一体どちらが馬鹿なのか
今すぐにでも洞窟へと取って返したかったマーシャルだが、意識のない二人の処置が先だと、ひたすらにオールを動かした。桟橋が近づくと、岬の上の灯台の側に馬が二頭待っていた。ノーノが頼んでいた馬車だ。いつのまにか、太陽は半分西へと傾いていた。馬車の御者台に人影を認め、マーシャルは大声を張り上げた。
「お願い、灯台から人を呼んできて!意識がないの」
何度か繰り返して叫ぶうちに、御者は事態を把握してくれたようだ。慌てて灯台へと駆けて行く。彼が人を呼んでくる間に、マーシャルは桟橋に小舟をつけた。ノーノとハロルドの身体を桟橋の上へと引き上げる。水を吸って張り付く髪を払いのけ、手の甲で顔をぬぐう。
「大丈夫ですかい?!」
御者が灯台の研究員を二人連れてやって来た。その後ろを、片眼鏡をかけた老爺がよたよたと歩いている。灯台に暮らす人たちは勝手が分かっているらしく、手際よく二人から水を吐き出させ、呼吸を元に戻した。それを見届けると、マーシャルは小舟に飛び乗って脇目も振らずに再び海上に出ようとする。驚いたのは残りの人たちであり、研究所の長でもある老爺がそれを引き留めた。
「一体何があったんじゃね。先ほどもお客人が飛び出して行かれたばかりじゃ」
「透明な身体をした、水を操る動物に心当たりは?」
少女に不釣り合いな血走った目にたじろぎながらも、老爺はふーむと考え込んだ。骨と皮だけの指が、せわしなく片眼鏡を上げ下げしている。
「わしらは近辺に住まう海中生物の研究をしとるんじゃよ。ここ数年、どうも魔法の影響を受けたと思しき生き物の報告が上がるようになってな、今日のお客人もそのことに関する調査結果を聞きにきたのじゃ」
「客人って、シルバートのことでしょう?ユンスティッド=シルバート。アイツはどうして洞窟に」
「分からんが、大きな魔力がどうとか言っとったぞ。それで急に飛び出して行きおった」
ふんふんと呑気に頷いている老爺にイラついて、マーシャルは他二人の研究員に視線を移した。殺気立った鋭い目つきに大の男が身体を強張らせる。
「誰か、魔法を使える人はいないの?!あの水の狼を倒せるような」
ぶんぶんと首を振る二人にマーシャルは舌打ちする。僅かな期待を込めて傍らの老人を見下ろすが、「わしゃ、魔法師ではない」という返事に落胆する。ノーノもハロルドも当てにできない現状では、自分がどうにかするしかないと覚悟を決め、マーシャルはオールを手に取った。それを再び押し留めたのはまたも同じ人物だった。
「まあ待ちなされ。今洞窟にいるというお客人は、若いながらも優れた魔法師だと紹介を受けとる。そんなに心配せんくとも、いやむしろ剣士にすぎんお嬢ちゃんが行っても足手まといになるのではないか」
「なっ」
衝撃を受けるマーシャルを余所に、白い顎鬚を撫でながら老いた研究長はしきりに頷く。
「何でも、氷の魔法が得意だとか。ますます安心じゃろうて」
その言葉に、マーシャルはひっかかりを覚えた。先ほどの衝撃はまだ忘れられなかったが、振り払って老爺に尋ねる。
「どうして氷なのよ。水魔法には雷魔法を使うのが効果的だと本で読んだわ」
「そりゃあ一般的な話じゃわい!」
老爺は何故か自慢げに胸を張った。
「あの洞窟はかなり脆いからの。雷魔法なんて使えば、一発で崩れ落ちるわ!」
その言葉を聞いた研究員二人が顔色を青ざめさせたことに、マーシャルは目敏く気が付いた。まだ事態の重さを分かっていない老爺の細い腕を掴んで船に引きこむ。有無を言わせず老爺を座らせ、いざ救出に向かおうとオールを海面に差し込んだ時だった。三度目の、マーシャルを呼び止める声がした。研究員や御者のものではない、無視することの適わない声だった。
「シャリー……」
「ハロルド!」
身体周りに水たまりを作ってぐったりとしているハロルドは、うっすらと瞼を開けてマーシャルへ視線を遣った。
「どこへ……?」
「洞窟に戻るの、ハロルドはノーノさんと休んでいて」
小舟の上の少女の姿に、ハロルドは驚いたようだった。まだ上手く回らない口で、必死にマーシャルを食い止めようとする。
「無理、です……。化け物が……やられて、しまう」
「私たち、助けられたの。その人が残されてるのよ」
それでも引き留めようとするハロルドに、マーシャルは苛立った。脅す意味を込めて睨む。殺気立った視線が恐ろしいはずなのに、ハロルドはいつになく頑固だ。
「でも……、見ず知らずの人だ。シャリーが、危険に晒される必要なんて、ないじゃないですか」
「知らない仲じゃないのよ」
マーシャルはぎゅっとオールを握りしめた。オールも腕も、全身が塩水にまみれていた。
「ハロルドは、他人だったら放っておけと言うの?そんなのってないわ!加勢するに決まってるでしょう」
「でも、まるで、歯が立たなかったじゃないか!」
「それでも一人きりで置き去りにするよりマシよ!」
「……っ、でも、シャリー」
ノーノが、ハロルドは心配しすぎる嫌いがあると言っていたが、彼の優しさが今は無性に鬱陶しかった。ハロルドは、ただマーシャルの身を案じていてくれるだけだと、分かっていたけれど。
「……ハロルド」
少年は、泣きそうに顔を歪めていた。その濡れた鳶色の瞳は、いつもの熱視線より遥かにマーシャルの心に突き刺さった。それでも、訴えかけることをやめなかった。
「アンタがもし、洞窟に一人残されたら、私は何を置いてでも助けに行くわよ。ノーノさんでも、他の誰であっても、その人が私を助けてくれた人なら尚更!」
鳶色の瞳がますます潤んだ。彼が何の痛みに耐えているのか、マーシャルにはわからない。だが、もう彼に割く時間はなかった。マーシャルは少しでも早く行かなければならない。
小舟からそっと抜け出そうとしていた老爺の首根っこを掴んで押さえつけると、マーシャルは今度こそ洞窟に向けて漕ぎ出した。ハロルドが、弱々しく手を伸ばす。
「まっ……」
「だから、アンタは心配しすぎなのよ」
気持ちとは裏腹の笑顔を見せ、そして猛然と舟を漕ぎはじめる。桟橋で呆然としていた者たちはまともに水を被ることになったが、マーシャルにはどうでも良いことだった。小さくなっていく小舟と彼女の背中を、ハロルドは再び薄れゆく意識の端で掴もうとしたが、その手は虚しく空を切るだけだった。
海を駆け抜ける小舟の中、マーシャルの脳内では、まるで一枚の写真を強力な糊で張り付けたように同じ光景が浮かび上がり、彼女の動揺と焦りを増幅させていた。
得体のしれない透明な獣。魔法生物だと先程聞いたが、黒髪の少年には、あれの正体が分かっていたのだろうか。
知っていただろう、と彼女の古い記憶が教えた。
ならば、聡明な彼は洞窟の脆さに気づき、その素晴らしい魔法で敵を退治てくれるだろうか。
そうやって、己の心を安心させるために尋ねると、マーシャルの古い記憶は沈黙より他の物を返してはくれなくなる。
「のお、お嬢ちゃん」
老人は激しく揺れる小舟にしがみつくようにして、冷たい海へ放り出されることから免れようとしていた。
「先ほども言ったじゃろうて、そんな焦らんくとも大丈夫よ。お客人はお嬢ちゃんの友人じゃったのか?心配じゃろうが、何事にも焦りは禁物じゃて」
未だ楽観的に構えている老爺に対し、マーシャルは振り向かぬまま怒鳴った。
「シルバートは、洞窟のことを知らなかったんでしょ?!」
「何じゃと?」と、少女を見上げる老爺。
「アイツは、あの洞窟が脆くて、雷魔法を使ったら崩れるなんて知らなかったんじゃない?」
「そ、そういえば……」
老爺はようやく「お客人」が危険に晒されている現状を理解したらしい。途端に貧弱な身体をガタガタと震えさせはじめる。彼の金縁の片眼鏡も、一緒になって震えていた。
「わ、わしゃあ、どうすればいいのじゃ。王都の魔法師を死なせたとあっては」
「死なないわよ」
驚くほど低いうなり声が、少女の両唇の隙間から這い出た。
「じゃが、お嬢ちゃん。お前さんも、王都の剣士なんじゃろう?わしは、二人も若人を危険に晒すわけには……」
マーシャルは、オールを動かす手もそのままに首を回した。貧相な老爺が、容赦なく襲い掛かる飛沫を浴びながら呆然と座り込んでいる。
「気に食わないの」
知らぬ間に飛び出した言葉に、マーシャルは少なからず驚いていた。
一体自分は、何が気に食わないと言うのだろう。
そう疑問に思ったのは老爺も同じようで、何故かを問いかけてきた。
マーシャルは、ふいと視線を前に戻した。
「……獣に、やられっぱなしっていうのが。無性に腹が立つのよ」
「見上げた根性じゃな。剣士の鏡のようじゃ」
マーシャルは思わず失笑した。剣士の鏡などとんでもないことだ。闘争心の塊といわれるなら、得心も行くけれど。
(私は、未知の敵と戦いたいだけ。それだけよ)
それが言い聞かせるような響きを孕んでいたことには、気付かないふりをした。下唇を噛み締めて、混乱しかけていた頭を一度きれいにする。今は、少年を救出することだけを念頭に置かなければ。先の方に洞窟の入り口が見えてきた。
(急いで洞窟から引っ張り出さないと)
洞窟の中にいる少年は、意外なほどに大雑把で面倒くさがりな性質であることは分かっていた。魔法の研究のことになると神経質になるくせに、基本的に効率の悪いことはやりたがらないのだというのは、短い共同生活で知り得た数少ない少年についての情報だった。
お願いだから危ない魔法は使わないで欲しいと祈りながら、マーシャルは洞窟の入り口横に小舟を近づけた。気のせいではなく、洞窟の入り口の高さは狭まっていた。
「夕刻になれば、潮が満ちて来るぞ」と後ろで老爺が警告する。「分かったわ!」とマーシャルは叫んで、洞窟に侵入しようとした。
ガツンと、オールが固いものにぶつかる音がして、衝撃に腕が痺れそうになる。
目を凝らして入り口を見たマーシャルは、愕然として目を見開いた。口も利けないでいると、背後から覗き込んだ老爺が素っ頓狂な声を上げる。
「な、なんじゃこりゃっ」
まだ僅かに開いていたはずの入り口は、水の入る隙間もなく全面氷で覆われていた。
(~~~~っ、どっちが馬鹿よ、あの野郎!)
オールを突き立ててもびくともしない氷の壁に、マーシャルは肩をぶるぶると震わせた。それを見かねた老爺が優しく声をかけ、彼女を宥めようと努める。
「し、しかしじゃの。これでお客人が氷の魔法を使ったということが分かったわけじゃ。このまま待っておれば、そのうち無事に出て来るじゃろう」
「でも……」
どうすれば良いのか悩むマーシャル。彼女の肩を叩いていた老爺は、不意に空を見上げて眉を顰めた。彼は洞窟の入り口の周りへ打ち寄せる波を見つめた後、傍らの少女に呼びかける。
「すまんの、前言撤回じゃ。もう潮が満ちてくる、この近辺の海面はあっという間に上昇するからの。入り口が沈んでしまうといけない」
迷っている時間はないと、暗に告げていた。
「すみません、これ持っていてください」
きっと洞窟を睨みつけると、マーシャルはオールを同乗者に託す。手のひらを、海上に覗いている氷の部分にかざすようにして炎を生み出す呪文を唱える。
「イグニス!」
小さな炎が、マーシャルの手のひらに灯った。いつもより大きさの劣る炎は、少したりとも氷を解かすことはなく、ジュッという音を立てて水にかき消されてしまった。
「っ、イグニス!!」
もう一度試したが同じことだった。その間にも入り口が狭まっていくのを感じ、マーシャルの背中を冷や汗が伝った。懇願するように後ろの老爺に再度尋ねる。
「魔法は、本当に使えないんですか?」
「すまん……」
本当に申し訳なさそうに、小さな体をさらに縮めて老爺は答えた。丸い片眼鏡が鼻からずり落ちる。
「一つも?」
声が震えるのを抑え込むことができないマーシャルを、老爺が辛そうに見つめ返した。菫色の瞳がゆらゆらと波立っている。
「全く使えんと言うことではない」
「なら!」
マーシャルは期待に顔を明るくした。その手を押し留めて、老爺は幼い子供に言い聞かせるように話す。
「じゃが、先程お嬢ちゃんが使ったのと同じ、初級魔法が一つ使えるきりなんじゃ」
「何が、使えるの」
「氷の魔法じゃよ。じゃが、本当に、コップ一杯分の水を凍らせる程度しか出来ん」
ともすれば諦めてしまいそうな心を叱咤して、マーシャルは思考回路を巡らせる。頭から湯気が出そうな程考えても、妙案は浮かばなかった。
「じゃあ、数秒だけでも良いんです。入り口の周りを凍らせて、私が入り口の氷に剣を突き立てて壊せるか試してみますから」
入り口は、もうほとんど海中に埋まっていた。必死に言い募る少女を、長い年月を生きてきた瞳が憐れみを含んで見つめた。
「持って十秒じゃ。これで駄目だったら、灯台に戻って魔法師の救援を待つんじゃな。この氷の蓋が潮が引くまで入り口をふさいでいてくれたら、彼は助かるじゃろうて」
「それで、構いません」
マーシャルは、剣師団で支給された軽い長剣を投げ捨てて、洞窟内で偶然拾った長剣を両手で構えた。その重みが、氷の壁を突き破ってくれることを願って。
胸のあたりをぎゅっと抑えて、それからハッとする。呪文を唱えようとする老爺を一旦止め、マーシャルは胸元までずれてきていたペンダントの金具を取り外した。赤い石のついたそれを、老爺の手に託す。
「これ、持っていてください。失くしたくないので」
「……あい分かった」
重々しく頷いて、老爺は服のポケットにペンダントを仕舞いこんだ。
「もう良いな?ならば……グラエキース!」
波が引いた一瞬を見逃さずに、老爺の細い両腕が突き出され、打ち寄せようとする波を薄い氷の壁で食い止めた。早くもヒビ割れている部分がある。マーシャルは、氷を壊さないように海上に降り立ち、剣を振り下ろす。僅かに穂先が突き刺さり氷を削り取るが、到底叩き割るまでには行かなかった。つづけざまに呪文を唱えて炎を生み出すが、分厚い氷の壁の表面を舐めただけだった。
「あと五秒」
タイムリミットが迫る。がむしゃらに剣を突き立ててみるが、ヒビ一つさえ入らなかった。
「三秒」
老爺が苦しそうに顔を歪めている。マーシャルが何度目かに剣を突き立てた時、洞窟内から何かが崩れ落ちる音が聞こえてきた。地響きのようにも聞こえるそれは、鳴り止む様子がない。
「一秒、もう持たん!」
その叫び声と同時に、押し留められていた凶暴な波たちが一息に襲い掛かる。僅かに灯っていた炎がかき消され、賢明に踏ん張っていたマーシャルの頭はついに真っ白になった。
―――どうしようどうしよう、どうすれば!
足元が崩れ、マーシャルの身体が海中に沈みこむ。海水が目に染みて、思わず目を瞑った。
ぐるぐると様々な想いが交錯する中、心の奥底が憤りと悲痛を交えた声で絶叫した。
(このままじゃ、アイツが死んでしまう……!!)
洞窟内が崩壊する音が鼓膜を揺らして、がんがんと耳鳴りがした。全身が熱い、燃えるように。確かに、あの少年との胸が温かくなるような思い出など一つもなく、優しい言葉をかけられたことも、憧れの視線で見つめられたこともなかったけれど。
『気に食わないのよ』と、過去からの声がこだました。
それは、先程老爺に対して言った言葉でもあり、それよりも以前に誰かに対して吐いた悪態でもあり、その誰かがマーシャルに厭味な態度で言ってきた言葉でもある気がした。
―――気に食わない。そうだ、その言葉がふさわしい。
優しいハロルドを振り切ってまで海に乗り出した。その理由が分からなかった。マーシャルの心の僅かに残された冷静な部分は、「なぜそうも焦るのだ。あの少年とはいがみ合っていたではないか」としつこいほどに囁いてきていた。危険に晒されているのが、家族や全くの他人だったなら、「心配だから」の一言で済ませられたのに。
(私は、気に食わないんだ。アイツに助けられたのも、自分だけが安全な場所にいるのも、アイツが死んでしまうことも!)
彷徨っていた心は、一つの処に定まった。
(助けてみせる!)
ザバン!海中から少女の頭が飛び出した。
マーシャルは一度海上に顔を出すと、深く息を吸い込み、入り口を見定めて海中に潜り直した。剣を突き立てると、先程より深く突き刺さる。はじめは銀色だった剣の穂先が、水中にもかかわらず徐々に赤らんでいく。やがて、まわりの海水までもが炎に炙られているように熱くなっていった。
(このっ)
より一層の力と、そして無意識のうちに目一杯の魔力を込めて剣先を氷に押し込んでいく。腕ごと一気に突き刺すようにすると、まるで歯が立たなかった氷の壁についに小さな穴が開いた。そこでマーシャルの息にも限界が来て、空気を求めて浮き上がる。その拍子に現れた剣を船の中から目にした老爺は、驚愕してそれをまじまじと見つめた。
炎の剣じゃと、彼は呟く。
熱した鉄のように真っ赤に輝く剣先を、オレンジの炎が包み込んでいた。ちろちろと蛇の舌のように炎は伸びあがり、火の粉をまき散らしている。マーシャルが海中に戻っても、剣の刃が冷めることはなかった。
ついにマーシャルは、氷の壁を突き破った。押し寄せる波に身を任せ、洞窟内へと入っていく。
(これは……)
予想通り、中は天井や壁が落盤し、酷い有様だった。波に揉まれながら何とか高いところにしがみつき、声を張り上げる。
「シルバート、どこにいるの?!何でもいいから返事して」
返事はない上に、洞窟の崩壊は留まるところを知らないらしい。あのまま救援を待っていたらと思うとぞっとした。
「ルークス」
光を灯して辺りを照らす。あまり奥には行っていないだろうと見当をつけ、血眼になって黒髪の少年を探した。瓦礫の下に埋まっていたらと最悪な想像をして激しく後悔する。涙がにじむのは塩水のせいだと思い込んだ。
「っ!」
崩れ落ちた岩盤同士の間に、布の端らしきものが揺れていた。息をのんで泳ぎ寄る。
果たして彼は、そこで倒れていた。
端正な顔立ちに懐かしさを覚えるような場面ではない。久しぶりに顔を見た彼は気を失っていたが、幸いなことに挟まれているのは足だけだった。水の勢いを利用して上に乗っかっていた小さな岩を退かし、少年の身体を抱え込んだ。その場を離れた数秒後に、彼の身体が横たわっていた場所に岩の塊が降ってきて、毛が生えたと言われるマーシャルの心臓が縮み上がる。
(あ、危なかった……)
胸を撫で下ろすが、すぐに次の問題にぶち当たった。
(ここからどうやって戻ろうかしら)
行きは流れに乗ってきたが、そのせいで帰りは波に逆らわなければならない。人一人分の身体を抱えた状態で、出口までたどり着くのは至難の業だった。
(この剣で海水を蒸発……は流石に無理よね)
どんどん近づいてくる天井に焦り、マーシャルはとにかく出口まで近づこうとするが、波に押し返されて進むどころか洞窟の奥へと戻されてしまう。切羽詰まったマーシャルは、最後の手段に出ることにした。
横の岩石から生えていた出っ張りに足を引っ掛けると、左手で少年の身体を支え、右手を大きく振りかぶった。
「シルバート、起きなさい!!」
少年の右頬と左頬を順々に叩く。容赦ない平手打ちに、形の良い頭が左右に揺れ動く。乱暴の一言に尽きる起こし方だったが、強烈な痛みは少年の意識を引き戻してくれた。彼の口許が動き呻き声を上げるのを確認したマーシャルは、最後にとっておきの一発を喰らわせてやった。
「ユンスティッド=シルバート!」
「……っ、痛いんだよ馬鹿力!」
目を覚ました瞬間に怒鳴り声を上げたユンスティッドは、目眩を覚えてマーシャルの肩にしがみついた。その表情が歪んだのは、頭痛のせいかマーシャルに支えられる屈辱のせいか、おそらく両方だろう。
「うるさいわね!生きるか死ぬかの瀬戸際なのよ、さっさと起きなさい」
「頬と頭と足がとてつもなく痛いんだが」
頬と頭は自分のせいだと確信したマーシャルだったが、「落盤のせいじゃない?アンタ、岩の下敷きになっていたから」と空とぼけた。ユンスティッドは少女に白い目を向ける。それと同時に、大抵の事態に対して冷静な彼らしく、周りを見回して八割方状況を理解した。
「ちゃんと支えてろよ。落としたら、お前も俺も死ぬんだからな」
「分かってるわよ」
ユンスティッドは痛みを堪えながら、両手を海底に突き出した。
「マリーア」
海の中で、魔法陣が光りだす。青白い光の粒子が、洞窟の天井まで届いた。
「ヴィンディカット!」
魔法を行使し終えると、ユンスティッドはぐったりとしてマーシャルに身を任せた。「あとは頼んだ」と言い残して再び意識を飛ばしたようだ。
(あとは頼んだって言われても)
もう頭が天井についてしまうほど、海面は上昇していた。途方に暮れた時、マーシャルの両耳が不自然な音を捉える。嫌な予感に首を後ろに回すと、洞窟の奥の方からドドドドドという腹に響く音が近づいてきていた。もうどうにでもになれ、とばかりにマーシャルは右手でユンスティッドを抱え、左手に長剣を握り込む。音の原因は、やはりというべきか……。
(水を逆流させるなら、最初からそう言いなさいよ!)
洞窟に侵入した時以上の濁流が、マーシャルを背後から襲った。剣を上手く使ってユンスティッドと自身の頭を突き出した岩から守りながら、怒涛の勢いで出口まで押し流されて行く。その直前で危うく槍のように尖った岩に激突しそうになるが、その脇に生えていた短い棒状の何かを掴んで進路を無理やりに変える。出口から放り出された拍子に、その何かが岩から外れてしまったが、マーシャルはそれを意識できるような状態ではなかった。
近くで待っていてくれた老爺の元へと気力と体力を振り絞って泳ぎきり、小舟にユンスティッドを押し上げた。マーシャル自身も船の上へ這い上がると、少年の身体に折り重なるようにして倒れ込んだ。
「あとは、お願い、しま、す……」
急に重くなった瞼に、マーシャルは逆らうことができない。
老爺のしわがれた声が、何枚も膜を隔てたように遠くに聞こえている。やがてはそれも消え失せて、マーシャルの意識は夜の海へと沈み込んだ。
日が暮れた真暗な海を、三人を乗せた小舟が泳いでゆく。老爺の枯れた手が、意外にも上手にオールを動かしていた。遠くを照らす灯台の明りの袂から、いくつかの人影が飛び出してきた。そこには時折ふらつくようにして歩くオレンジ髪の青年もいる。
老人が大きく手を振ってからしばらくして、小舟はようやく、疲れた旅人のような形で桟橋に繋がれたのだった。
急転直下