四幕の弐。
◇
呟き、なぜか時路は刀身に手を添えると切っ先を己に向けた。体当たりするようにぶつかった僕はその刀身を押し込む形になり、時路の着物と肌を切り裂いた。僕は時路を見上げる。
着物の内にあった身体には……おぞましい紋様が絡みついていた。色とりどりの染料で肌を隙間なく埋めている紋は、絵と文字の中間のような何とも言えない形をとっている。これ、は。
「秘法・呪紋纏睛」
言葉が紡がれると同時に、肌の内側から外側へと脈動するかのように、びくりと刺青の紋様が波打った。よく見れば、僕が先ほど斬ったところから血が滴った部分の刺青だけが、蛇行して肌の中を這いずりまわっている。不気味なその光景から目を離せず、だんだん僕の目の中に刺青が飛び込んできそうに感じて気分が悪くなる。
なんだ、これは。いやどうでもいい関係ない。どうにかしてこいつを押えこまなければ、僕は白を助けることも出来ないんだ。戸惑って動けなかった身体を無理やりに押し出し、残り五歩の間合いを詰める。だが刀を持っている時路に近づけるはずもなく、振りかざされた切っ先の生み出す刃圏には踏み込めない。
やがて時路は刀を投擲して僕を先に動くよう仕向け、二撃目として繰り出した掌底を確実に当てにきた。刀を避けるために無理な体勢をとっていた僕は当然かわせず、防ぐことも叶わず、肺の腑から空気を押し出されて、吐きそうになる。そのまま喉笛をつかまれ木の幹に押し付けられ、身動きが取れなくなった。最後の抵抗として、目を閉じる。
「……ふむ? きみはどうやら誰かから私についての知識を教えられていたようだね。だから催眠術が目を合わせることで発動することも知っており私の目線を避けていたようだが」
「まさか、自分に、催眠術を、つかう、とは。思わ、なかったよ」
喉が苦しく、切れ切れに声を出す。すると時路は吹き出して、白んだ空に笑い声を飛ばした。
「あれは嘘だよ。きみをこちらの懐に招くためのね。あいにく私の自己暗示は模倣の他は出来ないのさ。だから門左衛門を模してあのように剣術の真似ごとは出来るが毒に耐性のある化け物は知らない故に自己暗示では毒を打ち消すことは出来ないのだよ」
「な、ら。解毒、は」
「要らないと言っただろう。私にはこの術がある。……まあ出来れば使いたくなかったがね」
少しずつ気道が塞がれていって、息が詰まり、喋りづらくなる。そんな僕の様子を見て、時路は愉悦に満ち満ちた声で得意げに語る。術、術、か。今のこいつが言っているのは、多分、奴の全身に刻まれていた刺青、のことだろう。
――ああ、白に昨日注意するよう言ったのは僕だったってのに。なんて、迂闊な。
「刺青の呪いというものを知っているかな。私の刺青は術を込めて刻みつけた特別製でね。斬られたのち刺青を見られることを条件として発動する呪いが仕掛けられている。しかもそれだけではない。一度発動条件を満たしてしまえば……しばらくの間はこの刺青を目にした被催眠術者の全てを呪いに落とす。この肌に刻まれている刺青が在ることを認識しているか否かも問わず」
なら小屋の近くで時路と戦った際、斬った白も、傷口を見た僕も、その呪いにかけられていたのか。そして、今現在も僕らは術中にある……くそ。光衛門さんからはこんなこと聞いてなかったぞ。
時路景時は催眠術士というだけじゃない。刺青の呪いを操る、呪術士でもあったのか。
「そもそも催眠術というのは使い勝手の良いものではなくてね。所詮技術である以上相手を誘導することは出来ても完全な命令というのはなかなか出来ないのさ。今こうしてきみらを取り囲む人々も集団心理をまとめあげた上で『山中の小屋近くでこの町の奴が殺されてた』と私がふれまわったから統率が取れているだけさ」
「無駄のない、こと、だな。白が斬った、あんたの身代わりを、そんなふうに使ったのか」
「使ったとは人聞きの悪い。彼らが己が頭で判断した上で自主的に動いただけさ。そしてその自主性を残しておけることこそが催眠術の最大の利点だ。なぜだかわかるかい?」
問われてもわかるはずがない。僕は手足を振りまわして逃れようとする。すると時路はあの細腕でよくぞと思うほどの力を発揮し、僕を少しずつ持ち上げ始めた。気道だけでなく血管まで締まり始め、今にも意識が途絶えそうになる。
「門左衛門に施したように〝洗脳〟と呼べるほど暗示を深くかけるのは時間がかかる上に洗脳後は融通が利かない性格となる。そうして自主性を失い人形となった者は私の指示通りにしか動けないのであまりに大人数に施術すると露見しやすくなるからだ。家からあまり出ることも無く接する者が少ない人間――すなわち門左衛門のような奴でなければ受け答えなどに齟齬が生じバレてしまう。正直きみが頻繁に橘家を訪れるのは鬱陶しかったよ。その度に囲碁を打ちに行くフリをして受け答えの設定をしなければならなかった」
面倒臭そうに、けど、それすら楽しんでいたように時路が笑う。
こいつは、いつから……ずっと、前からか。こいつは周到な準備を重ねた上で、今日計画を実行に移しただけだ。門左衛門に碁仲間として取り入って、洗脳とやらを施し、隣町で強い発言権を得て。全て、倒幕とやらのために、人々に暗示をかけた。
「だが時は満ちた。この第一段階も今度こそ終幕さ」
薄目を開けると、蹴り上げて掴んだ刀の切っ先が、僕の喉を狙っていた。朝日を照り返す刀身の輝きが僕の目を刺し、同様に光にさらされた時路の顔からは汗が、ぽたりと落ちていく。
「さて。早くしなくては毒が回ってきてしまうね。その前にきみを処刑して皆に私のことを敵と相討ちになった英雄とでも認識させておかないと」
揺れはじめた視界の中、顔を上げる。無理に笑う時路の顔、そこに流れた汗は、激しく動いたために落ちたものでは、ない。毒が、身体を蝕み始めたがための、いやな脂汗だった。
「な、んだ。やっぱ、あんた、も、死ぬのか」
「ああまあね。でも問題は無い――すぐに〝時路景時〟は現れる。嫌な話だけれどもね」
なに、言って…………だめだ。意識が、保てなく、なってきた。首に感じる圧迫感だけが世界の中に浮いているようで、他の何もかもが遠くなっている。時路の声でさえ、遥か彼方から、響いてきていた。
端から煤で塗りつぶされるように、視界が、黒いもので充満していく。冷たくなる手足、早鐘のような心臓、短い間隔での呼吸、すなわちそれらは懐かしい、死の気配。今回は、邪魔立てするものも、何もない。でも。
周りに人が、多すぎる。そのことだけが、いやで、いやで……
「おや。手足から力が抜けてきた。それでは気絶する前に終わらせるとしよう。深い闇へ落ちてもらう。なに心配することは無い。きみがご執心の橘白銀ともすぐに会える――冥府で」
絶望しろ。
言葉が重さを伴って、胸の内に落ち、心が、折れそうになった。右手の刀が肌に沈み、抵抗すら、許されない僕は…………少しずつ遠のいていく意識の中。ぼやけていく目の焦点を、白に向けた。白は、這って川べりを進み、短刀のところに辿りつこうとしていた。泣きそうな、顔で。でもごめん、白。もう、僕は。
瞬間、視界に赤色が散った。頭に血が行き渡っていなかったために認識が追い付かなかったが、静寂を吹き飛ばす轟音の尾が辺りに残響を漂わせていることに気付く。首の圧迫感が消えて、僕はいつの間にやら尻もちをついていた。視界がぐわんぐわん揺れているのはその轟音のためか首を絞められていたためか。いまいち判然としないまま僕は顔を上げて、ひどい咳と共に空気をたらふく吸い込んだ。そんな僕に、川の下流の方から声がかけられる。
「――息災、とはいかなかったみてぇだな」
揺れが収まってきた中、声のした方を真っすぐ見据える。まず見えたのは、薄れ流れて消えていく白煙。その向こうには、何やら無骨でひどく短い鉄砲を手にした光衛門さんが立っていた。左手には杖を持っていたが持ち手が無い。あのコブみたいな太い持ち手は仕込みの、握り鉄砲という奴だったのか。
「まあでも、間に合ったか。誰かさんが『結衣章雪!』とか叫ぶ声が山の方から微かに聞こえたんでな、慌てて連中を片づけてこっちに来たんだが。大当たり、ってわけだ」
「……ああ、僕が奴の名前を叫んだおかげ、でしたか。助かり、ました」
「礼は要らんぜ。元よりこれが俺の職務だ」
煙が晴れると仕込み鉄砲を杖に納め、覚さんと共に歩みよってくる。背中は助さんが守るようにして周りの人々を威嚇しており、統率者であった時路が倒れているにも関わらず誰も動けない。僕は白の方を向くが、あいつは川に半身を突っ込んで動きが止まっていた。慌てて駆け寄りながらも、僕は後ろが気になって何度も振り返っていた。
川の水が赤く濁り、下流へと押し流されていく。その流れを蹴散らしながら、ざばざばと三人が時路の元へ歩いた。刀をつかんでいた右腕から血を流し、うんざりした顔で光衛門さんを見上げた時路は、震える唇で何かを言おうとした。手を振ってその言葉を遮り、光衛門さんは印籠をかざす。あくまで目線は、合わせないままだ。
「常陸国水戸藩第二代藩主、徳川光圀だ。結衣章雪、神妙にしてお縄につけ」
光衛門さんの名乗りに少し考え、僕を見て、時路は得心して手を打ち鳴らした。
「なるほど……八兵に入れ知恵してくれたのはきみかい。それにしてもよもや幕府が私の追っ手としてわざわざ水戸の藩主様を出すとはね。きみは江戸の守りの要でもあったはずでは?」
「要の役は他に譲った。大体俺ァ一つところに留まってんのは好きじゃねぇんでな、お役目なんざさっさと誰かに譲って気ままに旅でもしたかったわけだ。そんで旅に出るなら、と目的の一つとして、幕府から結衣章雪の捕縛も仰せつかった……なあおい。なんでテメエがこんな目に遭ってるかの理由くらいは、理解してんだろうな」
「理由が何かはわかるが理解には苦しむね」
これには即答して悪びれることも無く、時路は平然としたままあぐらをかいた。光衛門さんは不遜な態度をとって皮肉った笑みを浮かべる時路に対し、激昂することも無く冷静に杖の先を向けていた。僕は白を抱えて、四人からまた距離を取る。白は気絶してるようだった。
「俺にもテメエの考えは理解に苦しむぜ」
「構わないよ。どうせ藩主などという遥か天上人には私たち浪人やごろつきの考えなどわかるはずもないのだろう」
「誰にも訴えず心の内にしまわれてちゃ、俺たちにわかるはずもねぇだろう。みんながみんな、テメエみたく心理術を扱えるわけじゃねぇんだよ」
「では幕府に訴えれば何かが変わったのかい? 私たちのような薄汚い浪人など路傍でくたばっていればよいと突き返されたりはしなかったのかい? 否。慶安の変で多少は変わったとはいえあれから数年経つというのに劇的な変化は何一つ見られない。浪人は未だ数多く常に逼迫した生活を余儀なくされている。現在の天下泰平とは多くの下級武士とその家族が犠牲となることで成り立っているのだよ」
「あげく、武士たちは賊に成り果てたり、ってか?」
うなずく時路。光衛門さんは嘆息を長く引き延ばし、しゃがみこんで視線の高さを合わせると、低く絞った声を出した。
「だってのに賊をテメエの催眠術の生贄に使うたあ、矛盾した考えじゃねえのか」
「……っ」
言い淀んだ。その後も黙りこくったままで、時路は言い返す様子も無い。いけ、にえ?
「ここに来るまでにごろつきどもの一団を蹴散らしてきたんだが、奴ら『結衣章雪の指示で長屋を襲いに行く途中だった』とぬかしやがったぞ。そいつらを追う形でテメエが動いてるってな今の状況を見て、大体事情はつかめたがな……八兵、お前たしか隣町にも診療に行ってたとか話してたな。どんな客だった?」
いきなり話をふられて、少し焦る。そして先ほど座敷牢の中で光衛門さんに昨日からの出来ごと全てを語ったことを思い出し、うなずいて返す。
「ええと。客は『ごろつきを追い払うための名誉の負傷』とか言ってましたよ」
「ふん。なるほどな。つまり最初に催眠術にかけたのは、隣町の連中ってわけだ」
「は? えっと、順番に意味なんて、あるんですか」
「大ありだ。せっかくだから、お前にも順番に説明していってやろう。こいつはまず隣町の住人に催眠術をかけた。といっても集団心理に働きかける、一体感を伴うようなものだから大方〝排他性〟と〝攻撃性〟を高めるってとこだろ。元々ごろつきに恒常的に襲われてる町だったなら、それがごろつきに立ち向かうべく一番必要なものであり、それで十分だったんだろう」
時路がわずかに肩を上下させ、息を呑む。僕も息を呑んでいた。たしかに時路は僕に、今光衛門さんが口にしたのと同じことを言っていた。
「頭数で言うなら町人の方が勝ってるしな。ごろつきを追い払うことに成功し、町は平穏になった。たまにはごろつきも町へ降りてくることはあっただろうが、その都度追い払われてちゃ寄りつかなくなる。当然、ごろつきどもは略奪の矛先を他に向けることにする。つまり、この町だ。だがこの町には凄腕の剣客である門左衛門が居たために、容易には略奪行為など行えない。故に門左衛門をなんらかの過程を経て催眠術で操ったあと、こいつはごろつきに近付き共犯関係を提案して、互いに結び付きを作らせたんじゃねぇか」
時路が青ざめていく。毒で弱りつつあるから、というわけではないだろう。
純粋に恐怖しているのかもしれない。己の所業を、暴ける者が居たことに。
「町の噂を聞いて回ったが、この町は金回りが悪いっつーか、持てる者と持たざる者で格差が広がってたようだから、おそらくは税、かね。税を納めない連中を処断する手伝い。全体を生かすために小さな個を殺したんだ。……そうだ、たまに暴れるごろつきを押えこむのも、一種の演技だったんじゃねぇのか? 『こういう時に守ってもらうには、税を納めないと』って思わせるための、よ」
この場で考えて喋ってるとしか思えないほどのいい加減さ、にも関わらず正確に言い当てているということは、震えの止まらない時路を見ていればよくわかる。税を、納めない人間か。……重さんは、常に金欠だったっけ。
「しかしごろつきも次第につけ上がる。身の程知らずにも、賃上げ要求でもしたんだろう。共犯関係をバラされたくなければ~とかなんとか言ってな。無論共倒れ必至の脅しに屈するほど馬鹿じゃない門左衛門は、見せしめのためにそいつを斬り殺した。門左衛門くらいの手練相手でなきゃ、ごろつきも刀抜けずに易々と殺されたりしねぇよ」
「でも光衛門さん。ごろつきどもに結衣章雪と名乗って近付いても、もともとは彼らも隣町の住人だったわけですから、すぐ時路景時だとバレたんじゃないですか?」
「そこはお前、また催眠術で顔と声の印象を変えたんだろうさ」
納得だ。付け入る隙のない光衛門さんの説明に、僕は舌を巻く。
「そして今日、計画を実行に移したんだな。橘白銀をごろつきと繋がりがあったものと見せかけて殺し、ごろつきへの〝排他性〟〝攻撃性〟をこの町でも高めておく。そこへ『橘邸へ人が集まってるから長屋も人が少ない、略奪の好機だ』とでもそそのかして、ごろつきを長屋へ向かわせる。その合図は……ああー、俺たちが開けちまった蔵からの狼煙か。んでその間に隣町へ戻って、山の中で橘白銀が斬った奴の復讐を呼びかけ、こうして隣町住人を引き連れてくる。――最後はこの町の住人と隣町の住人とで共同作業だ。ごろつきをまとめて潰し、八兵あたりを首謀者として大々的に宣伝して、しばらく経った頃に監禁場所から引きずり出して処刑だ。うまい手だよなァ……だが非道だ。なんとか言ってみろよ、結衣章雪。テメエは、自分と同じような境遇である賊、ごろつきたちを、救うことなく生贄にしたんじゃねぇのか。テメエの行動と、下級武士を犠牲に天下泰平を築くことと、どこがどう違うんだ」
時路は、しばし沈黙を保った。ひたすら屈辱に耐えるため、一度だけ身体を大きく震わして。
「まさかここまで。わずかな間にここまで。この町に仕掛けた術を全て暴かれるとは」
「噂に耳澄ましてりゃ誰だって出来るぜ。人の話はきちんと聞け、と教わったなら簡単だ」
「化け物だよきみは。だが……化け物は大勢(群れ)では除け者さ」
「逆だ。テメエらが俺のため道を除けざるを得ないんだよ、小物」
舌戦で負け、信念を折られた時路は、岩になったかのように二度と動くことが無いと思われた。光衛門さんは腰に下げていた荒縄を手に取ると、時路の手首と胴に巻き付け、きつく縛る。目隠しをかけ、最後にさるぐつわを噛ませようと口元に手を伸ばすと、一言だけ漏れ出た。
「私はきみに負けたよ――だが暴かれても除けさせられても。それでも大勢は覆らない」
ぶぢり。瑞々しいものを噛みちぎる、生々しい音がした。覚さんと助さんがぴくりと動いたが、光衛門さんは身じろぎひとつせず、物音すら立てないようにして、時路を見つめ続けた。
「……馬鹿だな。しかし潔い。矛盾をはらんでなお行動出来る、俺みてぇな汚さがテメエには無かったってことだ」
ぶるぶると身を震わし、先ほどまでとは比較にならないほど真っ青になった顔からふいに力が消えて、同時に時路の命も、この世から消えた。青くなった時路の唇の端から、ぼとりと肉片がこぼれ落ち、川面に水滴を散らして沈んだ。
「自決、ですか」
僕がぼやくと、鉄刀を鞘に納め、覚さんは静かに目を閉じた。光衛門さんは、するりと時路の目隠しを口元へずらす。苦悶に満ちた末期の顔が露わになり、日に晒された目からは生気が失われ、なんだか別人のように感じた。光衛門さんは開かれた時路のまぶたを下ろし、目隠しを戻すと、血を吹く口元に川からすくった水を流し入れた。
「人の上に立って行動するには一つの考えを守り通すことすら難しい。他人に諭され批判を浴びて、あっちへふらふらこっちへぶらぶら、朝令暮改で朝三暮四、行きつくのは矛盾だらけの方針だ。当然ついてくる奴ァ次第に減る。だから、定期的に上に立つ者は入れ替わるのさ。次もどうせ同じようになるとはいえ、少しは風向きも変わるからな。そういうことの積み重ねで、少しずつしか世の中は良くならねぇんだよ」
俺は矛盾って栄養を呑み下して腐った果実だ、と光衛門さんは自嘲気味に語った。
「悲しい死に様だな、こいつも。頼んでくれりゃあ、俺が介錯くらいはしてやったんだがな」
「罪人相手に光衛門様が介錯など恐れがましいことです。お手をわずらわすくらいならば、私にご用命ください」
覚さんが言って、光衛門さんは特に反応しなかった。ただ、僕と、僕の腕の中で眠る白を見て、手招きした。
「とりあえずお前ら、こっちゃ来い。こいつは死んだが、それで全てが終わるわけでもねぇ」
「周りの人たちが危害を加えんとも限らんもんね。少なくとも事後処理……この町の新たな統治者とか、そーいうの決めるまではうちらと行動せんと。もう逃げんといてね」
助さんに言われて周囲を見渡すと、煽動者だった時路が居なくなったことで動揺しているのか、人々はうろたえるばかりで危害を加えてくるようには見えなかったが。混乱の果てに、暫定目的だけでも果たそうとしてくる可能性も無いわけではない。特に、元から立場の危うい白はどのような目に遭うかわからない。僕は抱えた白の肩を、軽く叩いた。
「八、兵?」
薄く目を開いて、朝日のまぶしさに一層目を細める。
「……無事?」
「うん」
「よかった。……よかった」
心底ほっとした様子を見せ、そこで僕に抱えられてることに気付き、慌てて僕を押しのけた。
「もう、だいじょうぶ、だから」
ところが手を引いて立ち上がらせようとすると、まだ腰に力が入らないらしい。仕方なく僕が背中を向けて屈むと、少し間があったものの今日は素直に従って、背に乗ってくれた。抱えて走るのに比べれば心なしか楽で、僕らは光衛門さんたちに周りを囲んでもらいながら、じりじりと隣町の人々の包囲を抜けようとする。光衛門さんが縛ったままの時路の亡骸を担ぎ、先頭に立って歩いた。周りで人々がどよめく様といい、意図せずして、葬式の参列のようになったな、と僕は思った。
「すいません、手数おかけします」
「気にすることは無い。これも我々のお役目だからな」
覚さんはちらと前を盗み見て、一度だけ合掌した。それから「これは私事だ」と述べた。先頭を進む光衛門さんは覚さんが手を下ろしたのと同時に振り返り、僕ら二人に交互に視線をくれてから、
「町から出るまでは守ってやれる。だがそれからお前ら、どうすんだ」
と訊ねてきた。どうするもこうするも少なくとも町には居られないだろうし、出ていくしかないのだけれど。一度肩越しに白の顔色を窺うが、澄まし顔で首に回した腕へ力を入れてきただけだった。僕は正面へ向き直る。
「山を二つ三つ越えて、二人で方々へ旅に出ますよ。たとえここでの罪が消えても、居づらいことには変わりありませんから」
「一生、そうやってくのか?」
「先のことはわかりませんから、どこかで身を落ち着けるかもしれませんけど。たぶん、そうしていくでしょうね」
いつかどこかで一人で死ぬまで。いつかその時が来たら、僕はこの背の重みを下ろして、路傍で野垂れ死ぬだろう。誰にも僕の死で、影響を与えない為に。
「へえ。だったら、もう会わねぇことを祈っとけ。俺は出向く先では大概こういう面倒事に巻き込まれてるもんでな」
「大変ですね」
「俺より俺の周りの方が大変さ。俺としちゃあ慣れたが、人の死ってのは、たとえそれが罪人のものであっても気分が良くねえだろ」
言って、光衛門さんはずり落ちた時路の身体を担ぎ直す。ぐらりと動いた身体は、あれほどの饒舌を誇った舌を噛み切ってしまい、もう何も語らない。
時路はこれで終わった。己の死でただ周りをかき乱すばかりとなってしまって、本懐を遂げることも出来ず。奴は僕とは違い、死を以てしてでも誰かへ影響を与え、この国の中で何かを変えたかったのだろうに。奴の死は周りに動揺をもたらすばかりで、それ以外に一切の意味を持たなかった。
神とやらは、そんなことをさせたくて奴に〝述懐〟を刻んだのだろうか。僕に刻んだ際にはたしか『お前の幸せがどう変わりゆくかを見せろ』などと言っていたけど。自分に刻みつけられた〝述懐〟を平等への力だと信じて動き続けた時路には、果たしてどんな幸せがあったんだろう。ただ神の掌で踊り神を喜ばせていたに過ぎないんじゃないだろうか。
思ったからとてどうしてやるつもりも無いのに、僕は無駄に思考を走らせていた。そこで、ずり落ちた時路の身体を、見る。腰に巻いた帯もずれたのか、先ほどまでよりも脇腹の下が大きく露出している。元に戻してやろうかと思って近付き手を伸ばしたところで、僕は気付いた。
「あ、れ?」
昨夜白が斬ったはずの傷口が、どこにもない。交戦中も、多少は傷を庇うような動きは見せていたのに。
「どうした?」
問いかけを無視して、光衛門さんの横に回り込んだ。けれど確かめるのはいささか躊躇われ、このまま気付かなかったことにもしたかったが、一度生まれた疑念は消さないことには心中に重さを残す。意を決して、僕は時路の目隠しに手をかけた。死後も催眠術は使えるのだろうか?いや、それなら先ほど僕は見てしまっている。最後にそれだけの自問自答を頭の中で行い、白を一旦下ろした僕は目隠しの布を、剥いだ。
出てきたのは、知らない顔だった。
「……化かされ、た」
「いや私は化かしたりなどしていないよ」
呟きに応えたのは進行方向に立っていた若い男だった。光衛門さんたちが瞬時に得物を構え、警戒する。にやにやと三人の警戒を嘲笑うその男の顔をよく見ると、時路に少し似た雰囲気がある。喋り方や語調に至っては、ほとんど同じだった。声はぜんぜん、違うというのに。
「言っただろう? すぐに時路景時は現れると。これもまた〝巡り合わせ〟さ」
「ホントに……時路、景時なのか。変わり身じゃなく」
「そこの遺体が変わり身かどうかは徳川光圀が知っているはずだよ」
人を食ったように返す男の仕草も、確かに時路のものだ。でもあり得ない。今回は本当に、変わり身を使う暇だって無かったはずなのに。
「八兵、お前何言ってんだ?」
と、担いでいた男を乱暴に下ろし、その顔を確認していた光衛門さんは、実に奇妙なことを口走った。
「あれが結衣章雪、時路景時なわけねぇだろ。変わり身なんざ使ってねぇ、こいつはついさっきまで生きてた時と何一つ変わりない、本物だ」
確信に満ちた、道理の通ったことを口にする人間の顔だった。僕は驚愕する。
「何一つ、って。こんなはっきり、顔が変わってるじゃないですか」
「なにぃ?」
背後の白は僕の言葉にうなずき、覚さんと助さんは光衛門さんと同様に不思議そうな顔をした。……なんだ? やっぱり、僕はさっき時路の亡骸の目を見たことで、催眠術にかかってしまったのか? でもそれならずっと目を閉じていた白にも僕と同じように見えるはずはない。
――いや。違うか。
僕らは、それよりもっと前に、催眠術にかけられてる。
「八兵きみは私と目を合わせたことがあるじゃないか。診療に来た際に私と目を合わせ印象を固定させただろう? 時路景時の顔として」
竹槍を肩に担いで、男、いや時路は、僕に思い出させた。そうだ、あの時。あの時から僕はずっと、あいつの術中に居たんだ……!
「ようやく、わかった。あんたが使う変わり身ってのは、他の人と位置を入れ替えたりする技じゃない。身体なんてどうでもよくて、思考思想さえ伝えられれば次の代理が同じ役割を務める。名と思考を継がせて〝時路景時〟という存在を存続させるという、呪いの襲名!」
「ご明察。〝秘法・呪紋纏睛〟最後に使ったあの刺青の呪いは呪力の紋を被催眠術者の睛に纏わせる。刺青を見た被催眠術者の意識の奥深くへ〝時路景時〟の思想・思考法・催眠術の使用法といったあらゆる知識を送り込むためにね。姿が変わるだけで考え方は〝時路景時〟と何ら変わらないのだから幾度死しても私は蘇ると言いかえることも出来るかな」
僕のように印象操作をされていた奴は時路の肉体が死した際に暗示が解けることで、これまでの印象操作が無くなった素の〝時路景時〟の顔を見て〝別人〟だと判じてしまう。
実際には時路は変わり身などしていないにも関わらず、生前の顔と死後の顔で印象が違うために、自ら判断を誤ってしまうのだ。江戸で時路を取り囲んだ同心たちも、死後に印象操作が解けた際に今の僕同様に勘違いしたのだろう。そして死したのちも同一の考え方を継ぐものが現れるのなら、実質的に〝時路景時〟は不死身ということになる。
「もちろんきみや橘白銀のように私の教えを深く説かれていない者の中には大して入り込めないのだけどね。そこで死した〝前の私〟然りここに居る民衆然り。私の思想に共感を憶えた者の中で〝時路景時〟は産声をあげる」
「『化かしたりしてない』って産声はこの国の歴史でも初めてだよ、きっと」
「はははは皮肉かい。他人の皮肉をかぶって顕現している私にそのようなことを言っても無駄というものだよ。だから最初に会った時言っただろう八兵? 私は世界の在り様が自分の考えと繋がっていると感じられるような瞬間にこそ自分と他人の繋がりを認識するのだと。今や私は他人の中に在る。つまり他人の考えは私の考えと同義でありすなわち私は己が思うように動けばそれを他人に容認されるのさ」
「時路、お前なにを言って、」「否。他人の内にあるからこそ私は誰よりも他人を優先しなくてはならないのではないかな。そこの〝時路景時〟きみの理屈は私に通じない」
言い返そうとした僕の言葉にかぶせるように、初老の男の〝時路景時〟が言った。僕がぎょっとしてそちらを見ようとすると、他の位置からも声が上がる。
「きみらは何を言っているのやら。大勢は大勢に対してしか機能しない。それを崩すのは大勢の内における個々人であることは今回の一件でも明らかとなったことだろう? 自分を優先することも他人を優先することも馬鹿らしい。統率のとれる群れというものは自然と目標を定めるものさ。〝巡り合わせ〟とはそういうもの」
「そのような考えしか持てないのではきみは〝時路景時〟に相応しくないな」
「きみこそ時路という名称にこだわりすぎている。〝時路景時〟はきみを認めない」
「認めずといっても私も時路だ。簡単にきみに譲らないことくらいはわかっているのだろう?」
「ならば互いに納得のゆく方法で決める他ないね」「舌戦をしたところで譲らないことくらいはわかっているのだろう?」「ならば剣ででも決めるかい?」「きみが持ってるのは竹槍だ」
気がふれているとしか思えない発言を互いに積み重ね、とうとう最初の一人が哄笑をあげた。少しの間をおいて、追いかけるように他の〝時路景時〟も笑いだし、森の中は時路の笑い声でいっぱいになった。こちらまで気がふれそうになる。
時路が『出来れば使いたくなかった』と述べたのは、このためか。
「……混ざった、のか。時路の思想に矛盾が現れるのも、致し方ないことだったんだ」
「それってどういうこと?」
白に問われて、僕は答える。
「奴自身が言っただろ。門左衛門にやったような〝洗脳〟には時間がかかるし、出来上がっても融通の効かない人形になるって。つまり〝洗脳〟された奴には呪いをかけても、自分で動けない人形だから意味がない。かといって暗示程度の被催眠術者じゃ、本人の意思が色濃く残っている。だからたぶん、こうして思考や思想だけを纏わせていくと、本来の奴の考えとは少しずつ違った形になっていくんだよ。被催眠術者の思考と時路景時の思考が、混ざっていくから」
結果、今のように〝時路景時〟同士で思想の違いからいさかいが起こる。そうなれば奴らは互いを潰し合い、さらに時路の思想は薄れてゆく。それでは意味がない。だからこそ、使いたくなかったんだろう。さっきまでの〝時路景時〟のように、洗脳の手前とも言えるほど自分に近付いた奴ではなかったから。
白は少し考えたあと、実に解りやすいたとえを述べた。
「写本の写本の写本……ってやり方を続けると、少しずつ内容の伝わり方が悪くなっちゃうようなもの?」
まさにそれだ。複数回の写本を経ることで、所有者ごとの私見が足され、字体の崩れが読み解きの妨げとなり、原典から離れてゆくように。……あそこに居る全員がそれぞれ、自分こそが〝時路景時〟だと思い込んでおり、しかしそのどれもが最初の〝時路景時〟とは違う。
他人を模すことしか出来ない、と時路は言った。けれどその言葉は催眠術の使用条件に限ったものではなく〝時路景時〟の在り方そのものだったんじゃないか。
問うても、光衛門さんの足下に転がる時路は答えない。目の前にいるどれかの〝時路景時〟にも、きっと答えられない。
「……こいつァ骨が折れそうな仕事だ。全員を時路景時として、ひっ捕らえなきゃならんのか」
「そのようで。しかし、お気を付けください光衛門様。此奴ら全てが先ほどの門左衛門に匹敵する剣の腕を有しております」
「しかも全員が視線による暗示を使えるってことだろ。だが大したことねぇよ、テメエで考えて学ぶことをおろそかにするような奴に、俺は負けん」
「左様で」
覚さんと光衛門さんが話し合い、各々の得物を周囲を囲む連中へ向ける。助さんはさっきと同じように僕と白を結界の中に入れ、鉄片を構えた。その様子を見て取って〝時路景時〟たちはぴたりと笑うのをやめた。
「おやおや物騒極まりない」「誰が相応しいかの議論はひとまずさておき」「ともかくも危険と言わざるを得ないのはあの男」「放っておけば次動く時にも策を見破られかねないね」「しようがない」「しようかな」「始末して」「始末しておくと」「始末しておくとしようかな」
こだまのように、同じ言葉が四方八方から浴びせられる。光衛門さんは不敵に笑ってから口の端をきつく結び、時路たちを迎え撃つべく杖の先を向けた。
「やれるもんならやってみろ」
今日、ここにきて一番の、至極つまらなそうな顔をして、光衛門さんは川に踏み込んだ。
途端にどこからともなく朝霧が現れ、川の中を進む光衛門さんを包んでいく。暗い灰色めいた霧はなんとなく狼煙を彷彿とさせ、やがて辺りを取り巻いた。森の中へと広がっていった霧は〝時路景時〟たちと光衛門さんたち三人を、一まとめに覆い隠した。
剣の腕じゃ俺はテメエらに及ばん、と何やら光衛門さんの前置きが聞こえた。
「だがしかしテメエらもさっきの時路も、剣を上手く扱えるだけだ。剣客じゃねぇ。本物の剣客って奴ァな、剣を上手く扱えるだけじゃなれねぇもんなんだよ……時路景時は人真似ばっかりだ。おまけに今度は劣化模造品ときてやがる。つまらねぇ、くだらねぇ」
ぱしゃ、ぱしゃ、と水の中を進む音が、ふっと消える。一拍おいてばしゃっと激しく水を叩く音がして〝時路景時〟の一人が川へ踏み込んだことがわかった。直後、鈍く重い打撃の音ごと水面に衝撃が打ち込まれ、大きな波紋が広がった。続けて声を上げたのは――
「剣の腕しか模倣出来てねぇんじゃ、霧の中で姿の見えない相手の気配を読んだりは、出来ねぇだろ」
光衛門さんの発したその一声を合図にしたのか、助さん覚さんが霧の中へ完全に消える。
結界越しにも聞こえる打撃音が一定の間隔で鳴り響き、また一定の間隔を保って、その数を少しずつ減じていく。確実に仕留める一撃一撃の音は、時路のまいた種から出た芽が摘み取られる音だ。少しずつ少しずつ積み重ねられ、この町を取りこんでいた催眠術が、解かれてゆく。
しばらく経って日が高く昇ると共に霧はかき消され、あとに残っていたのは手足を攻撃され無力化された、十数人もの〝時路景時〟だった。刺青を目にしなかった残りの人間は、散り散りに逃げだしたらしい。光衛門さんたち三人は傷一つないが、それでも多少疲れたのか膝を屈していたり、得物にもたれかかったりしていた。
こうして〝時路景時〟は、僕らの前から完全に姿を消したのだった。