表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/10

三幕。


        三幕。



「まずいことになったな」

 ただでさえ、同心をぶった斬って逃げてる僕らだ。この上さらに罪が加算されるとなると、人相書きどころじゃ済まないことになるかもしれない。もう生きていられる可能性は無きに等しいだろう。打ち首獄門にならなきゃ御の字、ってところか。

「そんなにまずい?」

「このまま八尾町の同心のところに駆け込んでも、あとから来た山狩りの連中が『こいつら山の中を通って逃げてきたんだぜ』なんて言い出したら、血染めの刀持ってるお前は途端に重さん殺しの下手人だと疑われる」

「八兵だってそうでしょ」

「こんなちっこい仕込みの刃で人間を真っ二つに出来るもんか」

「それもそうね」

 困った。八尾町の同心のところに行けば、まだ話を聞いてもらえるかもと思っていたのに。

 ああ、人が斬られたらすぐ同心が動くほどに治安の良い町だったことが、まさか逆に僕らを追い詰める要因になろうとは。僕は頭を抱えた。

「せっかくこの町ではうまく生活出来てたのになあ。またどっかに流浪か」

「え、この町、出ていっちゃうの?」

 突然ものすごく動揺した声を出して、白は急に僕に詰め寄ってきた。びくっとしてのけぞるが、構わずに白は距離を詰める。ほとんど僕の胸の上に乗っかるくらいに顔を近づけてきて、布の奥の顔がわずかに見えた。怒ったような顔だ。

「なに焦ってんだ。出てっちゃうの、じゃないよ。お前も一緒に行くんだよ」

 同じ追われる身としてな。同じ穴のむじなって奴だ、まったくもって溜め息しか出ない。

「たぶん、この先も一生一緒に、ずーっとな」

「…………そ、それどういう意味っ?」

 今度は慌てて飛びのき、居ずまいを正しながら白は距離をあける。さっきから挙動不審だなあと思いつつも指摘すれば切っ先が飛んで来そうな気がしたので、なんとなく呆れ笑いが出そうになるのを必死に押し殺して僕は白と目を合わせた。

「おいおい、僕もお前も罪人なんだから、力合わせなきゃ逃げ続けるなんて出来ないのくらいわかるだろ?」

「そうじゃなくて……ああ、もういい。どうせ思いつきで言っただけなんでしょ」

「思いつきっていうか現状でそれが一番適当だと思ったんだけどさ」

 こっちからすればさっきから白が思いつきで動いてるような気がしてならない。

 明るい月光を落とす空を見つつ僕は、どうすべきか考えを巡らした。まあ普通に考えるなら、八尾町に戻れなくなってしまった以上しばらく休んで夜闇にまぎれてとんずらするのが一番か。

 そして夜逃げするにあたって荷物をどうするかだが、僕の場合今持っている鍼灸道具一式の他に財産と呼べるものはないから、長屋の物は放っておいて構わない。白にしたって、書物の他に惜しいものはないはず。……なんだ、いますぐ逃げても大丈夫だな。

「なんにせよ、旅の鍼灸師に逆戻りか。いやだなー」

「旅するのいやなの?」

「嫌っていうかなんていうか。この町に来てだいぶ経ってるから、いまさら流浪人に戻るのが面倒なだけさ。腕も名前も知られてないところで再出発なんて、どれだけ収入落ちるか」

「ああ。もうかれこれ五年くらいはここに居るものね」

 指折り、僕がここに来てからの季節の移り変わりを数える白。つられて僕も思い返す。ええと、先代が僕を拾ったのがたしか十二年前だから……七年間は各地をぶらついてたわけだ。

「僕と一緒に来た先代も、ここで骨を埋めることになったしな。僕もそうなるんだろうと勝手に思い込んでたよ」

「どこででも客死(かくし)する心構えはあるんだね」

「死に場所なんてどこでもいいさ。先代に拾われなきゃ、どうせそのまま死んでたんだ」

 少し距離が空いたために、表情が読めなくなった白を尻目に僕は言う。そう、死んだんだろう。小屋の中で横たわる重さんのように。物言わぬ死体と化して、カラスに肉を食い漁られて、骨だけが土に還ったのだろう。別にそれならそれで僕は構わなかったのだ。

「いつどこでどんな風に死のうが当人にとっちゃ大した違いじゃない。だれに影響を及ぼすかが変わるだけだ」

 もしくは誰にも影響しないか、だ。僕にしたってあのまま先代に拾われなければ、カラス以外の何者にも影響を与えずに死んだはずだ。死の意味は、カラスの血肉になったというそれだけで終わる。たられば言っても仕方ないが、それならその方が僕はよかった。

 今までの十二年間、悩まずに済んだのだろうから。生きているのにその実感が薄っぺらになって、自分で自分がよくわからなくなるようなことは、なかったのだろうから。

「……そうね」

 白は短く首肯してくれた。

「わたしも――どこでも同じとは思う」

「ま、だからって簡単に死んでやれる理由にはならないけどな。隣町の連中に襲われて殺されたとして、なんの意味もないだろうし。重さんは、どうだったのかな……」

 視線をずらして、小屋の方を見る。臭気と共に封入された重さん。あの人の死に、意味はあったんだかどうなんだか。それは殺した奴に訊くか重さんの幽霊に訊くかでしか永遠にわからないことであり、そう考えると死の意味を形作るのは看取った人、つまりこの場合は殺人者になるのだろう。

 当人からしたら一番の恨みの対象にしか、死の意味を求めることが出来ないとは。なんてひどい搾取なんだろうね。

「さっきから静かだよね、八兵。だいじょうぶ?」

 考え込んでいると、不安そうな声をかけられる。知人の死によって放心状態になったとでも思われたんだろうか。

「大丈夫、落ち着いて考えてるだけだ」

「よく、この状況で落ちつけるね」

「落ち着いてなきゃこの状況、切り抜けられないだろ」

「そうだけど。でも、知り合いだったんでしょ?」

「取り乱したら生き返るわけでもあるまいし。死の意味はわからないけど、僕はあの人が生きてた意味はちゃんとこの目で見ていたから、悲しむほどのことも無いんだ」

「知り合いの死って、そんなに感情を動かさないのかな」

「さあ。少なくとも僕の場合、先代が死んだ時もこんなんだったよ」

 人の死は、遠巻きに見て悲しみで隔てるものではないと思う。列に並ぶ順番の差があるだけで、僕だって白だっていつかは辿りつくんだから。遠ざけたってそれこそ意味がない、これだけが、そうこれこそが唯一、万人に平等に訪れるものだ。

「命なんて、平等じゃないんだ。重さんも当たり前の死にざまのひとつだ」

「かもしれないけど、わたしはそんな死に方するの、いやだよ」

 白も僕と同じく、小屋の方を見据えていた。瞳に映るのは死者の霊ということはないと思うが、同じくらい不気味なものを見たような目をしていることが、闇夜の中にかろうじて見て取れた。

「誰しもに与えられているという点では平等だと思うけど、わたしはいや。たとえ意味のある死にざまだとしてもごめんだよ。わたしは……もっといい生き方をして、眠るように死にたい」

 目の当たりにした情景を拒む白は、同意を求めるように言葉を紡いでいた。

 思わず、笑ってしまった。むっとして睨みつける視線を感じてすぐ顔を引き締めたものの、一度見せてしまった表情は取り繕えない。黙っている僕に白がまた一層険のある表情を向けてきている気がするが、自分の考えを素直に述べた。

「僕は、お前の考えに同感だとは言えない」

「どうして」

「お前は幸せになりたい人間なんだから、そう考えるのが当然だよ。けどそこまで前向きになんて、」

「なってもいいでしょ。八兵はわたしじゃないから、そんなこと言えるんだよ。わたしみたいな存在は、そうでもしないと毎日、耐えられないんだから」

 後半はわずかに哀しみを帯びて、白はつぶやいた。僕はバツが悪くなる。配慮が足りなかったことを悔やんだ。

「ごめん」

「……いいよ、別に。わたしだって、自分みたいな存在がしあわせになりたいなんて言うことが絵空事だっていうのは、わかってるもの」

「いや、僕が笑ったのはそういう意味じゃないんだ。そう取られたんだったら本当にごめんな、いっそう謝らなくちゃ」

「? じゃあ、何について笑ったの……」

「んー……だから、僕は自分がいい生き方をして、幸せになって、眠るように死ぬなんてとてもじゃないけど思えないんだ。白については、きっとそうなればいいと思う。いつかそうなるかもしれないとも思える。でも自分については、本当に無理だとしか思えないんだ、本当に」

「どうして」

「自分の命にそれほど執着が無いから」

 言ってしまってからはっとする。白の面前において、一番の禁句だった。謝ろうとする暇も与えられず、視界が揺れて地面に落ちた。頭を殴り飛ばされたことを感得して、よろよろと起き上がる。鞘に納めた刀を振るった白は、憮然とした表情を隠そうともしなかった。

「死んだあとのことを話したり――生きてる意味を考えたり、そういうのは別にいいよ。わたしだってよく考えるから。でも、今のはだめ。二度と言わないで」

「……ごめん」

「言葉にしたら、余計に現実に近付いちゃう。だから言わないで。お願い」

 さっきよりもなお哀しみの増した表情をこちらに向ける。居たたまれなくなって、僕はうつむいた。だがもう遅い。口にしてしまった言葉は僕を内側から蝕んで、自分の存在がいかに薄気味悪いものであるのかを思い出させてしまっていた。ぞわりと、森の中に不気味な気配が漂ったような気がして、僕は思わず振り返る。辺りに〝奴〟が居やしないかと、そんな杞憂にも似た危惧を覚えた。ついでに、ふっと思い出す。

 白にもいまだ、伝えることの出来ていない事実。僕自身のあまりにも不気味な過去。嫌でも、逃れることは絶対に出来ない思い。僕は結局、人間のふりをしているに過ぎない何か(、、)なのだ。あの時路さんと同じ。不気味で、生きていることさえ面妖な存在。

 ――あ、あ、だめだ。顔がまた、取り繕えなくなっていく。

「八兵?」

 やめろこっちを見るな。だめなんだ、今の顔は。

 完全に人間ではないモノのそれなんだ。

「少し、離れててくれないか、頭を、冷やしたい」

「う、うん」

 発した声にも自分で驚かされた。どんどん抑揚が無くなっていく。素に戻っている感じがして、まっとうな人間らしい考えが奥底に引っ込んでいった。

 あの日のあの時に戻ってしまうようだった。身に付けた人間らしさ、すなわち「感情の出し方」が薄れていく。どうしてまた、今この時に。〝奴〟に遭ってしまったわけでもあるまいに、なぜこんな、ことに、


「私見を述べさせてもらうのならきみはやはりこちらに来るべき人間だからだと思うね」


 言葉が僕の頭を引っ張り上げたかのように、声のした前方に顔を上げた。

 小屋の壁に背をもたせかけて、腕組みした時路景時が、そこに在った。

 ……よりにもよって、今の僕と、同じ顔をして。刀を抜きかけた白も、僕と時路さんのただならぬ様子を見て動きを止める。さらに、僕ら二人の顔を見比べて、状況が理解出来ないという顔をした。それはそうだろう。まったく違う人間二人が、まったく同一に、感情を全て失ったおぞましい顔をしていたのだから。

「こ、れは?」

「橘白銀と言ったかな? 驚いているようだが別段私と彼は生き別れの兄弟というわけではないよ。ただ我々二人ともが世にも不可思議な体験をした仲間でね」

「仲間なんかじゃ、ない」

 張りを失って今にもはじけ飛びそうな声を絞り出して、反抗した。

 畜生。なんで僕は顔を上げてしまったんだ。白に見比べさせることさえなければ、僕はこれからも人間のふりを続けることが、出来たのに。

「遅かれ早かれ露呈することだったさ。きみが彼女と行動を共にし続けていたのなら」

「心理術、を使わない、で、もらえませんか」

 発音や間によって感情を表現出来なくなりつつあった。そして僕が乱れれば乱れるほどに時路さんは饒舌になっていくようで、僕の力を吸い取られているのではないかとさえ思えた。

「ずいぶんと余裕が無いと見える。顔だけでなく声までも感情を失ってしまっているようだね。けれどもある意味ではきみもすっきりした気分を味わえているのではないかな。なぜならきみはいつも〝無理やりに感情を作り出して〟〝人間らしい行動を心がけて〟生きているのだから。素の己を外に出すのは久方ぶりだろう?」

「ど、どういうこと?」

「白、聞く、な、耳を傾けるな」

 その存在感が、森の闇を捻じ曲げていた。時路景時という異物によって、辺り一帯の空気と気配が歪められている。にやにやと、取り繕った笑みを浮かべて、彼の目が僕を捉えた。

「おやおやきみは彼女に〝述懐〟の説明もしていなかったのかい? よくもまあそれで彼女のことを友人だなどと呼べたものだねえ。隠し事はいけないよ。私が代わりに話しておいてあげよう」

「だまれ!」

 嫌悪感が心中で渦巻いていた。この人は僕と違って〝述懐〟があってもやりがいをもって人と接しているように感じたが、全て勘違いだったに違いない。

 この人も僕と同じだ。他人に依存して、他人に寄りかかって生きている。

 誰でもいいから誰かに依存する。誰でもいいということは、どんな他人でもいいということで、それは自分以外なら誰でもよくて、一方的な思いで構わず、要するに、独りで生きていくということと変わりない。他人は、自分と他を区別するための指標に過ぎない。

 この人にとっての〝誰か〟はずっと、隣町の人々だったんだろう。けれど今日変わった。僕が、僕こそが、自己と他を区別するにはより相応しいと感じたのだろう。そりゃそうだ、だって僕と彼は、同族なのだから。より細かい区別が可能で、自己を定めることが出来る。

 なぜ僕はこの人に対して、自分とは違うなどと感じたんだろう。勘違いも甚だしい、この人のことは嫌いだったじゃないか。そして僕はずっと昔から、自分のことも嫌いだったんだ。なら残る答えは、同族嫌悪という一言に尽きるというのに!

「彼も私も他人に依存して生きる。自己と他の区別さえつけることが出来ればそれで良いのでここでの他人とは〝誰でもいい〟ということさ。彼にとっての他人とは恐らく」

「  、 !」

 声が声にならない。僕の内面が、ぶっ壊れてしまった。あの日、〝述懐〟を刻まれた瞬間の再現だ。時路景時の気配を認識した瞬間から、僕の中であの日の記憶がふつふつと浮き上がり始めている。奥底に沈めたはずの記憶が、輪郭を浮かび上がらせている。体と心が一致せず、互いに反目しあって動かない。

 もはや目で物言う他なく、白の方を見るが、あいつはどうしていいのかわからないらしく動きを止めて聞き入ってしまっていた。

「橘白銀。きみのことだ。さてそれではなぜ我々がそのような考えを持ってしまうのか。それこそが先ほど述べた〝述懐〟というものに関係していてね。単純に言えばこれは〝俯瞰視点〟の能力だ。遥か高みから人を見下ろす視点。それは遠く見ゆるがために個々の意味を失くし隔たりを薄れさせ人間という〝種〟または〝群れ〟としてしか見なせなくする」

「…………」

己さえ含めて(、、、、、、)だ。全ての人の命は等価値。究極的な平等の思想。環と和こそが重要なのであり万人が平等という均衡を目指している。目指さざるを得ない。そういう異能が〝述懐〟だよ。きみは彼を見ていて思うところはなかったかい? 自分の命を粗末にするような生き方をしていると思ったことはなかったのかい?」

 白は答えないが、胸の内に思うことはあっただろう。僕の行動には、普通の人と比較してみると不審な点が多い。隠そうとはしてきたけれど、所詮ただの人間であった僕が〝奴〟の仕組んだ呪いのごとき〝述懐〟に抗えるはずもなかった。

 ……白には知られたく、なかった。僕の正体を。人外と呼ぶほかない思考を持ってしまった僕を。何も言わず時路景時を見つめる彼女も、さすがに内心では僕に対して不気味さと恐ろしさを感じているに違いない。ひょっとすると、憎しみさえ感じているかもわからない。だって白が重さんと同じような状況になっても、僕があの程度の反応しかしないのだと、わかってしまったのだから。

 意気消沈する僕を嘲笑い、時路景時はこちらへと歩を進めてきた。後ずさる僕の警戒を解くように、穏やかに言う。

「八兵。きみはどうせいずれはこうなるはずだったよ。結局きみは私と同じなのだから普通の人々の間では生きることが出来ない。しかし人外れた存在であり数の少ない我々でもこうして巡り合わせの采配が恩恵を与えてくれることもある」

 孤立し続けるのは寂しかろう。私と共に在れば孤独ではなくなるぞ。

 囁く声音と共に差しだされたのは、手だった。

「私に手を貸し友となるつもりはないかな?」

 昼間の問いの繰り返しだった。僕は役立たずの言葉を呑みこんで、それでも首を横に振ろうと念じる。当然だ、僕はこの人が嫌いなのだから。僕をここまで追い詰めておいて、何が友だ。

 しかし凝り固まった筋肉が押し留めているように、横には動かなかった。彼の目を見た瞬間から、首は縦にしか動かないように固定されてしまっている。意志が、自由であるのに自由で無い。まるで誘導されているように。彼の手が届く間合いに入りそうに。そんなばかな。そこまで――参ってしまっているのか? 首が、縦に――

「むっ!?」

 飛びのいた彼の声を、振るわれた切っ先が薙ぎ払った。わずかに響く間もなく震動をかき消された空間には、凛として佇む白が、抜き放った刀を片手にぶら下げている。時路景時はあからさまにいらついた顔をして、森の闇を背に右半身に構えた。

「話を聞いていなかったのかな橘白銀。彼は私と同族であり人外れたもので」

「人外れた存在なのはわたしも同じ。自分ばっかり特別だと思わないで」

「特別? 特別などではなくこれは単なる区分けだよ。鳥が空を飛べるからといって魚が鳥に劣るわけではないのと同じ。きみと我々の間には違いがあり過ぎるというだけだ。いかにきみが変わり種(、、、、)であったところで越えられない程度の壁があるのさ」

 変わり種と呼ばれる所以(ゆえん)たる己の姿を晒しかけていたことに気付き、白は布を深くかぶりなおす。僕に背を向けていたが、白が気分を害したことだけは伝わってきていた。

「誰だって違いは持ってるじゃない。多少の違いなんて、わたしにはどーでもいい」

「はっきりと言わなければわからないのかい? きみのことなど――八兵にとっては他の誰かと同じ価値しかないのだと。その価値観をきみは許せるというのか」

「……ばかね、あなたは。わたしみたいなのに他の人と同じ価値があるなんて認めてくれたのは、八兵だけだったんだよ」

 ねえ? とこちらに同意を求めた。僕は、何も言えない。

「だから、八兵は渡せない」

「当人の気持ちは度外視していても構わないというわけかい」

「そばにいるのが誰でもいいのなら、度外視しても構わないと思うんだけど」

 僕はまだ動けず、今にも屈しそうになる膝を精いっぱいの力で押さえて、二人のやり取りを見ているしかなかった。ふたりの言葉が、耳を叩いてうるさくて仕方ない。情けないほどに何も出来なくて、僕はどうすればいいのかわからなかった。

「哀れなものだね。〝述懐〟のおかげで得られたかりそめの同情にすがりついているのか」

「かりそめでもなんでも、わたしにとっては初めての、大事なものだったの」

「だとしても今ここで失うべきだ。この先も持ち続けていたところで報われることはないよ」

「持っていることに意味があるんだよ、大事なものっていうのは」

 時路と視線を斬り結ぶ白は、片手を胸においてそう主張した。

 大事な――大事な、もの。僕はとうの昔に、失ってしまっているけど。


「わたしは今、おおむね幸せなの。その要因が八兵だから。わたしにとって他の誰より必要だから。八兵が他人なら誰でもいいっていうなら、わたしは――八兵なら何でもいいんだよ」


 ……もう、失ってしまっているからこそ。白が幸せであるというのは、とても大事なことであると思えた。

「そのような幸せなど砂上の楼閣といって良いほどに崩れやすいだろうに」

 哀れっぽい声を出した彼を見据えて、とうとう僕は膝を屈した。時路は途端に愉快そうな気色を散りばめた顔で、僕に何事かを視線で促す。多分、白に何か言えという意味だろう。

 ――僕は。

「ぼ、くは」

 やるべきことは今ひとつだけだった。そのひとつを絞り出すために、他の全てを放りだして、失った感情を再び作り上げる。失って、それだけで人間らしくあるのを諦められるほど、僕は人外ではなかったということか。

「あんたに……、したがわない」

 発音もぎざぎざの、およそ人間らしくない声。だとしてもこれは僕の今出せる最高の、まさしく人外に反抗するための言葉だった。

 時路景時は反応しなかった。少しして、表情を失くしただけ。

「〝奴〟の――〝神〟の述懐に逆らうというのかい」

 ああ。そういえば、あの日あの時出遭ったあいつは、たしか神とか名乗っていたっけ。

 だったら余計に、答えははっきりしていた。そう考えたらすっきりして、幻が解けるように、感情が戻ってくる。作り物の二級品だけど、無いよりはずっとましなもの。

 腐った世界の何某(なにがし)かに、思い切りぶつけることが出来るモノ。

「僕は、神も、世界も、あんたも、みんな嫌いだ」

「……救われる価値も無い屑だったとはね。もういい……予定を変更するよ。そういうことであるなら私は八兵も斬る他ない。至極残念であるけど」

 時路景時は腰に差していた白刃を抜き放ち、切っ先をこちらに向ける。動けない僕の前に素早く入ってくれた白は、油断なく居合いの構えを崩さずに目の前の剣に相対していた。時路は溜め息をつく。

「やれやれ。自ら出張って動くのは好きではないのだけど他に手も無しか。当初の予定では村人と同心に任せて八兵と橘白銀を分断してから今のような話し合いの席を設けるはずだったのに。きみらが思っていたよりも腕が立ったせいでこんなことになってしまった」

「あれもあなたの指示だったの?」

 ゆらりゆらりと切っ先を揺らして白を誘う時路は、笑みを浮かべて正解だと囁いた。

「そうさ。あれだけいれば二人くらい葬り去るには十二分と判じていたのにね。どうやらきみを相手するには数の力よりも個人としての力量が要求されるようだ。無駄に人々を斬らせるわけにもいかずやむなく私自身が参上する次第となったわけさ」

「……昼にその言葉を聞いてたらおなかを抱えて笑ってたと思うけど。なぜ? 今のあなたからは、十分な力量を備えた剣客としての気配を感じる」

 一切の隙を見せないまま語る白に、僕も頷きを返したかった。

 昼に一見した際に、僕も時路は剣客としての体運びをしていないと気づいていたからだ。わざと己を弱く見せようとしていたのならそれはそれでまた違和感を孕んだ動きとなっていたはずだし、僕の()立てに間違いはないと思う。ならばなぜ? という問いが残るのだ。

 しかし、こいつに限って答えるつもりなどないだろう。まことに性格が悪い奴だから。

「だって答えてあげる義理などないじゃないか」

 あくまでも表面上はにこやかに、時路は心を読んだ。

「まあとりあえず楽しんでいくといいよ。今の私はなかなか強いはずだから」

「楽しく人を斬ったことなんてないよ」

「だろうね」

「でも、あなたは斬る。八兵を殺すつもりなら、一切の加減をしない」

 ゆらり、と時路の剣が持ち上がったのと、白がするりと前に滑りこんだのと、どちらが先か。

 左上方へと向かう抜刀の斬り上げが、時路の袈裟切りと交差する。白の狙いは小手、だが吸いこまれるように到達した切っ先が斬り裂いたのは、柄の真ん中。柄を握る右拳と左拳の間を、縫うように擦り抜けていった。

 左手の中に余った柄の切れ端を投げつけ、右手のみで再度袈裟に斬ろうと試みる時路。しかし右肩に担ぐようにした刀を両手で握った白が、返す刀で横薙ぎに首を狙うのに気付くと半歩下がって刃圏から逃れた。そうして後ろ足に移した重心により溜めこんだ力を前に揺り戻し、袈裟に打ちこんで刃を押し付ける。迅速に頭上で地と水平に構えた白の刀と時路の刀が十文字にぶつかり合い、ばぢぢ、と爆ぜるような音が響いた。

 そのまま白は鍔元から切っ先へと時路の刀を受け流し、無防備な右脇腹を通り過ぎざまに撫で斬った。ぱっくり割れた着物の隙間に一瞬見えた素肌が、同じくらいに僅かな間に赤く染まった。

「ぐ……っ」

 うめき声ひとつを噛み殺し、即座に後ろに向き直って、時路は正眼に構え気を落ち着けた。どうやら脇腹の傷は致命傷や戦闘不能になるほどの深さでは無いらしい。ただ、点々と地に落ちては染み込みゆく血の流れは、闇に紛れそうな色であるのに鮮明に目に映る。傷が浅くも無いことを如実に現していた。

「……参ったねこれは。付け焼刃の剣術などではやはり相手にもならないようだ」

「多少は出来るみたいだけど、わたしの相手をするには足りなさすぎるよ。さっさと降参したら?」

「笑止なことを言うね」

 じりじりとすり足で間合いを詰める、と見せかけ、時路は前足で土を蹴りあげた。即座に右半身の体勢で飛び込んで、土ごと眼前の空間を幹竹割りにした。

 だがそこにあったのは白が振り上げた布だ。二つに斬り裂かれた布の後ろへと下がっていた白は、布が落ちるや否やという寸毫すんごうほどの時の(はざま)を掌握していた。目くらましを仕掛けた時路の方が布による目くらましで間合いを見誤った、その機を見逃さず、研ぎ澄まされた精度を以てして繰り出す右片手平突きが鳩尾(みずおち)を狙った。

「――ちっ」

 なぜか白の舌打ちが聞こえた。見てみれば、引き戻した時路の刀が突きの前に構えられ、(しのぎ)のわずかな角度が、方向を逸らしていたからだ。左胸の表面を撫でられた程度で済んだ時路は、構えのままに前進して右肩を刀の峰に押し当て、体当たりを仕掛けてきた。高威力の突きの代償として無防備に体の前面を晒した白は、左回りに体を捻じってこれを(かわ)す。とはいえ完全にはかわせず、体当たりの余波として左掌底で左肩を引っ掛けられてその場に倒れた。

 いや、敢えて倒れたのか。最初に接地した右肩を支点に、両足を振りまわして独楽のごとき回転を得た白は、左手に持ち替えた刀で時路さんの膝裏から皮と肉を削いだ。悲鳴に近い叫び声を発して、時路は崩れ落ちないように踏みとどまった。よろめく体を前かがみにして背後からの攻撃に備え、すぐさま後ろの白へと地を這うような軌道で剣を振るう。

 だが甘い。前かがみになった時点で斬撃の高さが制限され、腰より下への攻撃しか出来ないと察知した白は、刀が振るわれる前に跳躍していた。着地一歩目の踏みつけで腕を制し、二歩目で顔面を蹴り飛ばして、二人は一瞬背を向けあった。だがすぐさま先の一太刀の勢いのままに反転した時路が、顔を血に濡らしながら三度目の袈裟切りを放とうとしていた。

「っおおおおお!」

「――〝(おき)、」

 息を吸うと共に瞬時に後ろ足へ重心を落としこみ、そこを軸に軽やかな反転を見せる白。またも右肩越しに担ぐように刀を構え低く身をかがめて突進し、時路の袈裟切りが右こめかみに当たる寸前で、それを阻む壁として己の刀を空へ掲げた。鍔元に当たった時路の刀は、導かれるように弧を描いて切っ先まで流れていく。そして、上から押さえつけている時路の刀が完全に切っ先から離れた時、解放された白の刀身が時路の左肩へと斜めがけに斬り込まれた。

「――靡車(びぐるま)〟!」

 刀身が走った軌跡に沿って、血が湧きだす。どぷどぷと溢れだした血は地面のみならず白の体をも染め上げようとしたが、一歩引いてそれを避ける。溢れる血の流れだす先を見据えながら時路は倒れ伏し、瞳からは徐々に力が消えていった。

 僕は声を上げようとした。白に向かって、こちらへ来るように。けれど未だ僕の体は上手く動いてくれなくて、声は声にならない。

 声は塞がれ留められて、遂には形にならなかった。

「――見事に(はま)ってくれたようで私としてもありがたいよ」

 僕の背後から首に腕を回し短刀を押しつけ、時路が森の闇の中から姿を現した。驚愕に頬をひきつらせ自分の刀を確かめる白だが、それも仕方の無いことと言える。なにせ、こうして捕えられている僕自身でさえ、白が斬り伏せた相手のことを時路だと思っていたのだから。

 しかし血のついた刀身と手ごたえは白の手の内に残っているはずで、それを否定することは誰にも出来ない。だが否定出来ないのは、あくまでも「手ごたえ」と「血痕」である。

 斬られたのが時路だという証拠は――ない。暗闇に倒れ伏す死体にもう一度目をやる。そこに居たのは、背格好こそ時路に似ているものの、全然違う顔をした男だった。さっきまでは、確かに時路だとしか思えなかったのに。

「どうだい? なかなか強かっただろう()は。さて橘白銀。いつまでも遊んではいられないことだし八兵を殺されたくなければ私についてきてもらおうか。早く戻って怪我の手当てをしたいものでね」

 横目で見れば、時路は片手で脇腹を押えていた。その怪我を負う時までは本物だった、ということか。でも、どうやってバレずに入れ替わったのかは、わからない。

「変わり身を引き受けてもらった彼には悪いけれどやはり慎重を期しておいてよかった。この程度の怪我で済んだのだから」

「……最低ね」

「はははは。変わり身の彼を斬ったのはきみだろう。間接的な責任とはいえきみも最低という言葉があてはまるんじゃないのかな」

 黙り込む白にさらなる笑い声を浴びせかけ、時路は僕の首に回した腕に力を込めた。

「では村に戻るとしよう。ついてこい橘白銀」

 一瞬にして首の骨が軋むほど締めあげられ、僕は奥歯がすり減るほど強く歯を食いしばった。その力が抜ける、と知覚するかどうかという時を境目に、僕の意識は飛び去って行った。


        ◇


 ――目を開けた時には、座敷牢の中だった。僕の手首くらいの太さがある格子が視界の奥にあり、凄まじい圧迫感をあたりに振りまいていた。目算で大体、二間(にけん)(約三・六メートル)くらい先にあるのに、今にもこっちへ迫ってきそう。ともかくも横倒しになった視界を正常な位置に戻そうと思って、僕は起き上がろうとした。だが出来なかった。うわ、がんじがらめ。

 窮屈にも両手を後ろに回された状態で、胴体をぐるぐる巻きにされていた。両足首も縛られ、口にもさるぐつわ。こりゃ文字通り手も足も出ない。

 仕方なく起き上がるのは諦め、体を仰向けにすると、低い天井が見えた。立ち上がれたとしても、頭がつくかもしれないくらい低い。ぐるりと見回すと四方を石壁に覆われている空間は狭く暗く、格子の向こうにある松明(たいまつ)が消えたら真っ暗闇になってしまうだろう。

 ……んー。

どれくらい時間が経ったのかは知らないが、意識が落ちるまでの状況から推測するに。僕もやばいが、白の命が一番危なそうだった。しかもそうなってしまったのは、僕が人質にとられるという愚を犯したためである……いや、人質戦法とかやってた罰があたったのかも。

 どちらにせよ、早いとこ白を助けに行かなくちゃならないな。時路がどうして剣を使えたのか、どうやって変わり身をしたのか……色々謎はあるけれど。

 尺取り虫みたいに膝を立て、踏ん張り、伸ばし、という動作を繰り返して、ずりずりと背で這い格子の近くまで辿りつく。なんとか重心を起こして格子に背をつけ、隙間から見やると、でかい錠前が扉を閉ざしているのがわかった。またこれだけ僕の自由を奪っていることに安心しきっているのか、見張りなどがいないこともわかる。

 好都合だ。

「……っんぎぎぎ」

 さつぐつわごと歯を食いしばって、痛みに耐える。刺す時にもそうだったが、やはり痛いのは辛い。しかし痛みに耐え抜いたあとに残ったのは苦労だけではなく、形のあるもの。手の中に小さな二本の鍼があった。

 時路が僕の背後をとって、白と話している数瞬の間。こういうこともあるんじゃないかと予期していたので、あらかじめ掌にある筋肉の隙間に打ちこんでおいたのだ。閉じ込めるならば抜けだされぬように身体を検めることはあっただろうが、それでも体内までは調べられない。

 格子の隙間から手を出して、指先の感覚だけを頼りに錠前を弄る。左右の手が交差した状態で縛られていたため、どっちの手が今どの位置にあるのかを頭で考えながら触れた。無理な体勢に手の筋が痛むのを感じながらも、いつだったかも覚えていない昔に教わった技術を再現していく。……悪用したことはないよ?

 見張りが来たりしないか、足音を気にしながらの作業は結構手間取った。四半刻余り過ぎたと思う。そこで二本の鍼を上下に開くように動かした時、かちんと軽い音がして錠前は外れた。

「ふぅぅー」

 さるぐつわのせいで安堵のため息すらくぐもっている。僕は慎重に錠前を持ち上げて、格子を通して牢の中に入れゆっくりと床に下ろした。扉を背で押して開き、また天井を見ながら尺取り虫の動きでのろのろ進みだす。上下逆さになった視界の中で、五間くらい先に階段があった。どうやらこの薄暗さ、夜だからというよりは地下だったからのようだ。

 二人の人間がすれ違えるかどうかという狭い廊下を必死で、けど遅く、移動していると、右側の座敷牢には米俵や酒樽などが転がっている。本来の使い方ではなく蔵代わりに利用しているのか。珍しい。

 と、頭が段差にぶつかったので僕は進むのをやめた。階段に突き当たったらしい……さて、ここからだ。まずは手足と口を自由にすべく刃物が欲しいし、水回りを探して台所にでも行こう。その後は出来る限り現在の状況を知りたいが、無理そうだったらひとまず退却だ。幸いまだ夜は明けていないようだし、人が少なく見つかりづらい間に移動しなくては。

 背中でよじよじと這い上る。どこか建物の中の廊下に出た。小窓からは松明のすすけた明かりではなく、月明かりの柔らかな光が降り注いでいた。

 色の薄い月は、大きさは変わっておらず位置だけが山の端へと動いているので、あの時の月の位置から考えると……意識を失ってから四刻ほどしか経っていないだろう。ということは必然的にあのとき移動可能だった距離も定まってきて、現在地も予測出来るようになる。決して軽くはない僕を担いで山を降り、下山してからは何か他の手段で運んだとしても、範囲は八尾町内を出ることはないはずだ。

 そして蔵じゃないところに米を貯蓄しているというのは、武家屋敷ではまず見られない。加えて建物の中は、ちらと窺っただけでも質実とは程遠い、豪奢な造りをしていることがわかる。つまりここは――

「……なんだテメエ」

 ぎ、と音がして、廊下の曲がり角から人影が現れた。ああ、くそ、現状把握に集中しすぎて周りへの警戒を怠っていた。迂闊にもほどがある。

「その格好、座敷牢から出て来やがったのか。ふてぇ野郎だな」

 どすどすと近付いてくる。……何か手は無いか。今の僕は手足は動かず、逆らうことなど出来そうもない。加えて口すら動かせないのでは、舌先三寸で言いくるめて上手く相手をだますことさえ出来ない…………畜生め! 何一つ思いつかない。観念して、僕は(こうべ)を垂れた。

 終わりだ。なんとか出てくることは出来たが、結局人に見つかってしまうとは。鍼はまだ隠し持っているが、鍵を外して出た痕跡が見つかればなんらかの対策をとられてしまうだろうし。脱出の機会は、これで永遠に失われてしまう。

 僕の阿呆め!

「どうかなされましたかな?」

 曲がり角から、さらにもう一人の声。完膚なきまでの駄目押しを付け加えられる。

 ……ところが近付いてきていたはずの足音は僕から数歩のところで立ち止まっていて、それ以上なにもしてこない。曲がり角の向こうからは足音が近付いてきているのに、目前にいるそいつは立ち止まっている。曲がり角の向こうの奴が、続けて問いかけてきた。

「なにかあったのですか?」

「なーんでもねえよ。つーかいちいちついてくんなっての」

 僕の目前に居た人が、追い払うように二人目の声の主に素早く返した。

 ――あ。この、粗野で豪快な物言い。まさか。

「なんでもねえんだよ、ただ明け方前の月が綺麗だっただけさ。先に部屋に戻っててくれ」

「そうですか。では私めはお先に戻らせていただいて、続きを楽しむといたします」

 ほほほ、と嫌な笑い声を残して、曲がり角の向こうの声の主は姿を見せることなく離れて行った。あとにはすぐそこの人物と僕の間の、沈黙だけが残る。静かに、その人は僕のさるぐつわを外してくれた。僕は顔を上げる。

「八兵、お前こんなとこで何やってんだよ」

「……どうも。妙なところでお会いしましたね」

 呆れたようにこっちを見下ろす、光衛門さんが居た。


「で、体の縄は外してくれないんですか」

「お前が罪人ではないと決まったわけじゃねえからな。とはいえ、俺にゃお前が罪になることをするとは思えん。罰が怖いからとかじゃなく、罪を被ってまで他人に関わるのが面倒臭そうなツラぁしてたからよ」

「大方、当たってます」

「ハッ、自分で納得するべきことじゃねえだろ。まあ一応話だけは聞いておいてやるよ、今後の俺たちの動きに関わることを、お前がしていないとも限らんからな」

 よくわからないことを言いながら、光衛門さんは僕の首根っこをつかんだ。

 人に見られるとまずいので、結局座敷牢に戻されてから。僕は今日一日の間に隣町で起こった、様々な事柄について話した。診療に赴いた隣町で時路に出会ったこと、突然の村人からの襲撃、同心にも助けてもらえず、山の中で再び時路と相対したことまで全てを。ただ、僕と時路の持つ〝述懐〟については説明が面倒な上に理解してもらえない可能性も高いので、「時路に変な因縁をつけられていた」と話しておいた。白と一緒に行動していたことは話の流れ的に隠しきれないので包み隠さず話したが、光衛門さんは特に気にした風でも無い。

 光衛門さんが興味を持って僕に訊いてきたのは、山小屋の重さんについてだった。

「小屋っつーと、ごろつきの死体が見つかったとこの近くじゃねえのか」

「そうですね。あれも山の中でしたから」

「で、今日のホトケさんの死因はなんだ?」

「腹に一太刀。上下に身体を分けられてましたけど」

「昨日のごろつきはなます斬りだったか」

「ええ。刀を抜くことも出来てない状態だったと聞いてます」

 ふむ、と考え込む光衛門さん。何を考えてるのか僕には読めなかったが、真面目に考えているということだけは伝わってきた。

「で、そっちの話はそんだけか?」

「え、あっと、その、はい」

「そうか」

「……まさか『そんなら帰る』とか言いだしませんよね」

「まだ言わねえよ。こっちにも聞いときてえことがあるんだ」

 その話が終わったら帰る気なのか、格子の向こうで光衛門さんは立ち上がった。僕は立ち上がることも出来ないので、見上げる形になる。

「市井の噂でちょいと小耳に挟んだんだが、お前さんここら辺を治める橘門左衛門の屋敷にも鍼灸師として出入りしてたそうだな」

「ええ。門左衛門さんは腰を痛めていらっしゃったので」

「最近、何か変わったこととかなかったか? 思いつく限りでいいから喋ってみろ」

「え、ええと――何かって言われてもなあ」

 なんだか威圧されている。同心に疑いの目を向けられているような、そんな感じの威圧感だった。

「ああ、そういや僕を連れてきた時路景時も出入りしてたみたいです。なんでも門左衛門さんと碁仲間だったそうで」

「またそいつの名前か」

「狐みたいな目をしてて身体はひょろ長い、変な印象の嫌な奴ですよ。思えば最初会った時から変なことばかりありました。違和感のある男だなーと思っていたらなんかそんな気もしなくなったり、さっき白と戦ってた時は途中で変わり身を使ったり」

「変わり身、だあ?」

「あいつは透波(すっぱ)とか隠密の類だったんですかね。一瞬にして他人と入れ替わってて、途中からはそいつと白が戦ってたんですよ。ただ僕も白もまったくそのことに気づかなくて、戦いが終わったあとで気付いたんです」

 白が変わり身を斬り殺してしまったことは伏せておいた。だが光衛門さんはそのことについてはまったく気づいていない、というか変わり身と口にした途端に何事か考え続けていて、他のことは思考していないようだった。と、いきなり僕を睨みつける。この人目つき悪い。

「おい、時路景時の外見をもっかい詳しく述べて――駄目だな、どうせ何かしら印象を弄っているだろう。その弊害として初見の人間には印象がおかしく思えるのかもしれねえ。だが変わり身の発動したきっかけといい、江戸での事件と酷似している――」

「あ、あの、光衛門さん?」

「……仕方ねえ。ひょっとしたらお前も既にやられてるのかもしれんが、それなら奴の情報開示はしねえはずだしな。おい、一旦信じて出してやるから、時路が居そうなところへ案内しろ」

 光衛門さんは手にしていた持ち手の太い杖で錠前を叩き壊して扉を開ける。いいのかこれ。

「大事の前の小事だ。八兵、ヘタすると隣町だけじゃなくこの町さえ、奴の支配下にあるのかもしれねえんだぜ」

 言葉と共に急ぐ光衛門さんに短刀で縄を切断してもらい、走り出す僕ら。

「奴って、時路ですか?」

 階段を駆け上がりながら光衛門さんは頷く。支配下って、一体なんのことだ。僕にはよくわからなかったが、とりあえず手を貸してもらえたことだし、何より時路のところには白もいる可能性が高い。一緒に行くことで、そこまで不都合は生じないだろう。

 と、曲がり角から太った男が現れた。声から察するに、先ほど光衛門さんと話していた奴だ。

「光衛門氏、遅いじゃありませんか。私め一人で全員と楽しんでいても――って、後ろの方はどなたですかな?」

「わりぃな、ちとこいつと所用が出来た」

 横を通り過ぎざまに光衛門さんが言う。縛られた姿ではないので、まさか僕が座敷牢に居た奴だとは思わなかったのだろう、太った男は僕をもそのまま見送った。でも後ろからぽつりと聞こえた。

「……光衛門氏、男色だったのですか」

「ンなわきゃねえだろ阿呆!」

 どこまでこのネタ引きずってんだ。

 二人して廊下を走り抜け、表玄関から外へ出る。……ああ、やっぱり。振り返ってみると、そこは二階建ての遊廓(ゆうかく)荷田屋(かだや)」。以前光衛門さんに会った時、話題に出した場所だ。一見さんお断りの高級遊女屋。

「どうやって入ったんですか」

「さっきの太っちょ、あいつがここの常連だって噂を聞いてな、今日一日で仲良くなって紹介してもらった」

「というかそもそも情報収集って、ここでやるようなことなんですか」

 下心で来ただけじゃないのか。そう思って僕が横目で見ると、意外にも光衛門さんは真剣な面持ちで前を向いていた。

「大金払ってでもこういうとこ来るやつは金払った安心感で口が軽くなり、色んな情報落とすからな。もちろん、お前と行ったような食事処も周りの話を聞いてりゃ市井の噂がいくつも飛び込んでくる。そうやって俺は情報集めてんだよ」

「だいたい、なんで情報なんて集めてるんですか」

「さあ、ぐずぐずしてたらまた面倒事になっちまうぞ」

 するっと無視するな。

「とっとと動かにゃならんのだ、細けぇことは気にすんな。俺も、お前も、ただいま危険地帯のド真ん中なんだぜ。おい! 助、覚!」

「もう来とるよー」「ここに」

 ぎょっとして僕が横を見ると、にこにこ笑っている助さんと、口を真一文字に結ぶ覚さんが、いつの間にかそこに居た。いや、前から思っていたけどこのふたり身のこなしが半端じゃない。明らかに、武の道に立っている人間だ。

 ……そんな二人に護衛されて旅をして、なぜか情報収集などもしていて。そればかりかこの問題にまで首を突っ込んでくる、光衛門さんは、いったい。

「じゃあ細かいこと聞きませんから、これだけ答えてくださいよ。あなた、何者なんですか」

 僕の問いかけに対してにやっと笑ったその顔は、決して他を軽んじることはなく。ただひたすらに絶対的な〝個〟を以てしてこそ生じる表情だった。

「前も言っただろ、越後の縮緬問屋の……ってのはもうやめとくか」

 光衛門さんはごそりと懐に手を入れ取り出す。その手の内には、黒い印籠が握られていた。

 紋は、三つ葉葵。

常陸(ひたち)国水戸藩第二代藩主、徳川光圀(とくがわみつくに)。端の端とはいえ自分(てまえ)の領地で起きてる事件だ。さっさと終わらせてやらあ」

 不敵な笑みが、無敵であるかのように己の存在を誇示していた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ