三幕の弐。
◇
だが僕らの初動は、既に遅れていた。
「みっちゃん、人が多くなってきとらん?」
助さんに言われて見てみれば、辺りに人気が多くなってきていた。こんな真夜中に。
「そういやさっき鐘が鳴ってたぜ。火事かなんかあったんじゃねえのか」
「しかし火の手などはどこにも見当たらないのですが。どうしたことでしょう」
「ちょ、ちょっと、光圀さん。それ、どういう鐘でした?」
「待てお前その名は胸に秘めとけ。覚と助が何のために俺のこと偽名で呼んでたと思ってんだ」
「あ、はい……すいません光衛門さん。で、どういう鐘でしたか?」
「どうってお前、ああそうかそん時はまだ気絶してたのか。あれだよ、一回鳴らし、一拍おいて素早く二回。それを繰り返していた」
「……招集の音」
火事などの災害以外で門左衛門さんが人を集める時の音だ。来れる奴だけ来い、という曖昧な意味しか持たないので、あまり鳴らされない音。そして招集される場所は、橘家の屋敷だったはずだ。と、光衛門さんたちにも説明する。
「来れる奴だけ、の割にゃあよく人が集まってるみたいじゃねえか」
「門左衛門さんは人望があるからでしょうね。みんなお世話になってますから、呼ばれたら出向く人は多いんでしょう」
「人望、か。まあいい。そっちはそっちで何かあったんだろう。それで八兵、時路の野郎はどこに居ると思う?」
「……あー、そうですね。ここみたいに閉じ込める場所のあるところ、じゃないかと。まずあの状況であいつが白に斬られず生きてられたのは、僕を人質にして白を言いなりにさせてたからです。なら白を先に無力化してからじゃないと、僕を閉じ込めることは出来なかったはずですから」
「なるほど。時路はたしか、やたらとお前に執着してたんだったな? そんなら今頃その白とやらを殺しに行ってるかもしれんわけだ。邪魔をされねえように」
だいたい、その認識で合ってる。僕はうなずいた。
「で、監禁場所がありそうなところと言うと……武家屋敷の蔵か座敷牢でしょうね。この荷田屋みたいなところに座敷牢があったのは、例外だと思いたいです」
「ってことは、なんだ。結局この人の流れについていきゃいいのか?」
「一応は」
他の屋敷に隠す手もないではないだろうが、橘家の方が遥かにやり易いはずだ。もともと、門左衛門さんと時路は知人なのだから。それに……普通の人なら、頼まれても白を屋敷に入れることは拒むはず。
「じゃあ橘門左衛門の屋敷へ急ぐぞ」
「はい!」
杖を肩に担いだ光衛門さんを先頭に、僕ら四人は大通りを駆けた。
ぞろぞろと列をなしている人々は眠気を噛み殺しながらも進んでおり、突き当たり、町の端にある橘家の門前まで来るとそこに溜まって野次馬の固まりとなっていた。僕らもそこについたが、結構な人数が居るために門の様子すら窺えない。周りのざわめきが、人が集まるにつれ大きくなっていく。
「なんで呼ばれたんだろ?」「知らせがあるらしいけど」「いったい何事だろう」「危ないことでもあったのかねえ」「さいきんこの辺も物騒だからな」集まった人々が益体も無い噂話に花を咲かせているばかりで、肝心な情報は何一つ伝わってこなかった。僕は人ごみの向こうを見る。
「光衛門さん」
「あんだよ?」
「僕は勝手口に回ります。そこから忍び込みますが、」
「大事の前の小事だって言っただろ、その程度のことで今更引っ込むかよ。俺もお前についてくぜ。早いとこ時路に会って、奴を捕まえにゃならねえんだ」
「さっきから、聞こうと思ってたんですが。なんで時路を追ってるんですか?」
訊くと、光衛門さんは黙り込んだ。何事か話してはならない事情に踏み込んでしまったか。
「すいません、そもそも話してる時間もないんでした、行きましょう」
「いや……ちとここで話すのは難しい内容というだけでな。むしろお前も聞いておかにゃ今からの状況に対処出来んかもしれん。勝手口に回り込んでから説明しよう」
僕は頷き、「こっちです」と告げて人ごみを抜けるよう走りだす。塀に沿って右回りに行くと、門前からのざわめきが小さくなっていった。そして勝手口に辿りつき、薄暗闇の中で取っ手をつかむ。町の外れにある橘家は山の近くにあるため、勝手口を前にして森に背を向けると、その影が覆いかぶさってくるようだった。
扉を引くと、蝶番はなめらかに動いてほとんど物音を立てなかった。四人で中に入り込み、正面に屋敷の入口、左手に僕が一昨日眺めた庭と池、右手に蔵を捉えた。
「あ」
「どうかしたん?」
既に両手に小刀を模した鉄片を構えている助さんは、僕が振り返っても周りの気配を探ることに余念がない。比べて丸腰で緊張感に欠けている自分を恥じつつ、僕は地面を指差した。
「ここの飛び石、真新しい泥がついてるので」
「なるほど。裏の山から下りてきて、その足でここへ白銀とやらを閉じ込めていった、ということの証だな」
「いよいよきな臭くなってきやがったな。どこから仕掛けられるかわからねえぜ、全員視線は下げとけよ」
「視線……?」
「たはは、奴と目を合わせたらあかんのよ。術に嵌められたらまた逃がしちゃうんからねー」
――術? 首を傾げた僕に、助さんは視線こそ向けないものの頷いて返す。先の言葉はしっかりとした現実感を伴ったものであり、何かの比喩ではないと示すように。
「そうだ、奴を俺たちが追ってる理由を説明するんだったな」
助さんと覚さんがそれぞれ左右に開くようにして、中央に僕と光衛門さんが位置する陣形を取ったまま。光衛門さんは、蔵へと歩みを進めると共に、静かに語り始めた。
「順を追って話そう。実は冬頃、幕府転覆の企てをしやがった結衣章雪と名乗る男が居た」
「ば、幕府、転覆?」
「な。驚くだろ。だからあんな人の多いとこじゃ話せなかったんだよ、周りに要らん不安を与えちまうからな。ったく、慶安の変からまだ十年と経っちゃいねえのに、倒幕派は未だに潜伏中のご様子だ……んで、結局は計画が露見し結衣は江戸にて同心二十名に追い詰められた。普通に考えりゃもう自刃するしかねえ状況さ。ところが、奴は一人の同心に短刀で斬りかかり見苦しくも確実に死が見えてる戦いを挑んだ。一太刀を浴びせかけられた後はおとなしくなり、最後は首を斬られて死んだがな。なんとも情けない死に様だった、はずだった」
「……はず、ってどういう」
「お前らと時路の戦いと同じだ。残った亡骸を目にした同心たちは、我が目を疑った。つい先ほどまで十九名が戦っていた相手は、いつの間にやら見知らぬ町人と入れ替わっていやがったのさ。……まあまだ決まったわけじゃねえが、起こった事柄を聞く限りじゃ似通った点が多すぎる。結衣章雪と時路景時は同一人物と考えて間違いないだろう。そして奴は表向きには同心殺しの罪で以て、人相書きの扱いになった」
蔵が少しずつ近づいてくる。話しながらも光衛門さんは、杖を槍の中段構えのようにしてどこから襲われてもいいようにしている。僕は黙って、三人の動きの邪魔にならない位置を保つようにしながら話に耳を傾けた。
「ちょうどそのあと俺はこの旅に出るべく水戸を後にしててな。目的のひとつとして、奴についての情報を集めていった。結果、俺はある噂からこの二つの事件で起こった不可思議な事象について説明のつきそうな情報を手に入れた――――時路景時、すなわち結衣章雪は心理術に長けており、その技能で他人の精神に介入し認識を狂わせることを可能とする催眠術士だとな」
「な…………」
術――催眠術だって。そんな滅茶苦茶な。でも、そういうことなら、奴が瞬時に変わり身を立てることが出来たことにも納得がいく。
「恐らくはお前が奴と初めて顔を合わせた際に感じた違和感も、顔の印象に対する認識を催眠術で狂わされたが為のものだ。そうでもしなきゃ、人相書きの御身分で今まで悠々と逃げのびていられるはずがねえからな。しかも催眠術ってのは術は術でも呪術妖術の類じゃなく、突き詰めただけの〝技術〟だ。術士でも防げん、対象の心理読解・意志惑溺・感情操作。そうして己にとって都合のよい方向へと相手を動かしていく。奴と接していて、感じなかったか?」
身に覚えがありすぎる。特に、同族である僕の心理は時路には手に取るまでもないほどに解りきっているはずだ。奴の言動、仕草、目線、ありとあらゆるものに精神と心理を翻弄されていたと、今更ながらに気付いた。光衛門さんは続ける。
「その中でも瞬間的に催眠をかけるのが、視線だ。人間、人の顔を思い返す時ってのは目が合った顔を思い出すことが多いだろ。つまり、他者の視線と自分の視線がぶつかる状態だ。奴が顔の印象を操作する際も、顔への光の当たり具合、顎の角度、顔の傾き、様々な要素を組み合わせて〝結衣章雪〟とは違う印象になった瞬間、視線を合わせて印象を固定するのさ。そういうことすら出来るんだ、瞬間催眠をかけられねえように、奴と視線は合わせるな」
光衛門さんは言葉を切った。蔵の扉に相対する。静かにそこに佇んでいる扉は錠前などもかけられておらず、わずかに隙間が開けられていてなにか嫌な気配がした。覚さんが抜いた鉄刀を下段に構えながら、右足のつま先を扉の隙間に差しこむ。僕らは、覚さんに頷いてみせた。
「行くぞ」
呟き、ぐっと引いて扉を開け、覚さんは切っ先を中へと突き込むように正眼に構えながら入る。しかしすぐに半歩引いた。敵がいたのか、と慌てる僕。だが出てきたのは敵ではなく、白い煙だ。何かの毒煙かと思って吸わないように下がるが、かわしきれず鼻先をかすめた臭いはただ単に干し草を燃やしたような、乾いた煙たいものだった。見上げれば、わずかに白みつつある夜明け前の空へと高く細くたなびきながらも上ってゆく。
「……なんだったのだ? 不審火か?」
「わからんね。誰かいたんかな」
「それは当然火を点けた奴はいたでしょうけど、見たところ誰もいないですね」
袖で口元を押さえつつ踏み込んだ僕は、ほとんど物が無い空っぽの蔵を見渡す。二階のある蔵でもないので、白はここにはいない。
と、表の門のところから聞こえる声が大きくなった。どうやら門が開いて、中に入れるようになったらしい。人ごみがあのまま雪崩れ込んできてはこっちの方まで来るかもしれない。少々動きづらくなりそうだ、と思ったけど、人ごみの動きはすぐに止まった。
屋敷に遮られて正門の方は見えないのになぜわかるのかと言うと、重く低く響き渡る声が、移動する民衆のざわめきを一瞬でかき消し黙らせたからだ。
「……皆の者! わざわざこんな夜明け前から集まって頂き、申し訳ない!」
いかにも、強面そうな声。これは。
「八兵、この声は誰のもんだ? ひょっとしてこの声、時路の野郎なのか?」
「いえ……違います。この屋敷の主である、橘門左衛門さんの声です」
光衛門さんに返して、僕らは四人でまた陣形を組みながら、屋敷の外周に沿って正門の方へと移動する。こっそりと壁際から顔を出して見ると、表の門から屋敷の玄関までの前庭に、大量の民衆が押し合いへしあいしていた。そして玄関のところに、門左衛門さんが、
「っ!?」
「どうしたのだ、八兵」
「白が!」
門左衛門が――白を、片手で首根っこをつかんで、まるで荷物のようにぶら下げていた。だらりと力なく突っ伏した白は両手足を太い荒縄で縛りあげられていて、申し訳程度のぼろきれを頭からかぶせられているのみ。
あ、の。あの野郎。自分の娘に、何を。
「そうか、あの子が白銀か……っと、八兵今は出るな! 知り合いがあの扱いでは気持ちもわからんではないが、今出ればお前も危ないぞ!」
声をひそめた覚さんが僕の肩をつかんで引きとめる。確かに、どいつもこいつも白に対して薄汚いものを見るような目を向けている。無闇に突っ込めば、全員が動きだす理由を作ってしまうかも、しれないけど!
壁に押さえつけられた僕はまだ足掻きたかったが、覚さんと力比べしたところで膂力も技術も劣るのだからどうにもならない。そうこうしている間に、門左衛門が再び口を開く。
「先日の事件は皆も覚えているだろう! そう、ごろつきの平次が山中で斬り捨てられていた事件だ! しかしごろつきでもこの村に住んでいた人間には変わりない、私も由々しき事態とは思っていたのだが――済まない、皆よ。私の力が至らぬばかりに、要らぬ犠牲を再び出すことと相成ってしまった! 今日斬られたのは、長屋に住んでいた重だ!」
民衆のざわめきが復活する。その声は最初の内こそ信じられない、まさかそんな、と現状を疑うようなものだったが、次に門左衛門が言葉を発するまでには憎悪、怨嗟の感情だけが渦巻くような言葉が溢れかえる、恨みのるつぼと化していた。
重さんはごろつきのように、いつも争いの渦中に居るような者ではない。むしろ皆に身近な、ただの町人だ。そんな話したこともあるような身近な人間の死が、民衆の生存に対する執着を呼び起こしたのだろう。これは危険に対する、恐怖とまぜこぜになった敵愾心の表れだ。
「重は皆にとって良き隣人であり、私にとっても親しき友であった。だのに守ることすら出来ずこうして死なせてしまったこと、誠に申し訳なく思う……そればかりか。済まない、皆よ。済まない! 私にはそれ以上の罪があるのだ」
民衆が今度は、不安に身を落としうろたえ始める。忙しないことこの上ない……先導者の発言にいちいち感情を煽りたてられ、不安からくる心細さが、自らの意思を周囲の流れに任せてしまっているということに気付けない。これはもはや――先導ではなく、煽動ではないのか。
そこへさらなる感情を注ぐように、門左衛門はわざとらしく悲嘆にくれた声を出している。だというのに、人々は憂いを湛えた目で奴を見ている。
「皆も知ってはいるだろう。あれは、わが生涯において唯一にして最大の失敗だった。そう理解していたにもかかわらず今日までその失敗を野放しとしてしまったのは――私の弱さが原因なのだな。済まない。本当に、済まなかった!」
強き者。煽動者の謝罪の言葉に、民衆は深く感じ入っている。醜悪な、けれど沸点の低い感情のるつぼを、門左衛門の言葉ひとつで煮えたぎらせたり、冷ましたりしている。まだ僕を押えている覚さんでさえ、この不気味な光景に息を呑んでいた。
緩急を帯び、山と谷をつけた話の運び。
実直に剣のみを頼りとして生きてきた人間とは、とても思えないほど饒舌な語り口。
まるで時路だ。……なんだ、よく見てみれば、門左衛門も隣町の連中と同じ目をしている。
うらぶれ荒んだ、意思無き瞳。
「これは……光衛門様」
「ああ、やべえなこりゃ。だが大体筋書きは読めてきたぜ、時路のクソッたれ野郎」
毒づく光衛門さんの声は、しかし僕の耳にはあまり入ってこない。
僕の方がよほど、時路に対して凄まじい毒を吐き散らしていたからだ。この場に奴がいないことが悔やまれるほど。ぶつぶつと、眼前の壁に向かって吐きかける。
ああ畜生、そう言えばそうだった。門左衛門は、なんのかんのと遠回しな嫌がらせはしていても、あそこまで白に対して強気な行動には出られない男だった! 武士という肩書きが冗談としか思えないほど白に怯え、陰湿なことしか出来ない男だ。そんな奴があんな風に、首根を押えて民衆の前を引きずりまわすなんて出来るはずがないだろ!
つまりあの行動は、時路景時の催眠術による仕業だ……あの腐れ同族の!
「……皆、済まない――――昨日のごろつきと、重は――――ここに居る忌むべき我が娘、橘白銀によって斬り殺されたのだッ!!」
そして門左衛門は、語りが最高潮に達した機を見計らい、るつぼをひっくり返した。
どろどろに溶け混ざり合った感情を持つ、民衆の恨みの捌け口を、明確に示して。門左衛門の言葉に熱狂した民衆の叫び声は、明け方の冷たい空気を通して凄まじい勢いで耳に飛び込んできた。負の感情を爆発させた、胸やけのする怒声だった。
僕は民衆の中に時路を探す。性格の悪い奴のことだ、きっとどこかからこの光景を眺めながら、今も門左衛門に民衆を煽動する言葉を言わせているに違いない。でも見つからない。肝心なところでは雲隠れか、あの野郎。
「この愚かなる娘は近隣のごろつきどもと結託し、人々を脅し金を巻き上げようとする悪鬼だったのだ。その過程で、尊い重の命は奪われた……これもひとえに私の不徳の致すところ。本当に、申し訳ない! 腹を切ってお詫び致すべく、今日は皆に集まって頂いたのだ!」
人ごみの、うるさい叫び声が耳に障る。門左衛門の先の言葉を否定するような、思いやりや慈悲に溢れた言葉でもかけたんだろうさ。もはや僕には、細かい言葉の判断は出来ない。ここまで誰かの声に苛立ったのは〝奴〟――神とのやり取り以来だ。ただ、時折民衆が静まって、その間隙に聞こえてくる門左衛門の声だけは、きちんとした音の羅列として聞こえた。
一番、苛立たせる声なのに。もう、黙れ。口をつぐめ。
「……そうか。皆の好意は有難い。私は、本当に良い民に恵まれた。しかし皆に許されたからとて罪が消えるわけでなし、私はいずれ腹を切ろう! 故にこの地を治めるに足る、後継として任ずることが出来るだけの器量の者が現れるその日まで我が命、皆に預けたものとする!」
雑音の集合が痛いほど強く鼓膜を叩く。耳を押えても、肌がざわざわと震わされた。
……それが、狙いか。時路の。あの同族の、バカげた狙いか。そんなもののために、あいつがこんな扱いを受けて、民衆の捌け口にならなくちゃいけないのか?
白のような、存在が。
「今日のところは、この化け物の命だけでもってお許し頂きたい」
片手で首をつかまれ持ち上げられた白の頭から、ばさり、ぼろきれが取り払われる。
月明かりの消えた菫色の空から落ちる薄い日差しでも、その姿は照らし出される。あまりにもまっさらで、白すぎる身体。民衆の短い悲鳴が、合わさり重なって大きな溜め息に聞こえた。
――僕は目を奪われる。こんな状況であっても、いつもと変わらず。
肉づきの薄い、ほっそりとした脚。触れたら折れそうな指先、のびやかにそこから肩へと続く腕。それらが繋がる華奢な肢体が身をよじり、首から腰への流麗な曲線に沿って紡がれているのは、月光を梳ったかのような――彼女の名が示す通り白銀の、髪。そして髪を辿った先に在る小さな顔の中央には――焔を炉から取り出したがごとき、灼爍とした色を秘める瞳。
……化け物、たしかにそうだろう。これは人ならざる身の、美しさだった。
その人ならざる身を、門左衛門が持ち上げている。今や首から手を離して。……掴んでいる部位は、そう、正に人ならざる身の。人には持ち得ない、ひとつの部位だ。
「この化け物――鬼の子の!」
白の頭の右側、耳より少し上の辺りに。くの字に曲がる、掴んだ手に少し余るくらいの角が、その姿を衆目に晒していた。いよいよ調子づく門左衛門は、奴の言葉で言うなら〝鬼の首〟でもとったかのように、やかましい声で民衆に呼び掛ける。
僕の苛立ちも、そろそろ最高潮に達しそうだった。
「鬼の子の命で以て、罪を贖おう! さあ死ね!!」
「お前が死ね」
たぶん。思わず口から零れ出た僕の言葉は、その日その場で紡がれた、どの言葉よりも強く。
憎しみと恨みを重ねていたことと思いたい。
囁きよりは大きいが呟きよりは小さい声だったはずなのに、うまいこと人々が黙った隙間に、僕の言葉は挟みこまれてしまったらしい。無音の空間に響いた僕の声のあとに、音の無い静まりが再び広がる。止まった時間の中、動けたのは僕だけだった。
覚さんは、門左衛門が刀を抜いて白を斬ろうとした瞬間に、僕から意識を逸らした。そりゃ当然だ、護衛役である彼女からしたら、僕を押えることなんかより光衛門さんの身を守ることが大事なんだから。
当然のことだからこそ読めている。肩に添えられた手から力が抜けたのを見計らい、僕は身体を抜いた。背後に居た光衛門さんが腰に差す短刀を、逆手で持って奪い取った。先ほど僕の身体を縛る縄を解いてくれたその刃を、今度は白の縄を解くために用いる。光衛門さんが困惑した表情でこちらに手を伸ばすが、関係無い。
民衆の横をすり抜け、駆け抜け、振りかざされる手足をかいくぐって白の下に辿りつく。ぐったりと伏して地面を舐めるような目つきをしていた白は、僕に気付くとほんの少しだけ表情を緩めた。手を伸ばす。縄をつかむ。門左衛門は僕の姿を視界の端に捉えながらも、躊躇わず刀を振り下ろそうとした。
……間に合うか? いや無理だ! 動きが読めてしまう僕の脳裏には、次の瞬間僕の体ごと白を切り裂く白刃の動きが浮かびあがっていた――それでも、白の身体に巻きつく縄を引っ張り、致命傷だけは避けるように。けれどその動きも門左衛門の慮外とは言えず、波打った軌道は僕の肩口へ正確に斬り込もうとしていた。ああ……だめ、か。
「っちぃっ!」
そこで、何かが弾け飛ぶ、軋んだ音がこだました。その音が響くより速く舌打ちして身を逸らした門左衛門の刀は急にぐるりと方向を変えて、僕と白からわずか、遠ざかる……軋んだ音が響きを失うまでに落ちてきたのは、助さんの鉄片だった。僕は思わず民衆の向こうを見る。民衆も、何十という目を自分たちの後方へ向ける。
「八兵くん! 早くこっちに!」
八重歯をちらつかせて叫ぶ助さんは、両手の指の間でじゃらりと鉄片を唸らせた。僕は急いで短刀を振るい縄を断ち切り、もはや一人で立てないほど衰弱しきった白に肩を貸して立ち上がらせた。するとまたも、民衆の興味はこちらに戻る。
「……おい、お前!」「なにしてる!」「それは人殺しの人でなしだぞ!」「殺せ!」「殺せっ!」
民衆が一斉に顔を憤りの色に染め、僕と白に詰め寄ってきた。殴りかかってくる予備動作はかなりはっきりと目に映ったが、白を抱えたままでかわせるほど僕の力量は常人離れしてない。
多少の痛みは覚悟して、白を背に隠すようにして走りだした。一発、二発。顔と腹に打ち込まれた一撃で膝が沈み込んでしまいそうになったが、我慢して駆けた。だがすぐに人の波が正面に広がってゆき、道を塞いで拳を構える。皆の目が、朝もやの中にぎらついた。
もう、この町は終わってる。完全に、時路の手中に堕ちた。今やこの町は奴にとってのみ都合良いように村のみんなが操られており、町全体で外部の敵と戦う体制を形作られている。その体制を作るためだけに、元からあったごろつきどもへの反発と門左衛門への信頼、そして白への恐怖を利用し、民衆の結束を固めている。
個々人が持つひとつひとつならば小さいはずの感情を、事件への注目を集めることで膨らまし、集団全体の心理にまとめあげている。……時路の奴、生まれる時代を間違えたな。こんな天下泰平の世なんぞに生まれずに、戦国の世で軍師でもやってればよかったろうに。
「殺せ」「殺せッ」「殺せっ」
叫び、一人ずつ飛びかかってきて、視界の中で迫る拳が大きくなっていく。逃げ場は、無く。一発一発は避けることが出来ても、白を庇うには避けることすら許されない。耐えて、このまま正面へと進むしかない。溜め息と共に目を見開いて、ぐっと首に力を込めた。
白が僕の着物の背を握る。大丈夫、と後ろに声をかけてから奥歯をかみしめて、僕は一歩踏み出した。拳が、唸りをあげて突き込まれる。
「――安易だな」
だが拳が届く前に、歩くように横合いから出てきた覚さんが、差し出した手で相手の拳をさばいた。そこから繋がる一連の淀みない動きがあっという間に相手の身体の自由を絡め取り、
「へ」
間抜けた声を最後の悲鳴に、そいつは息をとめた。手をさばかれると同時に足払いをかけられて、行き場に迷った勢いが、上半身を自由落下の力に従わせていたのだ。頭蓋から地面に叩きつけられ、どがんと重たく鈍い音を響かせる。
悠然とそれを見下ろし佇む覚さんは、こちらに一瞥くれてからすぐ、民衆の方へと右半身で向き直った。
「口先だけで覚悟が伴っておらん。時路の口車に乗せられただけの、哀れな奴らだ」
「あ、覚さん……」
「早く助のところへ行け。連中は私が止めておいてやる」
「でも、白のこと、」
「多少見てくれが変わっているというだけの人間なら私も腐るほど見てきた。角があり若白髪という程度で、公正な判断をせずに裁くなど以ての外」
殴りかかってきた男から一歩退いて、小手返しで崩し投げながらも僕に言う。後ろを見れば、変わらず白は衰弱したままだ。僕が意識を失ってからずっと、縛られてひどい目に遭わされていたのだろう。
「……ありがとうございます」
白のことを考えるなら、逃げられるときに逃げておくべきだ。僕は覚さんが前面を守ってくれることで空いた包囲網の隙間を抜けて、民衆の後ろへ回り込む。いつの間にかどいつもこいつも適当な得物を手にしていて、昨日の隣町での出来事と重なりすぎていやになった。構えた杖に巻いた布をほどいている光衛門さんの後ろに転がりこむと、僕らの前に助さんが現れた。
「さって、この暴徒もささっと鎮圧せんといかんよね。でも、その前に」
後ろに手を回し、腕を振るう。助さんが腕を止めると同時に掌を握ると、僕らの四方を光の壁、結界が塞いでいた。
「どうして結界を?」
「きみらを守るって意味合いと、疑いが晴れるまでは逃せんって意味合いと、二つの理由でね。結界に囲われて窮屈だろうとは思うんけど、ごめんね、こっちもお仕事なんよ。即席の結界だから物理攻撃への防御力しか無いんけど、たぶんこれで安心だから」
「……そういうことなら、仕方がないですね」
「うん。ちっと我慢しとってね」
鉄片を投げ、地面に対して斜めに傾いだ結界を形成。坂のようになったそれを足場に、助さんは空中へ飛んだ。外側へ両の腕を開くようにして四方八方に鉄片を投げつけ結界の壁を作り出すことで、民衆が一気に光衛門さんへ押し寄せないように進行経路を限定する。
その壁により動きが止まった隙を見計らい、覚さんが切り込む。立ちふさがる民衆に得物を叩きつけ、けれど最大限の手心を加えて殺さないよう尽力しつつ。だが切り込んだことで民衆は動きを変え、覚さんを円形に取り囲んだ。ヘタにどこかへ飛び込めば無防備な背を襲う、と言わんばかりに。少しずつ、すり足で円を狭めていく。
「はん、浅知恵だな」
覚さんは民衆の戦法を一蹴し、わずかに屈んで跳躍した。いや、でもそれだと周りの民衆全員が、上に向かって得物を突きだしたりするんじゃ……
「助!」
覚さんが叫ぶと、拍子を合わせた助さんは既に鉄片を空へ投げていた。すると人々の遥か上を飛ぶ覚さんはくるんと黒髪をなびかせて前方へ半回転し、草鞋の裏を天に向けて投げだす。
そこに鉄片が到達し、結界の壁を形成した。空中にて足場を手に入れた覚さんは、結界を蹴り飛ばして方向転換し、自由落下した場合に落ちるのとは逆方向へと一気に加速して墜落した。黒い岩石が落ちてきたかと見紛うほどの動きは、着弾点に居た数人を一太刀で薙ぎ払っている。
半透明の結界越しに見える民衆はますます怒り狂った様子で、次々に暴力を振りかざし光衛門さんたちを襲った。だがそのことごとくが、襲いかかったあと再び立ち上がることが出来ない。
「あーあ、今さら印籠見せてひれ伏してもらえる段階じゃねえが、手加減は難しいな」
「でも手加減は出来ても手抜きは出来んよ。興奮状態の連中は手に負えんもん」
「だよな。とりあえずやばめなのは覚に任せちまおう」
光衛門さんと助さんはお互いに背を任せながら、一人ずつ順番に片づけていく。向こうの方では覚さんが一薙ぎで二、三人を吹き飛ばしているが、こちらの二人にはそんな大層な真似は出来ないらしい。光衛門さんは、布をほどいて歪なコブのような持ち手を露わにした杖を振りまわし、民衆を僕らの方から遠ざけることに全力を注いでいる感じだ。助さんも同じく、投げた鉄片から発生させた結界で相手の動きを封じ、あとは蹴って殴って押えこんでいる。そんな中であの三人の方へ向かわず、僕らに目をつけた奴がいた。
「うおおおぉぉ」
「うわ!」
一人だけ、あの三人の攻撃から抜けだすことに成功した奴が、僕と白の納まる結界に向かって錆ついた鍬を叩きつけてきた。一応強度は十分なのか結界が壊れる気配はないが、何度も打ちこまれると一撃ごとにみしみしと音を立てはじめる辺りが恐ろしい。
「大丈夫だろうなこの結界……」
つぶやいたあと、ふっと僕らの背後に影が差した。
「――この地は私の領域内だ。〝波奈の刀〟」
荒い息遣いを耳にして慌てて振り返る。すると、そこに居たのは――橘、門左衛門。そう認識した時には無言で刀が振り下ろされていた。一太刀で、びしりと結界にヒビが入った。
「うそだろ!」
そんな。さっき鍬を振り下ろされてた時は、なんともなかったのに!
「〝祓いの太刀〟?! あかんよ、術法を纏った攻撃は!」
助さんが離れたところで叫ぶ。術法? 祓い? ……まさか。ああそうか、廃れたとはいえ、橘家は神道の血筋だった……! 祓い清める術法は得意技だし、ましてやここは門左衛門自身の邸内。ある意味、奴の結界内と言える。奴が存在を許さないものは、全て祓われる! 駄目だ、僕らは結界を壊して外に出られないし、このままだと斬られる!
「死ぬのはやはり、此奴なのだ。くたばれ、鬼の子よ」
殺害宣言を繰り出したのちの無造作な振り上げが、構えとなる。その形をこちらが見て取るよりもなお早く、門左衛門の剛腕から、破壊の一撃が打ち出された。
「ぐ……!」
しかし――一撃は打ち込まれる前に停止する。否、膝を屈した門左衛門は、そもそも一撃の形を為すことなく終わっていた。殺気に反応して目覚めた白が、僕の持っていた短刀を振り抜き結界ごと門左衛門の脛を斬りつけていたのだ。傷から流れる血の中には白い骨が見え、さらに骨も断ち切られているためなんとも形容しがたい色合いの髄液までもが流れ出していた。そしてヒビを入れることすら無く、紙を裂くように真っすぐ水平な切り口をつけられた結界は、瞬時に粉々になり風にあおられ消えた。
「そう簡単に、斬られないよ」
短刀を取り落としがくりとうなだれる白。……そうか。それを言うなら白も、神道の血筋だった……と、安心する暇もなく、僕は白の首根っこを引っ掴んで後ろに飛んだ。
「ぅ、ずぇあああああ!!」
なおも刀を横薙ぎに振るう門左衛門は、もはや狂気に駆られているとしか思えない。だが、白もまた今の一太刀で消耗してしまった様子なので、追撃する余裕は無い。僕はその場から後ずさり、先ほど光衛門さんたちと通った勝手口の方へ進んだ。
「あ、ちょっと!」
助さんが引きとめようとするが、関係無い。そもそも白には容疑があるだけだ。……隣町の連中に関してはいくらか斬ったが、非があるのは全て向こうだし。民衆にまた襲われないうちに、僕は白を引きずって勝手口を出た。