”リングア”
ペンキを塗ったわけでもなく、削り出した木をそのまま使って作られたような隊舎は、早々と夜の闇に沈んでしまっている。薄暗い中でも迷うことなく、マーシャルは十番隊の隊舎に帰り着いた。すぐそばで、見習い剣士たちが夕食前の短い時間を使って鍛錬をしていた。「やあ!」とどこか弱腰の声を背に、マーシャルは自室のドアをバタンと閉めた。ざらりとした木材の扉に背中をもたれさせて、深いため気を吐く。
思ったよりも疲れていたようだ。ぐるる、とお腹が空腹を主張する。団舎に行けば夕飯にありつけるが、とりあえずは足を休めたい。それに何だか胸がムカムカする……。
同室の同僚はまだ帰っていなかった。マーシャルのベッドは、二段ベッドの上階だったので、小さな梯子に足をかけて上にのぼろうとする。
「にゃーお」
「え?」
剣師団にはそぐわぬ可愛らしい声がして、ぱっと振り向いた。いつの間にか両開きの出窓の左側が小さく開き、カウンターの部分にすました顔の猫が佇んでいた。二つの輝くルビーの目玉が、少女を見つめている。
梯子にかけていた片足を床に下ろすと、マーシャルは窓辺に近寄った。
「なあに、アンタ迷ったの?魔法師団の反対側よ、ここ」
「にゃーお」と、最初と同じ調子で猫が鳴く。鋭い牙が覗いた。
「まったく、私も疲れてるんだから……しょうがない、アンタのご主人の所まで届けるか」
しかし、猫の主人がロッソだったことを思い出し、マーシャルは顔をしかめた。そして心の半分で、そのことを不思議に思う。なんで私、こんなにあの彼が苦手……ううん、嫌いなんだろう?そりゃあ話しにくいけど、最初の頃のシルバートに比べたら随分マシな気がするのに。
『ボクとユンスは――――』
マーシャルから話を振ったはずなのに、ロッソの声が頭でわんわんと繰り返し響いて、ひどくわずらわしい。夏場の蝉のようだ。
「〈ユンス〉ねえ……」
窓辺の猫が、小首を傾げたように見えた。毛並みにそって水色の背中を撫でながら、頭の中からロッソの声を追い出したいとばかりにぶつぶつと呟く。
「ユンス、ユンスティッド……」
右に傾いていた猫の頭が、今度は左に傾く。マーシャルは苦笑した。自分でもわけがわからないのだから、この猫に愚痴を言ったところで何の解決にもならない。
「よし、行くわよ」と猫のからだの下に両手を差し込んで、そっと抱き上げる。猫は暴れもせずに大人しくしていた。人慣れしているのだろうか。
――――どうせロッソはもうすぐ帰るんだもの。うじうじしていても、自分の気分が降下するだけだ。大会最終日のためにも、シャンとしなければ。
隊舎を出ると、すでに日は沈み切っていた。外にいる団員たちの姿もまばらになっていたので、道の真ん中を遠慮なく進んでいく。南の塔の横を抜けて、団舎のところを左に折れる。そのまま真っ直ぐ進んで行って、王宮の正門近くまでやって来た時だった。
それまで腕の中で静まり返っていた水色の猫が、急にもぞもぞと動きだし、ぴょんと両手をすり抜けて行ってしまう。「ちょ、ちょっと!」マーシャル慌てて追いかけた。猫は、そう遠くまでは行かなかった。小走りで正門の真下まで行くと、そこにいた人物の青白い足に顔を摺り寄せて、甘えるように鳴く。
「きゃあっ!」突然すりよってきた猫に悲鳴を上げて怯えた子供に、マーシャルは見覚えがあった。ちぢれた赤毛を二つにしばって、だぼついたワンピースを着ている。つい最近の記憶をたぐりよせて、呼びかけた。
「えーと、ビアンちゃん?ロッソの妹さんの」
その時はじめてビアンはマーシャルの存在に気が付いたようだった。ビクッと肩を揺らして、壊れた操り人形のようにコクコクと首を縦に振る。明らかにおびえられているようだ、とマーシャルは思った。
「もしかして迷っちゃったの?」
コクコク、と細い首が上下する。頭が上に上がる度、少女の青白い喉が見えた。ロッソとお揃いの赤茶色の目が潤んでいる。
「王宮って馬鹿みたいに広いものね」マーシャルは、なるべく優しい口調と表情を心掛けた。「大丈夫、魔法師団まで送ってあげるわ」
強張っていたビアンの顔が、少しだけ緩んだ。それに安堵する一方で、マーシャルは少し打算的なことを考えていた――――ちょうどいいじゃないか。猫をこの子に預けてしまえば、ロッソに会わなくてもすむ。
早速ビアンの肩を押して魔法師団まで連れて行こうとしたマーシャルだが、不意に引き出しの中のことを思い出した。数秒悩んでから、ビアンに「ちょっと剣師団に寄ってからでもいい?」と聞いて、十番隊の隊舎に戻った。ビアンをマーシャルの部屋を物珍しそうにきょろきょろと眺めている間に、引出しの中に仕舞い込んでいたものを引っ張り出す。しわを伸ばして、それをビアンに差し出した。
「はい、これあげる。明後日の剣術大会のチケットよ」
戸惑った顔をしているビアンに、半ば押し付けるようにチケットを渡した。
「せっかく王都に来たんだもの、何か楽しいことがないとね。お兄さんに聞いてみて、大丈夫だったら見に来てよ。運がよければ私も出場してるはずだから」
マーシャルに押し切られる形で、ビアンはチケットを受け取った。おずおずと、小さく口を開く。
「あの……でも……わたし」
「興味がないんだったら、売り払っても捨てちゃっても大丈夫よ。好きにしてくれていいわ」
「いいんですか?わたしなんかが、もらっても……」
「いいのよ。むしろ貰ってくれた方がありがたいわ。元々シ……知り合いにあげるつもりだったんだけど、いろいろあって駄目になってしまったから」
ビアンはまだ受け取ることを躊躇っているようだったが、マーシャルは話題を打ち切って、少女の手を取った。「じゃあ、送るわね」と言って、今度こそ剣師団の敷地から出て、北の魔法師団へと向かう。暗がりでビアンが転ばないように、しっかりと手を繋いだ。渡り廊下を通って、王宮の端から端まで歩く。道中、渡り廊下から垂直に伸びた細い廊下をいくつも通り過ぎた。すべて、王宮の中へとつづいている。その細い廊下に並ぶ木戸と木戸の間に設置された燭台の蝋燭には、すでに火がともされていた。あちらこちらにランタンや燭台があるため、王宮は夜でも明るい。とりわけ、今夜のように月の出ている日は、中庭の小さな噴水がきらめいて、銀のシャンデリアのように美しかった。春になって咲き乱れた花がいっそう明るく照らされている。
渡り廊下が途切れる所まで歩き、小さな階段を下りた。固く踏みならされた土の感触を確かめながら左に曲がる。その先に、剣師団と全く同じ四角い団舎と細長い塔がそびえていた。異なっているのは、その向こうの城壁から北西の森のオークの木が顔を覗かせていることだろうか。
七番隊の隊舎の玄関口にも、明りのついたランタンが吊るしてあった。
「ここまで来れば、もう大丈夫かしら」
ビアンは、一度こっくりとうなずいて、隊舎へと足を踏み出した。しかしすぐに振り返って、「あなたは?」と問いかけるようにマーシャルを見上げてくる。ビアンの足元に付き添う猫も、主人と同じようにこちらを見つめてきた。
純粋な四つの目から逃げるように、左足を半歩後ろに下げる。
「私はまだ帰れないから。それに、今の時間は皆夕飯をとっているだろうし」
ビアンと猫は、納得したらしい。ペコリと頭を下げて、小声で「ありがとうございました」とお礼を言った。マーシャルが団舎の角を折れるまで、ビアンたちは絶えず手と尻尾を振っていた。見送りをしてくれているのだ。
マーシャルも負けじと手を振り返しながら、もう一度廊下へとつづく小さな階段に足をのせた。
本当にもらって良かったのかなあ、と小さなご主人が呟いた。ビアンの細い指でつままれたチケットは、本来より大きく見える。答えを求めるようにこちらを見てきたので、ネコは「ニャオ」と一声鳴いてやった。「いいんじゃない?」という意味だ。くれた本人がいいよと言っていたのだから、遠慮する必要なんてないじゃないか。ネコのお気楽な考えが伝わったのか、ビアンは青白い顔にそっと笑みをのせた。そうすると、不健康そうな顔色が少しマシに見える。
ネコはビアンをうしろに連れて、七番隊の隊舎内へと入った。誰彼かまわず怯える小さなご主人にとっては都合のいいことに、隊舎の細長い廊下はひっそりとしていて人けがなかった。ご主人たちが借りている部屋は談話室の二部屋向こうにあったけれど、ネコはそれとは反対に歩いていく。ビアンもそれを疑いもせずについてくる。奥から一つ手前の部屋のドアの前で、ネコは立ち止まり、促すようにビアンを見上げた。「にゃーお」ビアンが緊張した面持ちでドアを控えめにノックすると、トントンと小さなノック音が二回鳴った。ちゃんと中まで聞こえているのか、ネコは不安になったが、嬉しいことに、部屋の中の人間たちは気付いてくれたようだ。
「おかえり」
迎え入れたのはロッソだった。無表情だけれど怒っているわけではない。ご主人の表情の種類はとても少ない。
窓を閉めているからか、部屋の中は外よりもあたたかかった。春とはいえ、夜風は冷たい。ネコの上等な水色の毛皮でも、寒さを感じる程度には。
ご主人たちは、何日もの間部屋にこもって実験をしていたが、それが終わる気配はない。部屋の奥の机では、〈ユンス〉が何か書き物をしていて、ロッソが後ろからそれを覗き込みながらしきりに口出ししていた。「次はアジャイユの根を刻んだモノをいれてみたらどうかと思うんだ」「だが、それでは効果が強すぎはしないか。ボクは先ほどの材料の量を変えてつづけたほうがいいと思うが」
夕飯を出してくれる気はなさそうだ。ネコは窓辺のベッドに飛び乗ると、白いシーツの上で丸くなった。しばらくまどろもうと思った矢先に、ベッドの足元に見慣れない物体を発見する。シーツにしわを作りながら歩いていって覗き見ると、四角いケージだった。針金でつくられていて、まるで小さな檻のようだ。中を覗いたネコは、「ニャー!」と思わず興奮した鳴き声を出した。ネズミだ!思わず舌なめずりをして、一匹が無謀にもこちらに近寄って来たので、ケージの上から爪で突き刺してやろうとした。ところが、近づいてきたネズミは、驚いたことに口から火を吐いたのだ。ビックリしてその場から飛びのく。数秒してからそろそろとケージ内を再確認すると、そこにいるのが普通でないネズミばかりだと気が付いた。体毛の色が赤や緑や青と色とりどりな上に、青白い静電気を帯びていたり、紫色のゼリーのように透き通っているのもいる。
こんなのを食べたら腹を壊してしまう。
ネコは諦めて、再びベッドの上で丸くなった。尻尾をくるんとおさめて眠りに着こうとするが、またもや邪魔される。今度の原因は小さいご主人だった。何やら恐る恐る行動を起こそうとしている。気になったので、薄目を開けて観察することにした。
ネコの見ている前で、ビアンは小さな歩幅で兄たちの側に歩み寄って、蚊の鳴くような声で呼びかけた。
「お、お兄ちゃん……」
ロッソは友達と熱心に話し込んでいて、ちっとも気が付く様子はない。二三度呼んでも兄の態度が変わらないことに焦れたのか、小さなご主人は大胆にも兄の服の裾を引っ張った。モスグリーンの生地がビヨンと伸びる。
ロッソがようやく振り向いた。金縁の眼鏡がキラリと光る。ビアンがごくりと唾を飲み込んだのが分かった。実の兄だと言うのに、怖がっている。
「なんだ、ビアン」
「お、おねがいがあるの」小さいご主人の細い足は、小刻みに震えていた。今にも倒れそうな顔色だ。
「お願い?手短に言いなさい」
「こ、これもらったから、明後日におでかけしても、いいかな……?」
「なんだ、このチケット」
ビアンの手から長方形の紙切れが取り上げられる。だが、お祭りごとや騒がしいことが大嫌いな性分のロッソは、大会のことを知らなかったようだ。王都住まいの友人に「これは何のことだ」と尋ねかける。〈ユンス〉は、ものすごい勢いで羽ペンを動かしていた手を止めて、チケットをしげしげと見た。
「春の剣術大会の最終日のチケットだな、しかも特等席だ」
「剣術大会とは?」
「ロッソお前……まあ、らしいといえばらしいが。剣術大会は、国王主催で、王国剣師団の若手が腕を競うんだ。一度見に行ったことがあるが、闘技場いっぱいに人が埋まっていたな」
「それはひどい」
ご主人がしかめっ面をしたので、妹の方はハラハラしていた。顔を青ざめさせて、二人のやりとりを見守っている。
「それにしても、誰から貰ったんだ」とご主人。
「あの……マーシャルさんから……さっき道案内してもらって」
「ああ、シャリーか。だが、本当にくれたんだろうな。お前がせびったわけじゃなく?」
ビアンの顔色が青を通り越して紙のように白くなった。見かねた〈ユンス〉が助けを出した。
「多分本当だろう。アイツは剣師団にも顔がきくからな。というか、大会に出場してるんじゃないか?その伝手で手に入れたんだろうから、気にせず使ってやれ」そのあとにボソリと、「やけに大人しいと思ったら、そういうことだったか。一言くらい言っていけばいいものを」と付け加えた。
それを聞いて、ビアンとネコが目を見合わせた。小さなご主人にも予想が付いたのだろう、あの時〈マーシャル〉が言おうとしていたことに。小さなご主人は気が弱くて臆病だけれど、その分人の気持ちを察することは上手かった。
「あ、あの……このチケット、きっと……」
あなたにあげたかったんだと思います、というビアンの言葉は、最後まで言い終えることはできなかった。敏感や繊細という言葉からは最も遠い位置にいるロッソが、横槍を入れてきたからだ。
「ビアンのあれを手伝いといったらいいのか、邪魔をしていたと言ったらいいのかは分からんが。まあ、ユンスの言うことにも一理ある」
ロッソは、ビアンにチケットを返すとこう言った。「行ってもいい。ただし、ボクはついていけないから、リングア(ここでご主人はベッドの上のネコをちらりと見た。空気の読めないご主人に呆れながらも、分かっていると頷いてやる)を連れて行くように」
「おいおい」〈ユンス〉は呆れているようだ。「猫が護衛になるのか?」
「ああ、リングアは賢い。下手な人間より、余程役に立つ」
きっぱりとご主人が言い切ったので、〈ユンス〉は好奇心に満ちた視線をネコに向けてきた。誇らしくなって、丸めていたからだを伸ばす。尻尾をなるべく格好よく揺らしてみた。
「リングアっていうと、“言葉”という意味だな。お前がペットを飼うなんて珍しいと思ったが、人語を解すのか、この猫は」
「ああ……せっかくだから、見せてやろう」
尊大な口ぶりでそう言って、ご主人はネコを抱き上げた。普段の言動のわりに、抱き上げたり、首元を撫でたりする手つきはとても優しい。気持ちよくてゴロゴロと喉を鳴らしそうになったが、その前に人間たちの期待に応えることにした。
ロッソに抱き上げられて、ユンスと顔を突き合わせるようにする。ネコは喉の奥に溜めていたものを引き出した。
「――――ユンス、ユンス、ユンス」
甲高い子どもの声が、部屋の中に響いた。ビアンの声ではなく、それよりももっと幼い声をしている。〈ユンス〉はあっけにとられていた。
「喋れるのか?!」
予想通りの驚きっぷりに、ネコは満足して目を細めた。
「そうだ。無論、条件はある」ロッソは、ネコの毛並みを整えるように撫でつけた。「喋る言葉の長さに制限はない。ただし、同じ言葉を三回つづけて繰り返す必要がある。一番最近に三度繰り返された言葉を、喋ることができるんだ」
「……驚いた」
〈ユンス〉はすっかり感心したみたいだ。ネコをつくづくと眺め、喉を撫でてくる。ご主人より下手で、こそばゆかったが、彼の驚きように満足していたので繰り返してやった。
「ユンス、ユンス、ユンス」
「それって、俺の名前だよな?一体誰が言ったんだ?ロッソか」
「いや、今日は朝からリングアに会っていない。大体、ユンスとは同じ部屋にいたから、三度も名前を繰り返して呼ぶ必要はない」
「……ビアンか?」
小さいご主人が、首がもげてしまうんじゃないかと心配になるくらい勢いよく首を横に振った。
「隊長やキルシュさん、ではないだろうし……」
〈ユンス〉は不思議そうに首を傾げている。ロッソは次の実験の準備に入り、ビアンはドアの近くで落ち着く場所を探して、きょろきょろとしていた。
〈ユンス〉の黒い二つの目が、ネコの赤い目をじっと見つめた。ネコはこの時気が付いた。〈ユンス〉の目は、暗い海の色をしているのだ。じっと眺めていれば、遠くに灯台の光が見えるのではないかと思うほど、暗い夜の海がそこにある。
「お前、いったいどこにいたんだ」
その質問には、すました顔で小首を傾げて答えた。人語じゃなくても伝わっただろう。「知らないよ」としらを切ったのだ。知っているけど、教えてやらない。
翌々日、ビアンは張り切って早起きをした。
ロッソは昨日も〈ユンス〉の部屋に泊まり込んだため、二つ並んだベッドの内、一つは空っぽだ。シーツは清潔なままで、使われたあとがない。ベッドは窓に対して平行に二つ並んでいたので、ビアンはベッドに膝立ちになって、出窓の錠を外した。窓を開け放つと、一気に外気が入り込んでくる。あたたかい春の風が部屋に吹きぬけた。小さいご主人より前に起き上がって、丸椅子の上で丸まっていた猫は、ピンクの口の中を見せるように大きな欠伸をした。
昨晩、迷惑になると嫌がるビアンの背中を押して、剣師団まで連れて行った。目尻に涙をためながらおろおろしているビアンを哀れに思ったのだろう。ネコの予想通り、団員の一人が寄ってきて、事情を聴くと〈マーシャル〉の元まで案内してくれた。
『あれ、ビアンちゃん!どうしたの?』
『あ、あの……お兄ちゃんが、明日見に行ってもいいって……それで』
しどろもどろになっていたが、マーシャルは説明せずとも分かってくれた。にっこりと得意げな笑顔で言う。この頃には、ネコは、最初の「大人しい人間」という〈マーシャル〉への評価を改めていた。
『良かった!私、明日も出れることになったから。ママとマリアの応援だけじゃ、ちょっと寂しいと思ってたのよね』
『あ、でも……本当にわたしがもらってよかったんですか?……チケット、他の人にあげるつもりだったんじゃ……』
『いいのよ、どうせあげたって行かないだろうしね。ビアンちゃんが来てくれた方が嬉しいわ』
明快な調子で言われて、ビアンもようやく納得がいったようだった。何度も「ありがとうございます」と繰り返して、ペコペコお辞儀をしている。お辞儀人形にでもなったみたいだ。
正門の所まで、〈マーシャル〉が送ってくれた。俯いていっこうに視線を上にあげないまま、ビアンが最後にぼそぼそと付け加えた。
『あの……お兄ちゃんからも、ありがとうって……』
『そう、ロッソから』
〈マーシャル〉の答えを聞いたビアンの表情が曇った。
〈マーシャル〉はそれまでと変わらない表情でいたつもりだろうが、ネコと小さいご主人には分かってしまった。花が咲いたような笑顔が一瞬ひきつり、言葉もそっけなくなったことに。
『ご、ごめんなさい……お、お兄ちゃんが、何かしましたか……?』
別段、珍しいことではなかった。ロッソは敵を作りやすい性格で、友達をやっている〈ユンス〉が特殊なのだ。それが分かっているから、ビアンの両足は小刻みに震えはじめた。こういう時、ネコは小さいご主人を哀れに思う。ロッソも、もう少し態度を改めてくれればいいのに……。
幸いなことに、〈マーシャル〉は小さいご主人を責めたりはしなかった。『そんなことないわ』と否定してくれる。
『マフィンももらったし……そうだ、ビアンちゃんお菓子作りが上手なのね』
『いえ……わたしもお兄ちゃんも、いつも迷惑をかけちゃうので、ほんのおわびです……』
『本当になんでもないったら。そりゃあ確かに、ロッソはちょっと変わった人だとは思うけど。……一応、シルバートの友達らしいし』
ビアンはだんまりになって、ペコリと一度お辞儀をした。チケットのお礼ではなく、ごめんなさいという意味のお辞儀だ。〈マーシャル〉は否定したけれど、どうにも疑わしい。経験から言えば、こういう時、ご主人が何か喜ばしくないことをおこなうか言うかしたのは確かだ。
気まずい空気を残したまま、〈マーシャル〉とはそこで別れた。
歩きながら、ビアンが悲しそうなため息を吐く。
『どうしよう……何か、おわびとお礼をしなくちゃ……』
足取りの重くなったビアンを慰めるため、ネコは気遣わしげな声を何度も発しなければならなかった。可哀そうな小さなご主人!
小さなご主人が立ち直れるか心配していたが、一晩たって、幾分か気分も回復したようだ。青白い顔色に変化はなかったけれど、一張羅のワンピースを着て、「行こう」とネコを手招きした。ビアンはいつも朝食を食べない。兄がしょっちゅう食事を抜くので、妹にまで移ってしまったのだ。ネコはよくないことだと常々思っているが、今のところ直せていない。難儀なことだ。
ネコとビアンは並んで闘技場までの道を歩いた。正門前の跳ね橋を渡ると、目の前には大通りが真っ直ぐに伸びている。学院内のどの道よりも横幅が大きくて、長さもあるようだ。今の時間帯は朝市が開かれているらしく、道の両側で魚や肉、野菜や果物といったいろいろな食材を売っている。パンやチーズはグラム単位で量り売りしてくれる。途中で、豚の丸焼きをでんと店頭においた店があって、ビアンは目を真ん丸にしていた。ネコは、その反対側の魚の店の方が気になったが。
ふらふらと大通りを歩いていた一人と一匹だが、朝早くに王宮を出たため、大会がはじまる大分前に闘技場に辿り着くことができた。
「……大きい」
ビアンがぽかんと口を開けて呟く。ネコも驚いていた。天上がない円形のドームは、黄色っぽい石でできていて、たくさんある入り口は青や緑のタイルで飾られていた。仕合が始まるまでにはまだ随分あるが、すでにたくさんの人がひしめいている。ビアンは、闘技場に近づこうとするたびに人にぶつかることになった。背が小さいので、まわりからは見えていないのだ。とうとう、ビアンは人ごみからはじき出されてしまう。ネコは慌てて駆け寄った。目の前にあるはずの闘技場が、とても遠い場所に見える気がする。
「にゃー」とネコは鳴いて、地面を前足で二回叩いた。ここで待っていなさい。座り込んでしまったビアンは涙目で頷いた。
ネコはビアンを何度も振り返りながら、近くの屋根に飛び乗って、人ごみから親切そうな人を見極める。立派な顎鬚のおじさん……ビアンが怖がるからダメ。きれいな女の人……は信用できない時がある。いかつい坊主頭なんてもってのほかだ。
視線を何往復かさせて、ようやくネコは及第点を与えられる人間を見つけた。鋼色の鎧を着ているから、きっと剣士のはずだ。それなら闘技場にも詳しいはず。首から上も、親切そうな顔立ちをしている。特に、鳶色の瞳はビアンを怖がらせないだろう。
しなやかな跳躍で、ネコはその人間の足元に着地した。いきなり現れたネコに、青年はギョッとしている。彼の硬い靴をひっかいて、ついて来いと尻尾を振る。案の定、親切そうな青年はあとを追ってきた。人ごみを抜けると、ビアンは先ほどと同じ場所に佇んでいた。ほっとして、駆け寄り、ついてきた青年を見上げた。意味ありげに目くばせすると、青年はネコの言いたいことを理解してくれたようだ。
「どうしたんですか、迷子?」
ビアンがびくりとして、一歩退いた。脱兎のごとく逃げ出しそうな両足を、ネコは全身で押し返す。
ビアンが怯えないようにと、青年は高い腰を折ってしゃがんでくれた。「どこへ行きたいんですか?」と再度聞いてくる。ビアンは何度も口を開閉して、ようやく言葉を発した。
「こ、これ……」
そう言って、〈マーシャル〉からもらったチケットを見せる。小さいご主人にしては、賢明な判断だ。口で説明していては時間がかかる。もしかしたら何時間もかかるかも。
「ああ、大会を見に来たんですね。大丈夫、席まで案内しますよ」
青年はビアンの右手をとって、闘技場へと歩き始めた。ネコもそれについていく。青年は背の高い人間だったので、手を繋ぐと、ビアンの右手は地面と平行に伸ばさなければならなかった。
青年は人ごみを避けて、ぐるりと闘技場を半周した。すると人の数が減ってきて、ビアンもぶつからずに歩けるようになった。
「誰かの応援ですか?とても良い席ですね」青年が話しかけてきた。ビアンはまた言葉に詰まったが、今度はそれほど待たせずに返事をした。
「チケットは、も、もらって……。マーシャルさんに……」
「マーシャル?」
青年の足が、ピタリとその場で止まった。ネコとビアンもそれにならう。急に立ち止まった青年を、一匹と一人は怪訝に思った。
「マーシャル=ディカントリー?」
ビアンが躊躇いがちに頷いた。青年の顔に浮かんでいたはずの穏やかな笑みが消え去っていることに気づき、ビアンが不安げに足踏みした。
「シャリーの応援に来たんですね――――でも、ごめんなさい」
いきなり謝られて困惑する。どういうことだ?そもそも、この青年と〈マーシャル〉は知り合いなのだろうか。
「僕も今日出場するんですけど、勝ち進めば準決勝でシャリーと当たる予定です。あなたには申し訳ないですけど、僕が勝ちます」
「そ、そんな……でも」
ビアンはすっかり戸惑って、視線をうろつかせている。〈マーシャル〉を庇った方がいいのか、迷っているのだろう。頼りにならない小さいご主人の代わりに、ネコが一歩前に出て威嚇するように歯をむき出しにした。青年は、こちらをじっと見つめてきた。怖いほどに真剣な目をしている。
「負けられない、大切な仕合なんです。僕が今まで頑張ってきたのは、この日のためだったと思うくらいには」
今度はネコも困惑した。〈マーシャル〉とこの青年は、仲が悪いのだろうか。どちらも良い人間に見えたけれど……。
「すみません、立ち止まってしまって。さあ、この入り口から入れば、すぐですよ」
青年の顔に笑顔が舞い戻ってきた。ビアンがほっと胸を撫で下ろしたのが分かる。ネコも安心した。
弧を描く壁を四角くくり抜いたような入り口を入ると、目の前に階段が現れた。上に伸びたその先は、闘技場の中へと続いている。階段をのぼり終えると、闘技場内がぐるりと見渡せる場所に出た。簡素な椅子がぎっしりと会場を埋めている。見上げると、ずっと上の方まで席が続いている。
そんな中、青年が案内してくれたビアンの席は、なるほど特等席というだけのことはある。仕合をする場所を目の前に見下ろすことができ、仕合場を隔てた向かい側には王族が座るバルコニー席があった。
「それじゃあ、楽しんでいってください」
「あ、ありがとう、ございます……」
ビアンが何度も頭を下げる横で、ネコはのんびりと尻尾を振る。青年は爽やかに微笑んで去っていった。
ネコたちが着席した当初はあいた席が目立った闘技場内も、一時間もしないうちに満席となった。がやがやと会場内が騒がしくなる。ビアンは縮こまるようにして席に座っていた。石を四角く切り出しただけの椅子は、座っていると体温が移ってあたたかくなる。頭上からは夏を思わせる強い日光が降り注いでいた。
しばらくして、バルコニー席に人影が現れた。ざわつきが大きくなり、会場の真ん中にピストルを持った人間が現れた時には、熱気は最高潮に達していた。
銃声が鳴り響くとともに、剣術大会最終日が開幕した。




