大丈夫だよと微笑んだ
「そいつ、確実に何か知ってるな。もしくは犯人か」
マーシャルから話を聞いたユンスティッドは、開口一番にそう言った。背もたれに寄り掛かってふんぞり返っている彼の瞳には、復讐の炎が燃え盛っており、マーシャルは頷こうか頷くまいか決めかねる。なんだか私情がたっぷり含まれている気がする……。
昨晩、北の塔に駆け込み、そこにいた文官にキルシュの容体を伝えた。文官はすぐさま王宮の医師に連絡をとり、キルシュは魔法師団を離れた王宮内部の看護室に運び込まれた。心配で堪らなかったマーシャルは、明け方までずっとキルシュの側に付き添っていたのである。いつも穏やかに微笑んでいたはずのほっそりとした顔は、夜中になって上がってきた高熱にうなされ、医師が峠を越したというまで、気が気でなかった。外では、とうとう降り出した雨粒の音が響いていた――――。
つきっきりで看病していたマーシャルを見かねて、日が昇る前に帰りなさいと医師が言ってくれた。あとは任せてくれと言う言葉に甘えて、降りしきる雨の中をようやく自分の隊舎に帰り着くことができたのである。
ところが!自室に戻ってひと眠りしようとしたマーシャルを、考え得る限りで最悪の災難が襲った。
『なんで部屋の前で待ち構えてるのよ!』
ショックの余り叫びそうになったのも、いたしかたないことだろう。休息地であるはずの場所の前で、険しい顔のユンスティッド=シルバートが立ちふさがっていたならば、誰だってこう思うに違いない。神さまの意地悪!
仏頂面のユンスティッドは言った。『昨日の夕方からの記憶がさっぱりない上に、起きたら額にこぶができているときた』
前髪で隠されてはいたが、彼の額の真ん中が見事なこぶになって腫れあがっている。パートナーのいつになく間抜けな姿に、マーシャルは笑い出しそうになった。駄目よ笑っちゃ、これ以上不機嫌にさせたら面倒だわ、と必死にこらえる。
『で、私にどうしろって言うのよ。疲れてるからさっさと寝たいんだけど』震える口許を隠すようにそっぽを向きながら話す。
『どうしろもこうしろも、説明してもらわなけりゃ腹の虫がおさまらない。なんのためにお前を待ってたと思うんだよ』
『何のためって……』マーシャルの視界に少年のこぶがまともに入ってきた。
もうダメ!噴き出して、げらげらと腹を抱える。ユンスティッドのこめかみがピクピクと引きつった。むんずと少女の襟首を掴んで、自分の部屋まで引きずっていく。マーシャルは笑いながら思った。昨日は私が引きずったけど、これでお相子ね。謝らなくて済むわ、と。
マーシャルを床に放り出し、自分は背もたれ椅子に座った黒髪の少年は、「さあ説明しろ」と言わんばかりの態度で睨み付けてきたのであった。
閉めきった窓の外から、叩きつけるような雨の音が聞こえている。じめっとした部屋の中で、一人分の話し声が、随分と長い間つづいていた。
「と、いうわけなのよ」少年を見下ろすように立ち上がったまま、説明を終えたマーシャル。黙って聞いていたユンスティッドがおもむろに口を開いたかと思うと、先程の言葉が飛び出てきた。そう、つまりは、「ソイツが犯人」。
眠り薬を盛られたパートナーがひどくご立腹なので、もはや冷静な思考が出来ていないのではないかと案じて、「何でそう思うの」と、慎重に尋ねた。
「まあお前も言っていたことだが、まず昨日のあの時間に魔法師団に侵入していた時点で怪しい。仕事があったり、よっぽどの変人でない限り、パレードを見に行っていたはずだからな。大体、銀髪の魔法師は俺も知らない」
「じゃあやっぱり、魔法師じゃなかったのね」
「おそらくな。……そんな奴に薬を盛られたかと思うと、はらわたが煮えくり立つな」
苛立たしげな舌打ちが聞こえる。マーシャルは気付かれない程度にそっと身を引く。もう少し冷静になったら?と忠告しようとしたところで、「仮に犯人じゃないとしても、魔法師団の敷地内に無断で侵入したという点だけで詰問の意味はある」と、意外にも冷静な声がしたために、胸を撫で下ろした。
「それに、もしかしたらそいつ、薬を盛っただけじゃなくて……」
少年はそこで言葉を途切れさせた。椅子から身を起こして立ち上がる。首を傾げたマーシャルと目線が合う。
「午後からキャンドルランタンを配る予定だろう」
「ええ、それを見届けたら私たちの仕事は終了だって……あっ、そういえば最終確認してないわ。バタバタしてて忘れてた」
あちゃー、と頭を抱える。ユンスティッドが、「いや」と首を横に振った。
「問題ない、今からやれば間に合う」
「でも、その犯人探しはいいの?豊穣祭が終わってからだと、私も剣師団の方との兼ね合いで忙しくなるし、ちゃんと探せないんじゃあ」
マーシャルの懸念を、ユンスティッドは遮った。「キャンドルランタンは、俺たちのだけじゃなくて、他が作ったものもまとめて一斉に配られる」
「それが?」
「よく言うだろう、犯人は現場に戻って来るって」
聞いたことないわ、と思ったが、馬鹿にされるのが嫌なので黙っていた――――キャンドルランタンと犯人に、どんな関係があるって言うんだろうか。
昨日から降り続いていた雨は、お昼を過ぎて小雨になり、キャンドルランタンを配る時刻にはすっかり降り止んでいた。
王宮の門の前には、王宮と市街地の間を横切る川がある。その市街地側にある、柵で囲まれた空き地に、ぞろぞろと木箱を抱えた人たちが整列した。皆一様に水色のローブを着ていて、長い裾が波打っていた。マーシャルとユンスティッドの姿も、その中に見える。
昨日まで殺風景だった空き地には、王国の紋章が縫い取られた旗が等間隔で置かれた。大きく柵の開いた入り口には緑の制服の剣師団団員がずらり並び、今や民衆を圧倒するような風格をもっている。柵に括り付けられた赤い旗が、雨上がりの湿った風にパタパタとなびいていた。
木箱を抱えた人たちが、入り口側をあけてコの字型に並び終えると、じりじりと待っていた民衆がどっと押し寄せてきた。剣師団の団員が、柵の外でそれを抑えている。すさまじい騒ぎに、まだ若い人たちは一歩退いた。マーシャルも「うわあすごい」とげんなりした声を漏らしてしまう。
王立学院の先生の声が、朗々と響いた。大講義室で生徒を相手にする時のように、はきはきと言い聞かせる口調である。
「これより、豊穣祭の最後を飾る、キャンドルランタンの配当を行います。皆さん、押さないで、剣師団の団員たちの誘導に従ってください。きっちり四列になって、ランタンは一家に一つずつです。係の者に家名を申し出て下さい」
今日は、この空き地以外にも五か所のランタン配当所が設けられていた。それでも押し合いへし合いの大騒動。大軍が迫ってくるみたい、とマーシャルは無意識に太腿に備えたナイフをさすった。
全部で二四個の木箱には、それぞれ異なる種類のキャンドルが詰められている。ランタンのガラスケースは剣師団団員が別の所で配っていた。
空地へ通された人々が、好き勝手に木箱の元へ駆けより、我先にと気に入ったランタンを手に取って行く。応対のために待機していたはずなのに、人の多さに圧倒されてぐるぐると目が回った。気が付いた時には日が暮れかけ、最後の四人が空き地に通されたところであった。マーシャルの木箱はもう空っぽで、隣のユンスティッドが持ってきた木箱も同じ状態のようである。箱の中を覗き込むと、色とりどりのキャンドルがなくなったせいか、がらんとして寂しげにみえた。
(キャンドルはいつも父さんたちが持って帰ってくれてたけど、毎年こんな騒ぎになってたのね。全然知らなかった)
豊穣祭の新たな一面を知ってしまった。冬になると寒くて外で騒ぐなんてそうそうできないため、皆最後の機会を楽しみたいのだろう。
「ねえシルバート、知ってた?こんな風に毎年――――」
「しいっ!」
突然ユンスティッドが鋭い声を発し、マーシャルの口を問答無用で塞いできた。片手で口をふさがれて、もがもがとわめく。そのうち力づくで口を覆う手を引きはがした。
「いきなり、何?!」カッとして突っかかると、ユンスティッドが睨んできた。
「静かにしろ……あっちだ」
方向を指し示すように、少年の黒目がすっと動く。それに従うと、空き地の低い柵の外に小さな人影が見えた。よくよく目を凝らして、マーシャルはハッとする。空き地の隣の家の陰に隠れていて背中の半分ほどしか見えないが、うなじの少し上から一本の三つ編み垂れていた。日が落ちた時間帯にもかかわらず、きらきらと銀色に光っている。
ユンスティッドの腕を掴んで、小声で話しかけた。
(アイツ、私が見かけた奴だわ)
(間違えないか)
(元々顔は見てないもの、間違ってたら一緒に謝ってよね)
ユンスティッドが声には出さず、口の形だけを変えて伝えた。「い・や・だ」マーシャルは理解できないふりをした。誰が聞くもんか。
(それにしても、アンタ、あいつがここに現れるって分かってたみたいじゃない。どうして?)
銀色の三つ編みは、先程と同じ、オレンジ屋根の切妻の下あたりの位置に留まっていた。注意深く観察しながら、空の木箱を抱えて、少しずつ距離を詰めていく。
(言っただろう、犯人は現場に現れるって)
(その意味が分からないの。現場って、この空き地で何か事件があったわけ?)
不審に思われないように、相手の死角に入った。空き地と隣の家の境目――――ちょうど銀の三つ編みの真後ろからじりじり近寄る。
(いや、そんな話は聞いたことがない。俺が言いたいのは、あの三つ編みと俺たちの作ったキャンドルランタンに関係があるかもってことだ)
まさか忘れたとは言わないよな?無言で圧力をかけられ、マーシャルは記憶の引き出しをあさった。該当する事件は意外にもすぐに探し当てることができた。
(キャンドルが盗まれたあの事件のこと?)
(そうだ)
(ええ、まさか!)マーシャルは思わず立ち止まった。声量は最低限に抑えている。三つ編みの人物に会話を盗み聞かれないよう、少し離れた所でユンスティッドを引き留めた。(アイツが泥棒その人だっていうわけ?)
(ああ、だけど理由は聞くなよ。ほとんど勘なんだから)
(ほとんど勘って……、それじゃあ間違ってても私に文句は言えないわよ)
(合っていることを祈るな。元々気になってはいたんだ、あのおかしな泥棒のこと。無断借用者と言った方が正しいか。あんな変な行動しておいて、あれ以降何も起こらなかった。でも、キャンドルランタンに最も関係があるのは豊穣祭――――とりわけ七日目だ)
マーシャルは最後の疑問を口に出した。(でも、ここ以外にも配当所はあるのに、どうしてここだって?)
ユンスティッドは淡々と答えた。(そこは九割がた賭けだった)
マーシャルはがっくりと両肩を落とした。こそこそしなければならない状況でなければ、天才魔法師の名が泣くぞ、と皮肉の一つでも言ってやるところである。
しかし、その時丁度銀色の三つ編みが動いたため、その考えはおじゃんになった。三つ編みを尻尾のように揺らしながら、その人物は空き地と川の間にある道、石畳の敷かれていない川べりを早足で歩いていく。まだランタンに火を灯していない家が多く、辺りは暗かった。午前中の雨で増量した川の水が、ごうごうと音を立てて流れている。地面はぬかるみ、足跡でぐちゃぐちゃになっていた。
しまったな、とマーシャルは思う。まかれてしまうかもしれない。川べりの道は城壁の北から南まで、遮られるものなく続いていて見晴らしがよいが、左に折れれば、すぐに住宅街の込み入った路地に入る。路地にもぐりこまれたら、あの小さい人影の方が有利に違いない。もしあの人物が途中で曲がるつもりなら……。
マーシャルは先手を打つことにした。ユンスティッドにすばやく耳打ちする。「このまま、気づかれないよう追っていて」ついでに手早く水色のローブを脱いで預けた。借りものなので、汚せないのである。そして自分は、気配を完璧に消して、川べりを下りて行った。この川は、大きな台形をさかさまにしたような窪みを流れていて、川べりとの間が急な斜面になっていた。斜面には夏の間に草が生い茂り、今はしっとりと露に濡れていた。
(一か月鍛錬サボってたからと言って、脚力が落ちたわけじゃないわよ!)
泥棒事件からはじまって、さんざん私を悩ませて驚かせてくれたこと、後悔させてやるんだから。
そう意気込むと、濡れた斜面を滑るように走り出した。上の川べりを歩いていたユンスティッドを、あっという間に追い抜かして行く。彼は走り抜けるマーシャルに驚く様子もなく、黙々と三つ編みを尾行していた。意図をきちんと理解してくれたらしい。
気配を消したまま雨の後の地面を走ることは容易ではなかったが、マーシャルはやってのけた。微かな足音は、轟音を立てる川が消し去ってくれる。露の重さで首を垂れた草たちが、ただの緑のかたまりとなって、ビュンビュンと後ろへ過ぎて行く。
あと一息で追いつく、という時になって、上方に見えていた三つ編みの背中が急に消えた。しまった、路地に入り込まれる!
斜面を一気に駆け上がると同時に、太腿からナイフを一本取出し、今まさに三つ編みの人物が入り込もうとしていた路地の左横に向かって投げつけた。ビュンッ!一直線に飛んだナイフが、壁に突き刺さって細かく振動した。三つ編みの背中がぎょっとして飛びのく。マーシャルは、そこ目がけて飛びかかった。
「観念しなさい、このキャンドル泥棒!」
細い片腕を掴み、もう片方の腕とともに背中でねじり上げる。相手がやけになったようにめちゃくちゃに暴れたので、そのまま引き倒してやった。ぬかるんだ地面で泥が跳ねる。べちゃっと嫌な音がした。背中に馬乗りになって、右手でそいつの両腕を抑えたまま、左手で長い銀色の三つ編みを引っ張った。
顔を無理やりに仰向かせると、猫のような形の、黄緑色をした大きな瞳がこちらを睨み付けてきた。尻尾を膨らませて威嚇している表情である。
幼い顔立ちをまともに目にして、マーシャルは、追いかけている途中から抱いていた考えを確信に変えた。
――――やっぱり、この子……。
見事な捕り物劇を披露したパートナーを、邪魔にならない後方から眺めていたユンスティッドは、さすがの手腕に一人感心していた。やはり荒事は彼女に任せるに限る。
じっと眺めていたために、不意に「あの」と声を掛けられた時も、ついついいい加減な返事をしてしまった。
「あの子、一体何をしたのかしら?」
「ああ。一月ほど前に俺たちの作ったキャンドルを盗んで、昨日俺に眠り薬を盛ったんですよ」
言い終わってから、「盗んだ」というのは言いすぎだったかなと思い直す。「無断借用と言った方が正しいかもしれません」言いかけたユンスティッドは、その言葉を飲み込んだ。脇をすり抜けて走り去る人物の姿に唖然とする。ハニーブロンドの髪が夜風になびいていた。
川べりで、小気味の良い音と甲高い声が響き渡った。
*****
あなたは、親なし子だった。銀色の髪と黄緑の目が美しい子どもだったけれど、いつも悲しげな雰囲気をまとっていた。あなたは滅多ににこりともしなかった。
あなたがオレンジの屋根の家をはじめて訪ねた時、ただただ目を丸くしていた。伸ばしっぱなしだった髪をすかれ、三つ編みにされると、とても嬉しそうに笑った。
あなたは今、地面に倒れて、何事かをわめいていた。
あなたは悪いことをしたらしい。
本当に?
わたしは、無我夢中であなたに駆け寄った。
「この、バカ息子!!」
パーンと乾いた音が鳴り、長い三つ編みが衝撃で揺れた。三つ編みの人物――――黄緑の瞳の少年は、頬を赤くして呆然と座り込んだ。彼に馬乗りになっていたはずのマーシャルは、突然の事態にしり込みし、ユンスティッドの居る後方まで下がっていた。
少年を平手打ちしたのは、キルシュ=カーズであった。肩をいからせて、彼女はものすごい剣幕で怒鳴った。昨晩まで青白かった顔が、今は怒りに赤くなっていた。
「あなた、何してるのよ!」
「何もしてないよっ」
「じゃあ何で、こんな風に追いかけられて逃げていたの?!」
少年は黙り込んだ。やましいことがあると分かる態度であった。キルシュはますます顔を赤らめ、座り込んでいた彼の手を引っ張った。
「ユンス君たちの作ったキャンドル盗んだって、本当なの」
とげとげしい尋問に沈黙が落ちる。マーシャルとユンスティッドの二人は、身体を強張らせて事態を見守っていた。その場を去ることすらできそうにない雰囲気である。キルシュに息子がいたことは知っていたが、直接会ったのは初めてであった。
「どうして何も答えないの、違うなら違うと言えばいいじゃない」
「…………ほんの数本だよ、そんなに怒らなくったって」
言葉は最後までつづかなかった。再び振り上げられたキルシュの右手を、マーシャルが必死に食い止めにかかる。
「あの、違うんですキルシュさん!お、落ち着いてください」
「すみません、僕が誤解を招くようなことを言いました」ユンスティッドも早口で弁解した。「確かに彼――――息子さんはキャンドルを借りて行きましたけど、翌日には返してくれましたよ。盗んだわけではありません」
キルシュの金茶色の瞳がじっと二人を見つめてきた。思わず縮こまる。普段とはかけ離れた、きつい視線であった。
「本当なの、ジュレイン」
少年はむすっとして黙り込んだままであったが、「ジュレイン!」とキルシュに責め立てられて、渋々口を開いた。
「確かに、借りた。無断だったけど」
何で余計なこと言ってるの、この子どもは!マーシャルは思わず頭を抱えた。隣のユンスティッドも同じようなことを思っているのだろう。黒い眉がピクリと動いている。
「無断?!」
二人の恐れた通り、キルシュは怒りを募らせたようであった。彼女の息子の頭を押さえつけ、自分も頭を下げると、二人に対して謝罪した。
「ごめんなさい!ただでさえ無理な数をお願いしてたって言うのに、この子がそんなことをしていたなんて……。本当になんてお詫びすればいいのか」
キャンドルを持って行かれたと言っても、たかだか三、四本の話である。深々と頭を下げられて、マーシャルたちの方が慌ててしまった。
「気にしないでください!ちゃんとすぐに返してくれましたし。何にも問題なかったですから」
「でも!」キルシュはちらりとユンスティッドを見て、申し訳なさそうな表情をした。「ユンス君に、眠り薬を盛ったって」
「それは根拠のない推理なので、息子さんが犯人だと決まったわけでは――――」
「僕が眠り薬を盛ったんだよ、それで合ってる」
二人が少年を庇おうとする言葉は、ことごとく少年自身によって台無しにされた。もうどうしろっていうのよ!キルシュさん、これ以上怒らせたら倒れそうだっていうのに……。マーシャルは途方に暮れた。三つ編みの少年は、不機嫌そうな顔を改めて、きっとキルシュを睨み上げた。
「でも、僕はそのお兄さんに薬を盛ろうとしたわけじゃない」
「じゃあ、誰を眠らせようとしたっていうの」とキルシュ。
「そんなの――――キルシュに決まってるじゃないか」
その言葉に、ジュレインを除いた三人が絶句した。
しばしの沈黙。流れる水の音だけがうるさく耳朶を打った。川べりに吹く夜風は冷たくて湿っている。街の方から、バイオリンの奏でるメロディーが微かに聞こえてきた。豊穣祭七日目の、最後のダンスパーティーがはじまろうとしているのである。
街の楽しい雰囲気とは裏腹に、キルシュとジュレインの間には張りつめた空気が漂っている。マーシャルたちははらはらとして見つめていた。
「私に薬を盛ろうとしたっていうの?」
「そうだよ。談話室のテーブルにカップが置いてあって、キルシュが家で使ってるのと同じだったから、てっきりキルシュのかと思ったんだ」
「それは……、昔私が談話室のカップを割ってしまって、そのときに一式そろえたものを隊舎にも持っていったのよ。でもそれより、どうしてそんなこと……」
「分かんないの?」とジュレインが泣きそうな顔になって言った。その悲痛な表情に、キルシュがハッと胸を抑える。吐き捨てるような調子で、ジュレインは打ち明けた。
「キルシュが、無茶ばっかりするからじゃないか!僕の言うことなんてちっとも聞かないで、ここ一月、まともに寝た日なんてなかったでしょ。キャンドルを盗んだのだって、元はと言えば、キルシュがあんな無茶をやりはじめるからだよ」
「あんな無茶?」
マーシャルが首を傾げると、それを聞きとめたジュレインがくるりと首を回す。長い三つ編みが一緒になって揺れた。少年は、マーシャルに向かって、弱々しく笑った。
「今年のキャンドル作りを担当するデュオって二つだけだったんでしょ?それなのに、作らなきゃいけない数は二五百本もあったんだ。キルシュったら馬鹿だよね、五百本分は自分がこっそり受け持ったんだよ」
マーシャルもユンスティッドも、驚きの余り声が出なかった。しかし、同時に納得もいった。キルシュがあれほどやつれていたわけが、ようやく分かったような気がしたから。「そんな」と小さな呟きを漏らす。左隣のユンスティッドが、きゅっと眉根を寄せた。
前方で、軒先のランタンに三つ連続で灯がともった。言い争いが聞こえていたのだろう、興味津々で覗いていく人がちらほらいた。マーシャルがひと睨みすると慌てたように退散していった。
ジュレインとキルシュは、お互いしか目に入っていないようである。息子の方も、今や母親と同じくらい怒っていた。
「ただでさえ副隊長の仕事も多いのに。ああ、お姉さんたちが悪いんじゃないよ、キルシュの見栄っ張りがいけないんだから。自分の要領以上の仕事抱え込んで、僕が手伝うよって言っても、大丈夫だっていうばかりでちっとも手伝わせてくれない。それでどんどん具合が悪くなって、本当、ばっかじゃないの。どうせ僕がこっそりキャンドル作ってたことにも気が付かなかったんでしょ」
表情をこわばらせていたキルシュは、「え?」と動揺した。
「ほら、気付いてない」
ジュレインが皮肉っぽく笑う。やけになったように何もかもをぶちまける。
「キルシュが全然キャンドルの作り方教えてくれなくて、僕一人じゃ作り方なんてわからなかった。キルシュは家に仕事は持ち込まないし。だから、キルシュへの届け物をするふりをして、魔法師団に忍び込んだ。七番隊以外だとばれた時に不味いから、お姉さんたちの――――お姉さんが鋭くてあんまり近づけなかったけど、キャンドル作りを盗み見てたんだよ。それで、夜にこっそり風の魔法でキャンドルを借りて行って、見よう見まねで作ったんだ。僕、魔法はまだ勉強中だけど、覚えるのは早いってよく言われるからね。――――眠り薬は、キルシュがもう限界だと思って、無理やり眠らせようと入れたんだ。お兄さんが飲んじゃったのは予想外だったな。キルシュが先に談話室に向かうと思ってたから」
喋り終わって、ジュレインは、はあーと大きく息を吐いた。キルシュが動揺しながらも、ジュレインに一歩近寄った。川の斜面に近いところで、二つの影がくっつく。
「でも、私大丈夫って言ったじゃない。どうしてそんなに勝手なことばかりするの」
「勝手?」心外だとばかりにジュレインが片方の眉を上げた。「勝手なのはキルシュでしょ。いつもいつも」
焦れたキルシュがジュレインの片腕を掴んだ。「なんで」本人もよく分かっていないのだろう。ただジュレインのことを困惑した目で見ている。
「どうしてジュレイン、私は」
キルシュの腕を、ジュレインが振り払おうとした。ぐっと強く掴まれている方の腕を乱暴に振り回す。その拍子に、彼はバランスを崩した。より川に近い方にいた小さな体が傾いでいく。キルシュの目が丸くなり、小さく開いた口からは今にも悲鳴が漏れそうである。
「危ない!」
いち早く危険を察知していたマーシャルが駆け寄って、斜めっていた少年の腕を掴んだ。もし今日が晴れた日ならば、無事に二人とも身を起こすことができただろう。だが、午前中の雨で足元はぬかるみ、滑りやすくなっていた。ずるりとマーシャルの右足が泥をかいた。あっ、と叫ぶ暇もなく、丸い視界の端から端を霞のかかった月が通り過ぎて行く。
斜面を転がり落ちるまでもなく、勢いよく二人は川の中へ落ちていった。盛大に水しぶきが上がり、駆け寄ったキルシュとユンスティッドの全身にかかる。
「レイン!」キルシュが悲鳴を上げて、川べりから川の中を覗き込んだ。
「レイン、大丈夫?!」
「おい、無事か」
ユンスティッドもその隣から身を乗り出す。
川の中では、マーシャルがジュレインの身体を受け止めて、川底から身を起こしたところだった。ジュレインの身体はくの字に折りたたまれ、少女の膝上に乗っかっていた。ジュレインは吃驚したのか目を丸くして、口をきっちりと閉じていた。
水量は増えていたものの、もとよりそこまで深くはない川である。マーシャルが左手でジュレインの身体を斜面の縁まで押し、あとはキルシュが両手で引き上げた。そのあとに、ユンスティッドがマーシャルを引っ張り上げる。冬の川でなかっただけマシである。
四人ともが、ぼたぼたと全身から滴をしたたらせていた。キルシュが、泣きそうな顔でジュレインの顔に触れた。頬や額をさすり、最後に鼻と鼻をくっつけて、怪我がないかと確かめている。マーシャルたちは、数歩離れたところからそっと見守っていた。
「大丈夫なの、痛むところはない?レイン、あなたって子はどうしてこうも心配ばかりかけるのよ!」
キルシュにきつく抱きしめられたジュレインは、顔を上げてキルシュを見つめた。長い三つ編みは、川の水流に揉まれてほどけてしまっていた。ぬかるみに膝をついていたが、全身泥だらけであったので、もはや気にしていない様子を見せていた。
「僕は大丈夫だよ、ちょっと服が張り付いて気持ち悪いだけ」そう言って、今度はジュレインの手がキルシュの頬に触れた。「キルシュの方こそ、大丈夫なの。ねえ、自分がどれだけ具合が悪そうに見えるか気付いてる?」
「私は大丈夫、レインが心配する必要なんてないのよ」
キルシュは慈愛に満ちた笑みを浮かべたが、反対にジュレインは顔を歪めた。キルシュの両腕から抜け出して、立ち上がる。そうすると、彼は膝をついた母親を見下ろす形になった。
「大丈夫、大丈夫って……キルシュはいつもそればっかりだ。ねえ、僕が心配することはそんなに迷惑?キルシュのそういう見栄っ張りで素直じゃないところ、僕は本当に嫌いだよ」
「レイン……」
キルシュは口を開けたまま絶句していた。何も言うべき言葉が見つからないように見える。
「僕のこと、まだ四歳の着替えも覚束ない子供だって思ってるんでしょ。僕、もう一二歳だよ?来年には、魔法師団の見習いになってなれる。同い年で働いてるやつだっている。キルシュはいつになったら頼ってくれるの」
「だって、私はあなたのお母さんだから」
おどおどとキルシュが言ったので、ジュレインは笑い飛ばした。
「だから、完璧でなくちゃいけないって?何それ、キルシュなんて完璧じゃないところだらけだよ。家事はからっきしだし、放っておいたら平気で徹夜して倒れそうになってるし、ダメダメなところばかりだ」
キルシュの下まぶたの上に、みるみる涙が盛り上がった。ヒステリックな声でわめかれて、傍観していたマーシャルとユンスティッドの二人はぎょっとした。
「何よ!私は確かに良い母親じゃないかもしれないけど、これでも精一杯あなたのこと考えてるの!」先程からずっと叫んでいたせいか息が上がって肩が上下している。彼女は下を向いて首を振った。「ああ、もう、本当はこんなこと言うつもりなんかじゃなかったのよ。私をこれ以上怒らせないで、あなたって本当にかわいげのない子」
ジュレインは一瞬傷ついた顔をしてから、おずおずとキルシュの下に歩み寄った。足元の土がぐちゃりと変形する。元々ぐちゃぐちゃだった地面だが、あちこちで泥がえぐられてしまい、乾いたら凸凹道になることは間違いなかった。
キルシュはじっとしたまま俯いていた。
「ごめんなさい、ジュレイン」その声は弱弱しく震えていた。「私、疲れてるみたい。うまく言葉が見つからないわ。本当は、あなたが心配してくれて嬉しくて、でも情けなくて……」
キルシュの両手は目元を抑えるようにしている。ジュレインはその指先におもむろに触れて、甘えるような声を出した。彼には、こういうときどうやって母親を慰めたらいいのか、よくわかっているようであった。
「キルシュ、家に帰ろうよ。たっぷり睡眠を取ったら、もう一回話し合おう。――――キルシュはダメなところも多いけど、僕にとっての母さんはキルシュだけだよ」その言葉は魔法の力を持っているようであった。ぐしゃぐしゃに歪んでいたキルシュの顔から、少し力が抜ける。
ジュレインはおまけにっこりとした笑顔を付け加えた。
「明日は久しぶりにご飯を作ってよ。キルシュの作るにんじんのスープが、実は大好物なんだよ」
「……知っているわ、あなたって顔に出やすいもの」
そう言って、キルシュは涙にぬれた顔で微笑み返した。ジュレインが心底ほっとした表情で、キルシュの指先に触れていた手を離そうとした。それを引き留めたのは彼の母親である。きゅっとその手を強く握り直して、小さな声で何か呟いた。マーシャルとユンスティッド、どちらの耳にも届かなかったけれど、ジュレインの口許から花ひらいた笑顔が全てを物語っていた。
しばらく微笑み合っていた二人だが、キルシュの方はマーシャルたちのことを忘れていなかったようである。居心地悪げに佇んでいる二人を振り返り、照れたように笑った。
「ごめんなさい、お恥ずかしいところ見せたわね」
「お気になさらず。いろいろと誤解があったようですから」
ユンスティッドが二人を代表して答えた。ジュレインが、今更恥ずかしそうにキルシュの背中に隠れた。マーシャルたちは、なるべく彼から目をそらしてやった。
「後日、この子も連れて謝りに行くわ」とキルシュ。
「本当に、気になさらなくていいんですよ。キルシュさんが無茶をした原因が、僕らに全くなかったとは言い切れませんから」
マーシャルも黙ってこくこくと頷いていた。これは本当のことである。マーシャルたちに、キャンドルづくりを全部こなせる能力があったなら、キルシュは無茶なんてしようとは思わなかっただろう。つまり自分たちにも責任はあるのだと考えていた。
キルシュは「ありがとう」と言ったが、この謝罪の件について譲る気はなさそうであった。お詫びにおいしい料理店にでも連れて行ってくれるつもりだろう。二人ともそれ以上は言わず、キルシュの言葉に従おうと思った。
金茶色の目が、濡れそぼった二人の全身を一瞥した。
「ユンス君たちも、うちにこない?私たちのせいで濡れてしまったし、あたたかいものくらいは出せるわ」
せっかくの誘いだが、丁重に断ることにした。
「いえ、中央広場の方にいって、ランタンの出来でも見てくることにします。もう、どの家も灯りをともしたころでしょうし」
その通り、川沿いの家の大半は、ランタンの灯をともし終わっていた。一直線に鮮やかな光が並んでいる。
「そう?二人がそれでいいなら……。とりあえず身体だけ乾かさせてちょうだい。それぐらいはさせて」
「いえ、自分たちで出来ますから。それより息子さんとご自分の身体を心配してください。僕らはほら、昨日たっぷり寝て元気ですから」
「そうなの……じゃあ、本当に大丈夫なのかしら」
「ええ」
キルシュはまだ納得がいかない様子であったが、ジュレインに服の裾を引っ張られて、息子と共に帰る決心がついたようである。再三マーシャルたちに謝りながらも、母と息子は手を繋いで、夜道を歩きだした。この近くに家があるらしい。南の時計台が見える場所だと言った。
彼らが歩き出したばかりのところで、ずっと黙り込んでいたマーシャルがジュレインに問いかけた。
「ねえ――――豊穣祭の三日目に、神殿の近くで私を見てたのって、あなた?」
「ええ?違うよ。何で僕が」
ジュレインが目を点にして否定したので、マーシャルは「そっか、そうよね」と頷いた。そして最後に確かめるように尋ねた。
「もう、大丈夫?その、お母さんと」
黄緑の目が、嬉しそうに細められた。
彼は、大丈夫だよと微笑んで、母親と共に去っていった。