豊穣祭の準備
あなたはいつも見つめていた。扉の向こうから覗き込むようにして眺めていた。あなたはそっと見守っていた。
あなたはオレンジの屋根の家に住んでいた。家には小さな台所が備え付けられていて、あなたは毎日そこに立っていた。
あなたは時折銀のナイフをじっと見つめていた。あなたが休日に砥いでいるおかげか、ナイフは鋭く光っていた。
あなたはナイフを持ち直して、魚をさばき始めた。えらに容赦なく銀の刃を突き立てると、あなたの指が血に濡れた。
あなたは今日も迷っていた。
*****
王都全体を取り囲む城壁、その北西に近接した第七番隊隊舎の地下書庫に二つの人影があった。影の一つは椅子に座っているのか全く動いていないが、もう片方は忙しなく動き回っている。
「次、『魔法生物の発生と消滅』《活火山による多発》の項からエーベ山に関しての記述の引用。一字一句間違えるなよ、あと読める字で書け」
「自分が達筆だからって馬鹿にしないでよ。アンタこそ、読み間違えたらそのまま書き取ってやるんだから」
動き回っていた影が着席して机に向かう。
「エーベ山は国境戦争以前において活火山として名を広く知られ、数年に一度は火山活動を行っていたが、戦後急速にその回数を減少させていった。これには火山の麓で見つかった魔力結晶の影響が見受けられる」
「ちょ、ちょっと待って。戦後急速に何って?」
「急速にその回数を減少させていった」
ユンスティッドの淀みの無い朗読に急き立てられながら、マーシャルは必死にペンを動かした。インク壺にペン先を突っ込むと、ピッと黒いインクが飛び散る。慌てて紙をずらしてインク染みから守った。早朝からこの作業をしているが、ユンスティッドは一度も休憩しようと言いださない。頭を掻き毟って叫びだしたいのを堪え、マーシャルは再びペンを走らせた。
何故、自分がユンスティッドの代わりに文字を書き取っているのか。
少年の右手首に巻かれた包帯を見るたび、マーシャルはあの時の行動を悔やんで止まない。
一昼夜を遡って一昨日の昼、マーシャルは剣師団から魔法師団に帰還したばかりだった。午前の間は剣師団の練習試合にまぜてもらっていたのである。七番隊の自室で一休みし、さあ魔法師団での仕事をはじめるかという時だった。
(……そういえばアイツに借りてた本、どれだっけ)
机に平積みにされた本の中、似たようなタイトルが三冊ある。ちょっと悩んだ末、素直にユンスティッドに聞きに行くことにした。隣部屋が彼の自室である。廊下に出るために扉を開けて――――開けたところに、まさかユンスティッドがいるとは思いもよらないではないか。勢いよく開け放った扉が、ユンスティッドに直撃する鈍い音が響く。結果的に、少年は尻もちをついて、手首をねん挫する羽目に陥った。
現在、そのお詫びとしてユンスティッドの論文の作成を手伝わされている。指にタコができそうだと、マーシャルはため息を吐いた。
「……一旦休憩にするか。もう昼飯の時間過ぎてるしな」
昼食どころか午後のティータイムの時間だ!と叫びそうになり、慌てて口を閉じる。せっかくの休み時間を潰したくはない。
「そうね!腹が空いては効率も落ちるわ!」
「やけに嬉しそうだな。元気があるならこのまま続行するが」
「嬉しくなんてないわよ!こ、この通り疲れ切ってるわ」
よろめいてみせるマーシャルを無視して、ユンスティッドは階上へと消えて行く。いつものことだがムッとして、マーシャルもそれに続いた。狭い階段を上り、ヒンヤリとした石壁に囲まれた空間を抜ける。隊舎内は明るく、一瞬目がくらんだ。地上は夏真っ盛りである。
爽やかな初夏はあっと言う間に過ぎ去っていった。春の間穏やかだった太陽は瞬く間に暴君と化して、じりじりと人々の肌を焼きつける。風が吹き付ける日には、ガゼルトの港から潮のにおいが漂ってきた。この季節になると、貴賤を問わず人々は涼を求める。マーシャルもその一人であった。
団舎の食堂に入ると、ユンスティッドは部屋の隅に席を取っていた。メニューを頼んで辺りを見回すが席は粗方埋まっていて、マーシャルは仕方なしにユンスティッドの向かいに座った。彼はちらりともこちらを見ないで、黙々と左手を動かしている。食事をするには利き手でなくても支障ないらしい。
「あっつー。こうも暑くちゃやってらんないわ」
ぶつくさと独り言を言い、グラス一杯に満たした水を一気に飲み干した。干からびた身体が潤って行く。「暑いっ」とまた叫んで二杯目の水を汲みに行く。二杯目の水に口を付ける前に、食前の祈りを捧げた。
食堂には食事を取りに来ている者の他、昼間っから酒を浴びている隊員もいる。ざわめきの中二人は無言で向かい合ってナイフとフォークを動かしていた。今日のセットメニューである白身魚の蒸し焼きを頬張っていると、上方より涼やかな声が降ってきた。
「シャリーちゃん、ユンス君。二人とも隣いいかしら」
「キルシュさん」
魚が突き刺さったままのフォークを置いて、マーシャルは「どうぞ」と笑顔を向ける。マーシャルとユンスティッドが所属する七番隊副隊長のキルシュ=カーズが「ありがとう」と細い腰を折って着席した。ユンスティッドの捻挫を軽く労わってから、マーシャルに話しかけた。
「この時期は食堂が混むわね。皆水が飲みたいから」
「魔法で水出せば良いんじゃないですかね、そしたら飲み放題ですよ」とマーシャル。ユンスティッドが間髪入れずケチをつけた。
「魔法で出した水は不味い。あと、そんな些細なことに魔力使ってられるか」
「アンタは夏でも平気そうな顔してるからいいかもしれないけど、他のふつーの人たちは暑いの!」
二人の言い合いにキルシュがクスクスと笑う。
「でも、シャリーちゃんの言い分も分かるわよ。何年か前に、魔法による美味しい水の作り出し方を研究した人がいたから。結局、魔力の消費が大きすぎるって言って諦めてたけど」
「まあ、確かに普通に飲んだ方が早いですね……」
早くも食事を終えたユンスティッドが立ち上がろうとすると、キルシュがそれを止めた。二人に話があると言う。
「実はね、一月後の豊穣祭のことなのよ。去年した話、覚えてるかしら」
マーシャルが首を傾げた向かい側で、ユンスティッドが何かに思い当たったようである。
「キャンドルランタンのことですか」
「さすがユンス君、覚えてたのね」
「キャンドルランタン」という単語を聞いて、マーシャルの記憶の中にキラリと光るものがあった。一月後に開催される豊穣祭において使われるもので、魔法師団が作成担当に当たることになっている。
「毎年新入隊員のデュオが作るのが習いだけど、去年はほら、シャリーちゃんのことでバタバタしてて免除にしたでしょう。だから、今年は二人にも担当してもらおうと思って」
マーシャルもユンスティッドも快く頷いた。マーシャルについて言えば、去年はたくさんの人にお世話になったため、むしろこの仕事は願ったり叶ったりである。去年働かなかった分、頑張らなければと思う。
「今年は……今年もね、新入隊員少ないから、二人が担当してくれると助かるわ。学院の方とも分担しているけど、やっぱり数が多くて」
キルシュはその微笑みを苦笑に変えた。ユンスティッドが「それで、僕たちは何個つくれば良いのでしょうか」と尋ねる。
「千個よ」
さらりと言われた数に、マーシャルは目を剝いた。ユンスティッドも少し驚いている。
「ごめんなさいね、多くって。これでも大分学院に押し付けたのよ。王都の家一軒につき一つ渡すのが習いだから、どうしてもね」
「家は城壁の外にありますけど、毎年貰ってましたよ?」
「王都とその周辺も多少は含むのよ。それに、シャリーちゃんの処はご家族が王宮勤めでしょう」
実家にいた頃は単純に綺麗だと喜んでいたが、裏では大変な準備が行われていたのか。千と言う数にいまいち実感がわかないマーシャルは、父や兄が持ち帰った歴代のキャンドルランタンを思い出した。ガラスの中に閉じ込められた色のついたキャンドルが、虹色の火花を散らしたり、甘い香りを漂わせたり、はたまた噴水のように発光する水を噴き出したりと、毎年感動させられたものである。
すっかり思い出に浸っているマーシャルをそっちのけにして、ユンスティッドはキルシュから詳しく話を聞きだした。
「でも千個作るとなると、他の仕事との兼ね合いはどうなるんでしょうか」
「その点は考慮してあるわ。豊穣祭は冬の前の一大イベントだもの、間に合わないなんて事態を招くわけにはいかないわ。豊穣祭までは二人の仕事は他の隊員で受け持つから、安心してランタン作りに精を出してね」
「全部同じ種類では不味いんですよね」確認するとキルシュが首肯した。
「そうね。目安としては一種類につき五十個ってところね。陛下も毎年楽しみになさっているから、手を抜いてはダメよ」
「了解しました。早速取り掛かります」
「ええ、途中経過も報告してね」
頷いたユンスティッドは、打って変わって低い声を出した。声を向けた相手は無論パートナーの少女である。「ちゃんと聞いていただろうな」と問われ、過去を懐かしんでいたマーシャルは慌てた。ぼーっとしていたことを誤魔化すように、
「き、聞いてたわ!綺麗なランタンをたくさん作ればいいんでしょう」
と張り切る少女。その様子を楽しげな微笑みが一つ、ため息を吐きそうな呆れ顔が一つ、それぞれに見つめていた。
翌日から二人は、本格的にランタン作りに取り掛かった。キルシュの持ってきた過去の作品を参考に、ああだこうだと案を練る。なにせ、千個という膨大な数を作らなければならない。その上ユンスティッドは数日間片手しか使えない。一日目から焦るのも道理であった。
マーシャルの部屋の床に大きな用紙を広げ、案を一つ一つ書き込んで行く。三つ書き上がったところで、とりあえず作ってみようと言う話になった。
キャンドルを入れるガラスケースは毎年使いまわしているものなので、既に隊舎の物置に全て運ばれていた。後は決まった大きさのキャンドルを作るだけ――――のはずなのだが、これが中々に厄介である。一つ目のキャンドルを作る時点で、早くもマーシャルは挫折しかけた。蝋が解けるにつれてキャンドル本体と炎の色が同時に変化するという仕掛けを施すため、慣れない魔法薬を使用して試行錯誤する。
「だから、変色薬入れたら素早く混ぜろって言ってるだろう」
「素早く混ぜたら零れるじゃない」
「それはお前が下手だからだ」
「じゃあ自分でやれば!」
このやり取りももう何度目だろうか。このままユンスティッドに押し付けたい所だが、怪我をさせた手前、そのような手酷いことはできなかった。悪態をつきながら容器の中で溶かした蝋に魔法薬を数滴入れ、ガラス棒で素早く丁寧に掻き混ぜる。蝋が淡い桃色に染まって行った。薬品に付け込んで乾かした糸芯を木の棒に巻きつけて垂らす。それを容器の真ん中に差し込むようにして、あとは蝋が固まるまで放っておく。三本目を作り終えてマーシャルは詰めていた息を吐き出した。ユンスティッドはせっせと魔法薬を作ることに専念している。独自の配合の魔法薬を作ることはまだ出来ないので、この役割分担に文句をつける資格はない。
「五本作ったら次に移れよ。量産するのは成功が確認できるまで待て。一種類だけ作りまくって魔法薬が失敗してたら水の泡だからな」
「そんなことになったら発狂するわよ、私。じゃあ、次は水に沈んだ蝋燭か……。青い炎と水泡が出るようにするって言ったけど、本当に上手くいくの」
「俺が作るんだから上手くいくだろ」
「わーお、さすが天才魔法師様ですこと」
厭味に言いつつ、マーシャルは手順通りにキャンドル作りを進めて行く。しばらくして窓の外に目を遣ると、いつのまにか真昼の明るさである。朝食堂で頼んで作ってもらったサンドイッチの皿を引き寄せた。もう一つの皿はユンスティッドの方に雑な手つきで押しやる。「もう昼か」と言って、彼もサンドイッチに左手を伸ばした。手の甲は絵具まみれのパレットのような有様を晒している。
「これ、終わるのかしら……」
午前中に出来上がったキャンドルは、僅か十本。ユンスティッドは「やるしかない」と言うものの、正直気が遠くなるような数である。
二人の目元に隈が出来るまで何日もかからないだろう、というマーシャルの予想は悲しいことに当たってしまった。
カラフルな雲を吐き出すキャンドル、蕾の形をしていて蝋が解けるにつれ花開くキャンドル、ハート型の炎が揺れるキャンドル……。木箱の中に積み重なって行くキャンドルの色鮮やかさとは反対に、二人の顔色はどんどん悪くなって行く。
「もう今年はキャンドル年ね!キャンドルに全てを捧げようじゃない」というやけくそな叫び声が響いたかと思うと、幽霊のような顔色をした少年が部屋から這い出てくる。豊穣祭が近づくにつれ、マーシャルの部屋の周りだけ一種異様な空気に包まれた。七番隊の隊員たちは気遣うような雰囲気を出しながらも、キャンドル作りの大変さは身に染みているのか、手伝いを申し出る者はいなかった。夜は無情にも更けて行く――――。
十六という数字に刺さっていた赤いピンが、隣の十七の数字に移動する。カレンダーの薄い紙に針が刺さる時、プツリと小さく音が鳴った。
(あと半月もない……)
朝日に目を焼かれながら、マーシャルはベッドに倒れ込んだ。簡素なベッドは堅い感触で少女の身体を押し返す。昨日は五百個目のキャンドルを作り終えて力尽きたらしい。目覚めると身体の節々がオイルを垂らし忘れた機械のように軋んだ。瞼の半分落ちた目で、のろのろと部屋全体を見回す。不規則に動いていた視線が扉の真横の壁でピタリと止まった。白い壁に凭れ掛って、ユンスティッドが死んだように眠っていた。枕を投げつけてやろうかと思ったが、硬い枕が直撃して少年の意識が飛んでは困る。ようやく彼の手首から包帯が取れて、扱き使われず済むようになったというのに。
(昨日作った分のキャンドル数えてないな、アイツが起きる前に数えておこう)
副隊長へ報告するため、二人は一日の終わりに、作ったキャンドルの数を正確に数えることを日課としていた。木箱一箱につき五十個のキャンドルを入れると決めているのだが、疲労が蓄積している時などは数え間違いが起こる。数の確認はしっかりするようにと隊長からも言い渡されていた。
部屋の片隅に並べられた木箱の中身を、左から順に確かめて行く。一箱ごとに紙に書き取って、後でユンスティッドにも確かめてもらわなければならない。
(四五、四六、四七、四八、四九……)
一番右端の箱、昨日作り終えたばかりのキャンドルを数えていたマーシャルは、はてなと首を傾げた。キャンドルが一つ足りない。
(おかしいな、確かに五百個目を作り終えたと思ったんだけど)
五百個作り終えて、思わず「やった!」と叫んでしまった覚えもある。しかし、疲れ切ってもいたので数え間違いがないと断言することはできない。結局その朝は、自分の勘違いだとしてその出来事を片付けてしまった。ユンスティッドに報告することも特にしなかった。報告したところで、彼も勘違いだと済ませてしまっただろう。
こうして一連の事件のはじまりは、寂々とした早朝にひっそりと起ったのである。