家族と過ごす夜
あなたは夜道を歩いていた。大通りから外れた、細い路地を縫うように進んでいた。
あなたの視線の先には、大きな白い建物があった。巨大な建物に何人かの人間が圧倒されていた。しかし、あなたは足を止めなかった。
あなたは両手を握り、膝をついた。あなたは神など信じていないと言っていた。
それなのにあなたは祈っていた。
*****
夏至は冬の始まりを告げる。
春から夏にかけてどんどん強力になった日の光は、夏至の日を機に弱まってゆく。十日もしないうちに風は身を切るような冷たさになり、一月もすればバケツに氷が張る。再び春が訪れるまで、王国は長い長い冬に閉ざされることになる。
豊穣祭とは、死にゆく大地を送り出す葬送式であり、来年の雪解けと大地の復活を願う祈願祭でもある。
王国中が、来年の豊漁と豊作を守護神ポーミュロンに祈るのである。
王都の東城壁を越え、草原を歩いてゆくと小高い丘が現れる。丘の前にはくねくねと蛇行する小川が流れていた。小さな革鞄を肩から下げたマーシャルは、助走をつけてその流れを飛び越える。着地して視線を上げると、白塗りの邸宅がこちらを見下ろしていた。
マーシャルの実家、ディカントリー家の屋敷である。
(数か月ぶりね)
と、胸が少しドキドキした。
丘を駆けあがったマーシャルは、勢いよく扉をあけ放った。扉の上に取り付けられた小ぶりのベルがカランカランと鳴る。
「たっだいまー」
「おかえりなさい」
奥の台所から母の声がした。真っ先に玄関に顔を見せたのは、メイドのマリアであった。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
と、ふくよかな体を揺らしてやって来る。マーシャルは手荷物を手渡した。
「ただいまマリア、元気だった?」
「それはもう、お嬢様ほどではございませんけれど」
「そうね、言えてるわ。でも今日は特別元気なのよ、久々に家に帰れたから」
「奥様も楽しみにしてらっしゃったんですよ」
マリアの言葉を裏付けるように、パタパタと廊下を駆ける音がしたと思うと、ひょっこりと母が顔を出した。マーシャルによく似た明るい笑顔で出迎える。
「待ってたわよ、シャリー。元気そうで何よりだわ」
「ただいま、ママ!」
同じくらいの背の二人は軽く抱き合って頬を寄せた。母子の再会をマリアが目元を和ませて見守っている。
「夜には坊ちゃんもお帰りになりますから、明日からはにぎやかになりますね、奥様」
「本当ね」母は娘の背から腕を放した。「シャリーが出て行ってしまって、昼間はマリアと二人きりだものね。お兄ちゃんたちも頻繁には帰ってこないし、寂しかったわ」
「お嬢様のやんちゃな声が聞けないかと思うと、しみじみといたしましたね」
「シャリーは男の子三人分くらいの元気さだったから」
母とマリアにからかわれて、マーシャルは唇をとがらせた。子供っぽい仕草に、大人たちは笑い声を漏らす。それを聞いてマーシャルは更にむくれた。
笑いを何とかおさめた母が、マーシャルの背を押して廊下を左へ曲がる。マリアは二階にマーシャルの手荷物を置きに行った。曲がった廊下の先の出窓には、小さなガラスの花瓶があった。そこに菫の花が咲いているのを見て、膨れていた少女の頬が元に戻る。マーシャルの瞳の色であった。
「ごめんね、ママ。今年は豊穣祭のパン作り手伝えなくて」
急に申し訳なくなって謝った。
「あら、いいのよ。忙しかったんでしょう?それに、マリアと二人で作るのも中々新鮮だったわ。成形に失敗してむくれる誰かさんもいなかったしね」
「ママの意地悪」
親しい者の間だけに許される軽口を叩きながら、二人は廊下の右奥の戸口をくぐった。部屋の手前にはダイニングテーブル、奥には小さなキッチンが置かれている。長方形のテーブルは、マーシャルの祖父が購入したものであり、塗装が大分剥げてしまっていた。テーブルを挟んで丁度戸口の真正面には大きな出窓がある。開け放たれた窓の外には、柵に絡まったバラの蔦や、黄色と赤のチューリップが見える。
母がキッチンからバスケットを二つ持ってきてテーブルに置いた。中には細長い捻りパンと平べったい丸パンがどっさり入っていた。二種類とも豊穣祭のために焼かれたパンである。捻りパンは海神の武器である槍を、平パンはポーミュロンの妻が彼に与えた真実を映す鏡をかたどっている。
「うわあ、おいしそう!」とマーシャルがバスケットを覗き込んだ。伸ばそうとした手は母の手に阻まれる。
「これは明日と明後日の分よ。夜にはティリフォンが帰ってくるし、お父さんとセトラーも明日の夕方には帰ってこられるそうだから」
「父さんたちは、三日目はどうするの?」
「いつもと同じ、明日の夜以外は警備の仕事があるんですって。ティリフォンも四日目以降は夜しか帰ってこられないって言っていたわ」
そこでマリアがやって来たので、三人は昼食の準備に取り掛かった。マーシャルがフォークとスプーンを並べている間に、マリアがスープをよそう。母は昼食用に薄く切った捻りパンを皿に載せて、テーブルの真ん中に置いた。
マリアが最後に席に着いたところで、三人はそろって食前の祈りを捧げた。(ディカントリー家では、全員が揃う日以外はメイドのマリアも一緒に食事をとることになっている)。
「海と大地の恵みと、これを与えて下さった神に感謝を」
祈り終えたマーシャルは、早速スプーンを手に取った。豆スープが白い湯気を上げて待っている。七日ある豊穣祭のうち、最初の三日は大地の葬送をするための期間であり、肉や魚は一切取らずに穀物だけの食事をしなければならない。冬にかけて弱まっていく大地に感謝を示すためである。
「そういえば、シャリー。あなたはお祭りが終わるまで家にいられるの」
空腹を満たそうと躍起になっていたマーシャルは、口の中の豆を飲み込んでから答える。
「うーん、多分無理かなあ。ランタン作りがね……ほら、手紙に書いたアレ、まだちょっと残ってるのよ。終わったとしても、不備がないか確認が終わるまで帰れないの」
「じゃあ、最終日まで?」
「そういうこと。まあ、仕事は日中だけだから、最終日以外の夜のお祭りには参加できるわ」
「そっか残念ね、今年はママ一人かあ」
母が寂しそうに呟いた。
「お詫びに、一番いい出来のキャンドル持ってくるから」とマーシャルは母を慰めた。
「ありがとう。でも、気にしなくていいのよ」母は明るい笑顔に戻って「それよりも、魔法師団の話が聞きたいわ。手紙も勿論読んでいるけど」と言った。
すると、それまで黙って母娘のやり取りを聞いていたマリアが話に入ってくる。
「お嬢様が魔法師団に入るって言った時には、そりゃあビックリしたものですけど、お転婆なところは相変わらずのようで。奥様といつもお話ししているんですよ、お嬢様がご迷惑かけていないかどうか」
「マリアの言うとおり。いつかシルバート君に会ったら、ママたち謝らなきゃいけないわ」
「ママもマリアも、私がアイツにお世話されてるみたいに言うのね」
「あら、違うの?」
全然違う!と即答できないのが、マーシャルの辛いところだった。マーシャル自身はあの少年の世話になっているつもりなどこれっぽちもないのだが、周りの反応を見ているとどうもそう受け取ってはもらえないらしい。
「……でも、私だって、役に立ってないわけじゃないもの。勉強は、得意じゃないけど」
「分かってるわ、シャリーが頑張ってることくらい。昔の剣術バカなあなたからしたら、驚くべき大進歩よ」
「奥様は少し拗ねてらっしゃるんですよ。皆様王宮勤めで、なかなか帰ってらっしゃらないから。それ以上に、お嬢様が魔法師団で上手くやっているか心配してらっしゃるんです」
「同い年の子がいてくれるみたいだし、今は大分安心しているわ。あなた、昔から男の子との方が仲良しだったものね」
「仲良しなんかじゃないわ。アイツとは気が合わないんだもの」
マーシャルはそう言ってむっつり黙り込んだ。手紙でも再三そう伝えているはずなのに、母とマリアは何故かユンスティッドのことを益々信用するようになっている。昔から下の兄と無茶をやらかしては怪我をするマーシャルだったから、良い歯止め役が出来たと喜んでいるのかもしれない。
マーシャルは少し不機嫌になったが、やわらかい捻りパンを頬張って豆スープのおかわりをする頃には、そんな気持ちもすっかり忘れてしまっていた。
二番目の兄、ティリフォンが帰宅したのは、その夜のことであった。
玄関前で兄を出迎えたマーシャルは、髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜられるは、魔法師団のことでからかわれるは、散々な思いを味わった。これだからティリフォンとは喧嘩が絶えないのである。今夜も一戦やらかして、「豊穣祭の夜ぐらい静かにできないの?!」と怒られてしまった。
夕飯は、マリアも合わせて四人で取った。丸い平パンに煮詰めたトマトソースを塗り、ジャガイモやハーブ、トウモロコシの粒を並べる。スープはお昼の豆スープを温め直したものであった。人参や野菜が加えてあって、少し豪華になっている。
食事の後片付けを終えると、四人は揃って海神ポーミュロンに祈りを捧げた。ノストラ神殿のある方角を向いて、両手を握りしめる。豊穣祭用の長い文句を、マーシャルはつっかえながらも唱えきった。
寝る直前にはティリフォンと再びの口喧嘩をしたが、これも母にとがめられてお開きとなった。久しぶりの自分のベッドは、魔法師団のものより柔らかくて大きい。存分に手足を伸ばして、マーシャルは眠りについた。
豊穣祭の最初の三日は、食事は勿論、行動も慎ましくなくてはならない。ほとんどの人は家から出ずに過ごす。ここ一カ月魔法師団に缶詰め状態だったマーシャルは、久方ぶりに伸び伸びとした休日を楽しむことができた。いちいちからかってくる兄の声さえ、懐かしく思える。夜が訪れ家族五人が揃うまで、珍しく鍛錬もせずにのんびりと過ごした。
夕方を過ぎた頃、父と長兄が帰ってきた。ティリフォンと違ってマーシャルに優しい二人なので、にこやかな笑みで出迎えて、ぎゅっと抱擁する。剣士団のことを聞き出して、魔法師団のことを話して……二日目の晩餐はとても賑やかなものになった。
夕食を終えると、マリアを連れて家族揃って外出する。父が呼んでおいた辻馬車で王都に向かった。いつもの閉門の時間は過ぎていたが、豊穣祭の間は特例で遅くまで開門している。門をくぐったところで馬車から降りて、ディカントリー家は夜の王都を歩いた。立ち並ぶオレンジの屋根の家々、その窓からほのかな明かりが漏れてきている。石畳の道を、父が手にするランタンが照らしていた。
東西を貫く大通りを途中で折れて、王都の北へと歩く道すがら、マーシャルは家族の中で一番よく喋った。こうやって皆が揃う機会は、近年ではめっきり減ってしまった。
「じゃあ、最終日まで忙しいのか」
と問いかけてきたのは長兄のセトラーである。
「うん」とマーシャルは頷いた。「去年は気を使ってもらったから、その分しっかり働かないと」
「そうか、なら今年のダンスは踊らないんだな」
すると横で聞いていたティリフォンが、からかうような口調で口を挟んだ。にやにやと気持ちの悪い笑みを浮かべている。
「残念だったな兄貴、シャリーと踊れなくて」
「何を言ってるんだ」
「だって毎年楽しみにしてるじゃん、最終日のダンスをシャリーと踊るの。ああでも、いい機会だから、兄貴も恋人の一人や二人作れって。いつまでも妹ばっかり構ってないでさ」
「余計なお世話だ」
ジロリとセトラーが弟を睨みつける。鋭い眼光にも、ティリフォンはまるで動じなかった。「おお怖い」とふざけた仕草をして、先を行く父を走って追いかける。その父が振り返って、マーシャルとセトラーに声をかけた。
「もうすぐ神殿だ、静かにしなさい」
「そうよ、お行儀よくしなきゃ追い返すわよ」
父の右後ろを歩いていた母も振り返ってそう言った。
マーシャルはティリフォンの背中に投げていた視線を、一気に上の方へ移動させた。夜空を背景にして、巨大な神殿がそびえ立っている。正面には幅の広い階段があり、階段を上ったところは少し狭いステージになっていた。その奥には、表面に彫刻を施された白い柱が横並びに立っている。柱が支える屋根では、四人の女神が優雅に飛び回っていた。
豊穣祭の二日目は、こうして家族で神殿を訪れることが習いとなっている。
ランタンを階段上の神官に預け、ディカントリー家はしずしずと神殿内に入場した。ステージの奥にある両開きの扉をそっと開けると、澄んだ歌声が幾重にも重なって響いてくる。最後尾のマリアが、静かに扉を閉めると、合唱の声はより一層響き渡った。
ステンドグラスと燭台に囲まれた巨大な礼拝堂の中を進み、六つあいた席に腰掛ける。パイプオルガンと合唱団の歌声に合わせて、マーシャルたちも歌い始めた。
――――海の父と四人の母よ、嵐を鎮め、船を守りたまえ。小舟が向かうは、あなたの下である。小舟を漕ぐのは、あなたが愛する子供である。
代表的な讃美歌をいくつか歌った後は、神父による聖書の朗読が始まる。老いた見た目とは裏腹に、張りのある声が教会内の人々の耳に入り込んできた。今頃は、王都を遠く離れたノストラ神殿で、大々的な豊穣の儀式が行われているはずである。ポーミュロンの主殿であるノストラ神殿に赴けない王国民は、こうやって教会で祈りを捧げる。
小一時間ほどを教会で過ごし、ディカントリー家は帰路についた。
「あー疲れた!教会って、どうしてこうも固っ苦しいんだか!」
「ティル兄っていつもそれよね」
「お前だって途中から寝てただろ。俺は見てたんだからな」
「うぐっ」
道端で立ち止まってにらみ合いを始めた弟妹の頭を、セトラーがゴツンと殴った。
「お前ら二人とも、もう少し大人になれ。みっともない」
「へーい」
「ティリフォン……どうやら拳骨じゃ足りないらしいな」
近ごろますます父に似てきたと評判のセトラーである。強制的にティリフォンを引きずって行き、ぶつぶつと説教し始めた。とばっちりを被らないように、マーシャルは少し遅れてついて行くことにした。
(明後日からは、またランタン作りね)
和やかな家族の時間は終わり、無愛想な少年と顔を突き合わせる日々が再開する。教会を振り返ると、丁度一組の親子が階段を上ってゆくところであった。息子の方の背丈がユンスティッドと同じくらいである。
(アイツも、神殿に来たりしたのかしら)
意外に信心深い彼のことなので、きっと居眠りなんてしなかったろう。神父の声に眠気を誘われた自分が、何だか悔しくなってきた。
兄たちの背中が少し小さくなった。マーシャルは石畳の地面を軽く蹴って歩き出す。しかし、歩み始めたはずの足は、数歩進んで止まってしまった。
ばっとマーシャルは振り返った。階段を上っていた親子は神殿内に消えて、誰の姿も見えなかった。分厚い扉に閉ざされた神殿から歌声は聞こえず、時折周りの家から笑い声が漏れてくるだけである。
首を傾げながらも、マーシャルはそれ以上追及しなかった。マーシャルがついてきていないことに気付いた母が、前方で呼んでいる。もう一度辺りを見回した後、マーシャルは家族の後を追いかけた。
――――気のせいではなかったはず。
明確な敵意はなかったけれど、誰かがこちらを見ていた。