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忍び寄る影



 マーシャルは、王国の一大行事に交じられないことに歯ぎしりしていた。なんて悔しいことなの!恨めし気な菫色の瞳は、隊舎の窓から王宮を突っ切って、城下の街を見据えようとする。

 祭りの四日目と五日目は、それまでの静けさと打って変わった賑やかさで迎えられていた。城門から王宮までを繋ぐ大通りの途中にある中央広場に、早朝から豪勢な食事が並べられた。この日のために用意された長机が横一列に並び、その上では海と大地の恵みをたっぷりと使った料理が大皿に盛られている。広場に集まった人たちは競い合うようにして料理を貪った。皿はどんどん空になっていったが、空になったその傍から王宮付きのコックが新しい料理を運んでくる。

 王国中のありとあらゆる食材を使ったのではないかと思う。毎年の広場でのパーティーを楽しみにしていたマーシャルは、せめて匂いだけでも楽しめないかと鼻から空気を吸い込んだ。


「みっともないからやめろよ」


 ユンスティッドが手を動かしたままこちらを見た。可哀そうなものでも見るような雰囲気である。


「嗅覚より手を動かせ、手を。犬よりは使えると思わせてくれ。一応終わる目途は立ったと言え、余裕なんてからっきしだからな」

「アンタは魔法より思いやりを学ぶべきね」と精一杯厭味をこめて言ってやる。ユンスティッドの視線は、すでに膝元のキャンドルに落とされていた。

「今のは犬に対しての思いやりが欠けていたな、悪かった」

「私にも謝りなさいよ!」


――――コイツ、いつかこてんぱんに言い負かしてやりたい。

 一昨日の時点で、きっとろくなことが起こらないだろうなと思ってはいたが、悲しいほどに的中してしまった。ガルルルと低く唸っていても、少年からそれ以上の反応は望めなかった。イラつきを燻らせたまま、キャンドル作りを再開する。

 今取り掛かっているのは、最後の一種類――――炎がぐるぐると渦を巻くキャンドルである。細長い炎が蝋燭の芯かららせん状に伸びあがり、天辺あたりで折り返して、ぐるぐると回転したまま蝋燭をすっぽり覆うように炎を広げている。炎の噴水といったところだろうか。根元の炎は鮮やかな赤色で、先っぽにかけてオレンジ色、黄色、白、紫と徐々に変化していっている。

 ユンスティッドから受けとった魔法薬を慎重に容器に注いだところで、マーシャルの部屋の扉がノックされた。「今いいかしら」と、弱々しい声が聞こえてくる。マーシャルの向かい側――――木製の机脇に座っていたユンスティッドが、立ち上がってドアを開けた。真っ平らな簡素な板が、蝶番に従ってぐるりと四分の一回転した。


「二人とも、お疲れ様。捗ってるかしら」


 声の主はキルシュであった。マーシャルとユンスティッドは思わず目を見合わせる。豊穣祭前にも思ったことであるが、七番隊の副隊長はすっかりやつれて、元の美しい面影もない。


「あとどれくらいで終わりそうかしら」と尋ねられて、ユンスティッドがすばやく答えた。

「残り四八個です。明日中には終わると思うので、そうしたら最終確認を残すだけになります」

「そう……無事に終わりそうで何よりだわ」


 優しく労いの声をかけてくれるのは嬉しいが、キルシュ自身は無事でなかったようである。今にも倒れそうな顔色を、二人は心配した。マーシャルも容器を脇に避けてから歩み寄る。


「大丈夫ですか、キルシュさん。前会った時よりも酷くなってますよ。研究大変かもしれませんけど、あんまり根を詰めない方が……」「僕等もキャンドル作りを終わらせたら、手伝いに行きますから、とにかく一度休憩を取って下さい」

「ありがとう二人とも」キルシュはいつもの穏やかな口調で言った。「でもそんなに心配しないで。私だって、それほど年ってわけでもないのよ。あと少しで終わるから、本当に大丈夫」


 そう言い切られてしまうと、マーシャルもユンスティッドも強くは出られなかった。


「そうだわ、シャリーちゃんちょっと」


 不安そうなマーシャルたちを元気づけようとしたのか、キルシュは殊更明るい声を出した。一度部屋の外に出て、すぐに戻ってくる。その手が運んできたものを見て、マーシャルは思わず歓声を上げてしまう。

 つやつやと黄金色に輝く皮つきチキン、コーンを散らしたトマトとチーズのサラダ、小さなバスケットの中に詰められたこんがり焼けた小麦のパン、丸いお椀の中には野菜と白身魚のスープが入っていて湯気を立ち上らせていた。


「申し訳ないんだけど、二人を広場に行かせてあげる暇がなさそうだから。せめてこれだけでも食べて楽しんで」


 その心遣いにマーシャルは感動した。二つずつ皿とお椀がのったトレイを受け取り、喜色を満面に浮かべてお礼を言う。


「ありがとうございます、キルシュさん!」

「いいのよ、今年のデュオには無理を言ってしまっているから。それと最終日までの大体の予定なんだけど、ランタンを配り終わるまでは王宮にいてもらわなくちゃいけないの。本当にごめんなさいね」

「いいえ、全然!私の取り柄って、丈夫なことくらいですし、へっちゃらですよ」


 少女の元気な様子にキルシュは安堵したようであった。「それじゃあお願いね」と言いおいて、弱々しい足取りで部屋を去って行く。ゆっくりと動いていた扉が、元のようにおさまったところで、ユンスティッドが肩を落としてため息を吐いた。


「お前、食べ物なんかで誤魔化されるなよ。キルシュさん、今にも倒れそうだったじゃないか」


 指摘されてハッとした。目の前の餌につられて懸念をどこかに飛ばしてしまっていたのである。これにはマーシャルも反論することはできなかった。


「大丈夫だったかな、キルシュさん」


 しょんぼりとして、マーシャルは茶色いドアの向こうに去っていった背中を案じた。ユンスティッドが肩をすくめて、元のように机近くで胡坐をかく。


「あとでそれとなく隊長に言っておくか」


 彼はそう言って手元の魔法薬をまた調合しはじめた。マーシャルはというと、キルシュに申し訳ないことをしたと反省する反面、手元から漂ってくる美味しそうな匂いに打ち勝つことはできなかった。


(もうお昼にしても良い頃よね)


 窓の外では、夏の終わりの太陽の光が城壁を照らしていた。乾いた高い壁が地面に色の濃い影を作る。城壁の上から侵入してきた緑の枝葉が、光を反射してきらきらと輝いていた。風がない分、暑さを感じる。北側の部屋であるため、窓際のベッドを含め、部屋はうっすらとした影に覆われていた。

 そわそわとユンスティッドの方を見るが、床に座り込んだ少年は作業に没頭していて顔を上げる様子はない。匂いに刺激されたマーシャルのお腹が情けない悲鳴を上げそうであった。もう我慢できない!

 トレイを食い入るように見つめていたマーシャルは、足りないものがあることに気が付いた。


「ねえ、私フォークとスプーン借りて来るわね。キルシュさん忘れてたみたいだから」

「ああ、頼んだ」


 バタン!

 生返事をしたユンスティッドは、扉の閉まる音を聞いてビクッと肩を揺らした。それから呆れたように前方のドアを見遣る。彼は度々思うのだが、あんなに勢いよく開閉をして、この部屋の扉は壊れないのだろうか。マーシャルの部屋の扉の蝶番が二度ほど取り換えられていることを、少年はまだ知らなかった。

――――まあ、そんなことより、早いところキャンドルを仕上げないといけない。

 このキャンドルランタン作りは、魔法薬の創作という点では有意義だったものの、一カ月も缶詰されて、いい加減本が読みたくてたまらなかった。研究書も放り出したままであるし、懇意にしている研究所に訪ねて行きたい案件もあった。

 パートナーにあと僅かでも魔法薬の知識があったらなとは思えど、そのことについてはとうの昔に諦めている。

 不意に外で物音がした。開けっ放しの窓から覗くと、水瓶の木蓋が地面に転がっていた。


(ああ、風で落ちたのか)


 とユンスティッドは納得し、身軽とは言えないが慣れた様子で窓を乗り越えようとする。窓枠に手をついて、ジャンプの反動で身体を押し上げた。隊舎の裏手に降り立つと、甕の手前に転がっていた蓋を拾い上げた。何を思うこともなく、水瓶の蓋を元の場所に戻す。その際に見えた水面には、波ひとつ立っていないことなど気にも留めずに。

 今日は風のない日だと、ついに彼は思い当たらなかった。



 翌日は、生憎ながら曇天であった。

 灰色の雲が、空の半分以上を覆ってしまっていて、所々の隙間から見える色は、白に近い水色である。七番隊の北側の部屋から空を見上げると、城壁と生い茂る木々で狭まった空が、よりいっそう暗く思える。

 雨が降ったらどうしようと眉を顰めていたマーシャルは、天気がよくても悪くても、自分には関係なかったと思い出してがっかりした。豊穣祭の六日目には、王宮お抱えの劇団による「ポーミュロンと四人の妻」の演劇、そして剣師団による華々しいパレードが行われる。去年までは、母とマリアと共に、父と兄たちの晴れ姿に目を輝かせたものである。


(今年は見れないのかあ、残念ね)ベッド端に座って、両手に顎を乗せる。


 けれど、心のどこかではそのことにほっとしていた。剣師団のパレードは見習い以外の全員が参加することになっている。去年は運よく見えない位置だったけれど、今年もそうとは限らない。きっとあの少年もパレードに出るに違いないのだから。彼とのことを思うと、胸に棘が刺さったようで、鼻の奥がツンとした。

――――会っても、何を言えば良いかわからないから、会いたくない。

 鳶色の面影を振り切るように、首を横に振る。その時丁度、ユンスティッドがマーシャルの部屋に入ってきた。キルシュの所へ報告に言っていたのである。落ち込んでいた自分を悟られないように、マーシャルは「どうだった」と大きな声で尋ねた。ユンスティッドは、机の前にある背もたれ椅子を引き出して、そこに腰掛ける。


「報告してきた、あとは念入りに確認するようにだと」

「それだけ?」

「ああ、それだけだ」


 その答えに、マーシャルは会心の笑みを浮かべた。ここ最近はいつにもまして無表情だったユンスティッドも、喜びを素直に顔に出している。


「ついに終わったー!キャンドル作りをやり遂げたのね、私たち」


 途方もなく思えたキャンドルランタン作りが、遂に終焉を迎えたのである。長い長い道のりを、マーシャルたちは走り切った。


「ああ。とはいえ、まだ気は抜けないからな」

「そんなこと言って、アンタも嬉しいくせに」


 マーシャルは、文字通り跳び上がって喜んだ。そして、珍しいことに自分からユンスティッドを午後のティータイムに誘いかけた。「久しぶりに甘いものでも食べて、ゆっくりしましょうよ。確認だったら、それほど時間はかからないでしょう?」ウキウキと胸を躍らせる少女の頭の中は、団舎の食堂で出されるパウンドケーキのことで一杯であった。木の実と野イチゴがぎっしり入ったケーキは、大の好物なのだ!

 ユンスティッドは、「そうだな……」と数秒思案した後、これもまた珍しいことに少女の提案を快諾した。常ならば仰天する出来事であるが、今日のマーシャルはさほど動揺しない。彼が先日物欲しそうに呟いた言葉をしっかりと覚えていた。にやにやとしながら少年の口調を真似る。


「『先達は何故ケーキを生み出す魔法を研究しなかったんだろうか』」


 聞かれていたのは予想外だったのだろう。ユンスティッドがぐっと言葉に詰まった。


「……お前の野生並みの聴覚を忘れていた」

「お褒めいただいて光栄です」


 にっこり笑ってやると、相手の顔が歪んだので、マーシャルは大満足であった。上機嫌になって団舎の食堂へ向かい、パウンドケーキを四切れ(事情を知っていた料理人が、二切れおまけしてくれた)手に入れ、トレイを持ったままスキップしながら隊舎へと帰り着く。入り口から入って一つきりの細長い廊下を覗き込むと、右方ではユンスティッドが談話室の戸をくぐろうとしていた。二人揃って、大きな暖炉のある部屋に入って行く。

 ひと夏の休暇を終え、もうすぐ暖炉が大活躍する季節になる。赤いレンガ造りの四角い暖炉は、部屋の左端に鎮座し、黒い煙突を上まで伸ばしていた。

 談話室には備え付けの棚もあり、ティーカップといくらかの茶葉が用意してあった。それから徹夜続きの魔法師に欠かせない、コーヒー豆も。

 窓の右横にある棚から、茶葉の瓶とコーヒー豆の瓶を取り出して、マーシャルは後ろに突き出した。


「私は紅茶ね……ってあれ?アンタの分はもう入れたの」とマーシャル。視線はユンスティッドの脇をすり抜けて、中央のテーブルの上に向かっている。

「いや、これは俺のじゃない」とユンスティッドが言った。


 ソファーに囲まれた背の低いテーブルの上に、ぽつんとティーカップが置かれていた。白い陶器の飲み口が金色で縁どられている、持ち手の部分が紺色をしていて見た目が可愛らしい。中には真っ黒なコーヒーが並々と注がれていた――――すっかり冷めきっていたが。カップの種類が違うとか、そういうことに頓着はしない二人であった。


「じゃあ、誰のよ」

「知るか、けど他の人たちはほとんどパレード見物に出かけている。隊舎は空っぽだ」

「ふーん、廊下にも誰もいなかったしね」


 置いておけばいいかと結論付けたマーシャルの目の前で、カップがひょいと持ち上げられた。


「え、ちょっと、いいの?」慌てて聞くと、ユンスティッドが横目で見てきた。

「もう冷めているし、誰かが飲みに来るとしても、また入れ直しておけばいいだろう」

「……アンタって、そういうところいい加減ね」


 マーシャルの苦言には耳を貸さず、ユンスティッドはソファーに腰掛けるとティーカップを傾けた。完全に眠気覚ましのつもりのようである。

 彼はコーヒーを喉に流し込んだ――――そしていきなりゴンっと鈍い音を立てて、テーブルに突っ伏した。そのまましーんとして動かなくなる。

 マーシャルは、唖然としてその光景を眺めていた。一体何が起こったのだろう。いや、自分のパートナーが突然机に突っ伏した、それだけのことなのだが、頭の回転が追い付かない。

 金色の縁取りをされたカップが、つるりとしたテーブルで転がった。落下しかけたところを反射的に受け止める。


「ちょっと、シルバート?」


 カップを左手に持ったまま、右手で少年の肩を遠慮がちに揺さぶった。次いで先程より力を込めて揺さぶる。完全に顔を伏せた状態の彼は、ピクリとも動かなかった。

 マーシャルは、最悪な予想にざっと顔を青ざめさせた。


「まさか死んでないでしょうね?!」


 冗談じゃない!とユンスティッドの両肩を掴んで引き上げる。ソファーの背もたれに寄り掛からせて、前に回り込んでから、その顔をとっくりと観察した。

――――息は、していた。脈もあった。

 要するに、ユンスティッド=シルバートは眠りこけていた。

 安心したのもつかの間、では何故いきなり彼は眠りこんでしまったのか、疑問に思う。マーシャルは真剣にその謎に取り組もうとした。


(誰のものか分からなかったコーヒー、それを飲み干したシルバート、転がったティーカップ、突然眠ってしまったシルバート……うーんわっかんないなあ)


 いつもならそうそうに匙を投げてしまうところを、今日はあれこれ悩んでみる。それでもコレといった答えは見つからなかった。こういう時になって、過去のパートナーによる暴言が矢となり突き刺さる。「この馬鹿女」「こんなの猿でも分かるぞ」「その小さい脳みそにうんたらかんたら」……。

 思い返すにつれムカムカしてきたが、ユンスティッドをここに放置しておくわけにもいかない。謎の解明は後回しにして、とにかく少年を彼の自室に運び込むことにした。眠っている人間を抱え上げるのは困難で、仕方なしに引きずるような形をとった。両脇を抱えて、マーシャルは後ろ歩きで部屋を出た。ユンスティッドにこの事実ばれたなら、どんな目に合うかわからないので、廊下に人の気配がないことを確認して忍び足で進んでいく。釘をひっかけないように注意しながら、ずるずると少年の身体を引きずる。少年のこげ茶色の革靴が床の凹凸に引っ掛かって、何度か手こずらせた。談話室とは反対側の突き当りに窓が一つ、その右手前に地下書庫へと続く階段があって、その手前がマーシャルの部屋、もう一つ手前がユンスティッドの部屋である。

 少年の身体を部屋の中まで入れて扉を閉めると、一度大きく息を吐いた。ユンスティッドの部屋はマーシャルの部屋と大体が同じで、奥の窓際にベッド、その左に机と椅子があって、机側の壁には長方形の本棚が置いてある。ただ違うのは、その本棚がマーシャルの部屋の物よりずっと大きく、数も多いと言うことだけであった。その他にも棚におさまり切らなかった本が、ベッドの足元や机の上や床の上に平積みにされている。キャンドルランタンの作業がマーシャルの部屋で行われていたのは、ユンスティッドの部屋がこの有様だからであった。

 さすがに引きずったのは悪かったかなと、彼をベッドに横たえる時の手つきは慎重になった。白いシーツに黒い頭が沈み込み、先端が跳ねてしまう癖のある髪が散らばった。固唾を飲んで見守っていたが覚醒する様子はなく、マーシャルは肩の荷を下ろした。

 そっとドアを開閉する。閉める際には、ノブを上手く回してカチャリと音をたてないようにした。ほっとして、マーシャルの部屋とユンスティッドの部屋の間の壁に寄り掛かる。右奥――――窓の方を見遣ると、外が暗くなっているのが目に映った。とうとう雨が降り出したのかと、窓を開け放って覗き込んだが、地面に雨粒の跡はない。それでも、昼時よりも幾分か雨雲が分厚くなっていて、青空を垣間見ることは出来なかった。

 明日は豊穣祭の最終日なのにと、マーシャルは黒い雲を睨み付ける。浮かない気分でいると、背後で気配がして、声を掛けられた。窓から乗り出していた身を引き上げて振り返った。


「シャリーちゃん、ちょっといいかしら」


 相変わらず死にそうな顔色のキルシュが、困り果てた顔で近寄ってきた。何度か躊躇い、話を切り出しにくそうにしている。


「その、ね……キャンドルランタンのことなんだけど」


 マーシャルはキョトンとして、目を瞬いた。


「何か不備がありましたか」

「ええと、そういうわけじゃないのよ」


 歯切れ悪く何かを打ち明けようとしているが、マーシャルにはまるで見当がつかず、助け舟を出すこともできない。何度も迷ってから、キルシュは最後に小さく息を吐いた。


「やっぱり何でもないわ、気にしないで。引き留めてごめんなさい」

「ええ?でも何か話があったんじゃあ」


 とても大事そうな話に思えたのに。

 そう思ってキルシュの薄い背中を引き留めようとした時、ピシャン!と何かが地面に叩きつけられるような、ものすごい音がした。つづいてゴロゴロと空が轟く音がする。窓を振り返ると、雨雲の間で黄色い稲光が光っていた。


「すごい音……今にも雨が降り出しそうですね」


 キルシュに同意を求めようとしたマーシャルは、再度振り返って一瞬戸惑った。先程まであったはずの姿が消えている――――視線を下にずらし、悲鳴を上げて駆け寄った。


「キルシュさんっ?!」


 キルシュの華奢な体が、床に倒れていた。ハニーブロンドの長い髪が広がっている。そのひび割れた唇の間からは、苦しそうな呻き声が漏れていた。眉間には皺が寄っている。


「やっぱり、無理しすぎてたんじゃ……」


 キルシュの容体がとても悪いと見てとって、マーシャルは立ち上がった。隊長か、誰か王宮住まいの医師に連絡を取れる人に伝えなければ。

 その時のことであった。

 マーシャルの見つめる窓の外では、雷がますますひどく鳴り響いている。間隔を置かず、黄色い閃光が雲の隙間を蛇のように走っていた。しかし、マーシャルが身体を固くして凝視しているのは、その光景ではない。城壁と隊舎の境、窓のすぐ外に人影が見えた。暗い影と稲光に隠されて、その姿は黒く塗りつぶされている。他隊の魔法師かと一瞬思ったが、すぐにその考えを否定した。

 黒い人影が、すばやく走り去って視界から消える。「あっ!」と叫んで慌てて窓に駆け寄ったが、どこにもそれらしい姿は見えなかった。あっと言う間の出来事であった。

 マーシャルが知り得た情報は、その人が小柄であり、銀色の髪をしていたことだけである。銀の三つ編みが、動物の尻尾のように揺れていたが、魔法師の中に銀髪はいなかったはずである。


(一体、誰だったの。豊穣祭の日に、なんでこんなところに人がいるの。今はまだパレードの時間だっていうのに)


 突然眠り込んだユンスティッド、具合を悪くして倒れたキルシュ、見知らぬ人影。

 頭の中でいろんな出来事がこんがらがって、マーシャルを悩ませた。

――――あの小さな人影は、何かを知っていたのではないだろうか。

 猫が遊んだ毛玉のように複雑に絡まった思考の中で、その考えだけがパッと浮かんできた。ほとんど直感であったが、マーシャルのこういう時の勘は意外にも的中するのである。もし何かを知っているとして、あれは一体誰だったのであろうか。


(でも今は、とりあえずキルシュさんを何とかしないと)


 絡まった思考を頭から投げ捨てると、空っぽの隊舎を飛び出して、マーシャルは助けを呼びに駆けて行った。



*****



 あなたは髪を伸ばしていた。光に透かすと輝く、とてもきれいな髪だった。それはあなたの自慢だった。

 あなたは昔から、走るのが早かった。あちらこちらに勝手に飛び出して行っては、皆を困らせていた。あなたはとても悪戯な子供だった。

 あなたはとても心配性でもあった。あなたを安心させるには、大丈夫だと何度言っても足りないくらいだった。

 あなたはとても優しい人だ。





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