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四幕。


        四幕。


「畜生。もうめちゃくちゃじゃないか」

 橘家の裏手に広がる山の中へ、二人で逃げ込む。何もかも全て時路のせいだ。闇が薄れてきている山の中で僕は、あの同族への恨みを吐き散らす。背負った白はぐったりとしていて、力がまったく入っていないようなので余計に重たく感じた。ここまでこいつを追い詰めて、一体何が楽しいんだ。こいつ一人を犠牲にして村のみんなを焚きつけて、そうまでして何を成し遂げたいんだ。

「くっ、そお……」

 傾斜のきつい山道を登り、ある程度町から距離を取ったところで、僕は大きな木の根元に白を横たえた。僕と共にぜいぜいと息を切らす白はもうすっかり動けないようで、どうすればいいのかわからなくなった。

「……これから……」

 どうする。たとえあの民衆全てを光衛門さんたちが片付けたとしても、もう町へ戻ることは出来ないだろう。皆を操っていた時路が居なくなったとしても、結局のところ民衆の行動は彼ら自身の本意なのだから。催眠術といっても、時路は民衆のやりたいようにさせたに過ぎない。あれが人々の、本性だ。

 あごに伝った汗をぬぐい、振り返った僕は町を見下ろした。橘家の中では未だ民衆がうごめいているのがかろうじてわかるが、多少距離が離れているため細かい戦局はわからない。人影の動きの活発さからして、三人がやられたということはないだろうけど。

「う……」

「白? おい、大丈夫か」

「……ん。縛りあげられて吊るされた、だけ。だいじょうぶ」

「嘘つけ全然大丈夫じゃないだろ」

 明らかにやせ我慢している白に、僕は着物をかぶせてやった。さっきのぼろきれよりはマシだと思いたい。その着物をすわりのいい位置にかぶり直しながら、白はくぐもった声を出した。

「八兵」

「なんだ」

「本当に、戻れなくなっちゃった、ね」

「……そうだな」

 今さら、なんとも思わないが。ここまで白が苦しめられるような場所に、固定客が居るという程度の理由で留まるつもりなど毛頭ない。屈んで目線を合わせた僕は、白の頭を撫でようとして――硬質な、角の手触りを感じてしまう。

 たったそれだけのことなのに。指が六本あったという天下人と、何がどれほど違うんだ。若くして白髪であることに、何か問題でもあるのか? こいつ自身が好きでこんな姿をしているわけじゃないのに、周りに奇異の目で見られて。

「八兵」

 名を呼ばれて、考えることをやめる。白は呼吸こそ落ち着いたものの、今にもまぶたを閉じてしまいそうなほどに弱っていた。声も小さく震えていたので、僕は耳を近づけた。

「なんだ?」

「……嫌にならない?」

「嫌に、って……何がだよ」

「わたしを助けようとしたせいで、こんなことになってるから。だから、もう。わたしのことは置いて、逃げた方が、」

「助けようとした時点で察しろ」

 言葉のおわりを遮って、ついでに手をかざして、白の視界をも遮った。

 また、顔が繕えなくなりそうだったからだ。心底この状況に嫌気がさしていて、表情作りが滞ってしまう。

「僕が嫌になったのはこの町の住人だ。お前を置いていくことは、無い」

「でもどこに行ったって、同じだよ。わたしのことを受け入れてくれるようなところなんて、どこにもないんだから」

「じゃあずっと歩き続ければいいだけのことだろ」

「死ぬまでわたしに、付き合い続けるつもりなの? 延々と逃げ続ける日々を」

「そんな日々と、今日までの日々と。何が違うっていうのさ?」

 白は申し訳なさそうな顔でこちらを見上げたが、僕にとっては逝く先も生き先も知ったことじゃない。近くに居る人が同じであれば、それは大した違いを生まないからだ。互いに、互いを必要としている。ならばそれが失われることさえなければ、大した違いは無い。

「それこそ、嫌になるまで歩き続ければいい。僕は旅してた時期もあるから町の外のことも多少知ってるけど、お前この近辺の村や町にしか出たことないだろ。一緒に色々なところを回ればいいさ」

 僕の提案に白は、弱弱しくも確かに、うなずいてくれた。

「……うん」

「よし。嫌なことは忘れて、次に行こう。もうしばらく休んでから……」

 立ち上がろうとした僕の腕を、白が引っ張った。突然の行動に対処できず、前のめりになって倒れた僕は、覆いかぶさるような体勢で白の上に落ちる。目を開けると視線のすぐ下には白の顔があって、面食らった僕は裏返った声を出した。

「し、白?」

「こっち、木の後ろに早く」

 緊張の糸を瞬時に張り詰めた白は僕の身体を押し上げてから、四つん這いの姿勢で木の後ろ、茂みの奥へと身を隠す。どうしたものか迷ったが、白が手招きするので僕もそれにならい、山道から少し外れた。

「何か、あったのか?」

「静かに」

 注意され、口をつぐんだ僕。そのまましばらく待つと、僕らの居た山道の先から湿った落ち葉が潰れる音がいくつも連なって聞こえてきた。さらにそこへ、乾いた衣擦れの音と、抑揚をなくした気だるげな会話の声が合わさっていく。夜明けと共に訪れたわずかな日の光の中に、鈍い銀色の輝きも見て取れた。抜き身の刀を携えたごろつきどもが、山の方から下りてきたところだった。

 また、落ち葉を踏みしめる音は山道の方からだけではない。僕らの後方、茂みの中の道なき道からも、徐々に近づいてきている。

「隠れなきゃ」

「ああ、でもお前まだ歩けないんじゃないか?」

 普段の白なら短刀一振りでもあの程度の連中は圧倒出来るだろうが、今は体力を消耗しすぎている。この場から逃れることすら危ういというのなら、僕が気張って戦うしかないのだが。

「だいじょうぶ、ゆっくり歩くくらいは出来る程度に、回復したから」

「そうか。でも無理するなよ」

 茂みの中で屈んで、僕らは移動を開始した。連中よりも先行して下り、山道に沿う形で引き返す。屈んで動いているせいで往路よりも疲れるが、道程を半分くらい戻ってきたところで、濃く深くなった茂みがあったのでそこに身を隠した。野太い声が少しずつ距離を縮めてきたので、僕らは声を潜め息を殺す。

「……で、俺らぁどこへ行けばいいんだったかね?」

「長屋の方だろぉよ。ただしそんなに長ぇ時間は取れないらしいんで、手早く用を済ませて手早く脱出しなきゃあね」

「やれやれ、儂らもやることを選ばねえようになったな。まるでコソ泥じゃねえか」

「ずっと前からそうじゃんか」

「ちげえねえ」

 低く腹の底で笑い、僕らの前を過ぎていく。なるほど、橘家へ民衆が集まって人が少ない間に、長屋の方で盗みを働こうという魂胆か。策としてはまあまあ、だが、橘家にいる民衆がどのような考えを持ってあのような騒ぎを起こしているのかを知ってたら、ああも気楽そうに山を降りることも出来ないだろうな。

「それにしても合図が遅かったな」

「意外にな。っても、夜中じゃあんまり見えねえじゃんか。狼煙(のろし)なんかよ」

「そりゃそうだわな。ま、この時間だと寝起きの連中が多いから、そこだけ注意しとこうぜ」

「しかしあの結衣さんとやら、結局門左衛門さんとはどういう関係だったのかね……」

 ごろつきどもはそのまま僕らの前を素通りしていって、山を下った。あくびをかみ殺していたところから察するに、奴らも寝起きで注意力が足りなかったのだろう。

 いや、そんなことはどうでもいい。

 何か気になる言葉が、いくつか聞こえた。

「ごろつきが『門左衛門さん』……? それに、結衣、って……」

 奴らが去ったのを茂みの中から確認して、立ち上がった僕は橘家の方を見やる。だいぶ下ってきたので角度的に邸内のことはよく見えなくなっていたが、それでも奴らの言っていた事柄の一つは、確認できた。

 狼煙。光衛門さんたちと勝手口から侵入した際に、白を探していて開けた蔵の中から溢れ出た煙だ。まだ薄く細くたなびいているその白い柱は、薄暗い山中でもなんとか目視出来た。

 ごろつきへの合図だった、狼煙。門左衛門。時路。隣町での襲撃。ここ二日ほどの記憶を辿ると、何かが見えてきそうな気がしていた。

「時路の奴、一体今はどこにいるんだ?」

 もちろん、問いかけに誰かが答えることはない。

 ただ、目に見える形で解答は現れはじめていた。

「……八兵」

 いつの間にか座り込んでいた白が袖を引く。何かと思って白に目をやると、奴の視線は僕ではなく道の彼方へと向いていた。先ほどごろつきどもが来た方角から、黒山のような人だかりが溢れ出てきている。そしてまだ遠くて少々判別はつかなかったが、先頭に位置しているのは、

「時路!」

 真剣そうな顔を繕い整えた奴の姿を先頭に、人々の動きは留まることなくただ続く。蟻の行列のように距離を等間隔に保った歩みは乱れることもなく、真っすぐ進んできた。彼らが茂みの中に居た僕らの姿を捉えるまでには少々の時間が必要だったものの、時路を目にした僕は動けなくなってしまったため、わずかな有余は水泡に帰す。

 さも愉快そうに僕を見た時路は、人々の進みを押し留めて僕らから距離をおいて止まった。僕は白に目を合わせないよう告げ、自分でも時路の胸から下のみを見るよう目線を固定した。

「これはこれは実に興味深く驚きを禁じ得ないね。一体どのような術を用いてあの座敷牢から逃げおおせたんだい?」

「……ふん、錠開けなんて術と呼べるほどのものじゃないさ」

「ははあなるほど。しかし道具は全て取り上げたはずなのだけれど……体内にでも隠していたのかな? まさかきみがそのような技術も持ち合わせていたとはね。いやはや驚かされるばかりだ」

「そうか。でもこっちも牢から出て色々話を聞いて、驚かされたよ――結衣章雪」

 後ろの白に逃げるよう促しながら、僕は時間を稼ぐべく時路に語りかけた。奴はこれまで、少なくともこの町では呼ばれた覚えの無い名を耳にしたことで、ぐっと身を固める。背後に隣町の人々を押しとどめたまま、一人で一歩ずつこちらに近付き始めた。

「おや……おやおや。まさかその名をここで聞くことになろうとは夢にも思っていなかったよ。こんな異常事態は夢であってほしいね」

「こっちもあんたのやってたことを知ってから、そんな奴と関わり合いになってた不幸をただの悪夢だと思いたくて仕方ないんだけどな」

「誰かがきみに要らない入れ知恵をしてくれたようだね……おまけにあれら(、、、)も勝手に動かしてくれて……ふむ。きみは同族なのだから心理術で行動を読むのも容易いと思っていたのだが。先読みが存外へと逸れていっているようだ。きみは食えない男だね」

「そりゃこっちの科白だよ。あんたさえいなければ、この町にも僕が先を読んで思い描いていた、いつも通りの明日があったはずなんだから。煮ても焼いても毒にしかならないような奴は、さっさと失せろ」

 言いながら背後に視線を送る。だが白はもう山を降りられるほどの体力もないのか、ぐったりして僕の着物の袖をつかんだまま依然としてそこに留まり続けている。

 くそ。時路の背後に控えているのは、四、五十人はくだらない大所帯だ。昨晩のような人質戦法をとるのは難しそうだし、出来ても催眠状態なら命令優先、人質を無視するかもしれない。

 だいたい、距離を詰めてきている時路を突破出来るかどうかも怪しいものだ。最終的に斬られたとはいえ、わずかな間でも白に対抗出来ていた剣術。くわえて催眠の域に達した心理術。どちらも、僕のようにひ弱な一般人が相手を務めることが出来るような代物じゃない。

「失せろとくるかい。ははははなかなか言うようになったじゃないか。昨日までの弱弱しい印象が嘘のようだね。しっかりと私に相対できるようになっているだなんて」

「必要に応じて慣れただけだろ。正直、あんたを見ると感じる気味の悪さは未だに払拭出来てない。けど退いて逃がしてもらえるわけでも、なさそうだし」

 間合いを詰めてきた時路は、僕から三歩のところで足を止めた。剣を届かせるにはまだ遠いが、はっきりと言葉が聞き取れるだけの位置だ。

「いやいや? そこの鬼の子を殺すことは決まっていたもののきみについてはまた座敷牢でゆっくり語りあいたいと思っていたのだけどね。正直今も積極的に殺すつもりはないのだよ。いくら〝述懐〟をないがしろにする救われない愚か者であるとはいえ――私にとっては貴重な貴重な同族でもあるのだからね」

 誠意を見せているかのように振る舞う時路だけど、白を鬼の子と呼んだ時点で僕はこいつを一生涯許さないことが決まっている。大体、この後に及んでまだ食い下がる精神がわからない。嘆息から繋げて吐き出した言葉で、僕は奴の提案を真っ向から切り捨てた。

「僕は今も昔もあんたと話したくもない」

「そうかい。相も変わらずつれない――ねえ」

 笑んだような気配を発し、時路の右手首が、活きた。力はほとんど抜いているが、いつでも腰に帯びた刀を抜くことが出来るようになる。達人の域でなければ使えない、知覚することが難しい初動の構え。僕には動きが読めているのだから、一太刀目はかわすことが出来る。しかし返す刀で胴と首を離されて、命は潰えるだろう。

 そこまではまだ許せる。けれどその数瞬のちには、白も同じような状態にさせられてしまうだろうことが、耐え難かった。

「ではここできみと私の間にあった縁は断たれるのだね。少々残念ではあるものの致し方ない。ならばせめて悔いを残すことの無いように。きみらの命も断っておくとしようかな」

「させるかよ。そもそもなあ……」

 僕は短く息を吸うと、時路の背後に居る民衆に向けて、大声で叫んだ。


「結衣章雪! 人相書きにされてて追われる身のあんたなんかに、殺されてたまるかっ!!」


 しんと、山の中が静まりかえった。そう、静まり返ったままで、民衆が動じることは一切無かったのだ。静寂の中で一人だけ、またも時路だけが動き、僕の方へ一歩踏み出した。

「……間抜けたことを。罪人であることを暴露すれば皆が止まるとでも思ったのかい? 私が隣町の連中に施したのはその程度で解けるような易い〝術〟ではないよ」

 勝ち誇った笑い声をあげ、時路は後ろを指し示す。そこに居た民衆は先ほどまでの門左衛門、ひいては隣町の裏通りにて目にした人々と同じ表情、うらぶれ荒んだ意思無き瞳をしていた。

「催眠、暗示……。昨晩の襲撃もやっぱり催眠術の仕業だったってことか」

「じっくりと長い期間をかけて埋め込んだ〝排他性〟と〝攻撃性〟の暗示さ。今では私の合図一つで自在に動く……こうまで出来るようになるまでは長かったね。もうあと少しで私の目的の第一段階は終了する。しかしわかるだろう八兵。ここまで大がかりなことをしても第一段階でしかないということの意味が。倒幕への歩みというものが――いかに先を見据え続けなくてはならないものか」

 だからこんなところでは、止まれない。

 踏み込んできた時路の抜刀はその意志を如実に物語っていた。僕は左半身のまま素早く後退して、白と共に茂みに飛び込む。時路はすぐに視界を塞ぐ茂みを一薙ぎし、僕らが茂みの陰から奇襲に移れないようにして切っ先を正眼に置いた。

 白を抱えると、僕はじりじりと下がり続ける。時路の後ろに居た民衆も少しずつ近づき、なかなかに危険な状況だった。ちらりと後ろを見るが、しばらく下ったところに川があるだけなので逃げることも叶わなさそうだった。崖であったならとりあえず飛び降りることが出来たものを。

「さてとうに手詰まりのようだがきみは投了しないのかな。もうきみはこちらの陣地に囲まれているのだからあとはゆっくりと殺すのみなのだけれど」

「……じゃあ『待った』」

「投了の潔さとは比べるべくもないほどに意地汚いことを言う。情けなくないのかい」

「いいだろ。せめて今生の別れに、白とゆっくり話でもさせてくれよ」

 身勝手というほどではないと思う、僕の最後の申し出に少し考えた時路は、ふうと溜め息をついて切っ先をわずかに下げた。息を吐き終わると同時に、口を閉じた気配を感じる。瞬間的に僕は身を後ろに投げだし、身体をひねって半回転。繰り出された突きを前髪に掠らせつつかわして、前転により距離を稼いだ。

「情けないことを言った上にまだ避けるのかい」

「聞く耳持たずか畜生!」

 同時に突き飛ばした白も身体を横倒しにしたまま転がり落ちて、なんとか僕が抱えやすい体勢に起き上がってくれた。もう心身ともに疲れ果てている白にこれ以上負担はかけたくなかったが、時路の動きが突きへの溜めであると察知した以上仕方がない。

「白、悪いけども少しだけ頑張ってくれ」

「うん」

 白に二言、三言声をかける間に、時路は斜面へと踏み出してきた。

「きみのその生き意地の汚さにはほとほと呆れ果てるよ」

 坂を駆け下りてくる時路と、奴につき従う民衆の追撃は緩みそうにない。僕は息を止めて残りの力全てを最後の疾走に懸け、軽いはずの白がどんどん腕の中で重たくなっていく嫌な感覚を頭から振り払う。

 息も絶え絶えに浅い水辺へ飛び込んだ僕は木の根元に白を寝かせると、辺りを見回した。使えるもの、奴らを相手取って使えるものを。しかし考えるほどに頭は回らなくなり、僕の頭の中で白が斬られる場面だけがいやに鮮明に想像された。かぶりを振って、見回す。時間がなさすぎる。けど、ここなら、

「さてさてそれではこれにて幕としようか」

 じゃばり、水を掻き分けて現れた時路を見て、僕は表情を失くして膝を屈した。

「本当に、こんなとこで僕らを殺す気か」

「きみらの都合など知らないなあ。いやむしろここは川だから死に水もとってあげられて好都合ではないかな?」

 先ほどまでと変わったのは場所だけで、追い詰められていることは何も変わりない。またも白を背に後退する僕の目に、振り上げられる時路の剣の軌道がゆっくりとした動きに映る。僕に対しもはや一分の隙も一点の曇りも見せず、時路は刃の通る筋を決める。

 僕はというと、覚悟を決めた。

「ではさらばだ――」

 時路が言って、剣を振り下ろす前に僕は川底の砂利ごと、軽く水面を蹴りあげた。文字通り最後の足掻き。当然のように予測されていた目潰しは横に半歩移動するだけで回避され、今度こそ真っ向斬りおろしが僕の頭を割ろうとした。その太刀筋に向かって斜めへ飛び込み剣を避ける。当然追いすがる切っ先は直角に向きを変えて、僕の腹を斬ろうと迫った。

 時路が、息を吐いた。目も見開いたことだろう。追尾は、そこで止まった。

「――さよなら」

 僕の身体としぶきで姿を隠され、動きを読ませなかった白が。渡しておいた短刀を用い、最後の突きを浴びせていた。そして切っ先を止めた二者のうち、先に声を発したのは時路だった。

「かっ……ぐぶ」

 何かを舌の奥に含んだような音を鳴らし、ふらつく。どんな奴でも、攻撃の後にはわずかに出来る隙。僕に対してはけっして隙を見せない時路だったが、白には警戒を怠り、隙を見せていた。僕が白を抱えて逃げたのも、全ては一撃浴びせるだけの体力を回復させるためとも気付かずに。距離をわずかに稼ぐたび、一言ずつ白に指示を与えていたとも知らずに。

 のけぞった時路は、川の水に赤い色を混ぜながらも、再び正眼に構えた。

「げほ……ぐ……く! ははは! だが! まだぬるいのではないかな!」

 けれど、浅かった。時路の刀で方向を逸らされた短刀は、頬を貫くに留まっている。ひどい怪我ではあるが、奥歯で刀身を噛みしめて咽頭を傷つけることは防いだらしい。喉を動かし、血と共に口の中のものを(、、、、、、、)呑みこんで、時路は笑った。白は川の中に倒れ込み、僕の方をちらと盗み見た。慌てて僕は白を引き寄せ、時路から離れる。白は、よくやってくれた。

 時路は短刀を引きぬき、顔を真っ赤に濡らしたまま笑う。けれど既に布石は、陣を成した。

白の突きに隠して僕が投げた万年竹(まんねんたけ)の根を、奴は確かに呑みこんだ(、、、、、)。まだ、当人は気付いてないようだが。

「ははっ! はははは。足掻きを見せてくれたが所詮ここまでのようだね。少しひやりとしたことは否めないがこの程度なら、」

「なんてことを言ってられるのも、今のうち、だぞ」

 言い残して距離を置こうにも鍬をもった男に阻まれ、ぶざまにも眼前に戻ってきた僕を見て、時路は笑う。

「ははははきみはここから何をしてくれると言うんだい? 追い込まれ苦しいのは理解できるが何を言っているのやら私にはさっぱりだね」

「へえ。やっぱり、無知ってのは怖いな」

 白をもたせかけた木の幹に手をつきながら、呼吸を整えて僕は言い放つ。鬱陶しそうに耳を押えて僕の言葉を聞こうともしない時路は、こちらに向かって切っ先を向けつつ、黙って近付いてきた。短刀は、遠くへ投げ捨てられている。僕らの武器は無くなった。

 もう、要らないんだけどさ。

「……附子(ぶす)市郎兵衛殺(いちろべえごろ)し、万年竹」

「うん?」

 息が整ったところで、僕は呟いてやった。間抜けな声をあげた時路は、面白そうに僕に問う。

「なんだいそれは。とうとう命運尽きたことを悟って念仏か何かを唱えてるのかな?」

「いや。有名な――」

 言いながら手を上げ、指を立てる。不作法な行動とは思うが、その手で僕は、奴を指差した。


「――毒草の名前だよ」


 そこで時路は痛みを覚えたのか、自分の腹部に着物越しに打ちこまれている鍼に気付いた。僕が先ほど、白に刺されて動きが止まった時路に打ちこんだものだ。奴ははたと動きを止めて、次いでむしりとる。その鍼の先に僕は、わずかに液体を塗りつけておいた。

「万年竹は食用の〝(せり)〟と間違え易いけどその名の通り根の部分が竹に似てる。そしてこの季節、特にその竹に似た根の方へと強い毒を帯びる」

 感づいた時路が、息を呑んだ。

 医術を学び、薬を作るにあたっての基礎の基礎。すなわち、薬を用いるにはまず毒が何かを知ること。

「打ち込んだ毒はすぐ、全身へ回る」

 川に落ちた鍼は、流れにまかれてあっという間に見えなくなった。鍼に塗ったのはごく少量の汁だけだから、これだけの量の水に薄められれば、下流で水を呑んでも大丈夫だけど。それと比べて時路は直接根の欠片を呑んでいるため、放っておけばすぐに症状が現れる。鍼の毒は実のところ、呑みこんだ根の欠片に注意を払わせないためのものなので大したことないのだ。

 息を呑んでそのまま、時路はしばし口を開閉して、うなだれるように切っ先と視線を下げた。逆に、肩は怒り肩になって持ち上がった。

「八兵……!」

「あまり動かない方がいいよ。毒は血行が良くなれば回り易くなるし、万年竹を擦り潰した汁はさっきの短刀にもべったり塗りつけておいたから」

 時路は動きを止める。あの坂の上で川を見つけた時から、こうすることが狙いだった。万年竹は川辺によく生えていると思いだした僕は、川辺に降りて、見つけたそれを引きぬくと細切れにして短刀に毒を塗り、根の欠片は手の内に握りこんだ。そしてあたかも追い詰められて足掻くだけのように見せかけ、策を実行に移した。

 既に周囲は民衆に囲まれていたが、流れはこちらに引き寄せつつあった。目線を逸らしていると額の辺りへ僕を睨みつける視線を感じたが、決して顔を上げたりはしない。うつむき加減のまま、僕は言った。

「解毒薬、欲しくないか」

「……たとえ毒に侵されていようときみごときに私の計画を阻まれてなるものか」

「しばらくしたら死ぬかもしれない状態じゃ、計画とやらを遂行してもしょうがないんじゃないか? 僕らを殺して、門左衛門の後釜になり上がるつもりだったんだろうけど」

 ついでなので先ほどまでの出来事からの推測を語ってやると、奴は沈黙した。

「大方、元から立場の弱い白をごろつきの首謀者に仕立て上げた上で門左衛門が首をはね。僕もその仲間だったということで後々あんたが殺して、民衆の信頼を勝ち得ようって算段だったんだろ」

 確認のため問うと、否定の言葉は無い。

 他に気になるのは敵に回してるはずのごろつきとも繋がりがあるらしいことだが、最初から返答に期待などしていなかったから構わない。僕は目を合わせないようにしたまま、交渉に入った。

「でも、正直そんなことどうでもいいんだよ。あんたが『僕と白に二度と関わったりしない』と。そう誓ってくれさえすれば、解毒薬を作って渡してやる。それと先に断っておくけど、この町に僕より医術の心得がある奴はいないし、毒の進行速度は体格と体重に影響される。あんたみたいにひょろい奴じゃ、普通より早く毒が回ると考えた方がいい。初期症状が現れるまでに、四半時もかからないぞ」

 息を詰まらせ唸る時路は、自身の中に生まれた迷いに、たじろいでいた。解毒薬……とは言ったものの、その存在が嘘なのだと知らないから。

 胃に入ってすぐの今なら、吐かせたのち下し薬で押し流せば症状を軽減出来るけど。しばらくして消化されてしまえばもう、気休めに強心薬でも飲ませてやるくらいが関の山である。

 しかし薬師でもない時路に、このことの真偽を確かめる術はない。無論、毒を盛ったことすら僕のハッタリだと考えることも出来るが、その思考の元に僕を斬ってしまえば万一の場合には自分の身が危ない。

 事ここに至って時路は、僕の投げかけた時間制限により行動を縛られた。

「目的を成し遂げるには、あんたもまだ死ねないんじゃないのか。僕らを殺すことなんて、最終目標のためのひとつの段階に過ぎないんだろ? なら、もっと先を見据えるべきだとは思わないのか」

 さらに言葉をかけ、動揺を誘う。刀を握る手をわなわなと震わせ、先ほどまでとは立場が入れ替わったことをひしひしと感じているのであろう時路は、しばし思案するようだった。

 己の命と目的の達成とを。天秤にかけて、どちらに傾くかを量っている。こめかみを押えた時路は苦しげに、けど堪え切れないといった風に、喉を震わせ笑いだした。

「く。はは。ははは。はははははは。まさか……このようなことになるとはね。同族だからと容赦したりたりせずやはり速やかに殺しておくべきだったかな」

「僕も臆してあんたから逃げ惑ったりせず、気に入らないならさっさと潰しておくべきだったと心底後悔してるよ」

 思えば僕はあの日から今日まで、ずっとそうだった。気に入らないことにぶつかっても逃げようとしてばかりで、叩き潰そうとは考えられなかった。道を塞がれたらうんざりして、他の道を探してみたりするだけで。

 でもそろそろうんざりすることにすら飽きてくる頃合いだ。自分のせいで相手することになった奴ならともかくとして――向こうから絡んでくる奴には、容赦したくない。とうとう刀を手放した時路を見下ろして、僕は拳を握った。

「……ひとつ訊ねてもいいかな?」

「なんだよ」

「きみも私と同じく〝述懐〟を刻まれているのなら全ての人は等価値であり個々人にこだわることは無意味だと思えるはずだ。たしかに命は尊いかもしれないが最優先するべきでないことの方が多いだろう? だというのに……きみはそうまで必死になって橘白銀を生かそうと尽力している……なぜだい? なぜきみは私を見下ろしている? 私ときみは共に遥か上から人々を見下ろすしか出来ない存在ではないのかい?」

 時路は言う。自分の述べたことが正しいはずだとの確信を以て。

 それは神の傲慢さにも似た、絶対的な独善だ。いや、この場合は神に『似せられた』というべきなのだろうけど。どちらにせよここで説明したところで、人並から外れていることになんの危惧も覚えていないこいつでは理解できない、と僕は思った。

 だのに話すつもりになったのは、僕の傲慢さの為せる業だろうか。

「そんなことを言えるのはあんたが幸せに生きてたからだ」

 ……僕は。

 あの日、己を高位の霊的存在、すなわち神だと名乗る異形の者に、確かに人間への見方を歪められた。〝個々〟より〝数〟を重んじ。〝人〟でなく〝群れ〟と見るように。その見方は人々が等価値であるとの認識に因るもので、つまりは人を取るに足らないものと見る、神の見方であった。

 だが僕は人々が等価値に扱われるはずがないと知っている。

全ての人が平等であるなど、絵空事なのだと。


「本当に個々人が等価値なら――僕があの日親に捨てられた理由はなんだ?」


 時路は困惑したようで、何やら大きく身じろぎした。

 どこにでもある、話だった。寒村に住んでいた幼い日の僕は、ある日捨てられた。家に夜盗が入り、家族が傷つけられることこそ無かったものの、家財道具が根こそぎ奪われそれまでのように生活していけなくなったためだ。

 親は一彦、次郎、三太までの兄は働き手として要した為に家に残したが、その下の五十鈴、睦の二人の姉は身売りに出した。そして四番目の子であるしなと七番目の子である七房はずいぶん前に流行り病で死んでいたので、

「幼すぎて働き手にもならず身売りにも出せない、無駄飯喰らいの僕が重荷だった」

 姉たちがいなくなり静かになった家の中で、一人だけ僕は浮いていた。兄たちからの視線は日に日に冷たく厳しくなり、とうとうある日、僕につむじを向けて頭を下げた両親は涙を流してこう言う。「最後にしてやれるのは殺してやることぐらいだが、私たちにはそれすら出来ない」と。だから僕は家を出た。肌寒い森の中を一人で歩いて、一人で死んでゆくべく。

 そして倒れて死ねそうだった僕の邪魔をしたのが、あの神だ。〝述懐〟を刻みこみ、ふざけた認識のまま生かそうとしてくれやがった。でも僕は結局、全ての人を等価値に見ることなんて出来ず、中途半端に壊れるだけだった。親に捨てられ、全てを失って、人は等価値ではないと身にしみてわかっていたから。

「この世で人々が本当に等価値であるなら、僕じゃなく他の兄を捨ててもよかったはずだ。けれど合理的に考えればそんなことはあり得ない。人々の間には明確な格差があり、覆ることは絶対にない。そして格差抜きに人の世のことは考えられない」

 だから僕は、上から人を見ることは無い。等価値なんて決してあり得ないようにする、人々の決定的な差を見つめ続ける。理解できない、とつぶやいた時路はふらりと一歩、退いた。

「しかしそれでは橘白銀が等価値に扱われないことをも肯定してしまうじゃないか」

「現実を直視したらそんなの当たり前に行われてる扱いだろ。目を逸らしたって仕方がない。それにさっきも言った通り僕は〝述懐〟で『中途半端に』壊れてるから……ずっと虐げられてきた白への不公平は正して、なるだけ等価値に近づけたいと思うみたいだ」

 正確に言うなら、それは僕を基準にした〝等価値〟だ。僕は自分より恵まれた人間については、少しだけ恵まれた人も大きく恵まれた人も全てが等価値に見える。たとえよく見知ったお隣さんが死のうと、ごろつきが死のうと、大した違いはないと言いきれるほどに。しかし逆に言えば僕より恵まれない人間に対しては等価値という見方が揺らぎ、肩入れすることがある。

 勝手に僕の基準に当てはめてしまうなんて、嫌なことだとは思うけど。

「ならばきみは橘白銀を蔑んでいたことに他ならないだろう」

「そうさ。僕は最初、自分より恵まれない奴が居たことに、安心したんだよ。だからこそよく関わるようになって、今に至る」

「……そんな関係性があり得るのかい? きみは橘白銀を蔑んでいたのだろう? 橘白銀は皆から迫害されきみからは見下されていたのだろう? だのになぜきみたちは互いに互いを助けそのためならば身を削るような真似までするのか……理解できない」

 別に理解してもらおうと思って話したわけじゃない。でもなんとなく不愉快で、僕は鼻を鳴らす。時路は顔を上げると胸を張り、僕たちに向かって両腕を広げ、明確に己の意思を示した。

「私には大義がある。私を含め戦が職務であった武士の一部が天下泰平となったことで職を失いごろつきと成り果てる他なかったこの環境……この時代を作り出した幕府を打ち倒し。あるべき姿へと全てを正し人の世を真の平穏に導くという大義が!」

 憤りを表すかのように、語尾を荒げた時路。どこへ向けての憤りだか知らないが、世のことを真剣に憂うとは大層なことだ。が、共感は出来ない。かろうじて理解は出来るが、それだけだ。僕には関わりが薄くて、ちっとも興味を持てやしない。

「そのためならば己が持つ個の意味を薄れさせ大勢(たいせい)の一部として自分を扱う〝述懐〟はむしろ私には好都合だった。己を捨てることに躊躇いを持たず大義のためのみに邁進(まいしん)出来るのだからね。それと引き比べて八兵きみには何があるというんだい? 〝述懐〟を得た身であるなら大勢にさしたる影響をもたらさない個人を救う意味など無いとわかるはずだ。きみは〝述懐〟を得て他の人間よりも大局を視ることが出来るのだから――力を無下にしてはならない」

 断定する時路からはぎゅるりと目を剥く音すら聞こえてきそうで。ああ、そういう憤りか。と、僕は妙に納得した。時路は、同族であるのに壊れてしまっている僕に失望し、なおかつ力があるのに何もしていなかった怠慢が許せないと言うのだろう。……こいつ力には責任が伴う、とか本気で思っているんだろうか。まったくもって冗談じゃない。

 責任は態度と行動にだけ伴うものだ。

「何度も言わすな。僕にとって僕より恵まれてる奴らは皆一様に等価値だ。恵まれてるなら、わざわざ助けてやるほどのこともないだろ。こっちも自分でほとんど手一杯なんだ、そんな大勢(おおぜい)助けてられるか。大体『さしたる影響は』ってことはほんの少しは影響もあるってことだろ。それらが集まってあんたの言うところの大勢(たいせい)が出来てる。白を助けることには、意味が無いわけがない」

「……ならば橘白銀きみはどうなんだい。この八兵との関係性の在り方。ひいてはそれにしか寄る辺を持てないようにしていた世間の在り方。そこに憤りを抱いたりはしないのかい?」

 壊れ者である僕に見切りをつけたのか、時路は矛先を白に向けた。うたたねしてた、ということはないだろうが意識に霞がかっていたと思しき白は、反応して頭を小さく左右に震わせ、薄く瞳をこじあけた。時路の方を見て、自分に言葉を求められていると気付くと、また瞳を閉じ、代わりに口を開いた。

「わたしは、飢えてたから」

 背をもたせかけていた木の幹からちょっとだけ上体を起こして、囁き声でそう述べた。

「人との関わりに。蔑んでるとはいえ、わたしにちゃんと関わってくれる人なんて、八兵の他にはいなかったもの。見下してても、対等じゃなくても、人間扱いされないよりは、ずっとまし。かといっていまさら、世間の在り方が変わって、わたしを普通に見てくれる人が出てきたとしても。そんなの、嘘っぽくて信じられない。だからわたしは、八兵だけ居ればいいの」

 切れ切れに、淡々と。それきり口を閉じてしまった白は今度こそ眠りに落ちてしまったんじゃないかと思うほど、無防備な様子をさらしていた。時路は白に気圧されたのかまた一歩退き、川の流れに波紋を打った。

 続けて僕が言う。

「僕は白さえ幸せになってくれればいい。それが白の望みで、僕の望みだ」

 波紋が収まると、時路は川に落とした刀を拾い上げていた。しばらく絶句したまま何も言わず、宙空へとあごを上げていやに静かな様子を見せ続けた。そしてやっと口を開いたかと思えば、出てきたのは先ほどまでとなんら変わらない一言だった。

「理解できない。きみたちは不気味にすぎる。そのような思考はあり得るはずがない。この世のあらゆる格差を認めた上で現状を望むだなどとのたまうとは異常の極みだ。大勢の作る世の流れは究極的には平等を求めることにある。それがなぜわからない?」

「わからないものはわからない。そりゃどう言おうとあんたの勝手だけど、さっきから大勢、大勢、ってうるさいな。あんただって、僕の倍も生きちゃいないだろ。その程度の人生でどれほどの〝大勢(たいせい)〟を知ってるって言うんだよ。あんたが今まで経験した程度の狭い世間で、僕らまで含めた〝大勢(おおぜい)〟を語るな」

「きみこそ個人の内という矮小な枠組みでしか物を語れないのだろう……」

 かちがちと、歯を擦り合わせる音を立てて、時路は刀を構えなおした。僕らは何か、奴の中の越えてはならない一線を踏み越えてしまったらしい。

「いいのか? 剣を向けるってことは、僕は交渉放棄と見なすけど」

「元より私は解毒薬など必要としていない。同じ述懐を持つはずのきみがどのような考えをしているのかただ知りたかっただけだ。……これほどの失望落胆を覚えさせられるのならば何も聞かなければよかったとも思うけれどね」

「死ぬ気か」

「否。私は大義を成し遂げる日までは簡単に命を投げ出すつもりはないよ」

 言って、時路は刀を地面と水平、己の顔の前に掲げ誰かに捧げ持つかのような、奇怪な構えを見せた。

「――催眠とは人の認識を狂わすもの。用法次第では被術者に本来出来ないようなことをさせることも可能でね。たとえば門左衛門の剣の技を見て取ったのち、私は自身に暗示をかける(、、、、、、、、、)ことで、奴の剣技を扱えるよう自らの肉体の認識を変えた」

「だから剣なんて使えそうに無い身のこなしをしてたのに、白に対抗出来たのか」

 認識を変えるだけでそこまで出来るようになるなんて、人間の身体ってのは案外でたらめな性能を持ってるんだな。……と、ちょっと待て。まさか、それって。僕は思わず顔を上げて、時路の顔をしっかりと目に入れてしまう。だが奴の目線はちょうど刀で隠れており、つまり奴は僕ではなく、刀を見ていて――

此度(こたび)は毒に耐性のある身体の認識を、この身体の内に刻み込む。はははは、そうなってしまえば、もはやきみに、私に対し、優位、な、条、件、も、ない」

 なめらかに饒舌な語り口を崩すことがほとんどなかった時路が、今や喉の奥に痰を絡めたような、ひっかかった物言いに変わっていた。たしか、時路は目を合わせれば相手を催眠状態にすることが出来る、と光衛門さんたちは説明していた。ということは、目を合わせることさえ出来れば、時路は自分自身に暗示をかけることも可能ということであり。磨き上げられた刀身は、鏡のように時路の瞳を写し出す!

「ちくしょう!」

 水底を蹴って走り寄った僕は、時路の掲げる刀身を払いのけようとした。でも遅すぎる。刀身で目線だけが読めない時路の顔が、歯の根を軋ませるほどに強く、笑みをかたどった。


魔纏(まてん)天之邪求(あまのじゃく)


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