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誰かの望んだ離別



 昨日から一転して、今日の天気は薄暗かった。乳白色に一二滴インクを落としこんだような灰色雲が、隙間なく空を覆い尽くしている。巨大な雲の蓋が海に濃い影を落としており、遠くのキカル島を望むことも出来なかった。怒り出す寸前のような荒い波が岬の崖に押し寄せては砕け、また押し寄せて砕け、飽きることなく攻撃をつづけている。岬の上に立つ灯台は、波の怒りを恐れるかのように不安げだった。

 灯台は、子供用の白い積み木の中から、円柱を二本と三角錐を一つ選び出して順番に組み立てたような形をしていた。天辺の三角錐の部分には、海側に開けたガラス窓が埋め込んであったが、それ以外に窓はなかった。円柱の部分には、海とは反対を向くように設置された出入り口が一つきりだ。夏になると、この周りにも短い針のような草がびっしりと生い茂るのだが、今の季節は枯れ果てた地面が露わになっていた。中年の男が一人、黒い扉を開けて外に出てきた。遠くに手を振った後、吹き付けた冷たい風に身を震わせた。しばらくすると、ガタゴトという音を伴って荷馬車を引いた馬が二頭やって来た。中年の男は御者に金を払い、いくつかの小包を受け取る。麻紐でしばられた小包の中には一週間分の食料が詰まっていた。ボンレスハムや羊の腸を使ったソーセージ、チーズの塊、魚の燻製、イモ類など日持ちする野菜、研究長お気に入りの茶葉、そして夜通しの見張り番のお供になるビスケットとイチゴジャム。御者は硬貨を数え終ると、馬に鞭打って元来た道を帰っていく。律儀な男はそれを見送った後で、ようやく灯台の中へ戻ったのだ。

 灯台の中は、外から見るよりもずっと広かった。階層は五つに分かれていて、壁を這うように作られた螺旋階段が各階を繋いでいる。最上階が見張り台になっている他、四階を研究長、三階を太った研究員、二階を先程荷物を受け取った男が使用していた。住人に対して部屋の数が多いため、空き部屋の多くは物置と化し、巨大イカの足の標本や、狂って使えない羅針盤、砂浜に漂着した手紙入りの瓶などが文字通り詰め込まれていた。

 その中で、唯一足の踏み場の残された部屋があった。一階の右端の空室に、木製の小さなベッドが三つ並んでいる。稀に訪れる客人や、閉門までに王都に入れなかった旅人を迎え入れるための場所だった。

 トントン。リズミカルなノックの音がして、部屋の扉が開いた。鮮やかなオレンジの髪を持つ青年が、足音を忍ばせて入ってくる。左手で水差しとグラスを乗せたトレーを運んでいる。青年は壁際のベッドに近寄ると、傍らの丸椅子の上にトレーを置く。そこでベッドを見やった彼は、目を丸くして喜びに溢れた表情で口を開いた。


「シャリー、いつのまに起きたんだい」

「今……、ノーノさんが、入ってきた時です」


 マーシャルはしわがれた声で答えた。喉がヒリヒリと痛む。手で触れようとすると、動かした腕に激痛が走った。呻く少女を宥めながら、ノーノは眉を曇らせた。


「筋肉痛だね。大きな怪我がなかっただけマシだけど」


 顔に似合わず武骨な手が、肩の上で跳ねる薄茶色の髪の毛をすいた。その優しい手つきに、マーシャルの気持ちも落ち着いて行く。しかし痛みは引くどころか、覚醒するにつれてますます酷くなった。全身の筋肉が悲鳴を上げている。


「今はいつですか」

「昼過ぎさ。君たちが帰って来てから、もうすぐ一日経つ。疲れていたんだね、よく眠っていたよ」

「ノーノさんとハロルドは?あのあと大丈夫でしたか」と不安顔のマーシャル。

「君たちが助け出してくれたからね。心配しないで。……それにしても、不甲斐ないな。私は君達を支える立場だと言うのに、本当にすまなかった」


 ノーノは、悔しさと情けなさに顔を歪めた。オレンジの髪が、心なしか色あせて見える。心配するなと言った割に冴えない顔色に目を留め、ずっと自分についていてくれたんだろうとマーシャルは思った。


「いいんです、そんなこと。皆無事で良かった」

「セトラーが可愛がるわけだ。天使みたいに優しい子だね」


 照れ臭さに笑おうとしたが、乾いた唇が引きつって上手いこと行かない。ノーノが水差しから水を注いでグラスを手渡してくれた。上半身を起こして受け取る。ゴクゴクと喉を鳴らして一気に飲み干すと、最後の一口を気管に詰まらせてしまう。咽るマーシャル。それをまたノーノが優しく介抱してくれたため、至れり尽くせりな状態に居た堪れなさを感じた。


「あの、任務はどうなったんでしょうか」

「シャリーも起きたことだし、これから私が王都に報告に向かうつもりだ。シャリーのことは、明日また迎えに来るよ。まだ身体を動かすのは辛いだろうから」


 安静にするように忠告するノーノは、どこまでもマーシャルに優しかった。つかの間、兄がそこにいるような心地に陥る。最後にマーシャルの髪をくしゃりと撫でて、柔和な笑顔の剣士は部屋から出ていく。分厚い扉が閉ざされると、耳を澄ませても彼の足音は聞こえなくなった。

 ノーノが水を注ぎ直してくれたグラスが丸椅子の上にあったので、マーシャルはそれを手に取った。陶器で出来た水色の水差しは口の部分が三角に欠けており、グラスの形も古い時代のものだ。水を含んで唇を湿らせていると、どうにも隣から耳障りな音が聞こえてくる。いや、本当はノーノがいた時から既に聞こえていた。しばらくは我慢していたが、音が大きくなるにつれてそれも限界に近づき、結局最後には怒鳴りつけることになってしまった。


「ちょっと、うるさいわね!何笑ってんのよ」


 所々声がかすれて、いつものような迫力はない。

 ケラケラと、ユンスティッドが隣のベッドで笑いつづけていた。彼は、「だってお前」と言って目尻に浮かんだ涙をぬぐう。


「天使のようとか、似合わなさ過ぎて」


 そしてまた、肩を震わせはじめる。マーシャルは、羞恥と怒りで真っ赤になった。


「失礼ね!それくらい自分でも自覚してるわよ」

「天使はないだろう、天使は。お前が天使なら、俺にも翼が生えてそうだな」

「ば、馬鹿にしすぎよ、それは!」


 怒り心頭のマーシャルだったが、普段は有り得ない彼の姿を見続ける内に、逆に心配になってきた。


「アンタ、頭打っておかしくなったんじゃないでしょうね。大丈夫?もしかして私の平手が原因かしら」


 ユンスティッドは何とか笑いを収めると、先程の様子が嘘のように、いつも通りの冷静で理知的な瞳をマーシャルに向けた。


「お前におかしくなったと言われちゃお終いだな。というか、やっぱり平手打ちしてたのか」


 じと目のユンスティッドに、マーシャルは冷や汗をかいた。墓穴を掘ったも同然だった。


「いいじゃない、平手の四つや五つ!」

「一度じゃなかったのか」

「は!しまった」


 口を押えてみても、既に遅かった。ユンスティッドの凍てつくような視線が突き刺さる。視線は一人分のはずなのに、針のむしろに座らされた気分だった。

 マーシャルは渋々謝り、お詫びに少年のグラスに水を注ぐ役目を引き受けた。無愛想な顔で渡すと、無言で受け取られた。何となくムッとして、腹いせに、彼の喉が水を飲み込む様子をじっと観察してやった。その途中で、黒曜の色だと記憶していた彼の瞳は、間近で見ると暗い海の色をしていたのだと思い出す。髪が少し伸びた気がしたが、そうでないと言われれば頷いてしまうような些細な変化だった。

 水を飲み終えたユンスティッドと目があった。どちらともなく始まる睨み合いは、もはや反射的な行為だ。


「……それにしても、久しぶりよね。一年、は経っていないけど」とマーシャル。

「ああ」ユンスティッドは素っ気なく返事した。「尤も、俺は最低でも数年先までは会いたくないと思っていたんだが」


 お前と再会したせいで死にかけたと、厭味ったらしい口調で言ってくる。確かにその通りだったが、認めるのも癪でマーシャルは反論の言葉を探した。


「でも、勝手に飛び込んできたのはそっちじゃない」

「あの時ほど自分の正義感を恨んだことはない」


 いけしゃあしゃあと言ってのける少年に、マーシャルはこめかみを引きつらせた。どの口がそれを言うかと小一時間問い詰めてやりたかったが、喉が断固拒否すると訴えていた。マーシャルは「やめたやめた!」と言って、頭を枕に戻した。潮の香りが染み付いた綿の少ない枕に、薄茶の髪がパラパラと広がる。色あせた毛布を被って目を瞑ると、海中に居るような気分を味わった。木目のある床と萎んだマットレスを伝って、どこからか海鳴りが聞こえてくる。

 ユンスティッドは、不貞腐れた少女の枕元に、ひょいと何かを放って寄越した。突然首の後ろに降ってきた冷たい感触に驚いて、情けない悲鳴を上げてしまう。それを手に取ったマーシャルは、驚きに目を見張った。「お前のだろう」とユンスティッド。

 確かに、それはマーシャルのペンダントだった。家を出る際に祖父からの贈り物として受け取った、マーシャルの宝物。金の台座に填められた赤鉄鉱が、輪郭のはっきりしない光を放っていた。


「俺が一度起きた時に、ここの研究長から渡してくれと頼まれた」

「そうだったの……。あのお爺さん、ちゃんと預かっていてくれたのね」

「俺にとっては、思い出したくもない記憶を喚起するものだがな」


 隣のベッドを一睨みしてから、無事帰ってきたペンダントを胸元で握りしめた。マーシャルは窮地から脱出した現実をようやく実感したのだ。

―――神さま、守って下さってありがとうございます。

 その時だけは信心深い普通の少女に見えたマーシャルに、ユンスティッドは寸の間黙り込む。次に彼は、枕元に置かれていたものを差し出した。マーシャルの目が吸い寄せられる。

 それは不思議な光を宿した水晶だった。

 あちこち角ばった細い棒のようで、長さはマーシャルの肩から肘までと同じほどだった。曇りのない透明なガラスの中に、たくさんの種類の青い煙を閉じ込めたようだ。紺青が水晶の内部を覆ったと思えば、すぐに空色に取って代わられ、その横でコバルトブルーが侵食の機会を虎視眈々と狙っていた。水晶の中身は目まぐるしく変貌してゆく。

 魅入られるように水晶を見つめていると、ユンスティッドが淡々と説明した。


「これが、あの水の獣が現れた原因だ。魔力が結晶化したもので、自然界のエネルギーが長い間貯めこまれることによって生まれる。大方、山から下りてきた狼かその死骸が魔力に当てられたんだろう。動物の中には、異常に魔力と相性が良いものが時折あらわれて、今回のようなことが起きるんだ」


 こんな小さな結晶が、あれほどの化け物を作り上げたのか。そう聞くと、ユンスティッドが首を横に振った。


「いや、おそらくもっと大量の結晶があったはずだ。それこそ群生してなければ、あれほどしっかりとした形をとらない」

「じゃあもしかして、洞窟の奥にあるサファイアって……」

「これのことだろうな」


 ユンスティッドの手から、マーシャルの手に水晶が渡される。眺めていても良いと許可が下りたらしい。マーシャルは本物のサファイアを見たことがなかったけれど、この結晶も十分美しいと思えた。お宝を探し求めた過去の侵入者たちは、がっくりと落胆するかもしれないが。


「そういえばお前、魔法が使えるんだって。研究長が褒めてたぞ」


 唐突にユンスティッドが話題の矛先を変えた。

 マーシャルはギクリと身を強張らせる。少女の動揺に気付くことなく、ユンスティッドは小首を傾げた。


「炎の剣が云々言っていたが、あれは何のことだ」

「そ、それは単に剣の持ち手が赤かっただけで」


 一切のごまかしを許さない面持ちにぶつかって、マーシャルは無駄な抵抗を止めた。本音を言えば、ユンスティッドとは魔法の話などしたくないのだ。その時間を楽しく思ってしまったなら、道を踏み外さない自信がなかった。

 浮かない顔のまま部屋の外に声をかけ、洞窟で拾った長剣を渡してもらう。塩水まるけだった剣の刃は、灯台の住人たちによって丁寧に手入れされていた。咳払いを一つ、あの時と同様に魔力を込める。恥をかいても良いから成功しないでほしいという願いは、むなしく打ち砕かれた。

 ユンスティッドは、炎が消え去るとすぐさま長剣を奪い取り、ためつすがめつした。刃の根元に刻まれた刻印に目を留めて驚愕する。


「魔法剣だ。何でこんなところに……学院の教科書で見たきりだぞ」


 彼がぶつぶつと呟く横で、マーシャルはうずうずとしていた。魔法の話をしたくないという気持ちは本当だったが、始めてしまえば好奇心の方が勝る。


「ねえ、なんなのそれ。先輩は古い時代の剣師団の物だと言ってたけど」

「ああ、そうだ。国境戦争の時に使われていた。だが、剣師団の物と言うのは半分正しくて半分間違っている」


 ユンスティッドの指が、刻まれた刻印を指し示した。


「それって、昔の剣師団の紋章じゃないの?」

「確かに剣師団の紋章としても使われていたが、元を辿れば魔法師たちが魔法で威力を高めた剣を作ったのがはじまりだ。魔法陣は分かるか?戦時中にはあちこちから徴兵したから、今と違って兵士の中にも魔法を使えるものがいたらしい。少数だったが、彼らのためにこの武器が作られた。単純に魔力を込めるだけで、魔法陣が発動するようになっているんだ」


 マーシャルは大いに感心した。むしろ感激に近かった。自分とこの剣の出会いは、なんて運命的なのだろうか。胸の鼓動が外にまで響いてしまいそうだ。そんな少女の様子に気が付き、ユンスティッドは何かを思案する素振りを見せた。彼なりの結論が出ると、ずばり尋ねる。


「お前、魔法の勉強したんじゃないか」


 マーシャルは勢いよくユンスティッドを振り向いた。愕然とした表情に、少年は確信を強める。


「いくら単純な仕掛けとはいえ、魔法について何も知らない奴が発動できる代物じゃない」

「そ、それは……」マーシャルは俯いた。視線の先で、両手が固く握られる。

「なに動揺してるんだ、別に悪いことじゃないだろう」


 マーシャルは顔を上げた。ユンスティッドは、本当に何でもない様なことを言ったつもりらしく、再び長剣に目を落としている。

――――自分が魔法を学んだのは、悪いことではなかったのだろうか。長い間、周りを剣士たちに対して、どことなく後ろめたい気持ちを抱えていた。どんどん魔法にのめりこんでいくにつれ、頭の奥の方から自分を咎める声が聞こえる気がした。あれは誰の声だったのだろう……。

 マーシャルは、もっとユンスティッドから言葉を引き出したくなった。ベッドから身を乗り出して、ユンスティッドに顔を近づける。


「私が、もっと魔法を学びたいって言ったら変?剣師団に入ることを迷っていると言ったら?」


 ユンスティッドは、危うく剣を足の上に落っことしそうになった。この展開は彼の予想外だったらしい。「まさか魔法師団に入りたいのか」と尋ねてきた。

 マーシャルは、躊躇いがちに頷いてみた。自分の想いを素直に認めて誰かに打ち明けたのは、はじめてのことだ。相手が相手だったおかげか、変に緊張することなく話すことができた。


「剣士への夢は変わってないのよ。今も憧れは、お祖父ちゃんや父さんよ。兄さんたちが羨ましいと思う。でもね、はじめて魔法に成功した時、ドキドキした。剣を握って戦っている時と同じくらい、楽しくて堪らなかった」


 もう全部ぶちまけてしまえと、マーシャルは開き直る。


「きっかけは、本当に些細なことだったのよ。アンタが……あの事件の時に魔法を使っているのを見てね、とてもきれいだと思った、ただそれだけ」


 ユンスティッドは、一度も口を挟まなかった。

 笑われてもいいと思ったけれど、ユンスティッドはその気配すら見せなかった。むしろ、驚いたように目を見開いている。理由は知れない。

 小さな部屋にしばしの沈黙が落ちる。窓のない部屋は空気がこもって息が詰まった。二人のどちらかが身じろぎをして、ベッドの底板がキイと鳴る。

 マーシャルは、もう俯いたりはしなかった。しかと少年と目を合わせる。暗い海の中に、菫色の瞳が映り込んだ。


「お前が、本当に魔法師団に入りたいって言うなら、協力してやらないこともない。今からでも入団試験に間に合うようにエヴァンズ隊長にも話してやる。でも、そういうことじゃないんだろう、お前が望んでいるのは」


 その通りだった。自分がこれほど優柔不断なことがあっただろうか。たった一つの偶然が、マーシャルの世界を大きく変えてしまったことに今更ながら驚く。


「私は、剣師になりたい」


 頭の奥で響いた誰かの泣き声に一瞬気を取られるが、最後には振り切ってしまった。マーシャル自身の意志をもって。


「でも、魔法を学んでもみたい。どちらも同じくらい挑戦したい」


 一句一句噛み締めるように口にする。マーシャルにとっては深刻な話題だったにも関わらず、ユンスティッドはからりとした調子で提案した。


「なら、上に掛け合うしかないな」

「は?」と間抜け顔のマーシャル。

「そんな前例は聞いたことないからな、入念に根回しして上層部に掛け合え。例えば、週七日の内四日は魔法師団、三日は剣師団という感じで。ああでも、デュオのことがあるからそれは無理か。いっそ、籍は魔法師団において剣師団の方は鍛錬だけ混ぜてもらうってのはどうだ。逆でもいいが、休みの融通は魔法師団の方がきく。研究のためだと言えば、週に三日くらいなら剣師団に通えるだろう」


 ずらずらと具体的な話を並べられて、マーシャルはすっかり混乱してしまう。「ちょっと待って!」とユンスティッドの話を遮った。横槍を入れられて彼は不満そうにしている。


「ちょ、ちょっと待ってってば!剣師団と魔法師団の両立なんて……」

「できないか分からないだろう。とりあえずやってみろよ、駄目だったら本くらい貸し出してやる」


 でも多分魔法師団は大丈夫だと、ユンスティッドは断言した。


「エヴァンズ隊長もキルシュさんもお前のこと気に入っていたからな。それに、魔法を他の物質――――金属に応用する研究なんて、そうそうやってるやつはいない。とりわけ今の王の時代になってからは、呪文学が主流になってるからな。剣師団と魔法師団はそれほど仲が良くないから、直接的な繋がりができると吹き込めば、上も喜んで承諾するだろう」


 ぺらぺらと捲し立てられて、マーシャルは呆気にとられるしかなかった。


「だから、お前は剣師団の方だけ説得しておけば良い」

「アンタって……、驚くほど大胆な時があるわよね」


 心の中で、マーシャルは「参った」と両手を上げた。その表情は苦々しいものだ。こうもあっさりと自分の悩みを解決されたことが悔しくてならない。正と負の気持ちがない交ぜになって、ユンスティッドに恨みがましい視線をぶつける。それを受けても、彼の瞳の中の海は凪いだ状態だった。


「その代わり、上手くいった暁には、俺にも益があるようにしてもらうからな」

「一瞬でもお礼を言おうかと思った私が馬鹿だったわ!」


 見返りは当然だというユンスティッドの態度に、マーシャルは脱力した。そういえばこういうところが嫌で堪らなかったのだ、去年の自分は。乗り出していた身体をベッドに戻すと、興奮で忘れ去っていた痛みが存在を主張し始めた。怒りとも嘆きとも判別のつかぬ声でうんうんと唸る。

 一方のユンスティッドは、話は決着したとばかりにベッド脇の杖につかまって立ち上がる。今までは毛布の下に隠れていた左足が露わになり、マーシャルは一応心配するそぶりを見せようとした。少年の膝から下には、添え木が包帯で固定されている。


「骨折?ヒビ?」


 気のない声で尋ねると、ユンスティッドはくしゃりと顔を歪めた。


「お前、棒読みにも程があるだろう」

「だって、骨折かヒビだろうなとは思ってたから。複雑骨折じゃなきゃ大丈夫よ。私も何回もやってるし」

「俺はそんなに頑丈にできてないんだ」

「鍛え方が足りないのよ!エヴァンズ隊長なんて、ムキムキだったじゃない、見習いなさい」


 ユンスティッドはため息を吐き、研究長に用があると言って外に出ようとした。扉を少し開けたところで、思い出したように振り向く。


「魔法師団に入ると決めたなら、志望理由練っておけよ。隙を突かれないように、精々頭を捻ることだな」


 ユンスティッドはそのまま扉を開けて、少し吃驚した後、左足を引きずりながら歩いて行った。

 マーシャルは、彼の言葉に返事をしなかった。言い返そうと思うことすらなかった。弾かれたように上半身を起こして、一点を凝視している。全身が麻痺したように、痛みを感じない。

 菫色の瞳が真ん丸に開かれ、唇が小刻みに震えた。


「ハロルド……」


 声に震えが出なかったのは奇跡的だ。

 優しい瞳の少年が、扉の向こう側で呆然と立ち尽くしていた。

 海鳴りが、まるで悲しげな啜り泣きに聞こえる。






「シャリー、今のって」


 ハロルドは必死に笑みを浮かべようとしていた。しかし、いつもの彼らしい柔らかい笑みが浮かぶことはなく、強張った表情が食い入るようにこちらを見つめる。マーシャルは戦いた。今の話は、ハロルドにだけは聞かれてはいけなかったというのに。配慮を怠った自らの責任だ。

 少年は、一歩部屋の中に踏み込んできた。重い扉は開けっ放しで、蝶番が不快な音を立てる。それすらも、二人の耳には入らない。真っ青な顔で、質素なベッド二つを隔てて彼らは向き合っていた。


「シャリーは、剣師団に入るんですよね」

「ええ……ただ、その私は」


 罪悪感が胸を締め付けて、マーシャルは言葉を探すように視線を落とした。木目の入った床を眺めつづけても、答えなど何処にもない。それがある場所は、自分の心の中だけだととうに知っていた。


「僕、シャリーと一緒にって」

「そうよ、私、剣士になりたい。でもね」息を吸い込むと、ひゅっと喉が鳴る。「私、魔法も学びたいの。剣と同じくらい。だから、師団にお願いして、両方に関われるようにしてもらおうと思って」


 それ以上は言葉が続かなかった。ハロルドの眦から涙がこぼれ落ちたからだ。


「でも、それじゃあ、デュオは」


―――ああ、やっぱり傷つけてしまうのか。

 マーシャルは誤魔化すことを諦めた。鳶色の瞳が潤む様子は、心をひどく締め付ける。剣師団に入って以来、ずっと慕ってくれた少年を傷つけることが辛くて怖い。


「ハロルドも、隊長に聞いたわよね。剣師団の任務は数日どころか何カ月も王都から離れる場合もあるわ。護衛の任務なら、他国まで出向かなければならない。だから、私がデュオを組むとすれば、魔法師団の方よ」


 それはユンスティッドの言葉からも分かっていたことだ。基本的に王都から離れることの少ない魔法師団に比べて、剣師団はあちこちを飛び回る。人数が多いのもそのためだった。入団して数年は休みもろくに取れないと、兄たちを見ていたマーシャルには分かっていた。


「私は剣士になりたいし、もっと強くなりたいと思うけれど、剣師団での地位が欲しいわけじゃない」


 マーシャルの言葉は、戦いを愛するディカントリー家一同に言えることだった。剣以外の道を見出したマーシャルにとって、将来あったかもしれない肩書を捨てることに何の未練もない。

 ハロルドの顔が涙に濡れていた。ずっと憧れの人と並びたいとがむしゃらに頑張っていた少年の夢は、たった今マーシャル自身によって閉ざされた。感情をぶつける相手は一人しかいない。彼はぐしゃぐしゃの顔で叫んだ。


「一緒に頑張ろうって、言ったじゃないか!」

「それは……!」


 剣師団に全く関わらないわけではないと言おうとして、言い訳に過ぎないと気付く。『一緒に頑張りましょう』と口にした時、一瞬躊躇った自分を忘れてはいなかった。


「僕、本当は、謝りにきたんです」


 桟橋で酷いことを言ってしまったからと、ハロルドは涙をぬぐった。右手の袖に少しだけ涙がしみ込んだが、悲しみを拭い去ることはできない。少年は可哀そうなまでに全身を震わせていた。


「だけど今のシャリーには、僕は謝りたくない!酷いのは、シャリーの方だ!!」


 ハロルドの悲痛な叫びは、マーシャルの心は勿論、ハロルド自身の心も深く傷つけた。真ん中のベッドの上に置き去りにされた長剣で、双方の心を容赦なく切り裂いたようだった。傷口から血が流れ出てじくじくと痛む。

――――裏切ったのは、マーシャルだ。

 もっと早く、打ち明ければよかったのだろうか。それとも誠実に答えていればよかっただろうか。今となっては、マーシャルには分からぬ答えだった。

 こちらを見つめるハロルドの目は、充血して兎のように真っ赤だ。頭の奥で響いていた泣き声は、ハロルドのものだったと、この時悟った。


「……っ!」


 去り際に彼が何を言おうとしたのか。マーシャルには予測することすらできなかった。ただ、重く閉ざされた扉が、二人の距離をあまりに大きく隔ててしまったことは理解できた。






 しばらくして、ユンスティッドが戻ってきた。彼は呆然と立ち尽くして泣き腫らしているマーシャルにぎょっとしていたが、ハロルドについて触れることはなかった。ユンスティッドは、明日以降も灯台に滞在する予定らしい。翌朝、曇天の中迎えに来たノーノに、ハロルドが一人で帰ってきたと知らされた。マーシャルはろくに反応することも出来ず、彼をひどく心配させてしまうこととなった。それがまた心苦しくて、馬車の窓から流れゆく景色を眺めながら、マーシャルは切に問いかけた。

――――ねえ私、どうすればよかった?

 胸元のペンダントを固く握りしめた。金の台座が手のひらに食い込んで痛い。それよりももっと、胸の奥が痛かった。

 二羽の鳶が、馬車の上空を飛び越え、遠くの山へと一直線に飛んでゆく。片方が、もう一方を追いかけるようにしている。分厚い雲を突き抜けて、太陽の照らす天まで上って行きそうな勢いだ。


 人生で一番涙を流した冬の終わり。やがて新緑がまぶしい季節を迎え、マーシャルは正式に魔法師団に籍を置くこととなった。





二人は望まなかった離別。

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