に幸運な奴だ。そして、優しいご主人を二人ももてた自分は、もっと幸せなのだろう。
夕日がネコの後ろから差し込んできて、背中が炎のように赤く染まっていた。一日の内、この時間帯だけ、二人のご主人とお揃いの毛色を手に入れられる。ネコはこの時間がたまらなく好きだった。
今ならなんだってしてあげられる気分だ、と考えながら、ビアンに手招きされるままに小さな三角形の耳をビアンの口許に寄せるようにした。
「あのね……」
耳元で囁きかけられると、息で耳毛がそよぐ。くすぐったさに身をよじりそうになりながらも、ネコはビアンの言葉を喉元にとどめ置いた。紅玉の瞳がキラリと光る。やるべきことは、きちんと理解していた。ロッソよりは人間の心の機微にさといつもりだ。
ビアンに見守られる中、うずくまってうんうん唸っている〈マーシャル〉の足元へ走り寄っていく。すねの部分に身をすりよせると、菫色の二つの目玉がこちらを向いた。少女がしっかりとこちらに気が付いたことを確認して、今度は、〈ユンス〉の方へ数歩歩く。すると、ネコはちょうど〈マーシャル〉と〈ユンス〉の真ん中あたりに立つこととなった。
人間風に言うならば、「コホンと一つ咳をして」、ネコは尻尾をピンと立てたかしこまった出で立ちで、喉元に大事にしまっておいた言葉を取り出した。
「ユンス、ユンス、ユンス」
喉元に引っ掛かった飴玉を出すような感覚だ。
「ユンス、ユンス、ユンス」
二度目に繰り返した時は、少しゆっくりと呼んだ。
黒い隈までつくって、いつにもまして全身真っ黒な〈ユンス〉が首を傾げている。振り返って〈マーシャル〉を見た。先程何度も「バカ」とけなされていたから、意図を理解してくれるか少し心配だったのだ。でもよかった。訴えかけるように視線を送り続けていると、菫色の目が僅かに見開かれた。戸惑っている少女を元気づけるように、ネコは鋭い牙を見せて笑う。口元が裂けたように横に広がった。〈マーシャル〉の目の色が変わる。決心してくれたみたいだ。
ネコがさりげなく身体を横に移動させると、代わりにマーシャルがその場所に一歩踏み出した。
「あのさ」
「……何?」
少女が懸命に何気ないふりを装っているのを、ネコは見抜いていた。運のいいことに、〈ユンス〉は寝不足のせいで気付いていないようだ。ロッソは考えるまでもない。
「その、私も……ユンスって呼んでいい?」
「は?」
〈ユンス〉が思いっきり怪訝な顔つきになった。寝不足でただでさえすさまじい目つきが、さらに恐ろしいものとなる。ビアンが見たら泣き出しそうだ。対する〈マーシャル〉はというと、一度口にして開き直ったのか、躊躇いがちな態度はどこへやら、腕を組んで〈ユンス〉と正面から向き合っていた。激しい視線が、ネコの頭上で交差する。思わずぶるりと身震いした。
「だから!私の入賞祝い、アンタを名前呼びすることでいいでしょ」
「なんでだよ」
「だって、猫でさえアンタを呼び捨てにしてるっていうのに、私が呼べないなんて変じゃない。それに前々から思ってたけど、シルバートって微妙に長いし呼びにくいのよ」
「この程度で呼びにくいとか、頭大丈夫か」
「うるさい!ちゃんとアンタの言うとおり、銅貨三十枚以下におさめたんだから、約束守ってよね」
きつく睨んでくる〈マーシャル〉に呆れた様子の〈ユンス〉だったけれど、どうやら眠気が勝ったようだった。それとも元々どうでもよかったのかもしれない。
「まあ、そんなことでいいなら、好きに呼べば」
そう言って、本を抱えたままふらふらと歩み去っていく。後ろ姿は、今にも倒れそうに見えた。ネコの記憶が正しければ、ロッソも〈ユンス〉も四徹目のはず。
視線を移すと、見事に勝利をもぎとった少女が喜色を満面に浮かべて、団舎に向かうパートナーに大きく手を振っていた。ネコと目が合うと、曇りのない笑顔で「ありがとう」と述べ、ネコの後ろにいるビアンにも、同じようにお礼を言う。小さいご主人が嬉しそうにしていたので、ネコも満足した。
と、そこへ、成り行きを見守っていたご主人が発言した。
「シャリー、君の言っていた意味が分かった」
ネコと〈マーシャル〉とビアンは、きょとんとしてロッソを見た。今の今まで、ご主人の存在は皆の頭からすっぽ抜けていたに違いない。思わぬ伏兵とは、まさにこのことだった。
「君は、ボクを羨んでいたのだな」
目をつむって思慮深げに、ふんふんと頷いているご主人。言葉もなく怯んでいる〈マーシャル〉には悪いけれど、こうなったご主人の口を止められたためしがない。大きな勝利には代償がつきものだ。
ずばりロッソは断言した。「そういうのを、嫉妬というんだ」
ビアンが青くなった。ネコが人間だったなら、肩を竦めてやるところだ。痛いほどの沈黙にご主人は間違いなく気付いていない。
視線をうろつかせ、何とか言い逃れようと苦心していたようだけれど、〈マーシャル〉はとうとう観念した。ロッソと至近距離まで近づくと、ビアンとネコを手招きする。ロッソの肩に手を置いて、力づくで屈ませると、辺りにさっと目を走らせて誰もいないことを確認し、二人と一匹の耳元にヘの字になった口を寄せた。
人間たちの顔は真上にあったので、ネコは彼らの表情を間近に見ることができた。だから、大分後になってまで、〈マーシャル〉が苦虫を十匹噛み潰したような顔でこう言ったのを、しっかりと記憶に刻んでおくことができたのだ。
「アイツにはぜーったい、内緒にしてよね!!」




