篝火が照らす夏のおわり
姉弟のような母子の姿が路地に消え、一分ほどが経過して、マーシャルはようやく大声で叫ぶことができた。
「いったーい!」
背中に隠していた右腕を前に回して、そのままうずくまる。肘から下の部分が、ざっくりと縦一文字に切れていた。血が噴き出して、腕を伝っている。側頭部で結んだ髪が、しぼんだ尻尾のようにペタリと垂れて、顔に張り付いてくる。それを払いのける余裕もなく、ぶるぶると震えた。
痛い、痛い、いたい!
さすがのユンスティッドも皮肉を抑えた。膝を折って、蹲るマーシャルの右腕を取る。ジュレインと共に川に落ちた時に、川底のとがった石で切ってしまったのである。
「じっとしていろよ」
「何よ、治してくれるわけ」
そんなことできっこないんだから、早く王宮で手当てしてよ、と思ったが、意外なことにユンスティッドは首を縦に振った。
「一応な」
マーシャルはびっくりして、膝に埋めていた顔を上げた。キルシュとジュレインに悟られないように堪えていたため、目尻にはうっすらと涙が光っている。いくら鍛えていても、痛いものは痛い。とっぷりと日が暮れていたおかげで、あの親子に気づかれずにすんだことは、本当に良かった。知られていたら、きっととても心配をかけてしまう。
傷口にそっと手を当てたユンスティッドが、ぶつぶつと何事かを唱えはじめた。恐らく呪文だろうが、マーシャルの聞いたことがないものである。ピリッと痺れるような痛みが右腕に走ったかと思うと、傷口の部分が淡く発光した。目を見開いてその様子を見守った。
「わあ、これって治癒魔法よね。はじめて見た」
みるみるうちに大きく裂けた傷口がふさがって、跡形もなく消えて行った。驚くべき光景に感嘆の声を上げる。ユンスティッドが手を離すと淡い光は消えて、こびりついた血痕以外、傷一つないマーシャルの腕だけが残された。
「治癒魔法なんて使えたのね。すごいじゃない!」
さすが天才魔法師なんて恥ずかしい呼称が付くだけあるわね、と褒めてあげた。褒め切れていないのは、驚いた名残で本音が飛び出てしまったからである。余計なこと言っちゃったな、と後悔した。しかしながら、「誰かさんのおかげで生傷が絶えないもんでな」と、ユンスティッドの方も皮肉を復活させていたので、すぐに後悔を取り消した。
「へーええ、でもそれって誰かさんのせいじゃなくて、怪我をする方が軟弱なだけじゃないの。そいつが身体を鍛えれば、こんな風に治癒呪文を覚える手間もなかったわよきっと」
中央の大通りに向かって川べりを歩きだしたユンスティッド。それを追いかけながら言い返す。ユンスティッドもいつもの調子で言い返してきたと思ったが――――。
「俺が身体を鍛えたところで、まあいつかは覚えざるを得なかっただろうな」
ん?とマーシャルは首を傾げた。一瞬意味が分からなかったが、思い当たって、ポンと手を打った。
「アンタがどうしようもない魔法オタクだからってことね」
ユンスティッドの黒曜の瞳がすっと細まり、川べりの気温がさらに下がった気がした。どうしたのよ?マーシャルは困惑した。急に機嫌が悪くなったりして、何か不味いこと口にしたかしら。
悩むマーシャルの右腕を、振り返った魔法師の少年がパチンと叩く。傷がふさがったとはいえ、ついさっきまで血を流していた腕を!その拍子に、僅かな困惑も水泡のようにパチンと消え去った。
「痛いじゃない!」
「今のはお前が悪い」
「どこが?!アンタが叩いてきたんでしょ」
叩くついでに、預けていた水色のローブをバサリと頭にかぶせられていた。いつの間にか乾かされている。ユンスティッドの魔法に違いない。着てやるのも癪だったが、濡れた素肌に夜風が触れるたび寒さに震えるのもいやであった。渋々ローブの袖に腕を通す。ほんのりと温かかった。
ていうか、とマーシャルは追及した。この男が治癒呪文を前から使えたなら――――最低でも一月前から使えたとして。
「なんでアンタ自分の怪我を治さなかったのよ」
「何のことだ」本気で首をかしげているから始末が悪い。マーシャルはイライラしながら教えてやる。
「一月前!私がドアを開けたせいで、手首をねん挫してたじゃない」
ユンスティッドも思い出したようであった。ああアレかと頷いて、さも当然という調子でマーシャルに言った。
「お前のせいで怪我したんだ。お前に償わせるのはあたりまえだろう」
マーシャルは半眼になった。足を止めて、ユンスティッドの背中をじっと睨みつける。彼が足を進めるたび、水色のローブにしわが寄った。キルシュに宣言した通り、本当にランタンの出来を見に行くのだろうか。大通りまでたどり着くと、道を右に曲がって、中央広場に向かって歩き始めた。後ろを振り向こうともしない。
遠ざかってゆく背中に向かって、思いっきりあっかんべえをしてやった。
そりゃあごもっともですけどね!
治せるならさっさと治せばよかったじゃない。マーシャルはかっかと頭に血を上らせる。
広場の方からだけでなく、街中から陽気な音楽が聞こえてきていたが、耳をすり抜けて行ってしまう。立ち並ぶ家の軒先には鮮やかなランタンが吊り下げられていたが、それも目に入らなかった。灰色の石畳を蹴りつけながら、マーシャルは広場へと歩を進めて行く。通りは祭りのせいで汚れていて、道の両脇にはワインボトルが転がっていた。豊穣祭最後の日まで、こんな気分にさせるなんて、ある意味見上げた根性だわ。
やにわに、前方からの視線を感じた。ユンスティッドかと思い、厳しい顔をして目線を上げ、ふっと表情を消した。まわりはランタンの灯でこんなにも明るいのに。世界中でマーシャルの心の中からだけ、明りが消え去ったようである。
(本当に、見上げた根性だわ。こんな、こんなに嬉しくない偶然まで連れてきてしまうなんて)
――――もう長い間向かい合うことのなかった、鳶色の瞳の少年が、数歩離れた所からこちらを見ていた。
短くて柔らかそうな茶色の髪、姿勢のよい立ち姿。彼は、剣師団の緑色の制服を着ていた。鳶色の目は、一年前とは違った光を宿してマーシャルを見ている。
その視線の強さに気付く。神殿で自分を見つめていた人は、ジュレインのはずがない。ハロルドだったのだ、と。
「お久しぶりです」と言われて、「久しぶり」と小声で返した。
それ以上言葉が続かない。さっき川に落ちてね!なんて、一年前ならともかく、気軽に話せるような間柄ではなかった。去年のあの出来事から、剣師団に出向いた日に一方的に姿を見かけることはあっても、こうして面と向かって話し合うことはなかった。
なにを話したら……石畳の上で視線を彷徨わせていると、予想外なことに向こうから話しかけてきた。
「昨日のパレード、見ていましたか」
実に素っ気ない口調で問われて、マーシャルは戸惑った。うろうろと泳がせていた視線を上げてハロルドを見ると、彼の姿がさきほどよりはっきりと分かった。前よりもすっと背が伸びて、顔つきも大人っぽくなっている。前髪が少し伸びたかもしれない。鳶色の目は、何を考えているのかわからなかった。
(なんで、そんなこと聞くのよ)
仲直りのきっかけ作りのため、というわけでもなさそうである。迷った末に、仕事で見に行けなかったと正直に答えた。これ以外に答えようがなかった。
「そうですか」とハロルドは言って、くるりと背中を向けた。
今にも立ち去りそうな雰囲気に焦って、「待って」と手を伸ばす。
「何ですか」
「何って……」
言うべき言葉が見つからなかった。
先ほど絶句していたキルシュとは違う。誰もマーシャルの心情を理解して助けてくれる人はいない。いや、なくしてしまったのである、一年前に。
拳を握りしめて、馬鹿なことをしてしまったと自分の行動を悔いる。引き留めて、私は何を言おうとしたんだろう。つい数日前に思ったばかりじゃないの、会いたくないって。
「何もないなら、これで」
今度こそ立ち去っていく背中に、途方に暮れた視線を投げるばかりである。これで?これでお別れなの?
嫌だと思ったけれど、引き留めるための正しい言葉を探し当てることが出来なくて、マーシャルは結局小声でつぶやくにとどめた。
「またね」と消えそうな声で、決して聞こえないように再会の期待を込める。
――――ごめんなさいと謝って許されるなら、とっくにそうしている。
あの冬の終わりの日に、ハロルドを傷つけてまで選んだ道。それを彼に認めさせるには、マーシャルは二歩も三歩も足りない。
(でも、きっといつか)
諦めることはしたくないから。
とぼとぼと落ち込んだ足取りで広場に辿り着いた。中央広場のど真ん中にある噴水の側では、かがり火が燃えていて、その周囲をぐるぐると回りながらたくさんの人たちが踊っている。王宮からわざわざ派遣された十人ほどの楽隊が、絶え間なく音楽を奏で、ダンスパーティーを盛り上げていた。広場だけでなく、その次の通りでも、そのまた次の通りでも、陽気な歌声とタップの音が聞こえてくる。木靴が石畳をカツンカツンと叩くと、それだけで一つの音楽のようである。
ユンスティッドは、広場の隅っこからその様子を眺めていた。その顔はかがり火の明りを受けて、うっすらとオレンジ色に染まっていた。マーシャルは歩み寄って、隣に並んで座る場所をさがした。酒樽がいくつも転がしてあったのである。<三〇年製、北の町ボレアース>とラベルに描かれた酒樽に、マーシャルは腰を下ろした。濡れていた身体が、広場の熱気で少しずつ乾いていくのを感じる。
「踊らないの?」と尋ねた。ユンスティッドは、もううんざりとでも言いたそうであった。
「馬鹿言え、今日は十分に疲れた。もう体力が残っていない」
「だらしがない」
そう答えたものの、マーシャルもいまいち踊る気にはなれなかった。かわりに、オレンジの屋根の軒先に吊るされたランタンを見て行く。左から順に、緑、赤、紫、虹色、あれは透明なのかしら、クリスマスカラー……七番目のランタンに目を留めた。
「ねえ、あれって私たちが作った奴よね。ピンクのハート形の」
ほらほら、と指さした方を、ユンスティッドが目を細めて見る。
「お前、よく見えるな、あんな遠くの。確かにピンクっぽいけど、他にもピンクのキャンドルなんてたくさんあったからな」
「間違いないわよ、私、目は良いんだから」
「本を読まないからだろう」
「最近は頑張ってるでしょう!」
馬鹿にするような言い方に憤慨して立ち上がる。座っていた酒樽がぐらついたが、底に少しだけ残っていたワインの重みで元に戻る。タプンと音が鳴った。
ハート形の炎が揺れるキャンドルの下では、丁度若いカップルがダンスしている。くるくると回って……あっ、男の人が女の人を抱き上げて回りはじめた。なかなかの踊りっぷりである。
――――今頃、街中が私たちの作ったランタンで照らされて、皆が楽しそうに踊ってるんだわ。
そう考えると、落ち込んだ気分が盛り返してきた。踊りたい気持ちなどまるでなかったのに、急にダンスに交じりたくてたまらない気持ちになる。
「ねえシルバート、踊らない?」
「いやだ」
にべもない回答にもめげず、マーシャルは粘った。今から実家に帰って誰かを誘いに行っても、間に合わないのは分かっていた。さりとて、ここにいる人たちにはすでにパートナーがいるようである。飛び込んでいくのも邪魔だろうと思った。
「お願い、一回だけでいいから」
三回目にそう頼むと、ユンスティッドはため息を吐いて立ち上がった。どうやら踊ってくれるつもりらしい。勝った!と勝利の拳を突き上げる。嫌味な相手を負かした時の爽快感は、格別のものである。とりわけこの少年を根負けさせたときなどは。
「一回だけだからな」
「分かってるわよ」
念を押されて承知する。
広場で繰り広げられるダンスに決まりはない。それぞれが好き勝手に踊る。マーシャルとユンスティッドも、簡単なステップを踏みながら噴水とかがり火のまわりを回った。
ユンスティッドの仏頂面と額のこぶが明かりに照らされるたび、マーシャルはくすくすと笑いを漏らした。去年はマーシャルより低かったユンスティッドの身長は、今では自分と同じか少し高いくらいになっている。それについて言及しようとしたところで、軽快なテンポの音楽が止んだ。
残念だな、と思いながらも、約束は守らなければならないため、つないでいた手を離そうとする。
「え、何?」
驚いた声を上げたのは、離そうとした手をユンスティッドが握り直してきたからである。きょとんとするマーシャルに、彼は気が変わったと言った。
「どうせ一回踊ったんだ。もう少し踊ったって、同じことだろう」
マーシャルは堪えきれず笑いを噴き出した。手はつないだまま、けらけらと声を立てる。笑いすぎて涙が出た。
なんだかんだ、この仏頂面のパートナーもお祭りを楽しんでいるのである。
「体力は限界なんじゃなかったの」
「お前とデュオを組んでいるせいか、結構鍛えられたみたいだな」
二人は同時ににやりと笑って、次のダンスのステップを踏み出した。有名なワルツの曲である。人々の輪が、また動き出した。バイオリンの弦がすばやく動いているのが視界の端に映る。ホルンが三拍子を刻み、女性のフルート奏者が立ち上がって、春の小鳥のさえずりのようなメロディーを紡ぎだした。
――――春から季節が巡り、冬がやってくる。大地は長い冬に閉ざされるが、やがて雪解けがはじまり、草花の芽吹く春が再び訪れる。
ワルツが最高潮に盛り上がる場所になった時、マーシャルとユンスティッドは、あのキャンドルランタンの真下にいた。ピンクのハートが揺れるランタンである。
僅かに霞がかかった夜空の下、黄色い半月に見下ろされながら、王都の人々は踊り明かした。いつもは喧嘩ばかりの二人も、今日だけは休戦して心行くまでダンスを楽しむ。勿論、小さな口喧嘩は絶えなかったけれど。
その年の豊穣祭で踊ったダンスは、それまでの年よりずっと楽しかったとマーシャルは思った。
吹き上げる噴水の横で、新たに薪をくべられたかがり火が、空高く燃え上がった。